33話
朝目が覚めると、部屋の窓から差し込むやわらかな光が、天井に揺れていた。
昨夜よりも体が軽く、疲れはあるけれど、どこか芯から休めた感覚があった。深く眠れたのだろう。寝返りを打つと、布団の中にこもったぬくもりが、じんわりと背中に残った。
階下からはパンを焼く香ばしい匂いが漂ってきていて、胃の奥が自然と反応する。
「……朝か」
小さくつぶやいて体を起こす。外からは、誰かの話し声と、家畜の鳴き声が聞こえていた。村の朝はもう始まっているようだった。
軽く顔を洗い、着替えを整えて部屋を出る。階段を降りると、すでにロリスが一階の食堂で席についていた。丸いパンをちぎりながら、湯気の立つスープを前にしている。
僕に気づいて、顔を上げた。
「おはよう、よく眠れたか?」
「うん、ぐっすり。そっちも?」
「私も。朝のパンが美味しそうで、つい早く目が覚めちゃった」
笑ってそう言うロリスの表情は、いつもより少し柔らかく見えた。
朝食を終え、僕たちは再び歩き出した。目指すは、もう一つ先の村、〈メルベラ〉だ。
宿屋のばあさんは、僕たちのためにお昼用の握り飯を用意してくれていた。旅の途中で食べなさいと、小さな包みに包まれたそれを手渡される。
「ありがとう」と僕が包みを受け取り、ばあさんに深くお辞儀をした。
小さな包みを握りしめ、僕たちは宿屋を後にした。村の道を少し歩くと、目の前に森が広がった。木々が濃く生い茂り、朝の光を遮っている。
「ここが、森か……」僕が呟くと、ロリスが少し険しい表情で指を差した。
「あの森を通り抜けた先に〈メルベラ〉がある。道は続いているけど、注意してね」
「魔物の棲み処にもなってるから、油断は禁物だ」
言葉の重みを感じながらも、僕は気を引き締めた。
「わかった。気をつけるよ」
僕たちはゆっくりと森の入り口に足を踏み入れた。風が葉を揺らし、小鳥の鳴き声が聞こえる。けれど、どこかひっそりとして、緊張感が心を覆っていた。
森の中は、外の明るさとは打って変わって薄暗く、木漏れ日がぽつぽつと地面に落ちている。湿った土の匂いと、葉が擦れる音が耳をくすぐった。
足元の枯れ葉や枝を踏むたび、カサカサと小さな音が響く。僕は緊張しつつも、一歩一歩慎重に進んだ。
ロリスは先を行きながらも、何度か振り返り、僕の様子を気遣っている。彼女の呼吸は安定していて、森の中でも動じる様子はなかった。
ところどころ地面には、獣の足跡がしっかりと残っていた。大小さまざまな形の跡が入り混じり、ここが動物たちの生活圏であることを物語っている。
そのうち、木々の間から大きな影が一瞬だけ視界の端をかすめた。風に揺れる葉の陰に紛れて、何か大きな生き物がこちらを窺っているようだった。
けれど、そっと姿を現すことはなく、影はすぐに森の奥へと消えていった。
足元の足跡は確かに魔物の存在を感じさせたが、僕たちが気をつけている限り、直接的な遭遇は避けられているのだろう。
ロリスがふっと肩の力を抜き、僕の方を振り返りながら静かに言った。
「心配しなくてもいい。私たちが気をつけていれば、大きな危険はないはずだ」
その言葉に、ほんの少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。
僕は歩みを進める。
しばらくすると、森の中とはいえ少し開けた場所に出た。木々はまだ周囲に広がっているが、そこだけ空が広く見え、風がやわらかく抜けていく。
ロリスの背中を追いながら、歩調を速めた――そのとき。
彼がふいに足を止めた。
何かを見つけたのか?
声をかけようとして、僕も立ち止まる。
ロリスは動かない。ただ静かに、じっと前方を見つめている。
僕は眉をひそめ、ゆっくりと彼のそばに寄る。
森のざわめきだけが、耳に届いていた。
耳をすませば、草をかき分けるような音がかすかに聞こえた。ざっ……ざっ……と、小さく、けれど確かにこちらへと近づいてくる気配。
目を凝らすと、木々の奥――葉の揺れる隙間の向こうに、ぼんやりと小さな影がいくつか動いていた。背丈は低く、だけど、野生のものとは少し違う、どこか人に似た動き。
(あれは……)
影の輪郭が徐々にはっきりしてくるにつれて、僕の中に嫌な予感が湧き上がった。緑がかった肌、手にした短い棍棒のようなもの。あの小さな体に不釣り合いな、鋭く光る視線。
――ゴブリン。
この世界に来てから何気に初めて見る存在だが、小ぶりの人型で特徴的な容貌に浮かべる不敵な笑みで真っ先に思い付いた。
ロリスが、わずかに頭を動かして僕に目配せする。声は出さない。ただ、僕の視線の先を確認しただけで、彼の表情がわずかに引き締まる。
数は多くはない。けれど、この森の中で群れて動いているということは、何らかの目的を持っているのかもしれなかった。
ロリスは一歩、僕の前に出る。そして、声をひそめるようにして言った。
「強さは大したことないが、ここで無理に戦うのは得策じゃない。気づかれないうちに、森を抜ける道を探そう」
僕は小さくうなずき、足音を殺しながら彼の背にぴたりと続いた。
風が、梢を揺らして通り過ぎていく。音の向こうにいる影たちは、まだ僕たちに気づいていない――今のところは。
ひとまず視界を遮る枝葉をかき分けながら、僕たちは音を立てぬようにして森の奥へと進んだ。地面は起伏が激しく、根や苔で滑りそうになる足元に神経を使いながら、ロリスの背を見失わないようについていく。
振り返れば、さっきの影がいた方向はもう木々に遮られて見えなくなっていた。けれど、気配はまだ背後にあった。風が一瞬止み、森の音がすっと引く――そんな気がした。
その瞬間、ロリスが小さく手を上げて合図をする。立ち止まり、僕も息をひそめた。
ロリスは周囲の音に耳を澄ませるように目を細めた。僕も息を殺して、その場の空気に意識を集中させる。鳥のさえずりも止み、森はまるで深く息を潜めたように静まり返っていた。
……ザ、ザ……。
微かな足音。草を踏みしめるような小さな気配が、遠くない位置から聞こえる。複数……いや、三つか、四つか。確実にこちらを探るように、動いている気がした。
ロリスはそっと顔だけを僕の方に向け、唇の前に指を立てる。黙って、という合図。僕はそれに応えて静かにうなずいた。
数秒、いや、数分にも思える沈黙ののち、ロリスはゆっくりと身体の向きを変え、開けた場所の反対側――木々の茂みの奥へと歩みを進める。彼の足取りはまるで森の一部のように静かで、僕もできるかぎりそれにならう。
やがて、先ほどよりも太陽の光が差し込む場所へと出た。完全に森を抜けたわけではないが、背後の気配は徐々に薄れてきていた。
ロリスが立ち止まり、木の陰で小声を漏らす。
「……たぶん、やり過ごせた。警戒はまだ必要だけど、さっきの場所よりは安全なはずだ」
僕は頷き、ほっとしたように息を吐いた。緊張で張り詰めていた体の感覚が、少しずつ戻ってくる。
「さっきの、完全にゴブリンだったね……」
「うん。でも、動きにまとまりがなかった。もしかしたら、探索中だったのかもしれない」
「探索……?」
「何かを探してるか、もしくは、新しい縄張りを決めようとしてる。どちらにせよ、うかつに関わるのは得策じゃない」
ロリスの声は静かだったが、その中に確かな警戒心がにじんでいた。
僕たちは再び歩き出す。森の木々が少しずつ疎らになり始めており、風の流れが明確に感じられるようになっていた。
その向こうには、目的地〈メルベラ〉の姿が、きっと待っている。
面白かったらブックマークや下の評価よろしくお願いします!
感想やアドバイスも受け付けておりますのでぜひ書いてください!




