後夜祭と恋人たちの約束
2日間の文化祭が無事に終了した合図に、校内のチャイムが鳴った。
これから、後夜祭だ。グラウンドでステージ企画があり、多くの生徒たちが夕方と夜の狭間の世界に集合していた。
そんなわけで、昼間は人が混み入っていた実行委員の活動拠点──第三講義室で、2人っきり。
俺はとある少女の顔色を窺っていた。
慎重に、…非常に慎重に……俺は彼女の肩へと手を伸ばす。
「………あ、あの、璃衣さん……」
「あら、どうしたの。夏目くん?」
「んぐっ……!」
いつもは「朝日くん」と呼ばれるのに、久しぶりの苗字呼び。加えて、1年前のようなツンとしたすまし顔とそっけない声。
……だいぶこたえた。
付き合って約1年。ケンカしたことがなかったとは言わないが、幼稚園児でもやれそうな軽いものだけだ。
しかし、彼女は現在……珍しく怒っている。
拗ねたり不機嫌になったりはするが、怒らない璃衣が怒っている……!
俺は頭を下げた。
「本当に悪かったです。ごめんなさい」
「あら、何が?」
「文化祭の間に2人で回る時間取れなくてごめんなさい!」
まとまった時間があったのは、1日目の午前中だけだった。双方の兄が来て何とか2人を送り出した後、俺は各所に仕事で呼ばれてしまった。
思ったよりも文化祭実行委員長として動く場面が多すぎて、
「どこかでいいから、2人で一緒に回ろうね」
と文化祭前に約束していたのに、璃衣と回る時間を作れなかった。
高校最後の文化祭なのに、こんなの彼氏失格だ…!
璃衣は静かに溜め息を吐くと、むむむ……と更に頰を膨らませた。どんぐりを詰め込んだリスのほっぺたみたいになっていた。
「違います」
「違うって何が…?」
「それは仕事だから、仕方ないの。実行委員長の仕事を一生懸命頑張ってた朝日くんは、カッコ良かったの。それはいいのっ」
「………えっと」
てっきり一緒に回る時間を作れなかったことに怒っていると思っていた俺は、妙な肩透かしをくらう。
じゃあ、どうして璃衣はご立腹なのか………
璃衣は頰の空気を抜いて、はあ、ともう一度溜め息を吐いた。
講義室の壁に頭をコツンとぶつけて、床に視線を落とす。彼女は、怒っているというよりも、悩ましそうな表情をしていた。
「あのね……すごいわがまま言っても、いい?」
「良いよ」
どんと来い。
俺は鈍感(いよいよ自分でも認めた)でバカだけれど、包容力は一流の男を目指している。
彼女が悩んでいる時、泣いてる時、怒ってる時。
それを受け止められる安心感、つまり、器の大きさは、とても大事だ。
「あのね………」
「うん」
「………あのね」
「うん」
「…………」
「うん」
どうにも、俺に言いにくいことらしかった。
俺は体操座りのままよいしょと平行移動して、璃衣のすぐそばに近付いた。
カチカチの壁じゃ痛いだろう、と俺の肩を勧めると、璃衣は素直にこつん、と自分の頭をそこに乗せた。
自分のではないシャンプーの香りが鼻腔をくすぐって、今日はこの前買ってたシトラスかなと若干変態の片足に突っ込んでるのかもしれない思考回路をぐるぐる巡らす。
2人で並んで床に座ったまま、静かな時間が流れる。
俺が絹のようにきめ細かい璃衣の髪を撫でていると、彼女はもっと俺に密着してきた。
お互い一年も経てば、この手のスキンシップがナチュラルに出来るようになってしまった。
あんなに緊張していた過去の自分はどこへ……
でも、それがまた、一緒に過ごした年月を知って嬉しかったり。
「良いよ」
「ん……」
「大丈夫。何でも言ってよ俺に。璃衣が今思ってること。それで璃衣を嫌になったりしないから」
「いい……?」
うん、と璃衣の不安の種を取り除いてやると、彼女は静かに話し出した。
「………朝日くんがね」
「うん」
「最近、女の子にモテすぎだと思うの」
「………うん??」
俺は頷きかけて、はたと止まった。
ぱちぱちと目を瞬いて、思考を整理する。
………駄目だ、分からなかった。俺の脳みそじゃ、足りないらしい。
「えっと……どういう意味?」
「そのままの意味。朝日くんは今回実行委員長でリーダーとして皆んなのこと引っ張ってたじゃない?」
「…そうだね」
十分なリーダーシップが発揮できていたかはさておき、こうして特に大きな問題もなく無事に文化祭を終えようとしているので、自分の中では合格点だ。
何より、実行委員会の雰囲気が良かったから、俺も指示を出しやすかったし、動きやすかった。
「でもそれは、周りのメンバーに恵まれてたから」
「そういうの本心で言えちゃうところが、朝日くんのモテる所以だと思うの……」
璃衣は俺の肩に顔を埋めて、ぐりぐりと額を押しつけた。珍しく子供みたいな仕草で、可愛い。
「困ってた後輩に優しく声かけてあげてた」
「整備委員の人?自分の仕事の集合場所分かんなかったらしくて」
「クラス企画で問題起きてた教室に現れてさっと解決しちゃってた」
「2年10組?ポップコーンの機械が作動しなくなったから、メカに強い俺の友達呼んで実行委員で保管してたマニュアル通り修理しただけだよ」
「一般客とトラブルになってた女の子、フォローしてあげてた」
「アレは相手の男が悪かったから、言いがかりつけられて可哀想だったよ…」
璃衣はどうやら各所のトラブルに走り回っていた俺を見ていたらしい。
昨日の午後と今日のダイジェストが語られ、俺はそんなことあったねーと思い出しながら相槌を打った。
「告白されてた」
「……………」
「2人」
よく見てたね……?
隠してたつもりではないけれど、璃衣の声がちょっと冷たかったので、ひゅんとなった。
「い、言うまでもないけど、俺には璃衣が居るから、きちんと断ったよ」
「………うん」
璃衣は、静かに頷いた。
彼女の顔は浮かない。
「皆んな、朝日くんの良さに気付いて。好きになる人が増えて。……喜ばなきゃいけないのに、私………」
───素直に喜べないの、と璃衣は口にした。
どういう悩みかと思ったら、そんな自己嫌悪的な悩みだったみたいだ。
俺が璃衣にそんな悩みを抱かせるような事態になるとは付き合い始めた当初は思いも及ばなかった。
逆なら、沢山あると思うけれど。
俺は思考がパンクしそうになっている璃衣に小さく笑いかけて、頭をそっと撫でた。
「不安は不安でいいと思うよ俺は。その不安を俺が取り除けるのが一番だけれど、きっとそれは完全には尽きないと思うから。不安に思ってもいいんじゃないかな。………璃衣は、彼女なんだから」
それで悩む必要はない、と俺は言い切った。
きっと俺も無理だと思う。璃衣が誰かに好意的に思われていたら嬉しいけれど、それが恋愛の情を含んでいるのなら、不安にならないなんて無理だろう。
璃衣は目を瞑って、俺に撫でられるままになっている。
「…………彼女って、ズルいね……」
「特権階級だよ、ある意味」
世の恋人たちがどんな実態なのかは知らないけれど、俺と璃衣の間ではお互いが特別で、あるところで他の人より自然と優先される。
………いいじゃないか、特権階級だって。
「璃衣は、俺の特別だよ」
「………っ、すぐそういうこと言っちゃう……」
璃衣は顔を覆って、くるりと俺の膝と胸板の間に割り込んだ。耳が赤くなってる。
君も昨日同じこと俺に言ってたよ?
面白いので、赤くなってる耳たぶをふにふにと触ってると、璃衣が「もう……」と恥ずかしそうな声を漏らした。
可愛いな、うちの彼女さんは。
「でも、朝日くんも他の女の子にデレデレしてた」
「璃衣以外にはしてないけどなぁ」
「してた……」
「そんなことは」
璃衣は疑わしそうな目で俺を見上げている。
俺は、無罪だ。
「私は、朝日くんの特別?」
「もちろん」
「特別、……だもんね」
「うん、そうだよ」
確認みたいに、璃衣は繰り返した。
璃衣はちょっと考え込んで───、
ぽつり、と。
「朝日くん、私……今もちょっとだけね、不安なの。朝日くんの特別が揺らいでしまわないか」
だから、と彼女が俺の耳元で囁いた時。
俺は彼女の表情がどこか俺を揶揄うような含みをもっていたことに、黄色信号が鳴っていた。
「彼女しか出来ないこと、させて?」
ちょっと待って、と俺がストップかけようとした時には、もう遅かった。
彼女の手に誘われるまま、俺は身体の体勢をガタリと崩した。
野放図に広がった、絹のように細い黒髪。
俺の身体の下にいる、華奢な彼女。
藍色に染まりかけている夜の狭間の第三講義室。
俺は彼女を押し倒すような形で、彼女を見つめていた。
「朝日くん」
璃衣が色っぽい瞳で、俺を真っ直ぐと見つめた。
俺は、ごくりと渇いた喉を鳴らした。
これ以上は駄目にされる、と頭の中で警告音が鳴ったが、彼女に心底惚れてる身で、そんなのは、とっくに手遅れだったのだ。
「…逃げないで」
俺の耳元に吐息混じりに囁いた璃衣は、さらに2人の距離を近付けた。
少しばかり身を起こした彼女が、俺のシャツを掴んだまま、ゆっくりと、影を重ねる。
先に均衡を崩したのは、どちらだっただろう。
俺は浮かれて、柔らかい感触をなぞらえて、彼女もますます深みに落ちて、講義室の床に落ちる影は未だ重なったまま。
そっと唇を離すと、彼女は薄く微笑んだ。
俺よりとても余裕なんてなさそうなのに、いつもより速い息遣いを漏らして、彼女は俺を見上げた。
「ねぇ、今誰か来たらどうしようかしら?」
「………それは、言い逃れできそうもない……」
俺は、苦く笑った。
今の俺たちの光景を見れば、何をしていたのか容易に想像がつく。
もっとも、こんな場所には、こんな時間、誰も来ないだろうけれど。
「ねえ、朝日くん」
彼女の欲しいものは、多分きっと分かってる。
「貴方の熱が、もっと傍で欲しい」
それはどこか情熱的で、詩的な、彼女らしい誘い文句だった。
学校という場所には似つかわしくない浮かれた熱を求められて、俺は自分の欲求を抑えるので精一杯だ。
誘う場所を、選んで欲しい。
「熱なんて、いくらでも溢れてるよ」
「でもね、それより、もっとなの」
「……伝え足りない?」
「たまには、それは言葉ではなく、行為であったっていいと思うの」
璃衣はくすりと笑って、束の間の言葉遊びに、楽しそうに目を細めた。まったく羨ましい……
こっちなんか、心臓バクバクだっていうのに……。
「あのね。今日、お兄ちゃんは真昼さんの部屋に泊まるらしいの」
「………お膳立てされてるような気がする……」
俺は苦笑した。
真昼兄の一人暮らしの部屋に泊まるほど、2人の仲が深まっているのなら、それは嬉しいことだが。
それはそれとして、どっちが言い出したのだろう……。
分かられてたら、嫌だなぁ。
璃衣の家は基本的にご両親が忙しくて、不在が多い。
実質的に、璃衣と颯汰さんの二人暮らしだ。
その颯汰さんが居ないということは、つまり……
「だから、後夜祭終わったら、私の家……行こう?」
彼女が俺の首に手を回して、僅かに首を傾けた。ただでさえ上目遣いで見られるので弱いっていうのに、こんなの、反則じゃないだろうか……
そろそろだとは思っていたけれど、負ける瞬間は本当にあっけなかった。
理性など、いつの間にか、俺の中で擦り切れていたらしい。
俺は返事代わりに、璃衣の頰をそっと撫でた。
俺よりほのかに温かい、体温を感じる。
「………璃衣、いいの」
熱に飢えてたのは、どっちの方だろう。
「ええ、もちろん。どうしてそんなこと訊くの?」
「………初めてだし」
「ふふ、お互いね」
「お互いな」
心配ごとは尽きない。
大丈夫だろうか、と戸惑いのままに、俺は彼女を見ている。
大切にしたい思いが何より大きくて、先に進むことをどこかで拒んでいた。
だけれど、俺は何より彼女が愛おしくて。
彼女は、望み、
そして、俺も君の熱を求めてる。
「璃衣。大事にする」
「うん」
夜が深まる空が窓辺に映って、外では文化祭の残りのエネルギーを共有して生徒たちが盛り上がっている、そんな時分。
好きだ、と俺が言って、
私も、と彼女は返した。
愛しているから、愛すための、約束をした。
───それからのこと。
後夜祭の終わった後の一連の出来事は、緊張しすぎてなんだか、よく覚えていない。
璃衣の部屋で、ドギマギして、正解が分からなくて。
でも、その浮かれた熱が、彼女と分け合って、さらに愛おしく思えたのは、はっきりと記憶している。
どうにも、冷めそうにはない。
大切にしたい存在としての彼女が、俺の中でどんどん大きくなっていく。
これは、ほんの序章だ。
俺が塩系美人に恋に落ち、告白をし。
ツンとされては、鈍感だと時には拗ねて。
彼女の想いに気付き、甘さを覚えて。
これからも、愛おしいと歩んでいく────、
そんな2人の長い物語の序章だ。
お付き合いありがとうございます。
これにて、アフターストーリー終了です。
書きたくなってつい戻ってきてしまいました。
真昼と颯汰をどうしても書きたかったんですよね……
書いてて楽しかったです!
ありがとうございました!
また作者が戻ってきてしまったら、………うーん笑
温かく見守っていただけると幸いです。




