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異世界転移記 ~層彩のキャンバス~  作者: 0
第二章 <遠足>
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39話

 旅の疲れもあって、昨夜はぐっすり眠ることができた。おかげで目覚めたのは、いつもより少し遅い時間だったけれど、支度を終えて食堂へ向かうころには、体の重さもすっかり取れていた。


 扉を開けると、ふわりと焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐる。朝の日差しが窓から差し込む中、長テーブルの一角では、パンにジャムを山ほど乗せて頬張るカイルの姿があった。その横では、ロリスが静かにカップを傾け、優雅に食後の紅茶を嗜んでいる。


 対照的な二人だが、妙にしっくり馴染んでいる。


 「……よく眠れた?」


 僕が声をかけると、ロリスはカップを軽く傾けたまま目を向け、カイルは口いっぱいに頬張ったまま「んぐっ、んん! ばっちり!」と、よくわからない返事をした。


 ロリスは微かに笑って、カップをソーサーに静かに戻した。


 「見てのとおり、彼は食欲も睡眠も完璧だったようだ」

 ロリスは淡々と言いながらも、どこか楽しげな声音で笑みを浮かべている。


 「このジャムうっま……! あとで聞いといてくれよ、どこで手に入れてんのか」

 カイルはまだ口にパンを詰め込みながら、あちこちにパンくずを飛ばしつつ喋る。

 どうやらこの屋敷の朝食は、彼の舌にも合っているらしい。


 僕は向かいの席に腰を下ろすと、温かいスープと焼きたてのパンを前に、ふっと小さく息を吐いた。こうして平穏な朝を迎えられることが、どこか夢のように思える。


 カイルがパンにたっぷりとジャムを塗り、嬉々としてかぶりつくたびに、細かいパンくずがテーブルの上に散っていく。口元も手元も、行儀がいいとは言い難い――けれど。


 そんな様子を、給仕のメイドはそっと目を細めて見守っていた。

 注意をするでもなく、ただ静かに、少しだけ口元を綻ばせながら。


 無礼といえば無礼なのかもしれない。でも、それ以上に、この少年が心からこの朝食を楽しんでくれていることが、ひと目でわかるのだろう。


 その笑顔は、ほんの少しだけ、誇らしげですらあった。


 「……よく食べるお客様ですね」

 パン皿をそっと補充しながら、メイドが静かに呟いたその声は、どこか嬉しそうだった。


 「す、すみません、汚しちまって……」

 カイルがようやく気づいて恐縮するが、メイドは首を横に振って、やわらかく言葉を返す。


 「いいえ。食事を楽しんでいただけるのは、私たちにとっても嬉しいことですから」


 カイルは少し戸惑ったような顔をしたが、その言葉に救われたように、ほっと息をついた。


 僕はスープの香りを楽しみながら、そっと目を細める。

 こういう朝の風景――何気ない、だけど穏やかで、少しだけ心が温かくなる瞬間。

 思っていたよりもずっと、貴族の屋敷という場所は優しい。





 食事を終えたロリスは、いつもの習慣のように静かに立ち上がり、腰に携えた剣を握って庭へと向かった。


 カイルはすぐにその後を追いかけ、目を輝かせながら声をかける。


 「なあロリス、ちょっと教えてくれよ!剣の使い方、少しだけでも!」


 だがロリスは振り返らず、やや面倒くさそうに言った。


 「今は忙しい。ちゃんとした稽古は、また時間を作るよ。」


 カイルは思わず声を荒げそうになりかけて、それを必死に飲み込む。


 「忙しいって言っても、今素振りしてるだけじゃん……ちょっとだけでもいいだろ?」


 ロリスは無言で一度だけ肩をすくめ、そのまままた剣を振り下ろす。


 「いいか、剣は無駄に振っても意味がない。稽古は計画的にやるもんだ。」


 カイルはぷうっと頬を膨らませ、ちょっと不満そうにしながらも、その言葉の重みを理解しようと努めている様子だった。


 僕はそんな二人のやり取りを見て、内心微笑みながらも、静かな朝の空気に戻っていく庭を眺めていた。





 ロリスはいつまでも素振りをやめず、まるで終わりが見えないようだった。剣を振るたびに鋭い音が庭に響き渡り、カイルはだんだんイライラしてきた。


 「おい、ロリス! いつまでやってんだよ! もう教えろよ!」とカイルがこねる。


 だがロリスは無表情のまま振り返りもせず、淡々と答えた。


 「教える気はない。ちゃんと時間をとらないと意味がないからな。」


 「なにそれ、今やってるだけじゃん! ぜんぜん忙しくないだろ!」


 そんなやり取りが続くうちに、突然庭の隅からエナがすっと現れた。


 「ねえねえ、ロリス、そんなに意地張らないで。教えてあげなさいよ。」


 エナはにこやかに二人の間に割って入り、ロリスの腕を軽く引っ張った。


 「いいじゃない、少しぐらい。団長だったときだって、ちょっとぐらい頼まれたら教えてたでしょ?」


 ロリスは仕方なさそうにため息をつきながらも、エナの目をちらりと見て諦めた様子でうなずく。


 「……わかった。少しだけだ。」


 ロリスは重い腰を上げ、ようやく剣の素振りをやめた。カイルの目は期待で輝き、すぐに隣に並んで構えを取った。


 「じゃあ、まずは基本の構えからだ。姿勢を正して、足の位置を決めるんだ。」


 ロリスの声は冷静だが、どこか柔らかさも混じっている。カイルは真剣な表情で聞き入り、素直に動きを真似しようとしていた。


 庭では二人の剣戟が小さく響き、カイルのぎこちない動きに、時折ロリスが厳しくも丁寧に指摘を入れていた。


 その間、僕は屋敷の奥へと引き上げていた。廊下の窓際に座っていると、ふとエナの足音が近づいてくるのがわかった。


 「今行くよ」とでも言いたげに、エナは軽やかに歩み寄り、僕の隣に座った。


 「十日ぶりね」


 窓の外を眺めながら、エナがぽつりとつぶやいた。


 「帰ってきたら旅に出たっていうから……もう、エナ、めっちゃ寂しかったんだから。ずっと仕事で帰ってこれなかったのに、やっと戻ったら、誰もいないなんてさ」


 ふくれっ面のまま、僕の肩に軽くもたれかかってくる。ほんの少し甘えるような声色に、なんとなくこそばゆい気持ちになる。


 「……ごめん、急だったから。伝えられたらよかったんだけど」


 そう言うと、エナはじとっとした視線で見上げてくる。


 「ほんとに反省してるー?」

 エナは唇を尖らせながら、わざとらしく睨んでくる。


 「してるよ。してるってば」

 苦笑しながら答えると、エナは僕の袖を指でつまんで、ちょいちょいと引っ張った。


 「じゃあ……反省の印に、なにか楽しい話でもしてよ。置いてけぼりだったあたしへの、お詫びってことでさ?」


 「楽しい話って……いきなり言われてもなあ」


 そう言いながら考え込んでいると、エナは今度は僕の顔を覗き込むように身を乗り出してきた。


 「ふーん? 困ってる顔してるねー。ってことは、やっぱり本当はあたしのこと忘れてたとか、そういうオチなんじゃない?」


 「……それはない」


 少しだけ真面目に返すと、エナは一瞬ぽかんとした顔をして、次にすぐニヤッと笑った。


 「へえー、そこは否定するんだ。ふふ、ちょっと意外」


 からかうような声色だけど、どこか満足げでもある。

 そんな彼女を見ていると、ほんの少しだけ、旅の疲れが抜けていく気がした。


 「まあでも、次からはちゃんと一言ぐらい言ってってばね? エナ、放っておかれるの嫌いなんだから」


 「了解、次は気をつけるよ」


 僕がそう返すと、エナは満足したように背もたれに寄りかかって、ふうっと長く息を吐いた。


 「よろしい。それじゃあ、お詫びの話は……あとでたっぷり聞かせてもらうとして」


 エナの目が、また悪戯っぽく輝いた。

 まだまだ、からかわれる覚悟はしておいた方が良さそうだった。





 旅の出来事を一通り話し終えたころ、ふと庭に目をやると、ロリスとカイルの姿が消えていた。


 「……あれ、いない」


 僕が小さくつぶやくと、エナもつられて窓の外を覗き込む。そして僕よりも先に立ち上がり、近くを通りかかったメイドさんに声をかけてくれた。


 「ねえ、ロリスとカイルってどこ行ったの?」


 メイドさんはすぐに答えてくれた。


 「ロリス様は、カイル様に付き添って探索者機構まで出かけられました。どうやら、カイル様が正式に探索者として登録されるそうで……」


 なるほど、と僕は小さくうなずいた。


 ――エナが隣にいるから、今日は護衛の役目を少しだけ任せても大丈夫だと判断したのかもしれない。

 ロリスはそういうところ、本当に真面目だ。僕のことを必要以上に大切にしてくれている。それはありがたいことなのだけれど……。


 ふと胸の奥に、申し訳なさのようなものが滲んできた。


 「……ん? またそういう顔してる」


 隣にいたエナが、軽く肘で僕の腕を突いた。

 僕が何か言う前に、エナは片目をつぶって、いたずらっぽく言う。


 「そういえばさ、この前カイが開発した魔法銃の負荷テスト――オルダンに頼まれてやったんだけどね」


 エナは何でもないように言いながら、窓の外に目を向ける。

 けれど、その声色にはちょっぴり得意げな響きが混じっていた。


 「魔力の制御力がある程度ないと、暴発の危険もそうだけど、本体そのものが魔力の負荷に耐えられないらしいよ。あたしが扱ったときは大丈夫だったけど、これ、普通の人じゃ無理かもって」


 「……やっぱり、そうか」


 「改良するのはオルダンに任せるとして……実用はできそうだな」


 僕がそう言うと、エナは満足げに頷いた。


 「でしょ? あたしの感覚、けっこう当てになるんだから」


 「信じてるよ」


 ぽつりと返すと、エナはふふっと笑って、少しだけ肩を寄せてきた。


 「……こうしてのんびり話せるの、久しぶりだね」


 「そうだな。こういう時間、大事にしないとな」


 窓の外には、少しずつ傾き始めた陽が差し込んでいて、どこか穏やかな風が、庭の草木をやさしく揺らしていた。


 しばらくの静寂のあと、エナが目を細めてぽつりと言う。


 「次は、ちゃんと帰ってくるって言ってから出かけなさいよ」


 「……気をつけるよ」


 肩越しに交わした笑みに、どこか懐かしさと安心が混じっていた。

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