21話
――結局、あのあとエナに絡まれ続けて、散々な目にあった。
でも、もともとやることなんてなかったし……まあ、いいか。
現実世界にいた僕に対して、エナは興味津々でいろいろと質問を繰り出してきた。
「空飛べるんだ、うらやましいな」
彼女の目がキラキラしているのが見える。ロリスは空を飛んでたけど、エナはどうなんだろうと思って聞いてみた。
「ロリスは飛んでたけど、エナにはできないの?」
エナは少し考えてから、にっこりと笑った。
「できるけど、風魔法なんて私使えないわよ。水魔法で私を空に押し上げることはできるけど、びしょびしょになるし、服が透けちゃうでしょ。」
エナはぽつりとつぶやいた。
「ロリスみたいに風魔法使える人、うらやましいな」
その表情には、ほんの少しだけ寂しそうな色が混じっていた。
でもすぐに、ふっと笑って自分の手のひらに水の玉を浮かべる。
「水魔法なんて全然大したことなくてね。使えたらメイドさんになりやすいくらいよ。服の洗濯とか、掃除とか……そういうのには便利だけど」
くるくると水玉を回しながら、エナは肩をすくめる。
僕は、その無邪気な仕草と言葉のギャップに、少しだけドキッとした。
――透けるって、そういうことなんだろうか。
なんとなく想像しかけたところで、エナがこちらに目を向け、にやりと笑う。
「あ、いっま変な想像したでしょう?」
その声に、心臓が飛び跳ねた。
なんでそんなにわかるんだよ、と慌てて目をそらすと、
エナはくすくすと笑いながら、そっと僕の肩に手を置いた。
「ふふっ、顔、真っ赤」
その無邪気な笑みに、また胸が高鳴る。
でも、それ以上は何も言わずに、エナは静かに僕の隣に腰を下ろした。
ふたり並んで見上げた夜空には、星がいくつも瞬いていた。
ただ、ゆっくりと時間が流れていく。
何を話すでもなく、ただこうして一緒にいるのが心地よかった。
やがて、エナがぽつりとつぶやく。
「……あったかいね、こういうの」
その言葉が、風にさらわれるように小さく響いた。
僕は返事をせず、そっと横顔を見つめる。
エナの瞳が、夜空を映して、どこか遠い場所を見ているようだった。
――そして、静かに夜が更けていった。
そうして一夜が明けた。
新しい朝の光が、窓から差し込む。
昨日までのやりとりが、夢だったように感じられるほど穏やかな朝だった。
――結局、あのあとエナに絡まれ続けて、散々な目にあった。
エナからいろいろ聞かれ、気づけばメイドに寝床を用意してもらい、気がついたら語りながら寝落ちしていた。
女性経験のない僕にとっては、心臓がもたないような夜だった。
でも、もともとやることなんてなかったし……まあ、いいか。
それでも、今こうして隣のベッドで、ふわりと寝息を立てて眠るエナを見ていると、
ああ――昨日のことは、本当にあったんだな、と思う。
それが、なんだかちょっとだけ嬉しかった。
僕はそっと立ち上がり、伸びをしてから、外の光を浴びながら小さく息を吐いた。
ぐっすり眠っているエナを起こさないよう、静かに部屋を出ると、扉をそっと閉めた。
まだ夜の余韻が残る静けさの中、朝の支度を済ませ、食堂へ向かう。
食堂に足を踏み入れると、いつもと変わらぬ香りと賑やかな雰囲気が広がっていたが、
ロリスの姿は見当たらなかった。
食堂にいたメイドさんに声をかけると、少し困ったような顔で答えてくれた。
「ロリス様は、まだ戻っておられません。」
「一体、何やってんだろうな……」
僕はつぶやきながら、外の光を見上げた。
そして今――僕は、サレンとエナと一緒に外を歩いている。
なぜこうなったのか。
簡単に言えば、僕が“いつものように”書斎に向かったからだった。
「サレン、ちょっと教えてほしいことがあって――」
そう声をかけたのが始まりだった。
サレンは小さくうなずき、机の前に座って本を開いてくれた。
……そこへ、エナが当然のような顔で書斎に入ってきた。
「なになに? 勉強?」
エナは笑顔で声をかけてきた。
「お、おい……」
僕が戸惑っている間もなく、エナは机に肘をつき、僕に顔を近づけてきた。
エナに絡まれながらも、どうにか集中を保とうとしていたが、どう考えても無理だった。
それならば――と、外に出て散策することにした。
「少し外で歩こう。」
僕はエナに言った。
「ふふ、そっちの方が気楽でいいでしょ?」
エナは悪戯っぽく笑った。
外に出て、少し歩きながら気を紛らわせようとするも、エナは相変わらず僕の側を離れない。
「ねえ、どこに行こうか?」
「……ギルトに当たる、探索者機構に行くつもりだ。」
僕は答えた。
それを聞いたエナは、少し面白そうに目を細めたが、言葉にすることはなかった。
サレンはさっきから僕の後ろをついてきており、静かながらもどこか頼りになる存在だった。
「では、こちらです。」
サレンが道を案内してくれる。
しばらく歩いていると、やがて目的地に到着した。
建物は煌びやかではあるものの、どこか冷徹で落ち着いた印象を与える。
外装はしっかりとした作りで、金属の装飾や石材が使われているが、派手さはない。
人通りが少なく、周囲の静けさが、まるで外界と隔離されているような感覚を与える。
中に入ると、さらにその静けさが増していた。
中の空間は広々としており、高い天井と白い壁が、どこか無機質な空気を漂わせている。
しかし、その静けさの割に、人の姿は少なく、所々に武器を携帯した者たちが目立つ。
どこか張り詰めた空気が漂うが、それもまた、ここが任務に携わる者たちの集まる場所だからだろうか。
一番目を引くのは、正面に置かれた掲示板だ。
そこには様々な依頼が張り出されているが、掲示されている枚数は非常に少ない。
その掲示板に添えられた依頼内容も、いくつかは謎めいたもので、見る者に不安感を抱かせるようなものもあった。
「……こんな感じか。」
僕は小さくつぶやいた。
少し進んでみると、受付嬢らしき女性が、一人で座っていた。
彼女はどこか疲れた様子で、無表情にデスクの前で座り込み、時折無理に微笑んでいるように見えた。
彼女の背後には、遠くの通路が続いており、そこにはまた数人の人物が立っているが、全員が武器を身に着けている。
その中でも一人、特に目立つ人物がいた。
女性とは思えないほどの長身。
赤い髪を持ち、しっかりとした筋肉が浮き出る体格。
その姿は、まるで戦士そのものだ。
彼女の服は、体にぴったりとフィットしたものだが、腹筋がくっきりと見えるようなデザインになっており、その姿勢からは強さを感じる。
腰には短いパンツがあり、動きやすさを意識しているのだろう。
何よりその目立つ特徴が、彼女の腰から生えている、まるで動物のような尻尾だった。
尻尾はふわりと揺れ、彼女の動きに合わせてしなやかに動いている。それが、まるで生き物のようで、彼女の異様な存在感を増していた。
また、彼女の顔立ちも特徴的で、目の色が少し黄色味を帯びており、耳の形が少し尖っているように見える。
これだけの特徴を見れば、普通は気づくだろう。
僕は振り返り、エナに聞いた。
「なあ、あの人……獣人族だよな?」
エナは、ちらりとその女性に視線を投げ、少し考えるように目を細めた。
「うん、そうだね。」
彼女はそう答えると、肩をすくめて、少し楽しげに笑った。
「でも、あのタイプは少し珍しいかもしれないね。尻尾だけじゃなく、あの筋肉質な体つきと、服装がまた……」
エナの目線が、無意識にその女性の腹筋に向けられたのに気づき、僕は少し顔を赤くした。
「え、ええっと……ああ、そうだな。」
僕は少し動揺しながら返した。
実際、僕の目にはその女性の姿が、どこか神秘的で心に強く残るものがあった。
小説や伝承でしか聞いたことがない存在が、目の前に立っているのは驚きだった。
「でも、あの目の色や耳の形を見ると、確かに普通の獣人族とはちょっと違う感じがする。」
僕がさらに呟くと、エナは少し頷きながらも、ふと視線を移した。
「まあ、獣人族って言っても、いろんな種類がいるからね。」
エナはさらりと言いながら、今度は掲示板の方へと目を向けた。
その時だった。
――視線が合った。
赤い髪の女性が、こちらをちらりと見たのだ。
彼女の黄金色の瞳が、冷静に、しかしどこか鋭く僕たちを見据える。
思わず息を呑んだ。
けれどその視線は、ほんの一瞬のことだった。
女性はすぐに視線を掲示板に戻し、何事もなかったかのように依頼の紙を一枚剥がす。
「……気づかれた、かな。」
小声で呟くと、エナはくすりと笑った。
「そりゃ、あれだけじろじろ見てたらね。」
肩を竦めるエナの様子は、まるで楽しんでいるようだった。
女性は依頼の紙を持ったまま、軽やかな足取りでカウンターへ向かう。
歩くたびに腰のあたりで赤い尻尾がゆらりと揺れるのが見えた。
その姿は、どこか猛獣のような気配をまといながらも、妙に人間的で、目が離せなくなる。
「強そうだな……」
無意識にそんな言葉が漏れる。
僕の呟きに、エナはふふっと笑い、僕の肩を軽く叩いた。
「うん、強いと思う。見た目もだけど……あれ、ただ者じゃないよ。」
カウンターで受付嬢と短くやりとりを交わすと、女性は依頼の紙を受付に差し出し、あとは無言で腕を組んだ。
黄金の瞳がじっと受付嬢の手元を見つめている。
その瞳に、どこか獣の本能めいたものを感じた。
「ここが掲示板。」
エナが軽く手を伸ばし、壁にかけられた大きな板を指差した。
そこにはいくつかの紙が張り出されていたが、枚数は少なく、ところどころ紙が剥がれた跡も目立つ。
「思ったより依頼が少ないな……」
僕が呟くと、今度はサレンが小さく頷いた。
「この国だと、そういうもんさ。」
サレンが静かに答える。
掲示板に近づいて、一枚一枚、貼り出された紙を見ていく。
「へえ……」と、僕は自然に声を漏らした。
「こういうのが多いのよ。」
エナが僕の肩越しに覗き込みながら言う。
確かに、張り出されている依頼のほとんどは、
『薬草の採取』
『川沿いでの貝殻拾い』
『小型魔獣の爪の収集』
といった、店からの素材調達の依頼ばかりだった。
「思ったよりも、危険そうな仕事はないんだな……」
「ここは街の中枢だからね。あんまり無茶な依頼は来ないの。」
エナが肩を竦める。
他に目を移すと、
『倉庫の整理』
『畑の手伝い』
『夜間の見回り(条件:成人男性)』
といった、どこか現代の日雇いアルバイトのような依頼も混じっていた。
「冒険……って感じじゃないな。」
僕の言葉に、エナは笑う。
「これが現実ってやつだよ。派手な剣劇とか、秘宝を求める旅なんて、そうそう転がってない。」
「……そうか。」
少しだけ拍子抜けしながらも、妙な安心感もあった。
「それでも、これらが誰かの生活を支えてるのは確かだ。」
サレンが静かに言った。
その横顔には、街を守る者としての誇りのようなものが滲んで見えた。
僕は再び掲示板を見上げながら、少しずつ、この国の“現実”を感じていった。