8話
協力する――とはロリスには言ったけれど、正直、どこから着手すればいいのか皆目見当がつかない。
……拳銃を開発しろって、簡単に言ってくれたけどさ。
僕はため息まじりに天井を見上げた。そもそも、この世界に火薬はあるのか? 金属加工の技術は? 鉄を精製する方法すら知らない僕に、いきなり「銃を作れ」はあまりに無茶だ。
とはいえ、悩んでいるだけでは何も始まらない。まずは今、この国でどれだけの技術があるのかを知るところからだ。
「……うん、やっぱり鍛冶屋にでも行ってみるか」
口に出すと、少しだけ気が楽になった気がした。小さなことから一歩ずつ、やるしかない。
ロリスとともに、僕は簡単な変装を施して街へと出た。目立たぬようにとの配慮らしいが、彼の歩き方や雰囲気がそもそも只者じゃないので、効果があるのかは少し疑問だった。
鍛冶屋へと案内された先にあったのは、僕の想像していた“古風で煤けた作業場”とはまるで異なる光景だった。
高い天井に、艶のある木材で組まれた梁。広々とした店構えは華やかで、まるで高級宝飾店のような品格すら漂っている。外観からして、堂々とした威圧感と洗練された美しさが同居していた。
「……ここが鍛冶屋?」
思わず漏れた僕の言葉に、ロリスは少し口角を上げる。
「王都でも屈指の工房だ。腕も確かだが、なにより研究熱心でな。君の話を持ち込むには、ここが最適だと思ったんだ」
店の扉を押して中に入ると、空気が一変した。
金属と油の匂い。火の熱気がほんのりと伝わってくる。広い店内には、剣や槍、装飾の施された鎧が整然と並び、その奥には巨大な炉が構えられていた。壁際の棚には、見たことのない道具がずらりと並び、まるで科学実験室と工房が融合したような雰囲気だった。
その場に立っているだけで、何かが生まれそうな予感がした。
「おい、誰だ? 客か?」
声と同時に、奥の炉の影から一人の男が現れた。
奥の炉の影から現れたのは、まるで絵本の中から飛び出してきたような小柄な男だった。がっしりとした体格に、火に焼かれたような褐色の肌。丸い鼻と絡まるような灰色のひげ、そして鋭く光る目が印象的だった。
――まるでドワーフみたいだ。
「紹介しよう。彼がこの工房の主、オルダンさんだ」
ロリスが一歩前に出て言った。オルダンと呼ばれた男は僕をじろりと見上げ、そしてロリスに向かってぶっきらぼうに言った。
「へえ、王宮の人間がわざわざ俺んとこに顔出すとは、珍しいな。今回はどんな無茶な注文だ?」
「まあ、無茶と言えば無茶だろうな」
ロリスは苦笑しつつ僕の肩を軽く押した。
「この青年が、その依頼人だ。少し、変わった技術を必要としていてな。君の力を借りたくて連れてきた」
「変わった技術、ねぇ……」
オルダンは腕組みをしながら僕を上から下までじっくりと見た。その視線はまるで、鉄の塊をじっくり観察する職人のようで、少しだけ背筋が伸びる思いがした。
「……で、お前さんは何を作りたいんだ?」
僕は少し躊躇いながらも、ロリスが携帯していた拳銃を取り出し、指でそれを示した。
「これを作りたいんですけど」
オルダンは拳銃をじっと見つめ、眉をひそめた。
「なんだこれ?こりゃ、かなり奇妙な形をしてるな」
彼はしばらくそれを手に取り、細かく観察した後、首をかしげて言った。
「これじゃ、わかんねぇな。設計図もねぇし、素材の種類もわかんねぇ。」
オルダンは拳銃を手に取ったまま、僕をじっと見つめた。
「どこで手に入れたんだよ、これ?」
僕は少し困った顔をして、適当な理由を探しながら言った。
「うーん、まあ、ちょっとした機会で手に入れたもので……あまり詳しくは言えませんが」
オルダンはその言葉を聞いて、少しだけ眉をひそめたが、すぐに肩をすくめて「ふん、そうか」とだけ言った。
その後、ロリスがにっこりと笑って続けた。
「まあ、そうだろうな。でも、どうしても作りたくてね。なので、解体してもらいましょう」
オルダンは一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに納得した様子でうなずいた。
「解体?」
「うん、それで頼むよ」
オルダンはしばらく黙って考え込み、再び拳銃を手に取った。それをしっかりと観察した後、彼は道具を取り出し、作業を始める準備を整えた。
「わかった、やってみるか。でも、これ、簡単じゃないぞ。ちょっと時間がかかるかもしれん」
「それで構わない」
僕はしっかりと答えた。
オルダンは言葉を続けながら、解体を始めた。手際よくパーツを外し、拳銃の構造を一つ一つ分解していく。
初めて拳銃を見たと思えないほど上達した手腕で思わず尊敬の念が湧いてくる。オルダンの手元はまるで楽器を奏でるようにリズムよく、無駄な動きが一切なかった。ひとつひとつの部品を外すたびに、その精緻さに感心せざるを得なかった。
「ほう、こいつは意外と繊細な作りだな。金属の厚さや形状を見る限り、精密機器だ」
オルダンは部品をテーブルに並べ、じっくりとそれぞれを観察していく。僕はその手際にただ圧倒されていた。
「この構造は、特に難易度が高いな。全てが精密で、微妙な調整が必要だ」
ロリスが少し考えるように言った。
「なら、作れるのか?」
オルダンは一瞬黙ってから、ゆっくりと答えた。
「作れるかどうか、はっきり言って今は分からん。ただ、この構造を再現するには、相当な時間と精度を要するだろうな」
オルダンは拳銃の弾倉部分を指差し、疑問を投げかけた。
「それに、この部分はなんのためにあるんだ? 何個か穴空いてるけど、入れるためのものだよな?」
僕は少し考え込みながら答えた。
「加工した金属の矢みたいなものを入れて発射する武器らしいですよ。」
オルダンはそれを聞いて、困惑したように言った。
「この小さい穴に入れるってんのか?無理だよ。」
ロリスは軽く肩をすくめ、少し笑いながら言った。
「まあ、実物がないですし、どうにかなるといいんですけどね。」
オルダンはしばらく黙って拳銃を手に取り、再度じっくりと観察した。
「金属の矢、か…。こんなに小さな穴に、どうやってそんなものを入れるんだ?」
僕は首をかしげながら、言った。
「その部分が問題だとは思いますが、仕組みを再現するには工夫が要ると思います。」
オルダンは拳銃をしばらく見つめ、ため息をついてから言った。
「とりあえず、見本のある本体の方から作ることにするよ。弾倉の部分はまだどうするか分からんが、まずはこの本体を真似ることが先決だ。」
僕はその言葉に少し安心した。少なくとも、何か進展があったように感じたからだ。
「ありがとうございます。」僕は心から感謝を込めて言った。
オルダンは軽くうなずき、再び部品を手に取りながら言った。
「作り終わったら、弟子が呼びに行くから、待っててくれ。」オルダンは無駄のない手つきで作業を進めながら、僕に言った。
「はい、わかりました。」僕はうなずき、ロリスと一緒に鍛冶屋を後にすることにした。鍛冶屋を出ると、外の空気が少し冷たく、思わず深呼吸をした。
「はい、オルダンさんがやってくれるなら、あとは待つだけですね。」僕は肩の力を抜いて答えた。
鍛冶屋を後にしてしばらく歩き、大通りに出ると、通りの両側には賑やかな屋台が並んでいた。香ばしい匂いが鼻をくすぐり、思わず足がそちらに引き寄せられそうになる。
串焼きにした肉、煮込み料理、香辛料の効いたスープ――どれも見慣れないものばかりだったが、活気のある人々の声と笑顔が、それらの味を保証しているように思えた。
「すごいですね……けっこう繁盛してる」
僕が思わず呟くと、ロリスはうなずきながら言った。
「ここの食い物はな、見た目よりずっとうまいぞ。」
ロリスの言葉にうなずきながら、僕は改めて周囲を見渡した。屋台といっても食べ物だけじゃない。アクセサリーや細工物を売る店、旅人向けの薬草や香油を並べた屋台、素朴な木彫りの人形を揃えた雑貨屋まで、通りには実にさまざまな品が並んでいた。焼き物の皿を丁寧に選ぶ老夫婦や、香辛料の袋を熱心に吟味する若い女性の姿も見える。
それでも、やはり一際目を引くのは、煙を立てる食べ物の屋台だった。どこからともなく漂ってくる香ばしい匂いに、再び空腹が刺激される。けれど、近くの屋台に足を運び、煙の元をじっくり嗅いでみると――その香りには、どこか癖のある、野生的な匂いが混じっていた。
「……ちょっと獣っぽい匂い、しますね」
僕が思わずつぶやくと、ロリスはくくっと笑った。
「ああ、それがいいんだよ。ここで使ってる肉は、家畜の肉じゃなくて、山で獲れた獣の肉だからな。旨味は濃いが、慣れてねぇと鼻に残るかもな」
彼の言う通り、肉の色も、僕の知っているものよりやや濃く、筋張っていて固そうに見える。けれどそれが逆に、この街の人々のたくましさや自然との近さを感じさせた。
「首都ってもっと都会的なものだと思ってたんですが……ずいぶん野趣あふれる感じですね」
ロリスは肩をすくめて答える。
「まあ、山に囲まれてるからな。牧畜をやってる奴らは、もう少し西の、シュネー独立国との国境付近に多い。ここまで運んでくるとなると山越えになるし、あんまり手間のかかるもんは流通してねえんだ」
なるほど、そういう事情もあるのかと思いながら、僕は一つの屋台で焼かれていた串をじっと見つめた。黒く炙られた肉から滴る脂が、炭火に落ちてじゅう、と音を立てている。その音が、妙に心をそそった。
「……一本、食べてみてもいいですか?」
そう尋ねると、ロリスはにやりと笑った。
「いい心構えだな。旅は舌でも楽しむもんだ」
そう言って、彼は迷いなく自分の財布を取り出した。革の袋の口を紐で留めた簡素な作りだが、中からは小さな銀色や銅色の硬貨が覗いている。ロリスはその中から銅貨を数枚つまみ出すと、屋台の親父に指を立てた。
「二本、頼む。一本はこいつの分だ」
「へい、銅貨三枚だ」
親父が笑いながら串をひっくり返す。僕は硬貨をじっと見つめた。手のひらに収まる小さなその一枚に、どれほどの価値があるのか――まだよくわからない。
「……それ、いくらぐらいなんですか?」
僕が小声で尋ねると、ロリスは軽く笑った。
「この辺りじゃ、銅貨一枚でパン一個。銀貨一枚で宿に一泊できるぐらいだな。ま、物によるけどよ。今のは三枚、ちょっといい肉だ」
焼きあがった串を受け取りながら、僕は思わず頭を下げた。
「すみません、ありがとうございます……」
「気にすんな。この世界に来て間もないですから、な?」
ロリスはそう言いながら、焼きたての串を片手に片眉を上げた。
僕は串を受け取りながら、思わず小さく笑った。
「……はい。助かります」
「とにかく、まずは腹を満たせ。」
ロリスが豪快に肉にかぶりついたのを見て、僕も恐る恐る一口かじった。
途端に口の中に広がる、香ばしい炭火の香りと濃厚な肉のうまみ。野生の香りは思ったよりも強くて、口に入れた瞬間に鼻へ抜ける独特の匂いに、僕はほんの少しだけたじろいだ。焼き加減や味付けは申し分ないのに、獣の生っぽさを感じさせるその香りが、自分のような現代人には少々ハードルが高い。
けれど、ロリスが当然のように頬張っている姿を見ると、文句を言う気にもなれなかった。彼にとっては、これが日常の味なのだ。
僕は少し考えながら、肉を口に運んだ。最初の違和感は消えて、少しずつその風味を楽しむことができるようになった。お腹も少し落ち着いてきたところで、適当にぶらつくことにした。
ロリスが肉を片手に歩きながら、あたりを見回している。屋台の周りは賑やかで、人々の笑い声が響いている。小道を挟んで、次々と通り過ぎる人々の姿が目に入った。通りの端には、雑貨屋やアクセサリーを売っている店もあって、異世界ならではの品物が並んでいた。装飾が施された金属や革製品、珍しい植物の葉で作られた小道具などが、目を引いた。
「なかなか面白いものが並んでますね」僕がふと呟くと、ロリスが少し首を傾げて言った。
「お前、こんなものに興味があるのか?」
「いや、ちょっと気になっただけです」
僕はそのまま歩きながら、手に取った小さな木彫りの動物をじっと見つめた。小さくても精巧に作られたその彫刻は、手作りの温かみが感じられた。
「まあ、ここは商業的な面でも賑わっているし、見るだけなら自由だろう」
ロリスは言いながら、どこか遠くを見つめていた。
そのまま何も決まっていない状態でぶらぶらと歩き続けた。人々の喧騒や笑い声が心地よく、自然と足も軽くなっていく。目の前に広がる景色は新鮮で、異世界の色と匂いを楽しむのに、特に急ぐ理由もなかった。
ロリスは横で何か考えているのか、たまに立ち止まっては、あたりを見回すばかりだ。僕はその背中を見ながら、何も言わずに一歩一歩歩を進めた。
「何か気になるものでもあったか?」と、ロリスがふいに言った。
「うーん、特に……ただ、いろいろ見てると楽しいですね」僕は少し笑いながら答えた。
「まあ、確かにそうだな。でも、今日はあまり予定もないから、どこか寄ってみるのも悪くないかもな」ロリスがそう言うと、僕も何となくうなずいた。
「じゃあ、どこか行きますか?」
「お前が行きたいところがあれば、付き合うぞ」
そう言われて、少し考えた後、僕は街並みを見渡してから口を開いた。
「何か、ここら辺で興味を引くような場所はありますか?」
ロリスはしばらく黙って考え込み、そしてふっと笑った。
「まあ、いくつかあるけど、どうせなら少し面白い場所を案内してやるか」
それから、ロリスはその場を離れる方向に足を向けた。
僕はロリスの後ろをついていった。賑やかな屋台通りを抜けて少し裏手に入ったあたりから、周囲の雰囲気が徐々に変わっていくのを感じた。人通りは変わらずあるものの、どこか空気が違う。道に立つ看板や呼び込みの声、それに店の外観が妙にけばけばしく、なんというか、こう……色っぽい。
ちらりと見えた店先には、肌を露出した女性が微笑みながら客を誘っていた。艶のある声が響き、店の中からは笑い声と音楽が漏れてくる。
僕は思わず目を逸らし、気配をなるべく消すようにしてロリスの背中にくっついて歩いた。こういうのは、なんだか気まずい。現代でもこういう場所には縁がなかったし、異世界であっても同じだった。
そんな僕の様子に気づいたのか、ロリスはふいに立ち止まった。そして、目の前にあるひときわ豪奢な建物を顎で示す。真紅のカーテンが揺れる入口に、金細工をふんだんに使った装飾。中から漂ってくる香の匂いが鼻をくすぐった。
「ここは『紅の窓』。この界隈じゃ一番高級なところだ」
そう言ってロリスは横目で僕を見やった。
「……興味ねえのか?」
僕はすっと視線をそらしながら、なるべく平然とした声で言った。
「いや……別に。興味ないですよ、こういうの」
我ながら苦しい言い訳だとは思った。顔が少し熱い。そもそもこんな風にわざわざ否定するあたり、もうバレてる気もする。でも、見栄くらいは張りたい年頃だ。
ちらちらと視界の端に入る、露出の多い服を着た女性たちの姿が、否が応でも意識に引っかかってくる。流れるようなドレスの隙間から見える脚線美、ゆらめく髪、艶やかな声色……見ないようにと思えば思うほど、逆に気になってしまって、自分の目がどこを見れば正解なのか分からなくなってくる。
「……そうか?」
ロリスの低い声がぼそりと落ちて、僕は肩を跳ねさせた。彼は僕の反応を観察していたらしい。
「見てねぇふりして、目が泳ぎまくってんぞ、お前」
「み、見てませんって……!」
思わず言い返したが、声がわずかに裏返ったのが悔しい。ロリスは小さく笑っただけで、それ以上からかってくることはなかったけれど、その笑い声がやけに悔しかった。
ロリスは小さく笑って、少しだけ間を置いてから言った。
「……本当か?」
またもや追い打ち。にやりとしたその顔に、完全に見透かされているのが分かる。けれど僕は、必死に表情を引き締め、何とか平然を装って言い返した。
「ほんとに、興味ないですって」
なるべく淡々と、冷静に。内心は汗だくだが、ここで崩れたら終わりだ。するとロリスは、なんとも言えない表情で僕の顔をじっと見つめたあと、ふっと息を漏らして笑った。
「なんだ、興味ないんだな。前に部下の連中連れてきた時は、みんな目を輝かせてたからよ。年頃の男なら、誰だって喜ぶと思ってたんだが」
まるで肩透かしを食らったように、少しだけ残念そうに言うその口調が、逆に刺さる。僕は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに問い返した。
「……じゃあ、ロリスさんはこういうところに興味あるんですか?」
するとロリスは、あっけらかんとした顔で、きっぱりと答えた。
「ないぞ」
即答だった。あまりにも潔くて、逆にこちらが面食らう。
「別に嫌いってわけじゃねえが、そういうのは性に合わねえんだよ。ああいう場所じゃ、余計なことまで見えちまう」
そう言って、ロリスは再び歩き出した。その背中は、どこか思慮深さを帯びていた。僕はその言葉の意味を考えながら、少し距離を詰めて、彼のあとを追った。
ロリスの後を追いながら、僕は道の両脇に立ち並ぶ華やかな店々をちらちらと見ていた。ふと、窓辺に佇む少女が目に入る。年の頃は自分と変わらないくらいか、それより少し年下かもしれない。その子はふわりと手を振ってきた。無垢な笑顔と柔らかい仕草。なのに、身にまとっている衣装や、立ち位置がすべてを物語っていた。
少し目をそらした僕の視界には、今度は店頭に立つ看板娘の姿が映った。豊満な胸元を大胆に見せたドレスに、腰のくびれを強調するような布の巻き方。顔立ちも美しくて、つい目が引き寄せられる。けれど、それは単なる魅力だけじゃない――彼女たちは、それを「仕事」にしている。
そんな僕の気配を感じ取ったかのように、ロリスは歩を進めながら、低い声でぽつりと口を開いた。
「……手に職がねぇとか、家庭がまともじゃねぇ女は、こうして自分の身体を売り物にするしかなくなる。もしくは……」
彼は少し間を置いて、淡々と続けた。
「……もっと悪い場所に流れる」
その言葉の奥には、決して軽くない重みがあった。
僕は思わず歩を緩めた。口の中が妙に乾いて、さっきまでの浮ついた気持ちが、音もなくどこかに消えていった。
「……店で管理されてる分、まだマシなほうだ」
ロリスは続けた。視線はまっすぐ前を向いたまま、感情の起伏を抑えた静かな声だった。
「飯が出て、寝る場所があって、体調が悪けりゃ薬も出る。いくらかは自分の稼ぎになるし、ひどい客は店の人間が止めてくれる」
「なんだって、兵士はもちろん、お偉いさん連中もたまに顔出してるからな」
ロリスは、何かを思い出すようにわずかに目を細めた。
「中には気に入られて、妾やら嫁やらに引き取られるやつもいる。そうなりゃ、まあ運がいい方だ。下手な仕事に就くより、ずっと安定した暮らしが手に入る」
僕は思わずロリスの顔を見た。
「……そんなこと、あるんですか?」
「たまにな。けど、一概にいいとも言えねぇ。選ばれるまでが地獄だ。年を取ったらお払い箱。声を枯らして笑って、皮膚が荒れて、骨がきしむまで働かされて、それでも報われるのはほんの一握りだ」
淡々と語られる言葉の裏には、現実の重さがあった。
僕は黙ってロリスの後を追いながら、さっきまで目にしていた華やかさが、まるで薄紙のように感じられて仕方なかった。
「……でも、そういう可能性があるってだけで、夢を見る子もいる」
そう呟いたロリスの声は、どこか遠くを見つめるようだった。