23話
静寂が戦場を支配する。
逃げた暗殺者たちの気配はすでに遠く、夜の闇だけが僕たちを包んでいた。
「……助かったな。」
息を整えながら、僕は獣人族の女性に視線を向ける。彼女は拳を軽く握り直し、無言のまま敵の残骸を睨んでいた。
「ありがとう。君がいなかったら危なかった。」
彼女は微かに眉を動かしたが、すぐに視線を僕から外し、拳の汚れを払う。
「……お互い様よ。」
短くそう言うと、彼女はナックルダスターをゆっくりと外しながら息を吐いた。
「大丈夫?」
背後からエナが駆け寄ってくる。彼女の瞳には、確かな心配が滲んでいた。
「うん、なんとか……。でも、エナこそ平気か?」
エナは軽く短剣を振りながら肩をすくめる。
「まぁ、多少は疲れたけど……そっちこそ、怪我してない?」
僕は自身の腕を軽く見て、小さな切り傷を確認した。そこまで深くはないが、確かに戦闘の名残はある。
「少しだけ。でも、大丈夫だよ。」
すると、獣人族の女性がこちらを一瞥し、少し口を開いた。
「……そもそも、誰だ?」
その言葉に、僕とエナは顔を見合わせた。
「ああ、そうだな。自己紹介くらいしないとな。」
僕は軽く手を上げる。
「俺はカイ。で、こっちはエナ。」
エナも頷き、軽く手を振った。
「あなたは?」
僕が問いかけると、獣人族の女性はわずかに表情を引き締めた。
「……わたしはヴェルティナだ。」
静かな声。しかし、その響きには芯の強さがある。
彼女は腕を組みながら、じっとこちらを見据えている。
「……獣人族、ですよね?」
僕が確認すると、ヴェルティナは軽く片眉をあげた。
「そうだけど?」
当然だろう、と言わんばかりの口調。けれど、どこか気にする様子もない。
エナがふと、ヴェルティナを見つめながら言った。
「獣人族って、この国では珍しいですよね?」
ヴェルティナはわずかに唇を歪ませる。
「……お互い様じゃない?エルフさん?」
エナは目を瞬かせたあと、軽く肩をすくめた。
「まあ……そうかもね。」
ヴェルティナの言葉に、僕はふとエナを見つめる。
「……エナって、エルフだったのか?」
僕の問いかけに、エナは驚いたように目を丸くする。
「ちょっと待ってよ、今さら気づいたの?」
「ああ……なんとなく耳が長いとは思ってたけど、そこまで意識してなかった。」
呆れたような顔をしつつ、エナはため息をつく。
「まったく……。」
それでも、彼女の口元には微かに笑みが浮かんでいた。
僕がまだ混乱していると、ヴェルティナが腕を組みながら言葉を続ける。
「それで、お前らはなんで狙われたんだ?」
その問いに、僕とエナは顔を見合わせる。
「さぁ……わからないね。心当たりがない。」
エナが静かに答える。
ヴェルティナは少し目を細め、思案するように顎に手を当てる。
「探索者機構を出たあと、お前たちをつけてる奴がいた。それで気になって追ってみたら、こうなった。」
僕は言葉を失った。
「……最初から俺たちはターゲットだった?」
ヴェルティナは静かに頷く。
「どうやらな。」
その一言が、まるで戦いの余韻を断ち切るように響いた。
エナは腕を組み、考え込むように視線を落とす。
「でも、どうして?探索者機構に寄っただけなのに。」
僕も疑問を抱かずにはいられなかった。
「確かに、特別なことは何もしてない……。」
ヴェルティナは肩をすくめ、無造作に拳を開いた。
「まあいい。襲われたのを見たから助けただけだ。」
彼女は僕たちを一瞥し、特に未練もなさそうに踵を返す。
「じゃあ、これで。」
静かにそう言い放つと、ヴェルティナは夜の闇へと溶けるように歩き出す。
エナが少し驚いた顔で彼女を見送りながら言った。
「……あっさりしてるね。」
僕は荒い息を整えながら、心臓の高鳴りがまだ収まらないのを感じていた。
「……いや、助かったよ。だけど……なんだったんだ、あいつらは。」
まだ頭の中が整理しきれない。暗殺者の襲撃、ヴェルティナの登場――。
こんなことがあった後では、散策気分などもう残っていない。
「とりあえず、ここは危ない。どこか安全な場所に行こう。」
僕がそう言うと、エナは頷き、そっと僕の手を取った。
「うん。行こっか。」
少しドキッとする。自然な仕草なのに、心臓が妙に跳ねた。
しばらく歩き、人通りの多い大通りに出たところでようやく緊張がほどけた。
屋台の明かりや、人々の笑い声が、少しずつ日常を取り戻させてくれる。
「ねえ。」
エナがこちらを見上げる。
「せっかくだし、ちょっと寄り道してこ?」
「え……でも、危なかったし、今日はもう……」
「……そっか、じゃあ……」
エナが少し唇を尖らせたかと思うと、にやりと笑った。
「じゃあ、私と“デート”ってことで。私が頑張った見返りに、ね?」
僕は思わず言葉を詰まらせた。
「デ……デート?」
エナは悪戯っぽく微笑み、僕の腕に軽く触れる。
「そうよ。今日の戦い、頑張ったでしょ?カイはちゃんと労うべきだと思うな。」
そう言いながら、彼女はぐいっと僕の手を引く。
「ちょ、ちょっと待てよ……!」
僕は戸惑いながらも、抵抗しきれずに足を踏み出す。
「ほら、大通りに屋台が並んでるでしょ?何か美味しいものでも食べて、一息つこうよ。」
エナは軽い足取りで進みながら、ちらりと僕を見上げる。
「それとも、カイは女の子とのデートは苦手?」
「そ、そういう問題じゃない……!」
僕は顔が熱くなるのを感じながら視線を逸らす。
エナは小さく笑いながら、さらに僕の腕を引っ張る。
「ほらほら、デートなんだからちゃんとエスコートしてよ?」
ぐいぐい来るエナと、たじたじになる僕――。
なんだか、さっきまでの戦いとは違う意味で息が詰まる気がした。
「……まったく、お前ってやつは。」
僕は呆れたように笑いながらも、エナの手を振りほどくことはできなかった。
人通りの多い大通り。屋台の灯りが色とりどりに輝き、香ばしい匂いがあちこちから漂ってくる。
エナはその中を楽しげに見回し、あれだこれだと指を差す。
「ね、あの串焼き美味しそう! あ、あっちの甘いお菓子も!」
「落ち着けって……どれからにするんだよ。」
僕が言うと、エナはくるりと僕の方を振り向き、にっこりと笑った。
「カイが決めて?」
その無邪気な笑顔に、少しだけ心の緊張が解ける。
……ほんの少し前まで、命の危機に晒されていたのに。
こうして隣で笑う彼女を見ていると、不思議と“日常”が戻ってきた気がする。
「……じゃあ、あの串焼きにしよう。」
「やった!」
僕の腕を勢いよく引き、エナは屋台に駆け寄る。
その背中を見つめながら、僕はふと、小さく笑みをこぼした。
(ありがとう)
串焼きを受け取ったエナが、嬉しそうに振り返り、僕に一本手渡す。
「はい、カイの分!」
「ありがとな。」
受け取った串を口に運びながら、僕は彼女の横に並んだ。エナの手には、いつの間にか出した小さな財布が握られている。
夜風が心地よく吹き抜ける。
「……なあ、エナ。」
「ん?」
「今日、助けてくれてありがとう。」
エナは一瞬目を丸くしたが、すぐににっこり笑った。
「ふふっ、どういたしまして。」
その笑顔は、屋台の灯りに照らされて、どこか眩しく見えた。