32話
山を登るのは久しぶりだった。
たぶん、中学校の遠足以来じゃないだろうか。
上り坂がしばらく続き、足取りがじわじわと重くなる。舗装されていない土の道は、ところどころ小石が転がっていて、バランスを崩しそうになるたびに脚に変な力が入った。
木々の間を抜ける風が、首筋に冷たくて気持ちいい。けれど、歩みを止めるにはまだ早い。ロリスが淡々と先を行く背中が、まるで引き上げてくれるようだった。
(……ロリスの体力がすごいのか、それとも僕がヘタレなだけか)
軽々とした足取りで歩くロリスを見ながら、ふとそんなことを思う。もちろん前者なのはわかってる。彼は元々、鍛えられた人だ。僕とは土台が違う――そう思っていても、少し悔しい気持ちもあった。
これほどの遠出となれば車か交通機関を利用すれば済んだと思うと、科学技術の発展に感心してしまうが、便利さゆえに生まれてしまったこの貧弱な体で負担にならないよう精一杯足を前へ動かし続けていた。
最初のうちは、道すがらに見かける木の実の話や天気のことなんかをぽつぽつ交わしていたけれど、坂がきつくなるにつれて、自然と口数が減っていった。
やがて、言葉は完全に途切れ、聞こえてくるのは互いの足音と、呼吸の音だけになった。
息が、段々と重くなる。喉の奥が熱い。
でも、それでも歩を止める気にはならなかった。
黙々と、ただ登る。風景も、足の疲れも、今は背景のようにぼやけて、ただ“上へ”と意識が向いていく。そうやって、ひとつひとつ、足を運び続けた。
たまに、馬を連れた商人がのんびりと僕たちを追い越していく。馬の蹄が乾いた音を立て、荷車には布や樽が積まれていた。
「……ああ、ああいう手があったな……」
そのたびに、僕は小さくぼやく。足が重い。背中は汗ばみ、首筋をつたう汗が襟元に吸い込まれていく感覚すら、もう鬱陶しい。
(ロバでも借りろって、オルダン言ってたじゃん……)
素直に従えばよかった。僕たちは商人たちのように荷物も多くないし、どうにかなると思ってたけど、どうにかなってるのは体力おばけのロリスだけだ。
(……それができないなら、前みたいに剣に乗って飛べばよかったのに)
ロリスの剣は、空を飛べる魔法の道具だ。前に一度、それに乗って飛んだことがある。風を切って、空を渡るようなあの感覚。今思えば、あれほど楽な移動手段はなかった。
けれどロリスは、それを今回使おうとしなかった。たぶん、村の周囲にあまり目立ちたくない理由があるのだろう。紹介を受けての訪問だし、下手に奇異な方法で現れて、相手に構えられては意味がない。
……わかってる。わかってはいるけれど。
(にしても……しんど……)
はあ、とひとつ息をついて、もう一度前を向いた。ロリスの背中は、さっきと変わらず、しっかりとした足取りで道を登っている。
それでも、あと少し。陽の傾きとともに、山の斜面にも変化が見えてきた。
道の最高地点――いわば山の鞍部にたどり着いたとき、僕は思わず足を止めた。
開けた視界の向こうに広がっていたのは、一面の緑だった。なだらかな丘がいくつも重なり合い、その谷間を縫うようにして川が流れている。ぽつぽつと、集落らしき屋根が見える。そのどれもが、王都のような賑わいとは無縁の、静かで穏やかな風景だった。
夕日が傾きかけ、空に橙色のグラデーションを落とす。斜陽に照らされたその景色は、まるで絵画のようで、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
(……登ってよかった)
重たかったはずの脚の疲れが、すっと消えていくような気がした。汗も呼吸の荒さも、一瞬だけど、どこかへ遠のいた気がする。
横を見やると、ロリスも足を止めて、同じように視線を遠くへ投げていた。彼の瞳が、どこか優しく細められている。
言葉は交わさなかったけれど、感じているものはきっと同じだった。
(……美しいものに対しては、みんな反応が一緒なんだよな)
世界が違っても、立場が違っても、こういう瞬間に浮かぶ感情は、たぶん大きくは変わらない。
(感情って面だけ見れば、この世界の人と僕も、案外変わらないのかもしれない)
そんなことを思いながら、僕はしばらく、その景色に目を奪われていた。風が吹く。背中を押すような、やさしい風だった。
下り坂は、登りとはまた違った厄介さがあった。
乾いた土の上に落ち葉が積もっていて、足元が不安定になる。滑りそうになっては踏ん張り、膝に力を入れてなんとかバランスを取る。その繰り返しで、気づけば太ももが震えていた。
なるほど、下り坂の険しさを考慮すると確かに馬を連れない方が良いのかもしれない。膝に負担かかるような状態を強いるところが何か所かあり、馬車で下るとなると馬の状態が心配になりそうなほどであった。競馬とかでよく骨折して安楽死処分されるニュースを耳にするが、この時代だと交通手段として使われるので娯楽として見かけることが多くなった時代と比べたら案外普通のことなのかもしれないが、生き物の死傷などはやはり目にしたくないものだ。
「うわっ……!」
自分の世界に浸っていたら、足元のぬかるみに気づかず一度、足を取られて尻もちをつきかけたところを、慌てて木の幹に手をついてなんとかこらえる。情けない声が出た。
それでもどうにか、転ばずに下まで降りられたときには、もう足が棒のようになっていた。立ち止まって息を整える僕の横で、ロリスはというと――
「……ふふ、ごめん、ちょっと……顔が……」
息ひとつ乱さず、ほんのり赤くなった頬を隠すように、軽く笑っていた。汗をかいた額の下、その顔は余裕そのものだった。
「……羨ましいよ、ほんと。身体能力っていうか、体力というか……なんなのその涼しい顔」
「元気だけが取り柄だからね。って言っても、私だって疲れてないわけじゃないんだが……」
そう言いつつも、呼吸が整っているのは明らかに彼のほうだった。
(くそ……一緒に登って、同じように降りたはずなのに)
悔しいというより、もはや尊敬の域だった。
「……とりあえず、最寄りの村で一泊しようか。さすがにこのまま歩き続けたら、君の脚が保たない」
ロリスの冗談交じりの言葉に、僕は素直にうなずいた。
こうして僕たちは、地図で確認しておいた小さな村――〈セリダ〉へ向かうことにした。
夕暮れが山の向こうへ沈み、あたりは次第に橙から群青へと染まりつつあった。
〈セリダ〉の村は、丘を下った先のなだらかな谷間に広がっていた。
藁ぶき屋根の家が十数軒、川沿いにぽつぽつと並んでいて、道はまだ舗装されておらず、踏み固められた土の匂いが鼻に残る。外に出ていた農夫たちが、牛を引きながら帰ってくるのが見えた。
「……ほんとに、のどかだね」
「うん。日が暮れる前に着けてよかったよ」
僕は足を引きずりながら、ひとまず中央にある広場の井戸へと向かう。冷たい水で手と顔を軽く洗うと、それだけで少し生き返ったような気がした。
ロリスは井戸のそばで水を口に含んだあと、村の宿がある方向を指差した。
「確か、このへんに一軒だけ宿があったはずだ。空いてるといいけど」
「頼む……もう草の上でもいいから横になりたい……」
「それは却下。虫がいるよ」
そう言って微笑むロリスは、相変わらずどこか楽しそうだった。きっと、こういう静かな場所が好きなんだろう。僕も嫌いじゃない――疲れさえなければ。
宿はすぐに見つかった。外壁にツタが這い、木の看板が軒先で揺れている。中に入ると、小柄な老婆が出迎えてくれた。旅人は珍しくないらしく、あたたかい笑顔を浮かべて、
「ひと晩でいいのかい? 夕飯も出すよ」
と気さくに言ってくれる。
「助かります」とロリスが答えたその横で、僕はもうほぼ魂が抜けていた。
部屋は小さいが清潔で、寝台の上に体を投げ出すと、全身が沈み込むような心地だった。布団の柔らかさが、全身の疲れを吸い取っていくように感じられた。
「……生きてる……って実感するな、こういう時に」
「お風呂もあるって。先に入る?」
「いや……もう少しこのままで……」
「じゃあ、夕飯の時間になったら起こすから」
そうしてロリスが部屋を出ていくのを見送りながら、僕はまぶたをゆっくり閉じた。
今日一日で、ずいぶんと遠くまで来たような気がした。けれど――まだ、旅は始まったばかりだった。
うとうとと意識が沈みかけたところで、玄関の方から微かに声がした。誰かが新しく訪れたのだろうか――そんな他愛ないことを考えながら、僕はそのまま夢の淵へと沈もうとした。
しかし、しばらくしてふと、足音が近づいてくるのがわかった。廊下を通って、この部屋の前で止まる。
「カイ、起きてるか?」
ロリスの声だった。
「……ん、起きてる。いや、さっきまで寝てたけど」
「夕飯、できたって。下に降りよう」
目をこすりながら身を起こすと、体の節々がじんわりと軋んだ。でも、寝台に体を預けたあとの体よりは、少しだけ軽くなった気がする。
階下の食堂には、僕たち以外に旅人らしい若い男と老婆のほか、村の少年たちがふたりほど席に着いていた。机の上には、素朴な料理が並んでいた。川魚を焼いたものと、野菜の煮込み。それに黒パンと、香草の入ったスープ。
空腹と疲労が混ざっていたせいか、口に運んだスープが、まるで命の水のように感じられた。
「……これ、うまい」
「だろう?」とロリスが笑う。
僕の知らない土地、見知らぬ村で、こうして食卓を囲んでいる。静かで温かな時間だった。誰かと一緒に旅をするというのは、こういうことなのかもしれない。
食後、外に出ると、空はすっかり藍色に染まり、星がひとつ、またひとつと瞬き始めていた。
ロリスが夜空を見上げながら、ぽつりと言った。
「明日で着くから、もう少しの辛抱だ」
「うん……」
僕も空を見上げる。星の数が、王都で見るよりずっと多く感じた。空気が澄んでいるせいか、それともこの静かな土地のおかげか――そのどちらも、きっとあるのだろう。
「明日、ちゃんと話せるかな。変なやつって思われたりしないかな」
「大丈夫。キエンは職人だけど、偏屈ってわけじゃない。オルダンの紹介だし、ちゃんと話せばわかってくれると思う」
「……そうだね。話してみないとわからないし、まずは会ってみないと」
ロリスがうなずく。その表情は変わらず穏やかで、気負いもなくて、ただ自然体だった。
「うまくいくといいな」
「きっと、うまくいくよ」
その言葉は慰めというより、落ち着いた確信のようだった。根拠があるわけじゃない。でも、ロリスにそう言われると、なぜか信じられる気がした。
僕たちはそのまま、並んでしばらく夜空を見ていた。風が少し冷たくて、けれど心地よい。星は瞬きを続け、静かな夜の帳がすっかり村を包んでいた。
やがて、ロリスが少しだけ伸びをして言った。
「さて、今日はもう寝ようか。明日、ちゃんと歩けるように」
「うん」
宿に戻る道は短くて、あっという間だった。小さな扉を開けて中に入ると、ランプの灯りがほんのりと室内を照らしていた。
階段を上り、今夜の寝床に戻る。体が、重いけれど心は軽かった。
布団に入ると、すぐにまぶたが重くなる。明日は、新しい誰かと出会う日。少しの緊張と、少しの楽しみを胸に、僕は目を閉じた。
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