26話
今日はサレンの授業がなく、エナも「仕事がある」と言って魔術研究棟に向かっていった。
ロリスは監視役のはずだが、いつもと同じ時間になってもなかなか現れない。
ぽつんと、取り残されたような朝。
一人の侍女が近づき、ロリスが遅れてくると僕に伝え、とりあえず朝の支度をを済ませることにした。
朝の支度の一連の流れは、すっかり習慣になっていた。
まずは洗面台で顔を洗い、貸与されたリネンのタオルで水気をぬぐう。
洗面台といっても、水の魔石に魔力を流すと出てくる水をためる大きめのバケツのようなもので、僕の世界のような明白とした蛇口も排水口もない。
床にはゆるやかに傾斜がついていて、余った水は自然と隅の方の排水溝に流れていくようになっている。
顔を洗った水の冷たさに、ようやく身体が目覚めたような気がした。
櫛で軽く髪を整え、指定された衣服に着替える。簡素だが動きやすく、素材も思ったより肌に優しい。
続いて、食堂へ向かう。廊下を歩く足音が、やけに大きく聞こえるほど静かだった。すれ違うこの屋敷に仕えるメイドたちと軽く会釈をして言葉を交わすことなく自分のことに没頭していた。もうこの屋敷に来てまあまあ経つが、いまだに使用人たちとの距離感が縮まらないままどこか気まずそうな雰囲気を醸し出していた。
とはいえ、彼女たちのおかげでQoLは確保されていた。生活する分困るようなことなど基本なく、不便なことはあるが別に不満など一切なかった。現に目の前に並べられている朝食を見れば自ずとわかることだが、よく食卓に出てくる硬めのパンと温かいスープ、少量の果物。質素ながらも栄養や消化を考慮した朝食となっているのだ。香りは悪くないが、なんとなく味気なく感じるのは、いつもの騒がしい食卓がないせいだろう。
――今日は、誰もいない。
パンをちぎりながら、無意識に天井を見上げていた。
静かすぎる朝は、どうしてこんなにも落ち着かないんだろう。
(こんなときに限って、ロリスまで遅れるなんて)
不意に、背筋をくすぐるような予感がした。
ネガティブな思考をしていたら、ロリスがいつもの無愛想な顔で、食堂の扉を押し開けて入ってきた。
「……悪い、遅れた」
低い声でそう言うと、ロリスは僕の向かいにどっかりと腰を下ろす。
肩についたままの外気の冷たさが、彼の遅れた理由を語っているようだった。
「どうかしたの?」と訊くと、ロリスはパンをひとつ手に取りながら、少しだけ眉をしかめた。
言いにくそうな顔をしながら、ロリスは少し間を置いて口を開いた。
「……実は」
そう言って、制服の内ポケットから一枚の紙を取り出す。
それは淡い羊皮紙で、見慣れない印章が押されていた。
僕がそれに視線を落とすと、ロリスはまっすぐこちらを見据えた。
「……この国の民としての登録申請書だ」
僕は一瞬、言葉を失った。
「え?」
「まあ、正式には“仮登録”って扱いになるらしいが……。あんたがこの国で生活するにあたって、最低限の身分保証をするって内容だ。公的記録として名前が残る」
ロリスの声は淡々としていたが、その指先はわずかに緊張していた。
僕は紙を受け取りながら、その表題を確かめた。
“王都滞在者仮登録書――民としての一時的承認手続き”
見慣れない言葉の並びに、現実味が薄いのに、胸の奥だけがずしりと重くなる。
僕を存在しない人間として扱うはずじゃなかったのか?
問いかけると、ロリスはほんの少し視線を逸らしながらも、頷いた。
「もちろん、そのつもりだった。表向きには“存在しない”ままで通す計画だったさ」
彼は短く息をついてから、少し肩をすくめるように続けた。
「だけど、これがないと王都の外に出ることもできない。検問で止められて、身分証明ができなければ、即拘束だ。」
「王都内で私が監視役でいる分、大丈夫だろうとは思うけど……それもいつまで続けられるか、保証はない」
ロリスは、ちぎったパンを皿に戻し、真面目な顔で僕を見た。
「ならば、合法的にこの国の“誰か”として登録しておくほうが、余計な目を引かずに済む。君を守るためでもあるんだ」
ロリスの声には強い感情はなかった。ただ、現実をまっすぐに見つめた者の声音だった。
「でも、今さら過ぎるでしょ。こんなこと、最初から想定できたはずじゃないか」
僕の声に少し棘が混じったのが、自分でもわかった。
ロリスは目を細めたが、すぐに視線を外し、パンを指で転がすようにしながら答えた。
「……君が襲われたことが、きっかけではある。だが――」
ロリスは一拍置いて、言いにくそうに言葉を続けた。
「何よりも、本当にお前が“我々に協力するつもり”だったのかが、わからなかったんだよ。信用できなかった」
その言葉は、静かで、しかし重かった。
「最初は異世界から来たって話も眉唾だったし、何を考えてるかも、どう動くかも読めなかった。監視役とはいえ、最悪の事態も想定してた」
ロリスは、僕をじっと見た。
その目に嘘はなかった。ただ、不器用なまでに真摯なものがあった。
「でも君は言われた通り、確かに拳銃なるものをこの世界でも作れて見せた――試験段階とはいえ、それは実際に証明しただろう?」
ロリスは軽く息を吐きながら、目をそらすことなく続けた。
「君が持っている力、知識、そして技術。それがどういうものか、最初はまるで分からなかったんだ。異世界のものなんて、最初から私たちには理解できなかったから。」
僕は、ロリスの言葉に黙って耳を傾けた。
「でも、拳銃というものが実際にこの世界で使えることを見せられて、君がこの世界で果たす役割が少しずつ見えてきたんだ。技術の力で何かを変えることができるかもしれない。それを信じるようになったんだ」
ロリスは、ついに視線を僕に向けた。その目には、最初の疑念や警戒ではなく、確かな信頼が感じられた。
「だからこそ、君の行動が私たちの未来にどれだけ影響を与えるか、今は少しずつ分かってきたんだ。ただ、その覚悟を俺が見届けられたことが、すごく大きかった」
ロリスの言葉に、僕は思わず言葉を飲み込んだ。
その言葉には、ただの協力者としてではなく、僕が本当にこの世界において重要な存在だということを、認めてくれるような何かがあった。
言いたいことはわかるし、褒められている、認められているということも感じているが、それでもどこか腑に落ちないところがあった。ロリスのことを責めたところで何も変わらない。おそらくだが、これもセファーの指示でロリスはそれに従っただけに過ぎなかった。人間扱いすらしていなかったようにも思えた発言であったが、衣食住に困らない生活を送れているのも事実で、この時代に人道的な扱いをしてほしいなど自分にとっては当たり前でも過ぎたことを求めているのかもしれない。
実際この屋敷に住む人間からすれば、自分の出自すら明かせないのにのうのうと貴族の扱いを受けているよそ者にしか見えなかったのだろう。
それでもまるで最初から信頼されてなかったかのような言い草と、ついに認められて、この世界に役立ったうれしさと、目の前にいるロリスの言葉から感じる温かさに、心の中が何とも言えないぐちゃぐちゃの感情で満たされていく。
信頼されていなかった、でも今は認められた。その言葉には感謝もあれば、どこか切なさも感じる。自分がようやく信じられるようになったことが嬉しい反面、最初から信じてもらえなかったという事実が、無意識に引っかかっていた。
自分が何かを証明するために動いてきたわけではない。自分の力が役に立って、みんなのためになると信じて行動してきたつもりだ。もちろん私も聖人君子というわけでもない、あわよくば何かの報酬でももらえればよかった。この時代となれば真っ先に思い付くのは莫大な財産や地位、それにハーレムなんてものも考えることはあった。でも、それらはともかく、人として認められるまで、どれだけ時間がかかったのかという現実に、ふと虚しさが込み上げてきた。
「……正直、なんか複雑だ」
思わず口にしてしまった言葉に、ロリスは少し驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な顔に戻った。
「わかる。最初から信用していなかったことは、今になっても申し訳ないと思っている。でも、信じることには時間がかかるんだ。私だって、最初はお前のことをただの異世界の人間としてしか見ていなかったから」
その言葉に、僕は少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。ロリスは確かに不器用だし、真面目すぎるところがある。でも、彼なりに僕を信じるようになったのだと思うと、胸の中のもやもやが少しずつ解けていく気がした。初対面で私を捉えた人間がこうしてそばにいると、なんだが感慨深いと思ってしまった。
「でも、それでもさ……。今はどうしても、俺の中で消化しきれない部分がある」
僕は、少しだけ言葉を続けた。
ロリスはそういうつもりでないことは関わってなんとなくわかる。決してうそをつくような御仁でないことも、真面目で職務を常に全うしようとすることも。だがセファーのこととなるとやはり不信感を抱かずにいられなかった。
結局最初は信じるつもりもないのに、僕を脅しでどうにか役立たせたかっただけなんじゃないか、と心の中で思ってしまう。文明が進んでも同じことだ、部下の手柄をあたかも自分が成し遂げたようにふるまう上司のようで、私のことなんて初っ端から利用するだけのつもりだったのではないだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、また胸が重くなるのを感じた。
「……それが、気になるんだ」
ロリスは少し黙ったまま、僕の言葉を受け止めていた。そして、しばらくしてから静かに答える。
「そうだな、最初はお前を信じるつもりなんてなかった。ただ、異世界から来たお前に利用価値があると思った。それだけだ。でも、時間が経つにつれて、お前の力を使いたくて、力だけじゃなく、お前自身のことも少しずつ理解していった」
その言葉に、僕は深く息を吐いた。正直に言われることで、逆に少し気持ちが楽になった気がした。
「だから、今は違う。最初の考えが間違っていたとは言わないけど、今の私は、君を信じている。最初の目的にこだわっているわけじゃない」
ロリスの言葉に、僕はしばらく黙って考えた。そして、心の中で少しだけ頷く。確かに、最初は互いに信頼していたわけではない。でも、今はお互いに信じ合って動いている。過去のことを引きずるよりも、今の関係を大切にした方が良いと思った。
「……わかったよ。少しは楽になった」
そう言って、僕はロリスに向かって微笑みかけた。セファーのことはともかく、少なくとも目の前にいるロリスが私を信頼していることだけは確かのように思えた。まだすべてを理解しきったわけではないけれど、少なくとも今は前を向いて進むことができそうだった。
出自などを適当にごまかしながら、最後の署名欄に移る。あとは自分の名前を書くところだけだ。
名前を書こうとペンを持ち直したその時、ロリスがぽつりと口を開いた。
「外に出るためだけの口実だから、偽名でも構わない」
ロリスは淡々と言う。
その言葉に僕は少し考え込んだ。確かに、名前に意味を込める必要はない。この申請書はただの通行証で、外に出るためだけの手段に過ぎない。
「前に襲われたことがあるから、きっと今度も何かあるだろう」
ロリスは続けた。「敵に情報を渡さないためにも、偽名で済ませるのが一番だ」
僕は視線を落とし、紙の上の「出自」欄を見つめる。
(……セファーの養子か。)
便宜上この屋敷を出入りするための口実として使われることにはなるが、なんだが現実感がなかった。偽りのものとはいえ、自分を信じることができなかった人間の養子となるのはいささか抵抗があった。私が拒絶したところで結果など変わるわけでもないからひとまずこのままにしておいたが、...やはりいやだ。
ロリスの言葉を受けて、僕はしばらく考え込んだ。確かに、偽名を使えば安全だろう。誰かに自分の情報を知られたくないという気持ちも、強くある。
だけど……。
僕の手は、自然と「カイ」という名前に向かって動いていた。
あの名前に、どこか安堵を感じる自分がいるのも確かだ。
自分の存在を、認めてもらった――その証として「カイ」という名前を残すことが、今の自分にはしっくりくる気がした。何よりも、この世界に本来属さない自分の名前を刻みたい気持ちがあった。
だから、ペン先は躊躇なく、紙の上に名前を刻んだ。
その瞬間、少しだけ胸の奥で何かが決まった気がした。
ロリスは無言で見守っていたが、何も言わずに頷いた。
僕は静かに息を吐き、視線を落とす。
紙の上には、はっきりと刻まれた カイ・ヴェルノート の文字がある。
生まれ持った名前ではない。けれど、今この世界で手にした居場所と、信頼と、役割の先に選んだ名だ。
偽りのためではなく、自分自身として生きるための選択。
それが、この世界で生きる自分の証になる――そう思えた。
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