25話
襲撃の夜から、僕の心の奥にはずっと一つの問いがこびりついていた。
――僕に、何かできることはないのか。
あの時、エナが、ヴェルティナが、そしてロリスが、僕を守ってくれた。
僕はただ、その中心にいた。守られるだけの存在でしかなかった。
近頃は――あの夜のような襲撃もなく、平穏な日々が続いていた。
気がつけば、僕はこの世界での生活にもずいぶん慣れてきている。
言葉も、習慣も、礼儀も。
「……不自由なく過ごせてるな、僕。」
ぽつりと呟く。
その裏には、支えてくれる人たちの存在があった。
サレン。
そして、サレンに教鞭を握らせるように動いたセファーとロリス。
彼らには、本当に感謝しなければならない。
ふと、サレンの顔が頭に浮かんだ。
あの夜――僕が襲われた直前、彼は「用事がある」と姿を消した。
正直に言えば、あの時は少し疑いの気持ちを抱いた。
でも、日々の彼の言動を見ていれば、そんな考えが愚かだったとすぐにわかる。
「……疑って、悪かったな。」
胸の奥に、ほんのり申し訳なさが芽生えた。
サレンのおかげで、この世界の文字もだいぶ読めるようになった。
まだ完全ではないが、貴族社会の文書にも少しずつ目を通せるようになったのは大きい。
――貴族。
自分には縁遠い世界。
下手に目立てば、自分の正体が知られるリスクがある。
それでも、知識として理解しておくことに意味はある。
せっかく文字が読めるようになったのだ。
「……日記を、つけてみるのもいいかもしれない。」
思い立ったその瞬間、心の奥でなにかが決まった気がした。
学びの一環でもある。
そして――自分の足跡を、記録するためでもある。
もちろん、紙や本は高価だ。
だが、セファーの懐からの支出なら、多少は目をつぶってもらおう。
以前、サレンと一緒に本屋を訪れた時、彼がずいぶん珍しい本を手に入れていたのを思い出す。
「資料がほとんど残されていない時代のもの」だと、あの時サレンは言っていた。
そうだ。
記録を残すことは、いつか誰かの助けになるかもしれない。
もっとも――この世界で“存在しないもの”として扱われる自分がどれだけ書き残しても、
いずれ消される運命なのかもしれないが。
それでも――と、僕は心の中で言葉を続けた。
「それでも、何もしないよりはいい。」
白い紙の上にペンを走らせる。
インクのにじみが、まるで自分の存在を映し出すようだった。
たとえ誰にも届かなくても。
この手の中に、確かに“今”がある。
自分がこの世界に来た経緯を、ゆっくりと思い出す。
最初は黒い穴に吸い込まれて――気づけば、大通りの一角に立っていた。
突然、武器を突き付けられ、何も分からなかった。
不安と孤独に震えながら連行され、その時出会ったのがロリスだった。
あれからいろいろなことがあった。
セファーと出会い、エナと出会い、サレンと出会い。
彼ら以外にもたくさんの人に恵まれた。
誰かの助けがなければ、今ここにいることはできなかっただろう。
「――でも。」
今もこうして、無事に今日という日を迎えている。
――過去のことを、こんなにも鮮明に思い出せるなんて。
書き進めるうちに、心の奥から湧き上がってくるものがあった。
「短い間だったけど……」
ぽつりと声に出す。
「……とても、充実してたんだな。」
そう気づいた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
この世界に来る前――大学の長い休暇、ただ無為に時間を潰していた日々。
目的もなく、目標もなく、ただ流れる時間に身を任せていた。
「……あの頃の僕は、本当に何もなかった。」
今なら、そう思える。
あの頃の自分に、教えてやりたかった。
――こんな日々が、こんな出会いが待っているんだと。
ペンを握る手に、力がこもる。
この世界で出会った一人ひとりの顔が、心に浮かぶ。
ロリス。エナ。サレン。セファー。
誰かと話し、誰かと笑い、誰かに叱られ、誰かに支えられた。
「僕は……ここで、生きてる。」
独り言のように呟いて、ゆっくりと微笑んだ。
ページの端に、そっと日付を書き入れる。
この日、この瞬間の気持ちを、未来の自分が読めるように。
ペン先が紙を離れる音が、小さく部屋に響いた。
「……よし。」
深く息を吐いて、椅子の背にもたれかかる。
胸の奥に残っていた重たさが、少しだけ軽くなった気がした。
窓の外では、いつの間にか夕暮れの光が街を照らしていた。
遠くで子どもの笑い声が聞こえる。
どこか懐かしくて、心地いい音。
――この日々を、大切にしよう。
小さく、そう心に誓った。
明日はどんな一日になるだろう。
どんな出会いが待っているだろう。
僕は机の上の日記をそっと閉じ、立ち上がった。
足取りは、昨日より少しだけ軽かった。
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