29話
一夜を経て、朝の光の中で目を覚ました。
静かな部屋の天井を見上げながら、昨日の出来事が、まだどこかで余韻のように残っているのを感じていた。夢の中ではなかったかと錯覚するほど、異質で、現実離れした光景だった。
自分の世界では、あんなものは見たことがなかった。
“奴隷”という存在そのものを、これまで意識したことすらなかった。
少なくとも、僕の暮らしてきた場所には、そういう言葉が現実として出てくる場面なんてなかった。
人はそれぞれの仕事を持ち、互いに関わりながら生きていた。貧富の差こそあるけれど、決して所有物としてこき使うような感じではなかった。
だからこそ、昨日見たあの区画は、まるで別の時代、別の世界を覗き込んだようだった。
“奴隷”として、名前も希望も奪われ、生きることすら諦めた子どもたち。
そしてそのすぐ傍で、“孤児”として、それでも無邪気に笑い声を上げていた子どもたち。
同じ年頃の、同じように小さな背中が――あまりに違う。
教会の裏手にあったあの区画。
街の地図の上では同じひとつの街のはずなのに、壁ひとつ隔てただけで、そこに流れる空気も、人の表情も、まったく別物だった。
石畳が整えられ、音楽が流れる表通りと、ひび割れた地面と閉ざされた戸口が並ぶ裏通り。
どちらに生まれるかで、人生の形が最初から決まってしまう――そんな場所が、本当に存在しているのだと、初めて実感した。
どうしてこんなことになってしまうんだろうと、答えの出ない問いが、胸の奥に沈んだままだった。
ロリスはあれから何も言わなかった。ただ、一緒に歩いて、あの道を戻っただけ。
僕も、問いかける勇気がなかったのかもしれない。
あるいは、あの沈黙が、あの時だけは必要だったのかもしれない。
ベッドの上で、そっと息を吐いた。
少しずつ、胸の中に、ある考えが芽を出している気がした。
――何かをしたい。
それが何なのかはまだわからない。けれど。
昨日の景色を、ただの他人事のままにはしておけない気がした。
それだけは、確かだった。
夕日が差しかかるステンドグラスの、あの一瞬の光景を――僕は、今でもはっきりと思い出せる。
ひび割れた色ガラスが、崩れた壁にいびつな光を落としていた。
それなのに、どうしてだろう。あの瞬間、胸の奥が、静かに揺れた。
奴隷区で見たものを、忘れてしまいたかったのかもしれない。
自分にとって残酷で、心が痛むような気持ちを――あの美しい光で、せめて上書きしたかったのかもしれない。
ひび割れた色ガラスが、あんなにも美しく映っていたのは、きっとそのせいだ。
希望を抱きながら、気丈に生きるあの子どもたちのように。
歪んだ世界の中でも、笑うことをやめずにいられる強さ。
そんなものに、僕はどこかで救われていたんだと思う。
久しぶりに、本屋で宝探しでもして気を紛らわそう――そんな気持ちがふと湧いてきた。
体を動かすでも、誰かと話すでもなく、ただ静かに、ページをめくる音に身をゆだねたくなるときがある。
知らない物語に触れることで、ほんの少し、自分の世界を広げられるような気がするのだ。
まだ早い時間の通りは、人影もまばらで、ひんやりとした風が頬を撫でていった。
石畳を踏みながら、ロリスと一緒に、僕は少し外れにある古本屋を目指す。
扉を開けると、鼻先にかすかに埃とインクの匂いが漂った。
ロリスは何も言わず、入り口で軽く辺りを見渡したあと、僕のすぐ後ろをついてくる。
その静かな足音が、なんとなく心地よかった。
「ずいぶん古そうな店だな」
ロリスがぽつりとつぶやく。
「うん。でも、こういうところのほうが、面白いのが見つかったりするんだよ」
僕はそう答えながら、奥の棚へと足を進めた。天井近くまで届く木の本棚には、年代もジャンルもばらばらな本たちが、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。少し傾いた背表紙の列が、どこか懐かしさを誘った。
ロリスはふと、一冊の厚めの本を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。
その横顔は真剣で、少しだけ柔らかくなっているようにも見えた。
「……物語の中には、きっと現実よりも救いがある」
そんな気がして、僕も一冊、手近な本を引き抜く。
しばらくのあいだ、二人の間には言葉はなかった。ただ、ページをめくる音だけが、古い本屋の空気の中に静かに響いていた。
何冊か手に取り、僕はカウンターへと向かった。ロリスも、二冊ほどを抱えてついてくる。
店主は小柄な老人で、棚の陰からぬるりと現れたかと思うと、無言でこちらの本を受け取った。
すると、老人はまじまじと本を見つめ、目を本に近づけてじっと覗き込んだ。
まるで本そのものの息づかいでも感じ取ろうとしているように。
「ふむ……これはまた、懐かしい背だ」
かすかに鼻を鳴らしながら、彼は片手でポケットをごそごそと探り、やがて小さなガラス玉のようなルーペを取り出した。
それを器用に目に当てると、今度は本の綴じ目や紙の端、印刷の掠れまでを丁寧に追いはじめる。
老人の手つきは、まるで壊れ物を扱う職人のように繊細だった。
紙の角を撫で、綴じ糸のほつれを目でなぞり、時折うなずきながら、ルーペを右から左へとゆっくり移動させる。
薄暗い店内に、埃を含んだ光が差し込み、本の表紙に淡く影を落とした。
ロリスはカウンターの向こうを無言で見つめていたが、ふと視線を外し、壁の高い棚へと目を向けた。
そこにはびっしりと古い洋装の本が並び、背表紙に金色の文字がうっすらと浮かんでいた。
老人はやがて確認を終えると、一冊ずつゆっくりと重ねていく。
細くしわがれた手が、慣れた動作で紙の包みを取り出し、慎重に角を折りながら包み込んでいく。
ざらついた紙の音が、静寂の中で妙に心地よく響いた。
包まれた本たちは、どこか少し温かさを帯びて見えた。
長い時を経て、また誰かのもとでめくられるその日を、密やかに待っていたかのように。
老人が最後の一冊を丁寧に包み終えるころ、ロリスが手にしていた小さな袋からいくつかの硬貨を取り出して差し出した。
老人はそれを受け取り、無言で小さくうなずくと、包みを差し出す。
僕はそれをそっと受け取った。
戸口のガラスが微かに揺れ、風の気配が店内に忍び込む。
僕たちはそのまま無言で店を出た。
古本屋の扉が、静かに音を立てて閉じた。
店を出て石畳の路地に足を踏み出すと、風がひとすじ通り抜けていった。
包みを胸に抱えながら、僕は隣を歩くロリスにふと尋ねた。
「ねえ、さっきの……あのガラス玉。視力が悪いから見やすくしてたのかな?」
ロリスは少しだけ笑って、軽く頷いた。
「そうだね。まあ、確かに見やすくするための道具だよ。ああいう年配の人は、昔ながらの道具に慣れてるからね」
そう言ったあと、ふとこちらを見て首をかしげる。
「……カイの世界にはなかったのかい?」
僕は苦笑しながら、空を見上げた。
「あるにはあったよ。でも、もっと……なんというか、ちゃんとしたものだった。フレームもあって、レンズも透明で、もっと使いやすくて」
「ふむ」
ロリスはそれ以上は何も言わず、ただ「面白いな」とでも言いたげに、目を細めていた。
ガラスをレンズとするような発想がこの世界にもあるのなら――きっと、めがねを作ってしまっても問題はないだろう。
加工技術さえどうにか手に入れば、形にするのは難しくない。
僕も最近、文字とにらめっこする時間がずいぶん増えた。
本も読むし、調べものもするし、時には書きものだってある。
この世界の紙はやや粗く、インクも独特で、目が疲れやすいのが難点だった。
「……ちょっと作ってみようかな」
小さくつぶやいた僕の声に、ロリスは横目でちらりと見る。
「めがね、ってやつ?」
「うん。使い慣れた道具があると、落ち着くからね」
ロリスはそれを聞いて、「ふうん」と相づちを打ちつつも、どこか楽しげだった。
あまり口には出さないけれど、僕が何かを作ったり工夫したりするのを、彼は嫌いじゃないらしい。
通りの先、傾きかけた陽が屋根の上に赤い輪郭を落としていた。
そんな光の中を、僕たちはまたゆっくりと歩き出す。
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