9話
二日後、時間をつぶそうと模索していたら、使用人の侍女がやすんで世間話的なものをしているのが聞こえてきた。
ロリスのことでキャッキャッしているようだ。
彼女たちの笑い声は、控えめながらも楽しげで、内容までは聞こえないが、どうやらロリスが関係しているらしいというのは、名前が何度か出てくることでわかった。
僕から見てもロリスはかなりイケオジの部類に入るだろうが、そういえば彼のことをそんなに知っているわけでもない。
毎日顔を合わせ、言葉を交わす機会も少なくはないはずなのに、彼の過去も好みも、なにひとつ知らない。ただ、いつもきちんとした身なりで、落ち着いた物腰で、必要なことを的確に伝えてくれる。
侍女のひとりが、少し声をひそめて話し出したのが聞こえた。
「ロリス様って最近ずっと泊まり込んでいらっしゃるから、会う機会が増えて……。いつも、あのお方の護衛をされてるでしょ? ほんと、どこで見てもかっこよくて……」
もう一人の侍女がすぐに相づちを打つ。
「わかる。ロリス様って、元々騎士団の団長だったのよ。しかも位もかなり高かったとか。でも平民の出身だったんですって。それであそこまで上り詰めるって、すごくない?」
「えーっ、平民だったの!? 信じられない……」
「ね、努力の人って感じするよね。あとさ、剣の腕も相当なんだって。ああ見えて、昔は結構無茶もしてたとか……」
そこで一度、笑い声が混じった。小さくて上品な笑いなのに、なぜか耳に残る。
確かに、ロリスは今、僕の護衛として傍にいてくれている。けれどその引き換えに、彼は騎士団での職務を離れることになった――そう聞いている。
自分が原因で、彼が本来の役割を手放したのだと思うと、どうしても申し訳ない気持ちが湧いてくる。彼にとってそれがどういう意味を持つのか、僕には計り知れない。
しかも、どう考えたって、僕の護衛なんかよりも、騎士団の職務の方が稼ぎも地位もよっぽど良いはずだ。
あの人は何も気にしていないかのように振る舞うけど、僕の心のどこかでは、ずっと引っかかっていた。
小一時間ほどして、腹が減って食堂に向かうと、すでにロリスがそこにいた。
壁際の窓辺、柔らかい陽の光が差し込む席で、静かに立ったまま僕を待っていたらしい。
その姿を見た瞬間、胸が少し痛んだ。
「……あ、うん。待たせた?」
そう声をかけると、ロリスはごく自然に微笑んだ。
「いえ、少し早く着いただけです。ご心配なく」
その言葉に、また少し罪悪感が募る。たぶん、彼は本当に気にしていないのだろう。でも、それがかえって僕を落ち着かなくさせた。
僕は椅子を引いて腰を下ろしながら、どこか気まずさを隠せずに目を伏せた。
食事を終える頃には、少し気分も落ち着いてきていた。罪悪感や気まずさは残っていたけれど、それでもロリスは終始穏やかに接してくれて、無理に詮索するようなことは一切なかった。
午後は予定通り、街の露店をいくつか見て回ることになっていた。あくまで「散策」と「馴染むための外出」という名目だ。もちろん、ロリスは付き添いとしてついてきてくれる。
通りには色とりどりの布や果物、手作りの工芸品が並び、屋台の売り子たちの元気な声が響いていた。露店の活気ある雰囲気は、どこか懐かしくて、それだけで少し気が紛れた。
「こちらの通りには、正規の商店も並んでいます。ご案内しましょうか」
ふと、ロリスがそう言って、露店の奥に続く石畳の小道を指した。視線を向けると、確かにそこには屋台ではなく、建物としてしっかりと構えた店々が並んでいた。
薬草や書物、衣服、装飾品──日常品から珍しいものまで、所狭しと並ぶ品々に、好奇心が少しずつ湧いてくる。
「……うん、見てみたいかも」
僕がそう答えると、ロリスは静かにうなずいて先を歩き始めた。その背中を見ながら、ふと思う。
こんなふうに過ごす時間が、きっと彼にとっては暇つぶしにもならないのだろう。でも、何も言わずに付き添ってくれる。
――せめて、何か、彼が楽しいと思えることがひとつでも見つかればいいのに。
そんなことを思いながら、僕はロリスの後を追った。
正規店の並ぶ通りを少し歩いたところで、ロリスがふと立ち止まった。
「こちらなど、いかがでしょう」
彼が指し示したのは、洒落た外観の服飾店だった。木製の看板には流麗な文字が刻まれていて、窓にはシンプルながら品のある服がディスプレイされている。
「服……?」
「ええ。ずっと、侍女たちが用意した服をお召しでしたよね。ほとんどがお下がりか、仕立てられたものでも誰かの寸法に合わせたままのもの。さすがにそろそろ、ご自身に合ったものを選ばれたほうがよろしいかと」
言い方は柔らかだったけれど、つまりは「今のままじゃいろいろ問題がある」と言っているようでもあった。
「いや、でも……そういうのって、お金とか……」
僕が言いよどむと、ロリスは少しだけ口元をゆるめた。
「まあまあ。私のお金を使っているわけじゃありませんから、ご心配なく」
あっさりと言い切られて、なんだか拍子抜けしてしまった。
「え、それって……?」
「主にお屋敷の予算です。あなたの生活費、ということで問題ありません。……もちろん、常識の範囲内でお願いしますが」
冗談めかした言い方に、思わず苦笑が漏れた。
ロリスが軽く手を差し伸べる。「どうぞ、中へ」
その仕草がどこか執事じみていて、妙に板についているのが可笑しかった。
店の扉を開けると、ほのかに香料の香りが漂い、布の手触りと色彩に満ちた空間が広がっていた。
とはいえ、この世界での「おしゃれ」や「似合う」の基準なんて、僕にはさっぱりわからない。だから、あれこれ迷っているうちに、結局は店員さんに「似合いそうなものを適当に」とお願いすることになった。
店員の女性は慣れた様子で頷くと、さっそく数着の服を持ってきてくれた。淡い色合いのシャツに、動きやすそうなズボン、そしてさりげなく装飾の入った軽いコートのような上着。着てみると、素材の質もよくて、なにより肌にしっくり馴染む。
ロリスは僕の姿を一瞥し、「悪くありませんね」とだけ言った。それが褒め言葉なのかどうかは、正直よくわからなかったけど。
支払いは例によってロリスがさっと済ませてくれて、「次はこっちを見てみましょうか」と、また別の店へと歩き出した。
露店が並ぶ通りとは違って、こちらの店はどれもちゃんとした建物の中にあり、品揃えも洗練されている。布地の店、革細工の店、小物やアクセサリーを扱う店……一つひとつが新鮮で、歩くだけでも目を引かれた。
「ねえ、こういう店って、やっぱり貴族とかがお得意様なんでしょ?」
僕が何気なくそう聞くと、ロリスは店先を眺めながら、軽く頷いた。
「ええ。やはり、貴族を相手にしているだけあって、稼ぎも悪くないのでしょう。その利益があるからこそ、こうした立派な建物を構えることができる。そして、それがまた一種の『信用』となって、噂が噂を呼び、さらに多くの金持ちが足を運ぶようになる……というわけです」
なるほど、見た目の華やかさも、ちゃんと戦略のうちなんだな。
僕たちはさらに少しの間、店を回ってみた。しかし、正直なところ、お屋敷暮らしの自分にとっては必要なものなんてほとんどない。服はさっき買ったし、アクセサリーや小物も興味を引くものは特に見当たらなかった。
正直に言うと、目新しいものもたくさんあって、異世界にいることを強く意識させられる。色鮮やかで、どこか異国的な装飾品や布地が並んでいるけれど、どうしても自分の知っているものと比べてしまう。どれもこれも素敵に見えるけれど、やっぱりどこかが違う気がして、心から欲しいとは思えなかった。相手が悪いと言えば、それまでだけど。
結局、あまり何も買わずに、店の中をぶらぶらと歩いているだけだった。そのうち、ロリスが僕の様子を見て、少し考え込んだ後、にこやかに言った。
「どうです?あまり気に入ったものは見つかりませんでしたか?」
僕は素直に答えた。
「うーん、うん。正直、ちょっとだけ迷ったけど、特に欲しいものはないかな。これも新しい世界のものだし、どうしても自分の基準と比べちゃうんだよね」
ロリスは軽く笑って、肩をすくめた。
「それなら、次は私がよく通っているお店に行きましょう。少し違う種類のお店だから、気に入るかもしれませんよ」
その言葉に、少し興味をそそられた。ロリスが普段通っている場所なら、また違った雰囲気があるのだろう。
「うん、行ってみようかな」
そう言って、僕はロリスに続いて歩き出した。どんなお店なのか、ちょっとだけ期待していた。
ロリスに連れられて少し静かな通りへ入ると、ふいに目を引かれる建物が現れた。
石造りの外壁に、つる草の絡まるアーチ。入口には花が飾られ、控えめな灯りが漏れている。喧騒からは離れているのに、どこか人の気配を感じる不思議な場所だった。
「……ここ?」
僕がそう尋ねると、ロリスはうなずき、先に扉を開けた。
中に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった気がした。外よりも少しだけ暗くて、でも重くない。照明は柔らかく、室内の香りはほんのりと甘い。
座席は低めの段差で並べられていて、どこに座っても舞台がよく見えるようになっている。椅子には落ち着いた色合いの布が張られていて、そこかしこに、来客の気配が感じられるけれど、騒がしさはない。
静かに談笑する人たち、ひとりで物思いにふける人、手帳を広げている人もいた。
ロリスが僕を見て、小さく囁く。
「気に入らなければ、すぐ出てもいいですよ」
僕はうなずき、ロリスと並んで空いていた席に腰を下ろした。ふかふかというほどではないが、ちょうどいい反発のある椅子だった。しばらくすると、場内が少しずつ静まり、照明がほんのわずかに落ちた。舞台にかかっていた薄い幕が、音もなく引かれていく。
――劇が始まった。
舞台に現れたのは、山深い村を襲った干ばつと、そこに現れた一匹の龍の物語。村を守るため、若者が龍に立ち向かうのかと思いきや、彼は剣を取るのではなく、龍と対話を試みた。人と龍、異なる存在がわかり合おうとする姿は、単なる伝説の枠を越えて、なにかもっと大きなものを問いかけてくるようだった。
僕は途中から、完全に物語に引き込まれていた。言葉は丁寧で、でも過剰ではなく、役者の表情と身ぶりがそれを補って余りある。龍の存在感は圧巻で、まるで本当にそこに巨大な生き物がいるかのようだった。
ふと横を見ると、ロリスも静かに見入っていた。彼の横顔は普段よりも少しだけ柔らかく見えた。
物語は、村と龍とが理解し合い、互いに助け合う未来を描いて幕を閉じた。劇場内にはしばしの沈黙があり、それから一斉に拍手が起こる。僕もつられるように手を叩いた。心地よい熱が、胸の奥に残っていた。
劇場を出ると、空はすっかり夕暮れに染まっていた。空気は少し冷たく、でも頬に心地よかった。
「……いい一日だったな」
自然とそんな言葉が口をついた。
ロリスは「そうでしょう?」と、どこか誇らしげに微笑んだ。