7話
魔力測定を終えたあと、僕はロリスとともに屋敷の一角――滞在先となっている離れへと戻ってきた。
そこは本館から少し離れた位置にあり、華やかさはないが、人目を避けるにはうってつけの場所だった。静けさが心地よく、ようやく息ができる気がした。
館の奥にある小さな食堂には、すでに朝食が並べられていた。長テーブルの上には湯気を立てるホワイトシチューの鍋、焼きたての塩パン、そして脇にはイノシシの干し肉。
メイドが軽く会釈して、スープを陶器の皿に注いでくれる。香味野菜とハーブのやさしい香りが鼻をくすぐった。
「昨日は、ずいぶん遅くまで引き留めてしまいましたね」
ロリスが椅子に腰を下ろしながら、申し訳なさそうに言う。
「まあ……怒る気力もなかったよ」
苦笑しつつパンをちぎり、シチューに浸す。見た目より柔らかく、手のひらにふんわりと温もりが広がった。
昨夜はろくに食事もとれず、朝も空腹のまま研究棟に連れていかれた。
ひと口すすると、体の芯までじんわりと温かさが染みていく。――やっと、ひと息つける。
そう思った、その時だった。
「まあ、仲良く朝ごはんとは。微笑ましいわね?」
背後から聞き慣れた艶のある声が響いた。
スプーンを止め、反射的に振り返る。そこに立っていたのは――案の定、エナだった。
「ついてきたのか……?」
思わず声が漏れる。自分でも情けないくらい驚いた声だった。
エナは食堂の入口に立ち、いつものように余裕の笑みを浮かべている。まるで「ここにいるのが当然」とでも言いたげだ。
――心の中で、ストーカー? と呟いたが、すぐに打ち消した。そんなことを言えば命がいくつあっても足りない。
「どうしてここに?」
ロリスがわずかに身構えると、エナは肩をすくめ、猫のように笑った。
「あなたたちが魔力測定を終えたあと、ここで食事でもするだろうと思って。……ちょっと気になっただけ」
その“ちょっと”が、まったく信用できない。
「昨日は素性をはぐらかしてたでしょ? てっきり宰相が何か企んでるのかと思ってね。だから、確かめに来たの」
そう言うなり、彼女は当然のように席に着き、パンをちぎってシチューに浸した。くつろぎすぎだろう。
「で、話してるうちに――ここに住むことにしたの」
「……は?」
間抜けな声が勝手に出た。
「な、なに勝手に――」
「宰相にはちゃんと許可取ったわよ?」
スプーンを口に運びながら、涼しい顔でそう言う。
その一言で、思考が止まった。
――宰相? 彼女は今、そう言った。
脳裏に昨日の男の姿がよみがえる。落ち着いた声、冷ややかな目、底の読めない沈黙。
……そういえば、名前を名乗られた覚えがない。
「……ちょっと待って。昨日の、あの男が宰相ってこと?」
自分の声がわずかに上ずる。
ロリスに視線を向けると、彼は静かに頷いた。
――嘘だろ。
あのときは、ただの口数の少ない役人だと思ってた。
まさか、あんな無表情で人の目を覗き込んでいた男が、この国の中枢にいるなんて――。
混乱する僕をよそに、エナは相変わらず気楽な様子で、パンをシチューに浸して口に運ぶ。
「おかしいと思わない? あんな特異な体質、見過ごせるわけがないわ。私としても、しばらく近くで観察したいって言ったら、彼――宰相もあっさり許可してくれてね」
「観察って……研究目的、ですか?」
「そうよ。あなたの体質、私の好奇心をくすぐるの。魔力ゼロの人間なんて、生きてるうちに見られるかどうかも怪しい存在なんだから」
その声音に浮かぶ熱は、単なる興味というより、どこか執着に近いものだった。
僕はスプーンを止めたまま、無意識に息をのむ。
ロリスが低く息をついて、ぼそりと呟く。
「宰相の命令なら……何も言えん」
「そういうこと」
エナは勝ち誇ったように微笑み、再びスプーンを口へ運ぶ。
その仕草が、なぜだかやけに楽しげに見えた。
「まあいいわ。これからよろしくね、坊や」
何が「よろしく」なのか、まるでわからなかったが――
少なくとも、静かな生活が戻ってくる日は、まだ遠そうだった。
どうにか食事は終えたものの、胃の中に入ったシチューの温もりよりも、エナの存在感のほうが何倍も重く感じられた。
椅子を引いて立ち上がろうとしたそのとき――食堂の扉がノックもなく開き、ひとりの兵士が慌ただしく駆け込んできた。
「エナ殿! 北方鉱山付近に魔物出現との報告です! 先遣隊は向かっていますが、状況不明で……!」
報告を受けたエナはわずかに眉を寄せたが、次の瞬間にはいつもの調子を取り戻し、ナプキンを軽く畳んでテーブルに置いた。
「……ふうん。せっかく美味しいシチューだったのに、余韻を味わう暇もないなんて損した気分だわ」
ぼやくように言いながらも、声には焦りがない。慣れているのだろう――戦場に呼ばれることも、こうして食事の途中で席を立つことも。
「坊や、悪いけど行ってくるわ。放っておくわけにはいかないのよ。……魔物のほうも、あなたのほうもね」
こちらを一瞥し、唇に薄く笑みを浮かべる。
「帰ったら、またじっくり観察させてもらうから、楽しみにしてて」
楽しみになんかできるわけがない――そう言いかけた言葉を呑み込む間に、エナは踵を返して兵士とともに去っていった。
扉が閉まると同時に、空気の圧が一段階下がった気がした。
どっと肩から力が抜け、ロリスもほぼ同時に息を吐く。
「……あの人がいなくなると、やけに静かに感じますね」
「まったく、嵐みたいな人だ」
僕の言葉に、ロリスはわずかに口元を緩めた。
彼は椅子を引いて立ち上がると、軽く会釈する。
「では、エナ殿が不在のうちに書斎へご案内しましょう。ここでの生活についても、いくつかお見せしたいものがあります」
僕も立ち上がり、ロリスのあとを歩く。
エナの気配が消えた屋敷は、どこか現実味を取り戻したように静かだった。
やがて辿り着いたのは、重厚な扉の前。
開かれたその先に広がっていたのは――まさしく「知」の空間だった。
壁一面にそびえる本棚。革表紙に金文字が並び、天井近くまで本で埋め尽くされている。
見慣れない記号、未知の言語。改めて、ここが異世界なのだと実感させられた。
部屋の中心には、大きな木製の机が一つ。その上には、一枚の大きな地図が広げられている。
「これは……地図、ですか?」
「ええ。この世界の全体を示したものですが、ご覧の通り、まだ未確定な部分が多い」
ロリスの指が、地図の上を静かに滑る。
ところどころが薄く描かれ、点線で囲われた領域。未踏の地が、この世界にはまだいくつも存在しているようだった。
「今、確かにわかっているのは――三つの大陸が存在している、ということです」
ロリスの指先が止まったのは、西の大陸の東方に広がる、複雑な地形の一帯だった。
「我々ヴァイス帝国の首都があるのは、このファルベ大陸の東端――山々に囲まれたこの一角です」
ロリスの指先が地図の端をなぞる。
「険しい地形ゆえ、外敵には強固な防壁となり、同時に内部統制にも適している。帝国の成立以来、この地形こそが国を守ってきたとされています」
「そして――その山々に囲まれているせいでね」
ロリスは首都から外へ伸びる細い谷道を指でたどりながら続ける。
「古い時代には、民を動かして領地を広げること自体が非常に危険でした。
山を棲み処とする魔物の脅威、長距離の移動に必要な食糧の確保、そして過酷な環境に耐える体力……」
指が止まり、声の調子がわずかに沈む。
「そのすべてが揃わなければ、誰ひとり山を越えられなかった。だからこそ、この地形は盾であると同時に、帝国を縛る鎖でもあったのです」
ロリスの視線が、地図の北方――エナが向かった鉱山地帯へと移る。
「山岳地帯では分鉱業、つまり鉱石の採掘が盛んです。ただ、その分、魔物の出現も多い。エナ殿が呼ばれた鉱山のように、強力な個体が現れることも珍しくありません。月に一度は、定期的な討伐隊が派遣されていますが……」
言葉を濁し、ロリスは小さくため息をついた。
「それでも山脈の裏――この先までは手が回らないのが現実です。何が潜んでいるのか、誰も正確には知らない。探検隊を送った記録もありますが……全員が戻ってきたとは限らない」
「……そんな危険な場所が、国のすぐ隣にあるのか」
思わず口をついて出た僕の言葉に、ロリスはうなずいた。
「ええ。まるで、眠る巨獣の腹の上に住んでいるようなものですよ」
彼は今度は地図の右端――青く塗られた海域を指した。
「そして、唯一山に囲まれていない東側は海に面していますが……ここにも問題があります」
海の青を指先でなぞりながら、ロリスは低く言う。
「この海域にも、時折“面妖な魔物”が現れるのです。海竜のようなものから、霧の中を泳ぐ怪魚まで。種類も目的も不明。どこから来るのかすら分かっていません」
彼は淡々としながらも、言葉の端にわずかな疲労を滲ませた。
「そのため漁業は思うように発展しません。豊かな海でありながら、活かしきれないのです。それでも、生活のために海へ出る者たちはいる。晴れた日を選び、軍の護衛を雇って」
「護衛を雇う?」
「ええ。国に依頼料を支払い、騎士団や兵を同行させるんです。護衛なしで海に出るのは自殺行為ですからね」
僕は地図に目を落としたまま呟いた。
「山にも海にも魔物がいるなんて……逃げ場がないじゃないか」
「ええ。だからこそ、この国は常に備えることを忘れないのです」
ロリスの声には、わずかな誇りが混じっていた。
「この国が他国と違うのは、危険な環境に長くさらされてきたという点です。山も、海も、どの方角にも脅威がある。だからこそ、生き延びることが“強さ”と同義になった」
彼は言葉を区切り、少しだけ笑みを浮かべる。
「エナ殿のような実力者も、その土壌から生まれた一人です」
ロリスの指が、再び首都を示した。
「――我がヴァイス帝国は、この過酷な環境によって、とてつもない戦力を手に入れたのです」
ロリスは少し誇らしげに語りながらも、その瞳には冷たい現実を見据えるような光が宿っていた。
「もっとも、この地形のせいで――世界のことはまだ何もわかっていないのが実情です。東方にあるシュテルン大陸については、名ばかりで、どんな国があるのかすら不明。そして、南方のトード大陸も、漁師がたまに“遠くに船影を見た”という話があるだけです」
言葉の端々から、この国がいかに閉ざされた環境にあるかが伝わってくる。
未知を恐れつつも、外へと視線を伸ばそうとする――そんな矛盾が、この国の根にあるのかもしれない。
「このファルベ大陸には、我々ヴァイス帝国を含め八つの国があります。そのうち四つは小規模な都市国家。だが、残る三つの大国は、それぞれ広大な領土を有している」
ロリスは地図に指を滑らせた。西、北、南――三方向に分かれた勢力圏を指し示す。
「そして中央部にあるのが、シュネー独立国。我々ヴァイスと、シュヴァルツ帝国の狭間にある、小さな緩衝地帯です」
「緩衝地帯……」思わず口にすると、ロリスは小さくうなずいた。
「ええ。表向きは平穏ですが、実際には常に板挟みの国ですよ。商業の要でもあり、どちらの大国にとっても喉元に突きつけられた刃のような存在です。だからこそ、どちらも手を出せない」
ロリスは一度息をつき、低く声を落とした。
「――だが、最近はその均衡が崩れ始めています。シュヴァルツ帝国が急速に兵を増やし、物資の輸送路を整えている。明らかに、何かを狙っている動きです」
彼の視線が、地図から僕へと移った。
「もしシュネー独立国が圧力に耐えきれなくなれば、我々も巻き込まれる。そのときに備えておく必要がある」
ロリスは机の上で両手を組み、静かに告げた。
「……だからこそ、拳銃の開発を急いでほしい。戦うためではなく、守るための備えとして」
その言葉は穏やかだったが、揺るぎない決意があった。
「戦争は避けるべきだ。しかし、備えなければ、避けることすらできなくなる。――君にも、きっとわかるだろう?」
ロリスの目は真っ直ぐだった。
その視線に、僕は小さく息をのみ、ゆっくりとうなずいた。
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