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異世界転移記 ~層彩のキャンバス~  作者: 0
第二章 <遠足>
36/40

35話

 メルベラで一晩を過ごし、僕たちは翌朝、村をあとにした。


 契約も無事に結べたし、特に問題も起こらなかった。道中、森の外れで魔物の気配を感じたこともあったけれど、幸いにもこちらに気づく前にやり過ごすことができた。晴れ続きの天候も手伝って、予定より早く村に到着できたのは本当に運がよかったと思う。


 オルダンが紹介してくださる職人は高齢のためすでに引退しているとのことらしいが、指南役としてまだ現役とのことだ。ロリスの話では、長命種のドワーフやエルフというのは時間の感覚が人間とは異なり、人の年齢など気にしないのだという。オルダンもきっと、その感覚でまだ働ける年齢と判断して紹介してくれたのだろう。


 この時代の医学からすれば、六十でも長命のほうなのかもしれないが、オルダンからすればまだまだ若造なのだろうな。


 こうして、短いながらも目的を果たした旅は、あとは帰るだけとなった。


 帰るまでが遠足ともいうが、来る道中に怖い思いをしたぶん、まだどこか気が抜けないままだった。


 「……なんか考えごとしてる?」


 横を歩いていたロリスが、不意に声をかけてきた。彼の視線は僕ではなく、前方の道を見据えたままだ。


 「ああ、ちょっとね」僕は曖昧に答えた。


 森を抜ける手前で遭遇したあのゴブリンの群れのことが、どうしても頭から離れなかったのだ。帰りはまた同じ道をたどることとなるので、魔物に襲われるなんてことはやはりどうしても脳裏にちらつき、ロリスという心強い存在がそばにいても不安な気持ちでいっぱいであった。


 あれはただの偶然だったのだろうか。それとも、何かの兆し——。


 「……ゴブリンのこと、気にしてる?」


 ロリスの声が、今度は少し低く、真面目な調子で響いた。僕が何も言っていないのに、図星だった。


 「やっぱり顔に出てたか」


 苦笑まじりに返すと、ロリスは肩をすくめてみせた。


 「そりゃまあ、あんだけ真剣な顔してたら、誰でも気づくさ。あれ、普通の群れじゃなかったよな。動きも、妙に統率が取れてた」


 「うん……。普通のゴブリンだったら、もっとばらばらに動いてるはずだ。でも、あれは……何かに導かれてるみたいだった」


 うろ覚えではあるが、確か屋敷の書斎でなんとなく気になってめくった魔物の図鑑に書かれてあったことであった。僕の言葉に、ロリスも頷いた。


 「ただの通りすがりの冒険者を狙うにしては、ちょっと動きが整いすぎてた。何か、背後にいるんじゃないかって感じたよ。普通ならば敵の多い森になんかに居座るようなことはないと思うが……」


 「まあ、今考えても仕方ないから……」


 僕はそう締めくくって、小さく息をついた。ロリスもそれに合わせるように頷いて、再び前を向いた。


 「うん。今はまず、安全に帰ることを考えよう。報告さえ済ませれば、あとで討伐隊でも派遣してくれる」


 そうだ。変に目立つようなことはよそう。僕たちには報告することくらいしかできない。今はそれ以上のことを考えるには、材料が足りなさすぎる。


 空を見上げると、木々の隙間から青い空が覗いていた。太陽はもう頭上近くまで昇っていて、木漏れ日が道の上に柔らかい模様を描いている。


 話しながら歩いているうちに、僕たちは森の中へと入っていた。


 空は相変わらず青かったが、枝葉の密度が増すにつれて、陽の光は地上まで届きづらくなっていた。木漏れ日が細く、鋭くなり、まるで足元に光の刃を落としているようだった。


 風もぴたりと止み、鳥のさえずりがいつの間にか聞こえなくなっていた。

 不自然な静けさ——それに気づいた瞬間、背中を冷たいものが這い上がる。


 「……さっきより、空気が重いな」

 ロリスがぽつりとつぶやいた。彼も感じているのだろう。この森が、何かを隠していることを。


 「……ああ。昼なのに、なんでこんなに暗いんだろうな」


 木々の間を縫うように進む道は、まるで何かに誘われているかのように、じわじわと深いほうへと続いている。見慣れたはずの帰り道なのに、妙に遠く感じる。


 ふと、何かの気配を感じて、足が止まる。


 「……聞こえたか?」


 「……聞こえた」


 微かな、木のきしむような音。それとも、何かが地面を這うような音だったのか——判別できない不気味さが、森の奥からじわじわとにじんでくる。


 「……念のため、武器、構えとくか」


 ロリスがそう言って剣の柄に手をかけるのと同時に、僕も背中の短杖に指をかけた。山道を越えるときの補助ツールだが、脅威を感じる今となってはこんなにも心もとない杖でさえ頼りたくなるものだ。風のような音が、どこからともなく耳をかすめる。


 けれど、それが風なのか、何かの呼吸なのか、わからなかった。


 昼のはずなのに、森はすっかり夜のような気配をまとっていた。


 まるで、何かが——こっちをじっと、待っているかのように。


 ふと、背後で枝が折れるような音がした。


 「……ロリス」


 声を潜めて呼びかけると、彼もすでに気づいていたようで、目だけで周囲を探るように動かしていた。


 「……何も、見えないな。でも、気配が……」


 森の空気が、さらに一段濃くなったように思えた。木々の間に広がる闇が深まり、まるでその奥から何かがこちらを見ているような錯覚を覚える。


 否、錯覚ではない。


 今度は確かに、音がした。地を擦るような音。複数。

 足音にしては軽すぎて、獣にしては整いすぎている。けれど、確かに近づいてきている。


 僕たちはすかさず背中合わせに立ち、静かに周囲に目を配る。

 さっきまで談笑していた空気は跡形もなく消え、代わりに、剣呑な緊張だけが漂っていた。


 やはりあの時にみたゴブリンの群れがまだこの森にとどまっていたのだろうか。


 「まさか……まだ残ってた?」


 長年の経験での予想が外れたことで動揺したのか、ロリスの声はかすかに震えていた。けれど、それは恐怖からではない。覚悟を研ぎ澄ませた者の声だ。


 「どうする、逃げるか?」


 「無理だ。逃げ道が見えない」


 実際、森の奥から漂う気配は、一方向からではなかった。あらゆる角度から、じわじわと囲まれていくような——そんな嫌な圧迫感があった。


 そして、茂みの向こうで、低く濁った声がした。


 「……キィ……」


 それは、確かに聞き覚えのある声色だった。あのとき、森の外れで遭遇したゴブリンたち。あの群れが発していた、知性を帯びた不気味な声。


 「ロリス、囲まれてる。三……いや、四体以上いる」


 「……そうだな。やるしかないな」


 僕は頷き、護身用に持たされた短剣を引き抜き、すり減った杖と短剣の二刀流で周りを警戒する。

 ロリスも剣を抜き、腰を落とした。


 戦うことに関しては完全に素人だが、ロリスの負担にならないようせめての自衛くらいはするつもりだった。


 光の届かぬ森の奥で、静かに、獣たちが息を潜めていた。

 その姿はまだ見えない。でも、確かにそこにいる。

 狩る側のつもりで、こちらをじっと見つめている。


 ——なら、こっちだってただの獲物じゃない。

 覚悟を決めたそのとき、茂みが一斉に揺れた。


 次の瞬間、黒ずんだ影が、茂みの奥から跳ねるように飛び出してきた。


 一体、二体——いや、それ以上。

 低い体勢で走りながら、黄色く濁った眼だけがぎらりと光る。手にした粗末な短槍や棍棒が、日差しのない森の中で、やけに鈍く光っていた。


 僕は短剣を構えたまま、ただ身を低くして後ずさることしかできなかった。


 ゴブリンを目の当たりにして、頭の中が真っ白になる。心臓の音が耳の奥で鳴り響き、手のひらがじっとりと汗ばんでいるのがわかる。


 そんな僕のすぐ横を、ロリスが駆け抜けた。


 「下がってろ、カイ!」


 その声に、はっと我に返る。

 ロリスの剣が風を切り、迫ってきた一体のゴブリンの首元をなぞるように斬り払った。黄色い血が飛び散り、悲鳴のような叫びが森に響く。


 「くっ、まだ来る!」


 ロリスは構えを崩さぬまま、次の一体の突進を受け止める。金属と木の武器がぶつかり合う音が響き、振動が足元まで伝わってきた。


 ゴブリンたちは明らかに、彼を脅威と見なして集中していた。

 僕はその隙に一歩、また一歩と後ろに下がる。


 「落ち着け……冷静に、落ち着いて……」


 自分にそう言い聞かせることしかできなかった。短剣を握る手が、かすかに震える。


 その間にもロリスは、三体目を斬り払っていた。

 その動きには迷いがなかった。剣の軌道は鋭く、敵の動きに的確に応じている。まるで、ずっとこうして戦ってきたかのように。


 「ロリス、背後!」


 ようやく声が出た。森の影から、もう一体のゴブリンが抜け出し、彼の背後に回り込もうとしていた。


 「——見えてる!」


 ロリスは体をひねり、振り返りざまに足払いを放った。ゴブリンがもんどりうって倒れ込むのとほぼ同時に、鋭い一突きで動きを止める。


 信じられない速さだった。


 「あと一体……いや、あれが本命か」


 ロリスの視線が、森の奥に立つ異様な巨体へと向けられる。

 ひときわ大きなそのゴブリンが、ようやく一歩、こちらへ足を踏み出した。


 重たい足音。鈍く光る斧。なにより、その目に宿る、明確な敵意と冷静さ。


 僕は、ただ立ちすくんでいた。

 でもロリスは、そんな僕を守るように前へと歩み出ていた。


 「カイ、動くな。あれは俺がやる」


 僕は息を呑んだまま、その背中を見つめていた。

 ロリスの声には、迷いも恐れもなかった。ただ静かに、確かな決意だけがこもっていた。


 「気を張ってろ。万が一、こっちを抜けたら……そのときだけ、刺せ」


 振り返らずにそう言って、ロリスは一歩、また一歩と巨体のゴブリンに歩み寄っていく。

 対するゴブリンも、ゆっくりと、だが着実に距離を詰めてきた。


 その姿は、まるで獣ではなく、戦士だった。


 ——なぜこんなやつが、こんなところに。


 ただのゴブリンじゃない。

 その動き、その構え、何よりも目に宿る「判断」。

 こいつは、生き延びてきた。何度も、誰かを殺して。


 ロリスが動いた。

 まるで風が斬れるような勢いで、一気に間合いを詰め、低く構えた剣を跳ね上げるように突き出す。


 ゴブリンの斧が、その攻撃を真正面から受け止めた。

 鋼と鋼がぶつかる、重く鈍い音が森に響く。


 「——ッ……!」

 ロリスの剣が押し返され、すかさず斧が横に薙がれる。


 木の幹を断ち割りそうな一撃だったが、ロリスは紙一重でかわし、反撃の蹴りを放つ。

 それでもゴブリンはよろけるだけで、すぐに姿勢を立て直した。


 重い。遅い。だが、硬い。そして、手強い。


 「ちょこまかと……ッ!」


 ロリスが鋭い突きを繰り返すが、ゴブリンはそれをすべて読み切ったかのように、斧で受け、はじき返す。

 一合、二合、三合——剣と斧が火花を散らすたび、僕の心臓は凍りつくような音を立てていた。


 そのたびに、地面が震えたように感じた。

 剣と斧の衝突音は、森の静けさを引き裂く鋭い雷鳴のようだった。


 ロリスの息が荒くなる。

 それでも彼は、一歩も退かない。

 いや、退けないのだ。僕がすぐ後ろにいるから。


 ゴブリンの斧が再び振るわれる。今度は、真上からの一撃——

 大地を断ち割らんばかりの、その重みに空気がうねった。


 「……甘い」


 ロリスの足が、横に流れる。

 斧が地面に叩きつけられ、土と枯葉が飛び散る中、彼の剣がその隙を縫うように走った。


 だが、ゴブリンもそれを読んでいたかのように、無理やり体を捻じ曲げてかわした。


 「チッ……!」


 そのまま振るわれた拳が、ロリスの肩をかすめた。

 体勢を崩しかけるが、ロリスは踏みとどまり、飛び退く。


 「化け物め……」


 ロリスの口から小さく漏れたその声に、僕は初めて彼の「焦り」を聞いた気がした。

 それでも、ロリスは目を逸らさなかった。鋭く、まっすぐに相手の瞳を射抜くように見つめ続けている。


 そして、一歩。


 さらに一歩。


 再び前に出る。


 「……終わらせるぞ」


 呟いたその声が、なぜか不思議と静かだった。


 今度は、真っ直ぐに突っ込んだ。

 真正面から。わずかに剣を引き、全身の力をその刃先に集めて。


 迎え撃つように斧が振り上げられる。


 その瞬間——ロリスは剣を放った。


 投げたのだ。


 疾風のように飛ぶ剣が、ゴブリンの腕を裂く。斧の軌道が大きく逸れ、空を切った。


 「……そこだっ!」


 ロリスの体が跳び込んでいた。

 相手の懐に潜り込むと、転がるように地面を滑って落ちた剣を拾い、立て直す暇も与えず、喉元へと振り上げる。


 ゴブリンの咆哮が、空気を震わせた。

 だが、その声が完全に消えるより先に——


 ロリスの一撃が、その喉を深く切り裂いた。


 重たい音がして、巨体がゆっくりと崩れ落ちる。

 地面がまた、ぐらりと揺れた気がした。


 ロリスは一瞬、剣を握ったまま静止していたが——やがて、大きく息を吐き出し、力を抜いた。


 僕はその場に膝をつき、ようやく震えが全身を走っていたことに気づいた。

 それでも——口に出たのは、自然な言葉だった。


 「……すごい、よく勝てたな……」


 ロリスは、剣を鞘に納めながら、少しだけ笑った。


 「なあに、私はカイの護衛役だからな」


 その言葉は、どこまでも自然で、まるで今の戦いが特別なことではなかったかのようだった。

 けれど、その笑みの裏には確かに疲労が滲んでいて、額からは汗が滴り落ちていた。


 僕は立ち上がろうとしたが、膝に力が入らず、再び座り込んでしまった。


 「……ごめん、何もできなかった」


 情けない言葉だった。自分でも分かっていた。

 それでも、口にせずにはいられなかった。


 ロリスは僕の方に歩いてきて、手を差し伸べた。


 「それでいい。無事なら、それでいいんだよ、カイ」


 その手はあたたかくて、けれど、剣を振るったばかりの感触がまだ残っているような気がして、少しだけ怖かった。

 僕はその手を取って、ようやく立ち上がった。


 周囲を見渡すと、ゴブリンたちの死体がいくつも転がっていた。

 血の匂いが湿った土に染み込み、鉄の匂いと混ざり合って、森の空気を重く濁らせている。

 ロリスの服にも返り血が飛び散っていた。鮮やかな紅色に染まり、獣の生臭さがまとわりついている。


 「……やっぱり、おかしいよ。あんなのが、普通のゴブリンの群れなわけない」


 僕の言葉に、ロリスは頷いた。


 「まあ。ともかく早くここから立ち去ろう。」


 こんな激しい戦いをしたなら、近くの魔物が騒ぎを聞きつけて集まってきてもおかしくない。何よりも血の匂いは猛獣を引き付ける。これほど視認性の悪い森では不意打ちなんてこともありうるかもしれない。


 ロリスもそれを察しているのか、視線を絶えず周囲に巡らせながら歩き出した。

 僕も、まだ震えの残る足を無理やり動かして、その背中を追う。


 「足を止めるな。森の外まで出れば、あとは少しは安全だ」

 「うん……」


 枝を踏みしめる音も、風に揺れる葉のざわめきも、ひどく大きく聞こえる。

 それだけ、僕の耳も敏感になっていたのだろう。どこかで小枝が折れるだけでも、全身がびくりと跳ねた。


 「……あっちの道じゃないか? 朝通った獣道」

 「いや、こっちの方が近い。茂みは深いが、一本道だ。振り返らずに進め」


 ロリスの声が、妙に鋭い。

 そのとき、背後の森の奥から、かすかな唸り声のような音が聞こえた。


 僕たちは顔を見合わせた。ロリスがすぐに囁くように言った。


 「来たか……もう群れが近くに?」


 「……さっきの戦いで、血の匂いが強く残ってるから……」


 「だから言っただろ。急ぐぞ」


 僕たちは小走りになった。木々が顔や肩をかすめるのも構わず、ひたすらに前へ。

 喉が焼けるほど息が荒れる。けれど、足を止めるわけにはいかなかった。


 ——あのまま、ロリスが勝っていなければ。


 想像するだけで、背筋に冷たいものが走る。


 ようやく、木々の間から開けた空が見えた。

 森の端。あともう少しで道に出る。


 ロリスがふっと息を吐き、少しだけ速度を落とした。


 「カイ、いいか。森を抜けたらすぐには止まるな。振り返らず、セリダ村まで一直線だ。いいな?」


 「わかった……!」


 僕たちは最後の一踏ん張りで、森の境界を駆け抜けた。

 乾いた空気が肌に触れ、ようやく少しだけ、息が楽になる。


 けれど背後では——

 まだ、木々の奥で、何かがこちらをうかがっている気配があった。

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