5話
仕事場近くの施設をいくつか案内してもらったところで、訓練所に行くこととなった。
ロリスの背を追いながら、僕は新たな環境をひとつひとつ目に焼き付けていった。資料保管庫、道具の修理工房、薬草の貯蔵庫など、どこも見慣れない形や素材の建物ばかりだったが、それぞれに規律と目的があり、整然とした空気が流れていた。
そして最後に辿り着いたのが、訓練所だった。
高い石造りの壁に囲まれたその施設は、一見して厳格さを感じさせる造りだった。門をくぐると、まず目に飛び込んできたのは広大な土の広場。そしてその奥には、木造の訓練用人形がずらりと並び、兵士たちが無言で武器を振るっていた。
乾いた音が、規則正しく響いていた。
ふと視線をさらに奥へやると、訓練場のさらに向こう側に、ひときわ異質な建物が目に入った。周囲の質素な施設とは違い、明らかに材質も造りも別格だ。分厚い石材が何重にも積み重ねられ、外壁には見たこともない金属板のようなものがはめ込まれている。その表面はうっすらと光を反射しており、まるで防御のために設計された要塞のようだった。
「……あれは?」
僕が思わず指をさして尋ねると、ロリスはちらりと目を向けて答えた。
「魔術研究棟だ」
その響きだけで、どこか空気が張り詰めたような気がした。魔術――この世界において、それがどれほどの力と意味を持つのかはまだわからない。だが、少なくとも平凡な日常からすれば、明らかに異質な何かであることは感じ取れた。
「ここでは、術式の応用研究や、新しい魔力理論の検証が行われている。加えて、戦闘用の魔具や補助装備の開発もな」
ロリスの語る内容は、まるでどこかの軍事機関のようで、ただの“研究”という言葉から想像するような穏やかなものではなかった。
「魔術って、本当に存在するんだ……?」
僕が思わず口に出すと、ロリスは少し驚いたように目を見開いた。
「君の世界には、魔術というものはないのか?」
その言葉に、僕は即座に答える。
「ないよ。少なくとも、僕がいた世界では魔術なんてものは存在しなかった。」
ロリスはしばらく黙って考え込んでいたが、やがて頷いた。
「なるほど、君の世界にはそういった力はないのか。それなら仕方ない。」
そして、少し肩をすくめるように言った。
「でも、てっきりあの拳銃に術式でも埋め込んでるんじゃないかと思ったんだ。」
僕は自分でも驚くような答えを返していた。拳銃の威力があまりにも凄まじかったため、魔術的なものが関わっているのではないかと勝手に考えてしまったのだ。
「術式? どうして?」
ロリスは肩をすくめて答えた。
「鎧をも貫いてしまったから、あれは魔術を使っているのかと。」
「……あれは魔術じゃないよ。」
僕はゆっくりと説明した。
「ただの物理的な力だ。銃の弾が鎧を貫くのは、その威力によるものだ。」
ロリスはわずかに目を丸くし、しばらく考えるように黙った後、「へぇ」と小さく声を漏らした。
「なるほどな……。あれだけの威力が、魔術を使わずに生まれるとは。君たちの世界の技術、侮れないな」
ロリスはまだどこか感心した様子で、もう一度ちらりと魔術研究棟を見やった。
「とりあえず、中に入って実際に魔術を見てみましょうか。百聞は一見に如かず、というやつだろう?」
僕が頷くと、ロリスは歩き出し、重厚な石の階段を上がっていく。その背中を追いながら、僕の胸の内には、わずかな緊張と期待が入り混じった不思議な感情が湧いていた。
この施設では、魔術学院の成績優秀者や名のある魔法師、そして学院での研究において著しい成果を上げた者にのみ、立ち入りが許されているという。
「本来は、一般人が気軽に足を踏み入れられる場所じゃないんですけどね」
ロリスが階段の途中で振り返り、少しだけ口元をゆるめて言った。
「でも、君は“特例”だ。ここで何が行われているのか、知っておく必要があるからな」
そう言って再び前を向いたロリスの背中は、どこか緊張をはらんで見えた。僕は無言でそのあとを追い、広い玄関ホールへと足を踏み入れる。
中は静まり返っていた。高い天井には複雑な文様が彫られ、薄紫色の光が天井の装飾から滲むように灯っている。壁際には水晶のような柱が等間隔に並び、それぞれがかすかな魔力の脈動を放っていた。
「うわ……」
思わず漏れた僕の声に、ロリスは微かに笑みを浮かべた。
「ようこそ、魔術の中枢へ」
その言葉と共に、僕はこの世界の“理”が、いよいよ目の前で形をもって現れようとしていることを、改めて実感するのだった。
ロリスに導かれるまま、僕は静まり返った廊下を進んでいく。やがて、分かれ道のように扉が左右に現れ、ロリスは立ち止まって振り返った。
「まずは、訓練区画から案内しよう。実際に術式を使って鍛錬している場面のほうが、見て理解しやすいだろうからな」
ロリスに続いて左側の扉を開く。特別な仕掛けがあるわけでもなく、ただの重い木製の扉だった。軋む音を立てて開くと、中からふわりと熱気が流れ出てきた。
中は意外にもこぢんまりとしていた。もっと広々とした訓練場を想像していた僕にとって、それは少し拍子抜けする光景だった。およそ体育館の半分ほどの広さで、床は黒っぽい石材、壁も耐衝撃を意識したような作りになっている。天井はそれほど高くなく、光源は壁に設置されたランプのようなものが灯っているだけだった。
「……思ったより地味だな」
僕がぽつりと漏らすと、ロリスはくすっと笑った。
「まあ、あまり派手なものを想像されても困るが、見るべきところはあるさ」
中では数人の若者――学生だろうか――がそれぞれの場所で術式の訓練を行っていた。一人は腕を前に突き出して、小さな火球をぽん、と。大きさはせいぜいリンゴほどで、色も鮮やかな赤というよりは、ぼんやりと揺らめくオレンジの光。ぱち、ぱち、と控えめな音を立てながら燃えていた。
「うわ……火が浮いてる……」
思わず呟いた僕に、ロリスが得意げに言った。
「初歩の術式だよ。魔力を安定させて形にするだけでも、最初のうちは何度も失敗するんだ」
ロリスの視線の先では、火球を浮かせていた少女が真剣な顔で手のひらに集中していた。火球はゆらゆらと揺れ、時折ぐらつきながらも、しっかりと形を保っている。
「見た目は地味でも、魔力の流れを制御するのって、かなり難しいんだ。少しでも乱れると、ああやって形が崩れる」
よく見ると、別の場所で訓練していた少年の火球がふっとかき消え、少年は肩を落としていた。繰り返しの訓練の中で、ようやく一瞬だけ形になる――そんな世界なのだ。
「それにしても……本当に、火が出てるんだな……」
僕は再び火球に目を向けた。魔術。想像の中のファンタジーにすぎなかったものが、目の前に現実として存在している。その不思議さと、じわじわと湧いてくる興奮をどう処理していいかわからず、ただ立ち尽くしていた。
「慣れれば驚かなくなるよ。術式の型を覚えて、魔力の流し方を体に叩き込めば、誰にでもある程度はできる。……まあ、才能によるけどな」
ロリスが言うには、この初歩の術式すら使えずに脱落する者も多いらしい。見た目には小さな火球でも、その背後にある技術と訓練の重みは、想像以上に大きなものだった。
「さ、次はもう少し実践的な訓練をしている区画を見てみよう。あっちは……少し派手かもしれない」
そう言ってロリスが歩き出す。僕は慌てて後を追いながら、もう一度あの小さな火球に目をやった。その光は、僕の中に“この世界で生きていく”という実感を、確かに灯していた。
ロリスの案内で訓練区画の奥へと進むと、今度は先ほどとは打って変わって広々とした空間に出た。石造りの壁と床は同じだが、こちらはかなりの高さの天井を持ち、中央には人工的に作られた地形――石柱や段差、障害物などが設けられていて、まるで屋内に再現された戦場のようだった。
中では数人の魔術師たちが、師範らしき人物の指導のもと、模擬戦の訓練を行っていた。魔力が空気を震わせ、術式が展開されるたびに淡い光が走る。そのたび、床が小さく震えたり、壁の一部が黒く焦げたりしている。
「おい、集中しろ! そんなんじゃ実戦で命を落とすぞ!」
指導者の怒鳴り声と共に、若い訓練生のひとりが両手を前に突き出した。すると、地面の魔術陣が淡く光り、そこから鋭い風の刃のようなものが一直線に走る。狙った石柱に当たると、表面がざっくりと裂け、石の欠片が舞った。
「うわ……あれ、当たったら普通にやばいな」
僕がつぶやくと、ロリスは頷いた。
「ここで訓練しているのは、ある程度術式の扱いに慣れた者ばかりだ。彼らは“魔術師”として、将来は騎士団に属するか、あるいは傭兵、研究者……道はさまざまだが、どこへ行っても一線で扱われる存在になる」
その時、別の訓練生が素早い詠唱とともに、掌から光の矢を連続で放った。矢は障害物の影から現れた人影――木製の訓練人形に命中し、爆ぜるように消えた。焼け焦げた人形の胸元から煙が上がる。
「ここでは、単なる火球や光の矢だけじゃなく、複合術式や補助魔術も訓練する。術を繋げたり、即座に切り替えたり……考えるより先に体が動くようにならなければ、実戦では通用しないからな」
僕は思わず息をのんだ。これが、魔術の“実戦”なのか。ふわふわと夢のようなものではない。鍛錬され、繰り返され、現実の中で戦うために磨かれている“力”なのだ。
「――すごいな……」
僕が思わず呟いたその言葉に、ロリスはわずかに頷いてから、ふっと肩をすくめるように笑った。
「とはいえ、ここにいるのはまだまだ“訓練生”だ。もちろん優秀な者も多いが……中には、すでに恐ろしいほどの功績を挙げた生徒もいる」
「功績? この中にいるんですか?」
僕が辺りを見渡すと、ロリスは首を横に振った。
「いや、いない。そういう者はもう学院の外に出て、実際に魔物と戦って経験を積んでいるはずだ。若い頃の自分と同じようにな」
その言葉に、僕は思わずロリスを見上げた。彼の表情はどこか懐かしげで、同時に少しだけ誇らしげでもあった。
「え、ロリスも?」
「ああ。私も昔はここで汗を流していたよ。だが、学ぶべきことは外のほうが多かった。魔術は机の上だけでは磨けない――実戦の中でこそ、命を守る術になる」
ロリスの視線は遠くを見つめるようで、その背中に刻まれた戦場の記憶を感じ取ることができた。
「……そういえば、説明してなかったな」
唐突に話題を変えるように、ロリスが言った。
「このヴァイス帝国――実は四方をほとんど山に囲まれているんだ。帝都も例外じゃない。外敵に強い地形だが、そのぶん、森や渓谷には魔物が多くてな。王都からそう遠くない場所でも、普通に命のやり取りが起こることがある」
「じゃあ、魔術師たちは……」
「そう。訓練を終えた者たちは、あの山々で“本物の戦い”を経験して帰ってくる。学園はその拠点の一つに過ぎない。ここは、“始まり”に過ぎないんだ」
ロリスの言葉に、僕はもう一度この広い訓練場を見渡した。火球や光の矢、風の刃が飛び交う空間は、確かにすごい。でもそれだけじゃない。その先にある“現実”の重みが、今はっきりと感じられた。
「……外、か」
「行くことになるよ、君も」
ロリスの言葉に、僕は息を飲んだ。
ロリスは一瞬だけ腕時計のようなものをちらりと見たあと、くるりと踵を返した。
「さて、訓練場の見学はこれくらいにしておこうか。次は――研究棟に案内する。せっかくだから、そっちも見ておいた方がいい」
「研究棟?」
「うん。術式の理論や魔石の解析、それに応用技術の開発なんかをやってる場所だ。静かだが、あそこも“戦い”の一部と言っていい」
ロリスに導かれ、僕たちは再び廊下を進んだ。しばらくすると、建物の雰囲気ががらりと変わった。壁の装飾が簡素で整然としていて、所々に不思議な装置や、色鮮やかな石が埋め込まれているのが見えた。
「……なんだ、これ」
つい目を奪われて立ち止まる。壁際に置かれたガラスケースの中に、宝石のように輝く石がいくつも並んでいた。色も形もまちまちで、青や緑、紫に赤と、どれも光を内側に秘めているように見える。
「魔石だよ」
横で立ち止まったロリスが言った。
「術式の発動や、道具への付与に使われるエネルギー源だ。自然の中で採掘されるものもあるし、魔物の体内から取り出されることもある。つまり……命の残滓みたいなものだな」
どこか神秘的で美しいその石が、命の代償だと聞いて、思わず息を呑んだ。
「……綺麗だけど、ちょっと怖いな」
「そういう反応は大事だよ。これをただの資源としか見なくなったら、人間として何かが終わる気がする」
ロリスはそう言って、ふと何かを思い出したように立ち止まった。
「そうだ、ついでに君の魔法適性も調べておくか」
「えっ、今ここで?」
「簡単な検査で済むからな。どうせいずれ調べることになるし、早いに越したことはない。普通なら五歳前後で、一年に一度の儀式で測られることが多いんだ。平民なら収穫祭、貴族なら閲兵式のタイミングで行われる」
「……僕、受けたことないと思うけど……」
「だろうな。だからここで初めて“自分がどういう資質を持っているか”を知ることになる。もしかしたら、意外な才能を秘めているかもしれないぞ」
そう言ってロリスは、廊下の一角にある部屋の前で立ち止まり、扉を軽くノックした。
「適性検査の準備を頼みたい」
中からかすかに返事があり、ロリスは僕を振り返って微笑んだ。
「さあ、運命の時間だ。構えなくていい。ほんのちょっと、石に触れるだけだから」
僕は緊張を覚えながら、その部屋へと一歩踏み出した。