9話
二日後。
暇を持て余していた僕の耳に、使用人たちの控えめな笑い声が届いた。
廊下の向こうで、侍女たちが休憩がてら世間話をしているらしい。話の端々から――どうやら、ロリスのことだとわかった。
「最近ずっと泊まり込みでいらっしゃるから、顔を合わせる機会が増えて……。いつ見ても素敵なんですもの」
「わかる。元は騎士団の団長だったのよ? しかも平民の出なのに、すごくない?」
「えっ、そうなの!? 信じられない……」
「剣の腕も相当だって。ああ見えて昔は無茶してたらしいわよ」
笑い声が重なった。柔らかくて上品なのに、なぜか耳に残る。
――ロリスの名前を、あんなふうに呼ぶ声を聞くのは初めてだった。
確かに、彼はどこか隙がない。きちんとした身なりに、穏やかな物腰。必要なことしか話さず、感情を荒げることもない。
けれど僕は、その人の過去も、好みも、何ひとつ知らなかった。
彼は今、僕の護衛として傍にいる。
けれどその代わりに、騎士団での職務を離れた――そう聞いている。
自分が原因でそうなったと思うと、どうしても胸の奥に小さな棘が残った。
彼が何を失ったのか、僕には想像もつかない。
……本当なら、僕の護衛なんかよりずっと誇り高い仕事をしていたはずだ。
ロリスは気にも留めていないように振る舞うけれど、僕の心はどうしても落ち着かなかった。
小一時間ほどして、腹が空いた僕は食堂へ向かった。
窓辺の席に、すでにロリスが立って待っていた。柔らかな陽光に照らされながら、静かにこちらに頭を下げる。
その姿を見た瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「……あ、うん。待たせた?」
「いえ、少し早く着いただけです。ご心配なく」
穏やかな声。けれど、それがかえって苦しかった。
僕は席に着きながら、目を伏せるしかなかった。
食事の間、彼は終始いつも通りだった。無理に話題を探すこともなく、僕の沈黙にも何ひとつ触れない。
その静けさが、かえってありがたかった。
午後は予定通り、街の露店を見て回ることになっていた。
「散策」と「外の空気に慣れるため」という名目で、もちろんロリスも同行する。
通りには果物や布、木彫りの工芸品などが並び、売り子の声があちこちから響いていた。
色とりどりの雑踏の中を歩くだけで、少し気が紛れる気がした。
「こちらの通りには、正規の商店も並んでいます。ご案内しましょうか」
ロリスが指差した先には、石畳の小道と、屋台より一段落ち着いた店構えが見える。
薬草、書物、衣服、装飾品――それぞれがきちんと並び、どれも見ていて飽きない。
「……うん、見てみたいかも」
僕がそう答えると、ロリスは軽く頷いて先を歩き出した。
その背中を見つめながら、ふと思う。
――こんなふうに過ごす時間なんて、彼にとっては退屈に違いない。
それでも、何も言わずに付き添ってくれる。
せめて、彼が少しでも楽しいと思える瞬間が、どこかにあればいい。
そんなことを願いながら、僕は彼の背を追った。
正規店の並ぶ通りをしばらく歩いたところで、ロリスがふと足を止めた。
「こちらなど、いかがでしょう」
指さした先には、木の温もりを感じる洒落た服飾店があった。
磨かれた看板に流麗な文字。窓越しに見えるのは、派手さこそないが上質な布の衣服たち――落ち着いた品のある佇まいだった。
「服、ですか?」
「ええ。ここしばらく、侍女たちが用意した服ばかりをお召しでしたね。どれも他人の寸法に合わせたものばかりです。そろそろ、ご自身の体に合ったものを選ばれてもよろしいかと」
言葉は穏やかだったが、どこか“今のままでは様にならない”と言われたような気がして、思わず苦笑した。
「いや、でも……そういうのって、お金とか……」
僕が言いよどむと、ロリスは小さく肩をすくめて微笑んだ。
「ご安心を。私の財布ではありません」
「え、それって……?」
「屋敷の経費です。あなたの生活費という名目で問題ありません。ただし――常識の範囲でお願いします」
面白くない冗談だが、彼なりに距離を縮もうとしているのはなんとなくわかる。彼の気分を損なわれないように最後の一言に、吹き出すふりをしてみせた。
ロリスは軽く手を差し出し、「どうぞ」と促した。その仕草が妙に板についていて、まるで一流の執事のようだった。
扉をくぐると、ふんわりと香料の香りが鼻をくすぐる。
棚には色とりどりの布が整然と並び、光を受けて柔らかく輝いていた。触れるだけで、質の良さがわかる。
けれど――この世界で“おしゃれ”と言われる感覚なんて、僕にはまるでわからない。
あれこれ迷った挙句、結局は店員の女性に「似合いそうなものを見繕ってください」と頼むことにした。
彼女は慣れた手つきで数着の服を取り出し、鏡の前で合わせてくれる。
淡い灰青のシャツに、柔らかい布地のズボン、薄手のコート。どれも動きやすく、それでいて上品だった。
着替えてみると、肌触りの良さに思わず頬が緩む。
「……どうですか?」
ロリスは少し離れた位置から僕を一瞥し、「悪くありませんね」と短く言った。
褒め言葉なのかどうか判断しかねて、なんとも言えずに頷くしかなかった。
支払いは、彼が慣れた手つきで済ませてくれた。
「次は、こちらも見てみましょうか」
そう言って店を出ると、通りの空気が少し明るく感じられた。
露店の喧騒とは違い、正規店が並ぶこの通りはどこか静かで、空気に品があった。
革細工の店、銀細工のアクセサリー、香草や香水を売る店……どれも目を奪われるほど整っている。
「ねえ、こういう店って、やっぱり貴族とかがお得意様なんでしょ?」
僕が問うと、ロリスは横顔のまま小さく頷いた。
「ええ。富裕層を相手にする商売は、見た目の信用が何より重要です。建物の造り、服の質、店員の立ち居振る舞い――そのすべてが“商いの顔”になる」
少し間を置いて、穏やかに続けた。
「こうして整えられた街並みも、彼らの誇りそのものなんですよ」
なるほど――見た目の華やかさは飾りじゃなく、彼らにとっての“信用”なんだ。
そんなことを考えながら、僕は静かにその通りを歩いた。
店先のガラスに映る自分の姿が、少しだけこの世界に馴染んだような気がした。
正規店の並ぶ通りをひととおり歩いてみたものの、結局のところ、お屋敷暮らしの自分に必要な品はほとんどなかった。服はさっき買ったばかりだし、装飾品や小物も、珍しくはあっても「欲しい」とまではいかない。
色鮮やかな布地や異国じみた細工物は、この世界らしい美しさがある。けれど、どうしても自分の知る感覚とどこかズレていて、その違和感が欲求を押し返してくる。素敵だとは思うのに、最後の一歩が踏み出せない──そんな感じだった。
何となく店内を眺めているだけの自分をちらりと見て、ロリスが軽く首をかしげた。
「……あまり惹かれるものはありませんでしたか?」
「うん。どれも綺麗だけど、いまいちピンとこなくてさ。慣れてないからかな」
正直に言うと、ロリスはふっと笑って肩をすくめる。
「それなら、少し趣の違うところをご案内しましょう。私がよく立ち寄る店です」
「ロリスが? へぇ……行ってみたい」
なんとなく興味が湧いて、僕は自然とその背を追った。
にぎやかな通りから一本外れ、落ち着いた石畳を進んでいくと、やがてつる草の絡むアーチと、小さな花壇に彩られた建物が見えてきた。外観は質素なのに、なぜか人を吸い寄せる空気がある。
「……ここ?」
ロリスは頷き、静かに扉を押し開けた。
中に入った瞬間、空気がふっとやわらぐ。
明るすぎず、暗すぎず。甘い香りがほんのり漂い、低い談笑の声が心地よく混ざり合う。
椅子は程よく沈み、舞台のある小さなホールは、どこの席からでも見やすいように設計されていた。ひとりで手帳を開く者、恋人同士らしき客、気ままな旅人……。みんな思い思いの時間を過ごしていて、押しつけがましい空気がまったくない。
ロリスが小さな声で囁く。
「気が進まなければ、途中で出ても構いませんよ」
「ううん、大丈夫」
僕はロリスの隣に腰を下ろし、舞台の幕が引かれるのを待った。
やがて照明が落ち、幕が静かに開く。
──劇が始まった。
山深い村を襲う干ばつ。
絶望する村人たちの前に現れた一匹の龍。
勇敢な若者が剣を抜くのではなく、龍の言葉を信じ、対話を試みる物語。
華やかな仕掛けはないのに、役者の息遣いと舞台装置の影が、世界を一気に広げていく。龍の存在感は圧倒的で、舞台上の虚構と現実の境界が消えていくようだった。
気づけば、僕は完全に物語に飲み込まれていた。
ふと横を見ると、ロリスもまた、静かに目を細めて舞台を見つめていた。
普段よりも穏やかで、どこか柔らかい表情だった。
終幕では、人と龍が理解し合い、未来を共に歩む姿が描かれた。
幕が降り、一瞬の静寂のあと、温かな拍手が劇場を満たす。
僕もつられるように手を叩いた。胸の奥が、じんわりと熱い。
劇場を出ると、空は夕焼けに染まりつつあり、冷たい風が頬に気持ちよかった。
「……いい一日だった」
思わず漏れた言葉に、ロリスは満足げに微笑んだ。
「でしょう?」
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