41話
帰還して一週間。
いつもの生活が戻ってきたが、まだ気がかりなことが一つ残っている。
ゴブリンの群れがセリダ村の周辺に出没しているのではないか――その疑念が、心のどこかに引っかかったままだ。
村長は王都へ知らせると言っていたが、いまだに王都の反応は鈍いままだ。
ロリスも気になっていることだろう。とはいえ、目立ちたくないという理由もあり、結果として僕たちは王都へ戻った。……それが、まるで村を見捨てたようにも思えてしまう。
カイルも状況は知っていた。しかし、いつもの収穫期に現れる魔物はそこまで強くない。村にいる者たちだけで対処できるだろうと考え、僕たちについてきたようだ。もちろん、強くなりたいという思いがあったのも理由だろう。
そういえば、三ヶ月前にロリスが話していたシュヴァルツ帝国の動向も、続報がないまま止まっている。
セファーともこの間ずっと会えていない。
カイルが新しい住人になった以上、一応挨拶は済ませたほうがいいとは思うが、会えないとなれば、住む許可を勝手に出した僕も、それを甘んじて受け入れたカイルも少し気まずい。
今日はエナとカイルが出かけていて、ロリスが僕の護衛を務めている。
どうもカイルは、エナがロリスに自分の師事を頼むように仕向けたことを気にしているらしく、その感謝を伝えたいと思っているようだ。律儀な奴だ。
この世界に来て、もうすぐ四ヶ月。
そういえば、僕が住むこの王都で、まだ行ったことのない場所がある。
海を背にするこの都市で、港を見に行かないのは少しもったいない気がする。街は広いのに、毎日のように決まった路地や市場しか歩いていないのは、まるで自分自身で世界を狭めているようなものだ。
想像していたのは、商船が行き交い、遠国の香りを運ぶような活気ある港町――そんな賑やかな光景だった。
しかし、実際は少し違うらしい。
聞いた話によれば、この王都の港は常に海風が強く、波も荒い。さらに、沖合には獰猛な海魔が出没することもあり、遠海は未開の地のままだ。
交易の中心は内陸ルートに集中していて、この港での商業活動は限られている。近海での漁が主で、船の出入りも決して多くはなく、港としてはどこか慎ましい印象を受ける。
それでも、潮の香りや波の音、空の広さは、やはり海辺ならではのものだ。そこに立つだけでも、心の奥に広がる何かを感じる。
少し潮風に当たって、頭を整理するのも悪くない。溜まった思考の澱が、波にさらわれるような気がして――
「ロリス、午後から……港まで付き合ってもらえる?」
そう言うと、ロリスは少し意外そうに目を細めたあと、静かに頷いた。
「いいだろう。たまには、そういうのも悪くないな」
そう言って、ロリスは立ち上がり、手際よく身支度を整え始めた。彼にとって「護衛として同行する」という形は変わらなくとも、目的が“任務”ではないというだけで、空気がどこかやわらかく感じられる。
昼を回ってから、僕たちは人通りの少ない裏通りを抜け、海辺へと足を運んだ。
風の匂いが変わったのは、港が近い証拠だった。
やがて視界が開け、小さな漁船が何隻か白い帆をたたんで岸辺に浮かんでいるのが見えた。どこかくたびれたような桟橋には、人影はまばらだったが、魚を選ぶ地元の人々の声が小さく響いている。
「……思ったより静かだな」
僕が呟くと、ロリスは頷きながら視線を遠くへやった。
「この辺りは外敵の接近もあって、あまり発展を望まれなかった地域だ。けれど、それでもこの海と共に生きる者たちは少なくない」
波が岩にぶつかる音が足元から響く。潮の香りが鼻をつき、空には海鳥の鳴き声が高くこだましていた。
遠くに広がる水平線――その先は、未踏の世界。
――海の向こうには、何があるのか。僕は、まだ何も知らない。
けれど、それでも。
「……なんだか、また少しこの世界を好きになった気がする」
思わずこぼれた言葉に、ロリスが目を細める。
「それなら、よかった」
ただそれだけを言うと、ロリスは静かに潮風を受けながら、僕の隣で海を見つめていた。
海岸沿いを歩めば、景色の様相も徐々に変わってゆく。
初めはただの岩場に過ぎなかったが、やがて石積みの防波堤が現れ、潮風に晒された小屋がぽつぽつと立ち並ぶようになった。小屋の側には漁網が干され、藁ぶき屋根の下では、男たちが網の修繕に手をかけている。干された魚の匂いが風に乗って流れ、素朴ながらも、ここにしかない活気が感じられた。
粗末な作りの作業小屋の前では、年老いた漁師が錆びた鉤を手に、網に絡まった貝殻を一つずつ外していた。その傍らでは、少女が桶を担ぎ、水を汲みに行く途中らしかった。子供も大人も、誰もが手を動かし、命を繋いでいる――そんな光景だった。
海辺の道をさらに進むと、漁師たちの作業場の先に、簡素な市が開かれているのが見えてきた。粗末な布で覆われた小さな屋台が数軒並び、その脇には木箱に積まれた魚や貝が並べられている。朝早くに水揚げされたばかりなのか、まだ光沢を帯びた鱗が潮の匂いとともに新鮮さを伝えていた。
「ここが漁師たちの市です」
ロリスが静かに口を開く。「収穫のあった日は、こうして半日ほどだけ店が出るのです」
なるほど、常設の市場ではなく、海の恵みによって開かれる日替わりの集まり――そう考えると、この質素な賑わいにも重みがある。
屋台の一つには、小鍋に火をかけ、炭で炙った小魚を売っている老婆がいた。鉄の皿に載せられた焼き魚は香ばしい匂いを放ち、潮風と混じって、どこか懐かしさすら感じさせる。脇では旅人風の男が一人、背中に荷を背負ったまま、素朴な椅子に腰を下ろして静かにそれを口にしていた。
城下の大通りにある市場とは違い、声を張る者もおらず、値を競うような喧騒もない。ただ、そこにあるのは生きるためのやりとりだった。物を売る者と買う者が、目を合わせ、言葉を交わし、手渡す。そのすべてに、無言の信頼と日々の誠実さが宿っているように見えた。
「……こういう場所、知らないままでいたのは少し惜しかったな」
僕がそう呟くと、ロリスは横顔をほのかに和らげた。
「多くの者は、城や塔の上に目を向けがちですが……民の暮らしは、こうしたところにこそ根付くものです」
しばし潮風のなかに立ち尽くしながら、僕は市場の光景を胸に焼きつけた。港の喧騒ではなく、日々の糧を分かち合う静かな市場――この世界の一部として、確かにそこに在るものを、僕はようやく知り始めたばかりだった。
「食べてみますか?」
ロリスの問いかけに、僕は迷わず頷いた。
焼き魚を売る老婆に銅貨を数枚渡すと、熱のこもった鉄の皿が手渡される。皿の上には、腹に香草を詰めて焼かれた細長い魚が一匹。小骨が多いが、身はやわらかく、潮の塩気と炭の香りがよく合っていた。添えられた塩漬けの根菜も、素朴ながら力強い味がした。
「……思ったより、ずっと美味いな」
口に運びながらそう呟くと、ロリスは静かに笑った。
「漁師の台所を侮ってはいけません。ここで育った者は、皆これで強くなるんですよ」
その言葉を聞きながら、僕は周囲を改めて見渡した。
籠の中に山と積まれた魚には、見たこともない形のものがいくつもある。ひし形の身体に硬そうな皮を持つもの、細長くて首が曲がったようなもの、うっすらと発光しているものまでいた。貝の種類も豊富で、まるで岩に咲いた花のような色合いのものが並べられている。
「こっちはここらへんで出る弱い魚の魔物だよ。煮ても焼いても旨いけど、牙に気をつけな」
屋台の親父が誇らしげに魚を掲げて言う。牙、と言われて近づいて見れば、魚の口元に犬歯のような鋭い突起が見えて、少し身を引いた。
魚の匂いに誘われてか、足元にはどこからか来た猫が何匹も集まり、にゃあと鳴いている。市場の人々はそれを気にも留めず、当たり前のように共に生きている。
少し離れた場所には、小さな波止場があり、漁船とは異なる一隻の武装帆船が停泊していた。剣を佩いた兵士たちが甲板の上で網や樽を確認している。見るからに漁ではなく、監視か警備の任にある者たちだ。
「あれは?」と僕が問うと、ロリスは目を細めて答えた。
「港を守る王都の哨戒船です。海に住む魔物や、少し遠方の漁に出た漁師たちが不慮の事故に遭わぬよう、巡回を行っているのです」
そう説明するロリスの声は静かで、どこか誇らしげだった。
「海が荒れているときは、魔物の出現も増える傾向にあります。ですから、そういった時期にどうしても漁に出る必要がある者は、あの哨戒船に護衛を依頼することもあります。もちろん、相応の銀貨は払わねばなりませんが」
ロリスは視線を帆船に向けたまま、淡々とそう言った。
「護衛船……なるほどな。あれも、ただ海を見張っているだけじゃないんだ」
「ええ。あれは、暮らしを支える盾でもあるのです」
人々の背に広がるこの海は、恵みをもたらすと同時に、時に命を奪う脅威でもある。その海を前に、なおも生きることを選び続ける人々。その営みを守ろうとする手が、たしかに存在している。
揺れる帆、きらめく波、猫たちの影。
この世界に来て、知らなかったものが少しずつ形を成していく。怖さもあるが、それ以上に、知りたいという思いが湧いてくる。
潮風が肌をなでる。
帆船の影が水面に揺れ、波の合間に光がちらつく。
海鳥が高く鳴き、漁師の声が遠く響く。
この場所には、生活があり、営みがあり、戦いがある。
静かに佇みながら、僕はそのすべてを感じていた。
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