36話
セリダ村に着き、空がすっかり茜色に染まっていることに気づいたとき、僕たちはようやく歩みを緩めた。
村の門は閉じかけていたが、ロリスの顔を見るなり門番がすぐに開けてくれる。
何も聞かれなかった。たぶん、僕たちの格好を見れば、聞くまでもなかったのだろう。
返り血に染められたロリスの服も、乾いてきて黒ずんだ色になっていた。
「助かった……」
息を吐いた瞬間、全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。
ロリスが背中を軽く叩いた。
「せめて宿まで歩け。そこまでは私も担がないからな」
ロリスの声は冗談めいていたが、僕の背に置かれた手にはちゃんと優しさがあった。
「……うん」
力の入らない足をなんとか動かして、僕たちは村の中を歩き出した。
道端では焚き火の煙が上がり、夕餉の匂いが漂ってくる。
それは確かに、日常のにおいだった。あの森の気配とは違う、穏やかで、あたたかな空気。
宿屋の前にたどり着いた頃には、僕はもう一歩も動きたくなかった。
ロリスは少しだけ苦笑し、扉を押して開ける。
「ほら、あと少しだ」
中から漏れ出る暖かい灯りに、僕はようやく気を抜くことができた。
宿の老婆が、音もなく戸口に現れた。
小柄で背の曲がったその体に、くたびれたエプロンをまとっている。
けれどその目は、まっすぐに僕たちを見据えていた。
老婆はしばらく何も言わずにロリスを見つめていた。
その視線は厳しいものではなく、むしろ静かな憂いをたたえていた。
ロリスの服に染みついた血を一瞥し、次に僕の足取りのふらつきを見る。
そして、ため息ともつかない小さな息を漏らしたあと——
くるりと踵を返し、何も言わずに奥へと歩いていった。
数秒もしないうちに、戻ってきた彼女の手には、濡れた布と薬壺、それに古びた毛布が抱えられていた。
「こっちだよ」
ようやく発せられたその声は、驚くほど柔らかかった。
そして言葉よりも先に、そっとロリスの腕を取り、椅子の方へ導いた。
まるで、戦場から戻ってくる者たちを何度も迎えてきたような手つきだった。
ロリスは、少しだけ苦笑していた。
何も言わず、されるがまま椅子に腰を下ろす。
僕は、ようやくそこで気が抜けたように、その場にしゃがみ込んでしまった。
老婆の背に漂う薬草の匂いが、ほんの少しだけ、現実を取り戻させてくれる気がした。
事情を話しながら老婆に手当をしてもらった。
ロリスには大きなけがはなかった。だが、戦いの衝撃による内出血や、斧を避けきれなかった際に受けた擦り傷がいくつもあった。
老婆は薬壺を開けながら、僕たちの様子をちらと見て言った。
「この時期はね、作物の収穫が始まるから。獣どもが森から下りてきやすくなるんだよ。実りを狙ってね」
その口調はまるで、天気や明日の晩ごはんを語るように淡々としていた。
「けれど、人型の、それもゴブリンなんてのは珍しいもんだよ。このあたりじゃそうそう目にかからない」
老婆の言葉に、僕たちは顔を見合わせた。
ゴブリンは基本的に集団で行動する魔物だが、たった4、5体で動いていたとなると、駆り出された分隊の可能性が高い。
ロリスが腕を組みながら、低く言った。
「それにしても……部隊のリーダーだったゴブリンは変異種だったな。図体もパワーも段違いだった」
僕は無言で頷く。あのゴブリンの異常な腕力と、通常種とは違う鋭い目つき、人型とはとても思えない巨躯――ただの群れの一匹ではなかったのは確かだ。
「ゴブリンってのは、魔物の中じゃ知性を持っているほうで、自分たちで文明を築いたり、簡単な農作や狩猟をも行う魔物だ」
老婆は薬壺の蓋を閉じながら、静かに言った。
「それが人里の近くに出没してるとなりゃ……」
ロリスが言いかけたところで、ふと考え込み、やがて小さくため息をついた。
「……あら、それなら王都のほうに討伐をお願いしなくっちゃ」
老婆のその一言が、妙に現実味を帯びて響いた。
ロリスは腕を組みながら、低く呟いた。
「王都に討伐を頼んだところで、すぐに動いてくれるかどうか……」
老婆はその言葉に、少し目を細める。
「まあ、それはそうかもしれないね。村ひとつの報告じゃ、大きな騒ぎにならない限り後回しにされることもある」
僕はじっと考えながら、机の上の薬壺を指でなぞった。
「でも、あの変異種のゴブリンがただの偶然だとしたらいいけれど……もし、もっと大きな群れが森の奥に控えているとしたら?」
老婆は軽く息を吐いた。
「それなら厄介だねえ……何か動きがあるか、しばらく気をつけて見ておくよ」
ロリスは静かに頷きながら、視線を外に向ける。
「ひとまず、村の長に報せておくべきだな」
その言葉が、部屋の中に重く響いた。
宿屋のばあさんの話を受けて、村長のところに出向かうことにした。
少しの間休めて、倦怠感が軽減したが、足を動かすたびに疲労がよみがえる。
村長の屋敷は、村の中心にあった。
瓦屋根の低い建物で、入口の横には手入れの行き届いた花壇があり、木造の門扉には質素ながら丁寧な彫刻が施されていた。
門をくぐると、すぐに案内の者が現れ、僕たちは奥の居間へ通された。
そこにいたのは、髭を立派にたくわえた、恰幅の良い老人だった。
どうやらこの方が村長のようだ。
とりあえず目にしたことをありのままに話し、村長もロリスの話を最後まで聞いたが、腕を組み、わずかに眉をひそめた。
「ふむ……なるほど。確かに、獣害として見過ごせる規模ではない。しかし、ゴブリンの変異種などという話は……そう頻繁に起こるものでもないはずだがね」
ロリスは、その反応を予期していたのか、どこか淡々とした様子で立ち上がった。
「では、身分を明かしたほうが信じてもらえるかもしれませんね」
ロリスは腰のポーチから、小さな銀製の証印を取り出して、村長の前に差し出した。
「私はロリス・グラン。かつてヴァイス帝国の騎士団に仕え、団長を務めておりました。」
村長の目が見開かれる。
「ロリス・グラン?……あの騎士団の……団長、ですと……?」
声には、あからさまな動揺と驚きが混ざっていた。ロリスが口にした地名も肩書きも、田舎の村人にはあまりに縁遠く、それゆえに強い説得力を持って響いたのだろう。
村長は深々と頭を下げた。
「それは、これは大変失礼を……どうりで只者ではないと思いました……!」
そして、はっと僕の方を見やる。
「となれば、そちらの若き方も、ただの旅人というわけではあるまい。ロリス殿と行動を共にされているのですから、きっと何か……」
ロリスはわずかに肩をすくめて、微笑を浮かべた。
「彼は私の同行者に過ぎませんよ。ただ、旅先で縁あって道を共にしているだけです」
「ほう……それは、それは……いや、しかし、その落ち着き、目の鋭さ、ただ者では——」
「詮索は無用です、村長殿。彼もまた、この件には心身ともに疲弊しております。ご配慮を」
その言葉に、村長は少し恐縮した様子でうなずいた。
「承知いたしました。……では、門番たちに事情を確認し、改めて村の警備体制を整えましょう。お二人にはそのままご同行願えますか?」
僕たちは頷き、村長と共に屋敷を出た。
夕闇が村を包みはじめ、提灯の明かりが点々と灯り始める中、村の門へと向かう。
ちょうど交代の時刻だったようで、先ほど僕たちを迎え入れてくれた二人の門番が、槍を肩に担いで帰路についているところだった。
「おお、村長さま! 今夜はどうされました?」
門番の一人が軽く片手を上げて挨拶するが、僕たちの顔を認めると、すぐに表情を引き締めた。
「そちらのお二人……あの時の。何かありましたか?」
村長が足を止め、門番たちの前に立つ。
「うむ。先ほど、この方たちから報告があってな。森の中でゴブリンの群れと交戦したとのことだ。しかも、その中に“変異種”がいたと聞く」
門番たちは顔を見合わせ、どちらからともなく真顔で頷いた。
「確かに、様子はおかしかったですが。遅い時間でしたし、やつれた様子ではありましたので、てっきり魔物から逃げてきたと思いこの方たちを村に通しました。腕試しをする探索者がしょっちゅう通る村ですから、多少の傷や泥まみれは珍しくありません」
村長は門番たちの返答に頷きながら、一歩前に出て声を強めた。
「よく判断してくれた。だが――」
その目が門番二人に鋭く向けられる。
「この方は、元ヴァイス帝国騎士団団長、ロリス殿。そのロリス殿ですら苦戦を強いられた相手なのだ。見くびってはいけませんぞ」
門番たちはぎょっとした顔でロリスを見やった。どちらも口をぽかんと開け、言葉が出ない様子だった。
「そ、そんなお方だったとは……」
「まさか……団長様ご本人が……」
ロリスは少しだけ肩をすくめて、それ以上多くは語らなかった。
村長は厳しい顔つきのまま、門番たちに命じた。
「私もすぐに王都へ書状を出し、討伐隊の派遣を要請するつもりだ。だが、それには時間がかかる。この村を守れるのは、今ここにいる我々しかおらん」
そして、村の奥にある方角を顎で指し示した。
「酒場にいる飲んだくれの探索者どもにも伝えてこい。明日から警備の協力を仰ぐ。役に立たぬ者は、追い出してでも構わん」
門番たちは慌てて姿勢を正し、胸に手を当ててうなずいた。
「はっ、すぐに伝えて参ります!」
そう言って、二人は小走りに村の通りを駆けていった。
村長はため息をつき、背中を少し丸めながらこちらを振り返った。
「……まったく、いつ何が起きるかわからんものですな。お二人とも、改めて感謝いたします。どうか、今夜はゆっくりお休みください」
「ええ。ですが、何かあればすぐ知らせてください」
そうロリスが返すと、村長は深くうなずいた。
静まりゆく村の中で、提灯の明かりが風に揺れ、影が地面に揺れていた。
村長と別れたあと、僕たちは老婆のいる宿屋へと足を向けた。
さすがに波乱の一日に振り回され、疲れがどっと押し寄せてくる。歩きながら、肩の奥がじんわりと重くなり、足取りも自然と遅くなった。ロリスも無言で隣を歩いていたが、その足音はいつもよりわずかに鈍かった。
宿屋の前に戻ると、戸口の灯りが暖かく僕たちを迎えてくれる。扉を開けると、あの老婆が椅子に腰かけたまま、静かに編み物をしていた。針の動きが止まり、こちらを見やる。
「あら、おかえり。お役目は済んだかい?」
ロリスが軽く頭を下げて答えた。
「ええ、村長には報告を済ませました。協力を仰げそうです」
「そうかい。そりゃあよかった。さあさ、もう遅い時間だよ。風呂は湧かしておいたから、冷える前に入りな」
「助かります」
僕は思わず、気の抜けた声でそう返した。
部屋に戻ると、狭いながらも清潔な布団が二組敷かれていた。さっきまでの緊張がふっとほどけて、僕はその場に腰を下ろした。
もしゴブリンの大群がいるとすれば、倒された変異種を見て怯えてくれればいいが……そんな都合の良い展開を期待するのは危険だろう。
ロリスも同じ思いでいるのだろう。静かに、しかし確かな覚悟を込めて言った。
「だが、そう簡単にはいかぬだろう。今回の変異種が倒されたとしても、別の群れがすぐに活動を活発化させるかもしれん」
僕は布団の中で体を伸ばしながら、窓の外をぼんやりと見つめた。月明かりが森の方を淡く照らしている。
月明かりに浮かぶ森は、静かで美しい。しかしその静寂の奥には、まだ見えぬ脅威が潜んでいることを僕たちは知っている。
村の家々は窓に淡い明かりを灯し、夜の静けさを守っていた。遠くからは、門番の交代を知らせる鈴の音がかすかに響く。どこか緊張を孕みながらも、日常の営みは続いているのだ。
僕は静かに目を閉じた。
この夜が、嵐の前の静けさでなければいいのだが――。
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