6話
部屋の中は静かで、淡い光に包まれていた。天井に埋め込まれた魔石が、ろうそくのように柔らかく揺れている。
中央の台座には、ひときわ澄んだ魔石が一つだけ置かれていた。虹色の光がかすかに脈打ち、見ているだけで心の奥を覗かれているような気分になる。
「これに触れるだけでいいんですか?」
「そうだ。何も考えず、ただ手をかざしてみてくれ」
ロリスの声は穏やかで、どこか儀式めいていた。僕は息を整え、そっと石へ手を伸ばした。
――何も起きなかった。
淡い光はそのまま、空気が静かに止まったようだった。
「……あれ?」
もう一度触れてみても、変化はない。ロリスがわずかに息を吐いた。
「……適性は、ないようだな」
その言葉が、静かに胸の奥へ沈んでいく。
少しだけ期待していたのかもしれない。どこかで、何か特別な力が眠っているのではと。
「まあ、落ち込むことはないさ」
ロリスは小さく笑い、今度は自分の手を魔石にかざした。
途端、石の内部に淡い緑の光が生まれ、ゆらりと揺れる。
「こうなる。これは風の反応だ。私にもわずかに素質はあるが、強くはない」
その瞳に、一瞬だけ遠い記憶の影が差した。
「君のように反応のない者も多い。魔導士の道は閉ざされるかもしれないが、魔法だけが全てじゃない」
そう言ってロリスは、腰の剣に軽く指を添えた。
魔法使いというより、戦う者の横顔だった。
「私のように、わずかな適性で剣を選ぶ者もいる。――だが君を配下にしたのは、戦わせるためじゃない。
君の“異世界の知識”にこそ、意味があると思っている」
その言葉に、胸の奥がかすかにざわめいた。
「魔法の才能はなかった。それでも“持っているもの”がある。今はまだ、気づいていないだけだ」
ロリスの声は柔らかく、どこか温かかった。
「さて――次は魔力量の測定だ」
彼は机の引き出しから、小さな白い球を取り出した。真珠のような光沢を放つそれを手のひらに乗せる。
「私物だ。正式な装置ではないが、力の有無くらいはわかる。……他言はするなよ」
気遣うような声に頷き、僕は手を近づけた。球体はほのかに温かかったが、それだけだった。
沈黙。
「……やはり、反応はないか」
ロリスは静かに呟いた。その表情には落胆よりも、理解があった。
「この世界の者なら、微かでも反応する。だが――君は“こちら”の人間じゃない。それでいい」
優しく告げる声が、光のように静かに胸へ降りてきた。
異世界といえば、魔法が使えるのが当然だと思っていた。
見えない力を操って火を灯し、風を呼ぶ――そんな夢のような力が、自分にも宿っていると。
けれど、現実は違った。
「……なんか、がっかりです」
思わずこぼれた言葉に、ロリスは静かに目を細めた。
「魔法が使えないのは、不幸じゃない。むしろ幸運かもしれない」
「幸運、ですか」
「才能がある者ほど、戦場に駆り出される。君はそれを避けられる」
穏やかな声だったが、その奥に、戦いを知る者の影が滲んでいた。
「ただし――守る力もないということだ。危険な場所では、誰かを頼るしかない」
僕は唇を噛みしめた。
夢から覚めたような虚しさと、現実を突きつけられた重さが混ざる。
「だから、私が護衛に任じられた。……そういうことだ」
ロリスの微笑みに、少しだけ心が軽くなった。魔法がなくても、まだ役割はある。
「さて、用は済んだ。出ようか」
ロリスが立ち上がったその瞬間――
「ロリス!」
勢いよく扉が開き、空気が変わった。
現れたのは、長身の女性だった。長い黒髪が背を流れ、動くたび艶やかに光を散らす。
黒を基調とした衣装は、軍服にも見えるほど無駄がなく、それでいて曲線を隠さない。
胸元の控えめな開きと、脚線を際立たせるパンツ――清潔で、それでいて挑発的だった。
その瞳が僕をとらえた瞬間、呼吸が一瞬止まった。
視線が強い。まるで人の心を試すような、確信に満ちた光。
「どうしたの?」
彼女の声は、甘く響きながらも冷たい刃のような輪郭を持っていた。
まるでこちらの反応を楽しむように、わずかに口角を上げる。
「べ、別に……」
言いかけた声がうまく出ない。心臓が早鐘を打ち、顔が熱くなる。
「いたずらはお控えください」
ロリスの声が低く割り込んだ。穏やかだが、芯に冷たさを含んでいる。
「魅了の魔法は使わないでください――エナ殿」
その名を呼ばれた女――エナは、肩をすくめて悪戯っぽく笑った。
「冗談よ。少し様子を見に来ただけ」
その笑みは軽いのに、空気を支配するような存在感があった。
ただの美しさではなく、“この場における格の違い”がそこにあった。
「若い男を見るとつい、ね」
エナは軽く肩をすくめて言った。反省しているような口ぶりだったが、その顔に後悔の色はほとんどない。
「ごめんね」
その声音には申し訳なさが滲んでいたが、どこか芝居めいても聞こえた。
「まあ、仕方ないわね」
エナは小さく笑って、ロリスから僕へと視線を移す。微笑の奥に、どこか余裕のある光が見えた。
「自己紹介がまだだったわね」
彼女は一呼吸おいてから、軽く頭を下げる。
「私はエナ・フィルデン。よろしくね」
その瞳に宿る輝きは、挑むようでもあり、不思議と親しみを誘った。
ロリスはわずかに息を吐き、僕の隣で言葉を継ぐ。
「エナ殿は、この国でも屈指の魔導士です。……見た目や振る舞いに惑わされないように」
「あら、それって褒め言葉?」
エナは楽しげに目を細め、わざとらしく腰に手を当ててみせた。その仕草は舞台の上の女優のように滑らかで、どこか品がある。
「まぁ、いいわ。認めてもらえてるってことにしておく」
そう言って、僕の方を見て片目を閉じる。
「だからね、坊や。ちょっとくらいからかったって、怒らないで?」
あの声だ。低く甘い響きが耳に残り、思考がかき乱される。
ロリスは軽く咳払いをして、視線を外した。
「……やはり、油断ならない方ですね」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくわ」
鈴のような笑い声が響いた。
「それにしても――彼、魔力を持っていなかったようだけど?」
突然の言葉に、体がこわばる。
「……見てたのかよ」
つい漏れた声に、彼女は意味ありげな笑みを浮かべた。
「見てたというより、聞こえてたの。私、この耳、ちょっといいのよ」
そう言って髪をかき上げる。長く尖った耳が、光を受けてきらりと揺れた。人間のものとは違う、繊細で美しい形――思わず目を奪われる。
「ね? 少しだけ、特別でしょう?」
囁くような声が胸の奥に届き、鼓動がひとつ強く跳ねた。
「他言は無用でお願いします」
ロリスの声が割って入る。穏やかだが、その底には警戒と決意が混じっていた。
エナは肩をすくめ、ふっと笑う。
「わかってるわよ。そんな軽率にはならないって」
そう言いつつ、瞳の奥には鋭い光がちらりと走った。
ロリスは短く息を吐き、わずかに目を細めた。
「見えるからこそ、警告しているのです」
その言葉に、エナはくすりと笑った。
「失礼ね。でも――そういうところ、嫌いじゃないわ」
視線を僕へ戻すと、彼女は囁くように言った。
「大丈夫よ、坊や。私、口は堅い方なの。特に、面白い秘密にはね」
まただ。あの声。柔らかな糸で心を撫でられるような感覚が胸の奥に残る。
ロリスが一歩前に出て、少し低い声で言った。
「この件は、王宮にもまだ正式に報告していない重要案件です。……軽口で扱われては困ります」
「ふうん」
エナは指先で顎を支え、じっと僕を観察するように見つめた。
「じゃあ、教えてもらえるかしら? どうしてこの坊やには魔力がないのか――」
小さく笑って続ける。
「こんな珍しい体質、研究に使ってみたくなるのよね」
その声音は冗談めいていたが、目の奥に宿る光は好奇そのものだった。
ロリスは言葉を詰まらせ、眉間に皺を寄せた。
「……何も言えません」
短くそう答えた彼の横顔には、微かな諦めがにじんでいた。
「まあ、いいわ」
エナは姿勢を正し、穏やかな笑みを浮かべる。
その眼差しは先ほどよりも柔らかく、それでいて気品を失っていない。
「今日はここまでにしておく。坊や――また会いましょう」
片目を閉じてウィンクする。その仕草が、まるで舞台の幕引きを告げる合図のように見えた。
黒髪を揺らしながらエナは踵を返し、静かに扉へと歩いていく。
ドアが閉まると、部屋にはひとときの静寂が落ちた。
「……疲れる相手ですね」
ロリスがぼそりと呟く。僕は小さく頷いた。
それでも、彼女の声と香りの余韻が、まだこの空間のどこかに漂っている気がして――
僕は思わず、ゆっくりと息を吐いた。
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