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異世界転移記 ~層彩のキャンバス~  作者: 0
第二章 <遠足>
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28話

 音楽を聴き終えると、ほかにも何か見つけるかもしれないと思い、僕たちは静かに席を立った。


 ホットミルクとビール一杯ずつで、ずいぶんと長居してしまったけれど――

 店の主人はいやな顔ひとつせず、軽く手を振って見送ってくれた。


 店を出ると、外の空気はもうすっかり夕方の匂いを纏っていた。

 空は茜色に染まり、遠くの屋根の影が長く伸びている。


 しばらく歩いていたら、城壁が見えてきた。


 街の端、境界をなぞるように伸びた石造りの壁は、昼間とは違う表情をしている。

 茜に染まる空を背景に、その影はどこか柔らかく、そして静かだった。


 壁際の小道を、僕とロリスはゆっくりと歩いた。

 背の高い草の間を風が抜けていく音だけが耳に残り、街の喧騒は遠くへと薄れていく。


 ロリスは黙ったままだったが、その沈黙が心地よかった。


 視野の奥に、小さな薄汚れた教会が見えた。

 崩れかけた石壁と黒ずんだ屋根。塔もなく、鐘も見えない。けれど、そこだけがぽつりと時を止めたように佇んでいる。


 その教会を境に、周囲の雰囲気ががらりと変わっていた。

 街並みの延長にあるはずなのに、まるで異なる空気――まるで壁の向こうに広がる“別の街”のような。

 窓という窓に板が打ち付けられた建物がいくつか並び、通りには人の気配がない。草は伸び放題で、舗装もところどころ剥がれている。


 「……あそこ、住んでる人いるのかな」

 思わず口に出した僕の言葉に、ロリスは小さく息をついた。


 「住んでいるというか……」


 ロリスは言い淀んだ。何かを飲み込むように、視線を教会の向こうへと向ける。


 「……直接見たほうが早いか」


 その言葉に、僕は無言で頷いた。


 教会の脇に続く細い道を進むと、急に空気の密度が変わったような気がした。ひんやりとした風が頬を撫で、足元の土はひび割れていて、草もまばらにしか生えていない。


 教会の裏手に広がるその区画には、何かが欠けていた。


 ただの貧民街とも違う。人の営みの匂いがしない。音も、気配も、ぬくもりも――。


 道沿いの建物は、どれも小さく低く、つぎはぎだらけの板や布で補修された粗末な小屋ばかりだ。壁の色はすでに何色とも言えず、窓の代わりに貼られた板には無数のひっかき傷が刻まれていた。


 戸口はほとんど閉ざされていて、中の様子は伺えない。それでも、わずかに空いた隙間から、目だけがこちらを覗いている気配があった。


 声はない。笑い声も、怒鳴り声も、生活の音すらしない。聞こえるのは、僕たちの足音だけだった。


 「……ロリス」


 自然と小声になった僕の声に、彼はゆっくりと首を振った。


 「無理に話しかけないほうがいい。ここにいるのは、声を上げても届かないってことを、ずっと教え込まれてきた人たちだ」


 言葉の端に、わずかな苦さが滲んでいた。


 ふと、ひとつの家の前に、小さな影が見えた。まだ年端もいかない女の子が、ぼろぼろの布をまとい、こちらをじっと見ていた。


 その目に、恐怖はなかった。ただ、何も期待していないような、そんな無表情だった。


 僕は言葉を失い、しばらく立ち尽くしていた。





 もう少し奥へと進むと、空気がまたわずかに変わった。


 そこには、他の掘っ立て小屋とはまるで違う建物が三、四軒、ぽつぽつと並んでいた。


 高い塀に囲まれた屋敷。壁には蔦が這ってはいるが、手入れはされている。窓にはガラスが嵌められ、鉄の格子もついている。装飾もどこか華やかで――この区画の中では明らかに“浮いて”いた。


 「……あれが、商人たちの家か」


 ロリスがぽつりとつぶやく。


 「奴隷たちを管理し、買い、売る人間たち。ここに住んでいるのは、一部の“成功者”だよ」


 そのときだった。ちょうど手前の建物の扉が開き、中から一人の男が現れた。


 年のころは四十手前ほど。細身の体にゆったりとした深緑の上着を羽織り、飾り気のある杖を手にしている。顔立ちは整っていたが、目が笑っていない。


 「おやおや、珍しいお客さんだ」


 男は僕たちを見ると、品のある微笑みを浮かべながらゆっくり近づいてきた。


 「奴隷をお求めですか?」


 男は口元にうっすらと笑みを浮かべたまま、どこか喉の奥でくぐもったような笑い声を漏らした。皮肉とも、挑発とも取れるその響きに、僕は思わず足を止めた。


 「いや、そういうわけじゃない。ただ通りかかっただけだ」


 僕がそう答えかけた瞬間、隣のロリスが口を開いた。


 「私たちは何も買いには来ていない。ただ、少し事情があってな。気にしないでもらえると助かる」


 ロリスの声は低く、淡々としていた。だが、言葉の端にかすかな警戒が滲んでいる。


 男は肩をすくめると、ふたたび笑った。


 「なるほど。見物人、か」


 その言い方は、まるで見下すでもなく、突き放すでもなく――ただ底の見えない井戸のようだった。


 そしてふいに、男の目が僕に向けられる。


 「……さて、あなたはどうかな。こんなところまで足を運ぶなんて、なかなか珍しい。さては、シャイボーイかな?」


 からかうように口元を歪め、男は一歩こちらに踏み出す。


 「見るだけと言いながら、心の奥では何かを求めている……そういったところかな?」


 男の言葉は柔らかく響いたが、その内側にはねっとりとした何かが絡みついていた。


 僕は視線を逸らさず、できるだけ落ち着いた声で応じる。


 「そんなつもりはないよ」


 僕の言葉に、男は肩をすくめた。だが、笑みはそのままだった。


 「まあいい。ここはね、気晴らし程度で入っていいところじゃないんだよ」


 声の調子がわずかに低くなる。


 「わかったなら、さっさと帰るんだ。若いのが遊び半分で踏み込む場所じゃない。見るもの、聞くもの、全部が後戻りできなくなる」


 男の杖の先が、乾いた石畳をコツ、と叩いた。


 「……忠告はしたからね」


 それだけを言い残し、男はふたたび屋敷の中へと消えた。今度は扉の閉まる音も、妙に静かだった。


 僕は小さく息を吐く。気づかないうちに、肩に力が入っていた。


 折り返すことにし、教会の前に戻ると、差し掛かる夕日の光が、教会のひび割れたステンドグラスに差し込んでいた。


 かつてはきっと、美しい祈りの色を映していたであろうそのガラスは、いまや歪んだ影を壁に落とすだけだった。けれど、その一瞬だけは――どこか神聖なものを帯びて見えた。


 ロリスも立ち止まり、しばらくその光景を見つめていた。


 教会内から、かすかに子どもたちの笑い声が聞こえてきた。


 笑い合うというより、はしゃぐような――小さな足音と混ざって、微かに響いてくる。


 「……孤児院の代わりになってるんだ」


 ロリスが言った。


 「見ての通り、国がいちおう援助はしたんだけどな」


 ロリスの視線は、教会のひび割れた外壁をなぞるようにゆっくり動いていた。


 「立地も悪いし、周囲の環境もひどい。正直、子どもを置いておくには向いてない。でも――」


 ふと、教会の中から、ひときわ大きな笑い声が響いた。


 ロリスはそこで言葉を切り、少しだけ口元を緩めた。


 「……元気そうで、よかったよ」


 夕日に照らされたその横顔は、どこかほっとしたようにも、少しだけ寂しげにも見えた。


 僕はもう一度、ステンドグラスの向こうに視線を向けた。


 壊れかけの教会に、子どもたちの声が満ちている――

 それだけで、ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなる気がした。


 ロリスが何も言わず歩き出したのを見て、僕もその後を追った。

 背後で、風が草を鳴らす音に、かすかに笑い声が重なっていた。

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