38話
山を越えた頃には、僕の足はすっかり棒のようになっていた。
「……つらい。普通に、つらい」
背中の荷物も、登りでかいた汗も、全部が重たく感じる。ふらつく足取りでどうにか前に進んでいた僕の横で、カイルの呆れた声が響いた。
「お前、大したことないじゃん。さっき俺の年齢を鼻で笑ったくせに、へばってんのどっちだよ」
「ぐ……それはそれ、これはこれ……」
情けなく答えながらも、言い返す元気はなかった。というか、ロリスとカイルがまだまだピンピンしてるのが信じられない。
十六歳、ずるい。
そして夕方――ようやく王都の門が見えてきた。
僕たちは並んで、門前の衛兵に身分証を提示する。ロリスは腰のポーチから無言で証明書を取り出し、僕もそれに倣って胸ポケットから提示した。
カイルも続こうとして――ぽんと自分の体をまさぐり、それから動きを止めた。
「……あ」
「……“あ”じゃないだろ」
僕とロリスが同時に声を出す。カイルは額に手を当て、困り果てた顔で言った。
「持ってない……俺、身分証、ねぇや」
それを聞いた瞬間、僕とロリスは思わず顔を見合わせた。
「……なんでないの?」
「いや、普段村から出ることないし、必要なかったからさ。まさか王都の門番がほんとに証明書見せろって言うとは思わなくて……」
「当たり前だろ」
僕の呆れ声に、カイルは頭をかきながら小さく「すまん」とつぶやいた。
衛兵がこちらの様子に気づき、一歩前に出てくる。
「そちらの少年。身分証はどうした?」
カイルがバツの悪そうな顔で答える。
「持ってません。セリダ村出身です。あの、二人と一緒で――」
「同行者の証言だけでは入城はできない。書状か、身元を保証できる書面でもあれば話は別だが……」
さすがは王都の衛兵。対応はきっぱりしていて、融通は効かない。
どうするかと思っていると、ロリスが静かに前に出た。腰のあたりから何かを取り出すと、それを衛兵に差し出す。
例の小さな銀製の証印で、それを見た衛兵の顔つきが一瞬で変わる。
「……元騎士団団長のロリスだ。この者は、私が保証する」
静かに、しかし揺るぎのない声でそう告げたロリスは、証印をひと振り掲げてから、衛兵の目を真っすぐに見据えた。
衛兵はすぐに気圧され、背筋を伸ばして敬礼する。
「失礼いたしました、ロリス殿。ご同行の方であれば、もちろん通行を許可いたします。どうぞ、お通りください!」
カイルは目をぱちくりさせながら僕の袖を引っ張った。
「なあ……今、“団長”って言ったよな? ロリスって、あの“騎士団”の団長だったってこと……?」
「そうだよ。知らなかったの?」てっきり村長か誰かにロリスの地位について言われたからついてこられたとばかり思っていたが、何も知らずにただ王都から来た強い人としか認識していない様子であっけらかんとしている。、
「知らねえよ! そんなこと、最初に言っといてくれよ……!」
ロリスはそんなやり取りをよそに、すでに門をくぐって王都の通りへと足を進めていた。僕とカイルは慌ててその後に続く。
こうして、少し騒がしい空気を連れて――僕たちは王都の石畳を踏んだ。
王都の門をくぐると、カイルは小走りにロリスへ追いつき、少し照れくさそうに頭を下げた。
「……ロリス、さっきは助けてくれてありがとう。すげぇな、あんな一言で通してもらえるなんて……団長って、マジだったんだな」
「礼を言われるほどのことじゃない」
ロリスは相変わらず淡々とした口調だったが、その横顔はどこか満足げで、わずかに口元が緩んでいるようにも見えた。
そんなやり取りを終えるや否や、カイルはぐるりと周囲を見回し、目を輝かせて叫んだ。
「うわ、すっげぇ……! これが王都か! 石畳だ! 建物でけぇ! あっちの屋根、三階建て!? ……って、屋台は? 屋台はもうねぇのか!?」
通りの屋台はすでにほとんどが撤収されていて、木製の台だけがぽつぽつと残されている。代わりに、夜でも開いているいくつかの酒場からは暖かな灯りが漏れ、人々のざわめきが通りに響いていた。王都までの道ですでにわかっていたことだが、相変わらず騒がしい人だ。夜中といえど、バカみたいな感想しか出ないカイルから距離を取りたくなるほどどこか恥ずかしさを感じていた。
僕はそんなカイルの様子を見て、ふっと笑う。
「夜中だからね。屋台はまた明日だよ」
「ちぇー……楽しみにしてたのになぁ。でも、なんか……いいな、こういうの。酒場の光とか、すごく“都会”って感じがする」
「本当の王都の喧騒は昼間になってからだよ。今は静かなほうさ」
「へぇ……そっか。でも、これでも十分すごいよ。うちの村とは別世界だな」
カイルは目を細めながら、石畳の道を見下ろし、夜風に吹かれるままに歩いていた。
どこか浮き立った足取りに、僕もつられて歩調を緩める。
夜の王都――ほんのりと酔ったようなざわめきと、通りを照らす橙色の灯。酒場の木扉が開くたびにこぼれる笑い声と音楽のかけら。
それらをくぐり抜けるようにして、僕たちは石畳の道を抜け、いつもの屋敷へと向かって歩いていった。
昼間なら見慣れた道も、夜になるとどこか別の世界のようで、街灯の代わりにぽつりぽつりと灯る窓の明かりが、通りを柔らかく照らしている。
途中、見知った花屋の軒先に目をやると、昼間に売れ残ったのだろう、小さな鉢植えが一つだけ残されていて、ひときわ寂しげに見えた。
「なあ、王都ってもっと人がいると思ってたけど、全然いねえじゃん」とカイルがつぶやく。
「今だけだよ。明日の朝になれば、また人でごった返す。荷車が通って、商人が怒鳴って、子どもたちが走り回ってるさ」
バカみたいな質問に少しあきれるが、村だと都会よりも開放的で、ある程度騒ぐのも日常茶飯事だったのだろう。都会だとそううまくいかないもので、密集した住居に貴族が多く住まう場所だから好き放題にできるわけもないな。
「へえ……でも、この静かな感じ、結構好きかも」
そう言って笑うカイルの顔は、なんだか子どものように無邪気だった。
やがて、屋敷の門が見えてきた。鉄細工の装飾が施された重厚な扉。その奥には、僕たちの――そしてエナや仲間たちの、あの騒がしい日常が待っている。
屋敷の門の前まで来ると、門番が僕たちに気づいて、無言で一礼し、重厚な扉を静かに開けてくれた。
音も立てずに開かれる鉄の門。その向こうに広がるのは、深夜の静けさに包まれた、馴染み深い屋敷の中庭だった。
「カイル、今夜は二階の空き部屋を使って。あそこなら一晩くらいは落ち着けるはずだ」
「え? あ、ああ……ありがと。っていうか、ほんとに……」
カイルはきょろきょろと周囲を見渡しながら、僕の後ろを少し距離をとってついてきた。その様子は、まるで初めて大きな店に入った田舎の子どものようで、少々おどおどしている。
「お前……こんなでっかい屋敷に住んでんのかよ……」
「まあ、一応ね。人は多いけど」
僕は苦笑しながら答え、廊下を曲がって浴場の方へと足を向けた。
僕のものではないけれど、主のような扱いをされるのは、なんだか妙な気分だった。
気恥ずかしさはあるものの、どこか誇らしい気持ちもあった。自分が認められているような、そんな感覚。
門番もメイドも当然のように僕を迎え入れ、まるでこの屋敷の本当の主であるかのように扱われるのは――悪い気はしない。むしろ、少し鼻が高くなる。
もっとも、それに浸りすぎるのも考えものだが。
玄関で出迎えたメイドに、ロリスは荷物を預けながら声をかける。
「この人、今夜泊まっていくから。二階の空いてる部屋をひとつ頼む」
「かしこまりました」
メイドが軽く会釈をすると、カイルもすかさず頭を下げた。普段の調子はどこへやら、真面目な顔つきで――ちょっと硬すぎるくらいに。
「え、えっと……すみません、一晩お世話になりますっ!」
その気負いように、メイドは目を丸くし、それから優しく微笑んで「ごゆっくりどうぞ」とだけ返す。
廊下を歩きながら、僕はふと後ろを振り返った。
「そんなに気を張らなくて大丈夫だよ。客なんだから、もっと気楽にしていい」
「いや……なんか、緊張すんだよ。床とか光ってるし……メイドさん、こえーし……」
「怒らせなければ平気だよ」失礼な物言いではあるが、彼にとっては異質な世界であり、貴族社会をどこか恐れているようにも感じた。
「その“怒らせなければ”っていうのがこえーんだよ!」
苦笑しながら、僕はそのまま浴場の方へと足を向けた。話し方からわかる通り、礼節に関して全く分からないカイルに平常心で知らない存在と接するのはやはりいささか意地悪であった。
夜も更けていたが、湯はまだ張ってあるはずだ。
「とりあえず、風呂入ってさっぱりしよう。山越えは疲れるからね」
「お、おう……風呂、広いのか?」
「入ってからのお楽しみだよ」
そんな会話を交わしながら、僕たちは静かな屋敷の廊下を進んでいった。
浴場の扉を開けると、ふわりと湯気の香りが鼻をくすぐった。
湯はすでに張られていて、明かりの反射で湯面がゆらゆらと揺れている。壁や床は白い石造りで、ところどころに花の模様が彫り込まれていて、どこか貴族的な気品が漂っていた。
カイルが脱衣所に足を踏み入れた瞬間、目を見開き、あたりをキョロキョロと見回した。風呂桶や石鹸ひとつとっても見慣れないものらしく、手に取っては首をかしげ、また戻すを繰り返している。
「これ……何に使うんだ? 水をすくう……? いや、泡が出るやつか?」
「あまりいじると怒られるよ」
「っ、マジか……気をつける」
そう言いながらも、湯の大きさや天井の高さ、脱衣かごの織り方にまで興味津々で、カイルは子犬のようにそこら中を動き回っていた。服を脱ぎながらも「うわっ床あったけぇ」「桶ピカピカじゃん」と、いちいち声を上げる。
落ち着かない。全然落ち着かない。
僕は早く湯に浸かって体を休めたいと思いながらも、そんなカイルの様子に、ふと肩の力が抜けるのを感じた。
「……まあ、たまにはこういうのもいいか」
騒がしいが、悪い気分じゃない。むしろ、こうしてはしゃぐ姿を見るのは新鮮だった。
貴族の屋敷に住むというのは、平民のカイルにとってはまったく別の世界。メイドも、家具も、道具も――すべてが目新しくて、彼にとってはまるで夢の中にいるような気分なのだろう。
僕の世界にとってのあたりまえはこの世界では違うように、平民で村出身の彼には貴族の都会暮らしというのはいかにも新鮮で未知なものであるだろう。その発言からして、お風呂すら感動してしまうとなればやはり一般の民が手の出しづらいものだろうな。
僕はこの世界に来て早々、この屋敷で暮らし、貴族のような扱いをされているからわからなかったが、本来ならもっと質素で受け入れられない日常を過ごすことになることなんてありえたのかもしれない。
もし歴史の勉強や、こういった時代背景の作品に触れてこなかったら……恵まれている方とはいえ、この生活を素直に受け入れるのは、きっと難しかっただろう。
実際、最初の頃の僕も、あれこれと戸惑いっぱなしだった。ただ無駄に礼儀正しくして、かえって不審がられたこともあったっけ。
でも、ロリスのやり方を見よう見まねで真似するうちに、少しずつこの屋敷での立ち振る舞いが身についていった。彼がどれだけ自然に周囲と接していたか、僕のために周りに気を配っていてくれたか、今になって思えば、それがどれだけ助けになったかがわかる。
「ふぅ~~~っ! なにこれ、背中まで伸びるって感じする!」
そんな僕の思い出などどこ吹く風と、カイルが湯船にざぶんと身を沈めて声を上げた。大げさに腕を広げ、湯面をぱしゃぱしゃと叩きながら、その顔には心からの開放感がにじんでいる。
「やべぇ……ここは、天国かよ……」
「言いすぎ。でも気持ちはわかる」
僕も湯に浸かり、じんわりと広がる熱に身を任せた。身体の芯から温まる感覚は、旅の疲れをそっと溶かしてくれる。
「お前、こんな代物、毎日入ってんの?」
「まあ、一応ね。慣れたら普通になるよ」
少し自慢げにマウントを取ってみたが、カイルはそんなことを気にも留めず、ただ今を享受している。
「うそだろ……俺は一生テンション上がるぞ、こんなん……」
カイルは湯船の端につかまりながら、満足げに目を閉じた。ふだんは強がったり調子に乗ったりする彼が、こうして素直に感動している姿を見ていると、なんだかこっちまで心が温かくなる。
この屋敷は、たしかに豪奢で、この世界の日常の枠を超えた世界かもしれない。でも、こんなふうに人を驚かせて、笑わせて、感動させられる場所でもあるのだと、カイルの反応が改めて気づかせてくれた。
「……まあ、気に入ってもらえたならよかったよ」
僕はそう呟きながら、静かに目を閉じた。湯気の向こう、どこか遠くで微かに水音が響いている。この屋敷の主人を気取っているわけではないが、この場所に住むものとしてどこか誇らしく感じていた。
――明日から、またいろいろあるだろう。
けれど今夜だけは、この湯に包まれながら、少しだけ平和な時間を味わっていよう。
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