4話
瞼を開けると、まぶしい朝日が差し込んでいた。
窓辺にかけられたレースのカーテン越しに淡い光が注ぎ込み、天井に吊るされた大きなシャンデリアに反射して、いくつもの煌めきを部屋に投げかけていた。淡く、ゆらぐ光の粒が、静まり返った空間に揺れている。
――けれど、そこは見慣れた寝室ではなかった。
どこまでも上品で、洗練されていて、贅沢で……けれど、ひどく他人行儀だった。
壁にかけられた金縁の絵画や、無駄に高い天井、ふかふかすぎるベッド。どれもが、明らかに「自分のものではない」と訴えていた。
こうして目覚めてしまえばなおさら、この空間のすべてが――自分には身に余るものに思えた。
無事に、翌日を迎えられた。
昨夜、あの部屋で浴びせられた言葉の数々。問い詰めるようでいて、選ばせるようで、実際は拒む余地のない提案だった。ただ押しつけられて、それでも逆らうことができなかった。
言い返すことも、否定することもできず、ただ黙って受け入れた。
その直後だった。
男は一つ息を吐き、小さく頷くと、静かに扉の方を見やった。そして、あの場に同席していたロリスと、二人の侍女を呼び寄せた。彼女たちはすぐに控えていたらしく、ほとんど間を置かずに扉の外から現れた。
「この子を、屋敷の空き部屋に」
男はそれだけを言い残すと、再び奥の椅子に腰を下ろし、何事もなかったかのように本のページをめくり始めた。まるで、僕への興味は既に終わったというふうに。
ロリスは黙って僕に一度だけ目を向け、侍女たちに軽く合図を送った。そして無言のまま先に立ち、僕を連れて長い廊下を歩いた。豪奢な壁と高い天井、慣れない空気の中、何も言えず、ただその背を追った。
――そして今、僕はここにいる。
あの晩に歩いた廊下の記憶が、うっすらと胸の奥で反響する。壁に並ぶ燭台の光、足音を吸い込む絨毯、沈黙だけが続いた移動。言葉を交わす余裕もなければ、交わす意味も見つけられなかった。
用意されたこの部屋に案内されたとき、ロリスは扉の前で一言、「ここを使って」とだけ言い、すぐに立ち去った。侍女たちは寝具の準備と軽い世話を済ませると、深く礼をして部屋を後にした。
誰もが必要以上に僕に関わろうとはしなかった。
まるで僕が“触れてはいけないもの”であるかのように。
そんな空気の中、静寂だけが時間の経過を告げていた。
コン、コン――
控えめなノック音が部屋に響いた。
「失礼する」
扉が開き、現れたのはロリスだった。昨夜と同じ、整った身なりに冷静な面持ち。その顔には、やはりどこか緊張の色が浮かんでいるようにも見えた。
「起きていたか。……支度を。案内する」
それだけを告げると、彼は振り返り、無言で廊下へと歩み去る。促されるように僕は立ち上がり、彼の背を追った。
通されたのは、昨夜の部屋とは別の一室。高い天井と重厚な扉、窓には分厚いカーテンがかけられ、空気にはわずかな緊張の匂いが漂っていた。
通されたのは、昨夜の部屋とは異なる一室だった。高く広い天井に重厚な装飾が施され、分厚いカーテンに覆われた窓からは一切の光も差し込んでいない。室内は静まり返っており、空気の温度すら低く感じられる。
部屋の中央には、黒塗りの卓が据えられていた。その上に、ひとつの物体が置かれている。
ロリスは足を止めると、無言のまま卓の傍に近づき、手袋をはめた指先でその物体――黒く無骨な金属――を軽く示した。
「これに見覚えはあるか?」
その問いに、僕は目を逸らさず、卓上の物を凝視する。
間違いない。それは――拳銃だった。
一般的に知られた「火器」と呼ばれる武器の一種であり、携帯可能な小型の射撃装置だ。
その瞬間、昨日のことが脳裏をよぎる。
ロリスが、これを腰に携えていた。
だが、どこで手に入れたのだろう?
そう思ったとき、昨日あの男が言っていた言葉が脳裏に蘇る――
「例の殺傷事件」――“金属製の奇妙な物体”
なるほど。あれは、この拳銃のことだったのか。
つまり、事件の現場に残されていたこの“異物”が、僕と異世界とのつながりを決定づける証拠として、こうして目の前に置かれているというわけだ。
そしてそれを昨日、ロリス自身が携えていた――つまり、既にこれが問題視されていることは明白だったのだ。
僕はひとつ息を吐き、視線をロリスに戻す。
「はい、それは私の知っているものです。……“拳銃”と呼ばれています。僕の世界では、ごく一部の人間に許可された殺傷道具で、金属製の弾を撃ち出して対象を傷つけ、あるいは命を奪います」
ただ事実だけを、隠すことなく淡々と告げた。
誤解を招く沈黙よりも、今は正確な情報を渡すほうが得策に思えた。
ロリスは卓上の拳銃から目を離さず、ゆっくりと言葉を続けた。
「――やはり、君の世界のものであったか」
その声音に感情は薄い。だが、どこか確信を得た者の重みが滲んでいた。
「この器具と、そして君に極めてよく似た者たちによって、既に一つの事件が起こっている。……おそらく、君と同じ世界から来た二人組だ」
僕の喉がわずかに鳴った。何かを言いかけそうになるが、ロリスは構わず語る。
「彼らは、これを用いて……多くの者を傷つけた。威力は想像を超えていたと聞いている。盾を持った兵の鎧をも貫通し、距離を問わず命を奪う――そんな代物だそうだ」
そう言ってロリスは一度、視線を僕に向けた。ほんの少しだけ、感情が混じったような眼差しだった。
「死者が出た。怪我人も多かった。そして、その場には目撃者も数多くいた」
彼の声が、わずかに低くなる。
「よって……その場で、処すしかなかった」
乾いた沈黙が落ちる。僕は何も言えずにいた。ただ、その行動の背景にあっただろう判断と緊張が、彼の言葉の端々から伝わってきた。
「事件の後、現場に残されていたのが、これだった」
ロリスは改めて拳銃を見つめる。
「“拳銃”……というのか。興味深いが、この器具の扱い方もまた謎だった。我々は、その場に居合わせた兵士たちが見たという、“罪人たちの動き”をなぞって、使い方を試してみた」
彼は手を伸ばし、拳銃を一度持ち上げる。慎重な動作だった。
「だが――何も起こらなかった。ただ、“カチッ”という音が鳴るばかりでな」
拳銃を机に戻し、再びこちらに視線を寄越す。
「……君は、これを扱えるのか?」
しばしの沈黙の後、僕は小さく頷いた。
「……理屈はわかります。扱えるかどうかと問われれば、撃った経験はありませんが、構造や使用法については心得ています」
そう続けると、ロリスの目がわずかに細められた。その反応は、驚きでも疑念でもなく、淡々とした確認のようだった。
ロリスはわずかに頷き、低く言った。
「――そうか。ならば、ぜひこの“拳銃”なるものについて、教えてもらうとしよう」
その言葉に僕は軽く息を飲んだが、すぐに静かに頷いた。ロリスの目には警戒よりも、今は理解を求める色が強く映っていた。
「……あの、事件のことですが。犯行は“二人”で行われたと聞きました」
僕がそう言うと、ロリスの眉がわずかに動く。
「となると、拳銃も“二丁”あったのでは?」
その問いに、ロリスはほんの一瞬だけ目を伏せた。
「――実はな」
そう言いながら、ロリスは卓の傍に立つ据え置きの刀へと視線を移す。そして無言のまま、その柄を横目で見やり、手のひらで鞘ごとなでるように撫でた。
「もう一丁は、私がこの刀で断ち切った」
声は静かだったが、そこには確かな手応えと緊張の記憶が込められていた。
「……それにしても」
ロリスはわずかに目を細め、こちらをじっと見据えた。
「君は、なぜ“二丁”あったと知っていた?」
僕は、ふと目を伏せた。
確かに、言葉にしてしまえば妙だったかもしれない。だが――
(リボルバー型の拳銃。装弾数はおそらく五発から六発程度。素人が使えば命中率はさらに落ちる。それにもかかわらず……)
(“七人”もの死傷者。それも、短時間のうちに。単独犯で達成できる数字じゃない。加えて、“二人組”――)
僕は静かに顔を上げる。
「……推測ですが、論理的に考えれば筋は通るはずです。」
「ほう?」
ロリスの眉がわずかに動いた。僕は言葉を選びながら、落ち着いて口を開く。
「リボルバー型の拳銃には、通常五発から六発の弾丸しか込められません。それ以上を一度に撃つには、再装填が必要になる」
「……ふむ」
「ですが、事件の報告では――七人の死傷者が出たとされていました。しかも、それが短時間での出来事なら、撃った側に相当な熟練が必要です。ですが、こちらの世界で拳銃を扱える者がいたとは思えない。そうなると――単独では到底無理です」
僕は拳を軽く握る。
「となれば、可能なのは“二人組”。そしてそれぞれが一丁ずつ拳銃を所持していた……と考えるのが自然です」
ロリスが軽く頷き、思わず漏れた言葉に反応した。
「頭いいなお前」
その言葉には、少しばかりの感嘆が込められていた。ロリスの目がわずかに鋭くなり、何かを理解したかのように見えた。
「……ってか、五発、六発ってことは、引いても弾が出ないのは、これが原因だったのか」
ロリスが再び拳銃をじっと見つめ、何かを考えているようだった。
「ならば、弾って作れないのか?」
彼の問いに、僕は少し考えてから答える。
「そこまで僕にはわかりませんが、弾丸の大体の形や材料についてはおおよそは想定できます。ただ、実際に作るとなると、製造の精度が重要ですから……簡単にはできないと思います」
ロリスは黙って頷き、しばらく拳銃を眺めていたが、やがて視線を私に戻し、ゆっくりと口を開いた。
「……さて。拳銃の話はひとまずここまでだ」
その声は、どこか改まった響きを持っていた。僕は自然と背筋を伸ばす。
「本来の目的を、まだ伝えていなかったな」
そう言って、ロリスは立ち上がり、わずかに姿勢を正す。
「私、ロリス・グランは、上層部の命により、貴殿の“監察官”として任命された。そして同時に、必要に応じて貴殿の“護衛”を務めることとなった」
唐突に告げられたその言葉に、僕は思わず目を見開いた。
「……護衛、ですか?」
「そうだ。監視対象である以上、当然近くで行動を共にすることになる。だが、万一の事態があれば、守る責任も私にある」
ロリスは、淡々と、しかし逃げるような曖昧さは一切なく言い切った。
「命令だ。私情はない」
僕は、一瞬言葉を失った。
監察――つまりは監視。
それは、警戒されているということだ。だが同時に「護衛」でもあるというのは、矛盾しているようで、妙に納得もいった。
「……どうして僕に、そこまでの措置が?」
思わず口にした問いに、ロリスはほんの少しだけ、目を細めた。
「君の存在が、この国にとって“不確定要素”であると判断された。それが理由の一つだ」
言葉を選ぶように、ロリスは静かに続けた。
「ただ、君の知識は価値がある。だからこそ、排除ではなく“保護”という選択が取られた」
ロリスの言葉は穏やかだったが、その奥にある現実は冷たい。
まるで「まだ見逃されているだけ」とでも言われているようだった。
僕は少しだけ口を引き結び、視線を落とした。
信頼されていない――それは理解できる。だが、それを正面から突きつけられるのは、やはりきつい。
「……信用されてない、ってことですね」
「当然だ。だが、信頼というのは時間をかけて築くものだろう?」
ロリスはきっぱりと言った。言葉に刺すような冷たさはなく、ただ事実を告げるだけの、まっすぐな声音だった。
ロリスは少しだけ顔をしかめると、さっさと立ち上がり、腕を軽く振って扉に向かって歩き出した。
「まあ、与太話はこれくらいにして、職場に案内するとしよう」
「職場!?」
僕はその言葉に驚いて、慌てて立ち上がると、ロリスの後ろを追いかけた。まさか、こんなタイミングで職場に向かうなんて。
「はい、職場だ。君もこれからはそこで働くことになる」
「え、でも…僕、まだ何もしてないんですけど?」
ロリスは振り返りもせず、淡々と答える。
「あなたの知る世界での知識を、我々のために使ってもらうことにする」
ロリスの言葉に、僕はさらに驚きながらもついていった。何も準備ができていないのに、急にそんなことを言われても困る。だが、どうやら彼にはそれを押し進める意図があるらしい。
「でも、僕はまだ何も分かりません。何をすればいいんですか?」
「安心しろ。最初から全てを理解しろというわけではない。我々の世界の事情、そして君の知識がどう役立つかを知ることから始める」
ロリスはそう言って、扉を開けると一歩足を踏み入れた。その先に広がっていたのは、僕が予想もしなかったような場所だった。
高い天井に、巨大な書棚が並び、机や椅子が整然と配置されている、どこか古びた研究室のような空間が広がっていた。
「ここが、君の職場だ」
「ここが…?」
僕は足を止め、辺りを見回しながら質問を続けた。
書棚には膨大な数の書籍が並んでいるが、僕にはその文字がまったく読めない。言語が異なるせいだろうか、文字を見ても意味を理解することができない。
「書籍が多いですが、僕には文字が読めませんよ」
思わずそう呟くと、ロリスは少しだけ顔を向けて、冷静なままに言った。
「なのに話が通じてしまうのはなぜだろうな」
僕はその言葉に少し考え込みながらも、疑問を抱く。確かに、言葉を交わすことで意思疎通はできているが、文字に関してはまったく理解できない。しかし、どうしてだろう。違和感があるのに、やり取りに問題はない。
「とりあえず、文字はわからなくていい」
ロリスが淡々と答える。彼の目は冷静だが、どこか遠くを見ているような印象を受けた。
「君の世界にあって、この世界にないものを作り出せばよい」
「作り出せば…?」
僕は思わず彼を見つめ返す。どういう意味なのか、理解が追いつかない。
「その通りだ。この世界には、君の世界の技術や道具、知識がない。だが、君がそれを持ち込めば、必ず役立つだろう。君にはその力がある。君の知識を使って、新しいものを生み出してもらう」
ロリスはまっすぐ僕を見つめる。
「君の知識を使って、新しいものを生み出してもらう」
ロリスの言葉は冷静で、どこか力強いものが感じられる。僕はその言葉の意味を反芻しながらも、まだ完全には理解できていない。だが、次に続けてロリスが言った言葉は、まるでそれが僕の役目だと言わんばかりだった。
「この国のために尽力してもらおう」
その言葉に、僕は思わず息を飲んだ。尽力…僕にできるのだろうか、こんな異世界で。まだ何もわからないままで、果たして本当に役立つのだろうか。
ロリスはそのまま静かに続けた。
「君の持っている知識は、ここでは貴重だ。この世界にないもの、これから生み出すべきもの。それを君が作り出すことで、我々は進歩し、未来を切り開くことができる。君にはその力がある」
その言葉が、どこか責任の重さを感じさせた。僕にできるのだろうか。果たして僕にそんな力があるのだろうか。しかし、ロリスの目は真剣そのもので、どこか使命感がこもっていた。
「もちろん、ただし君の意志があってこそだ。君がこの世界で生きるために、力を尽くしてくれることを期待している」
ロリスの言葉に、僕は少しだけ心が締め付けられるような気がした。それでも、覚悟を決めなければならない。僕がこの世界にいる理由、それが少しずつ見えてきた気がした。