2話
落ちているのか、浮いているのか、自分の体がどこにあるのかさえわからない。
風もない。音もない。ただ、無限の黒が視界を支配している。
目を開けているのか、閉じているのかすら分からない。
次の瞬間、視界が弾けるように光に包まれた。
眩しさに思わず目を閉じる。全身が突き抜けるような衝撃を受けたかと思うと、次には固い地面に叩きつけられていた。
痛みが遅れてやってきた。背中と肘を打ちつけ、じわじわと鈍い痛みが広がる。
ぼんやりとした意識の中で、少しずつ周囲の情報を拾い始めた。
ゆっくりと目を開ける。
目の前には見慣れない風景が広がっていた。
石畳の道が続き、その両脇には木造と石造りが混じった建物が立ち並んでいる。軒先にはカラフルな布がかけられ、店の前では露店が開かれている。活気に満ちた声が飛び交い、人々が行き交っている。
しかし、そんな賑わいとは裏腹に、今自分がいる場所は明らかに異質だった。
僕がいる場所のすぐ近くには、落ちてきた衝撃で傾いた看板が放置されているのが見える。
どうやら、僕は市場の一角にある看板の前に倒れ込んでいたらしい。
周囲の人々が驚き、距離を取るように後ずさる。その視線の先にいるのは、自分。
そして、すぐ近くに立っている数人の男たち。
彼らは甲冑を身にまとい、手には槍のような武器を構えていた。
異変に気づいたのか、近くにいた一人の衛兵が鋭い視線をこちらに向け、何かを叫んだ。その声は、あまりにも突き刺さるような威圧感を感じさせた。「一体、貴様は何者だ?」と。
驚くべきことに、その言葉が理解できた。どうやら、歴史書に記された中世らしきこの世界の言葉は、どうにか通じるようだ。
周囲の衛兵たちもその反応を見て、次々と近づいてきた。彼らの顔には警戒と不安が交じり合っているのが見て取れる。しばらく沈黙が続いた後、先ほどの衛兵が再び動き出し、何かを指示して周囲に目配せをした。その指示を受けた衛兵がすぐに足早に走り去った。どうやら、状況を整理するために、より高位の者を呼びに行くようだ。
最初、僕は必死に何とか言葉を交わそうとした。異世界に来たばかりで何が起こっているのかも理解できなかったから、せめて何かを伝えたかった。でも、僕が発した言葉が通じるのかどうかも不安だった。そのとき、僕は一応、相手に答えたが、どうやら向こうにはあまり理解できなかったようだ。
そのため、僕は無意識に、それが何か特別な意味を持つものだと感じた。どこかで注意を促すような言葉を耳にした気がしたが、目の前の状況に心を奪われて、それに気を取られる余裕はなかった。
その男が近づいてきて、再び僕に質問を投げかける。鋭い目つきからは、ただの好奇心ではないものを感じる。まるで僕が何か重大な事象を引き起こしたかのように。
僕は自分の立ち位置を確認する。周囲にはまだ警戒の眼差しを向ける衛兵たちがいて、空気は張り詰めている。だが、どこかで心が冷静さを取り戻してきた。目の前の状況がいくら非現実的でも、僕にはそれにどう対処するべきかを考える時間が必要だった。
僕の心は冷静さを取り戻し、呼吸がゆっくりと安定していく。目の前の男の鋭い視線を受け止めながら、僕は慎重に言葉を選び始めた。
「僕の名前は——」と言いかけたが、すぐにその言葉が口をついて出てこないことに気づく。自分がどこにいるのかも、何が起きたのかも、まるで分からない状況で名前を名乗るべきなのか悩んでしまった。
だが、周囲の緊張感がさらに強まっていくのを感じ、僕は無意識に声を絞り出す。
「僕は…ただの通りすがりの者です。」
その言葉が発せられた瞬間、少しだけ静寂が訪れ、衛兵たちの視線が私から男へと集まった。男はしばらく僕をじっと見つめ、まるで何かを計り知るような表情で、再び口を開いた。
「通りすがりの者、だと…?」その言葉に、衛兵たちは少し動揺したようだった。男が一歩踏み出し、鋭く言葉を放つ。
「お前が落ちてきたのは、さっきそこにあった黒い穴の近くからだろう。俺たちが監視していた場所だ。お前がそこに関わっているのか、何か知っているのか?」
男の視線が一層鋭くなる。僕はその言葉を聞き、どこかで引っかかりを感じる。
「僕は…その黒い穴を見たことがありません。落ちてきただけです。」
だが、周囲の衛兵たちが一斉に身を固くし、僕を見つめる。その視線に、どうしても嘘をつけないと思いながらも、必死に冷静さを保とうとする。
「落ちてきただけ、だと…?」
男の声がさらに鋭くなる。衛兵たちは槍を持ったまま、一歩ずつ僕に近づいてきた。
「嘘をつくんじゃない。俺たちはあの場所を監視している。」
男の声に鋭さが増す。その視線がますます僕を追い詰め、息が詰まりそうになる。
「看板にも近づくなって書いてある以上、なんで急にそこに現れたんだ?」
男の言葉に、周囲の衛兵たちが一斉に動きを止め、身を固くする。看板の警告がある場所に、僕が突然現れたことに、疑念が湧いているのは明らかだった。
僕は焦る気持ちを抑え、冷静に言葉を選びながら答える。
「それは…僕にもわかりません。ただ、気づいたらそこに落ちていたんです。」
しかし、その説明では納得できない様子の男の顔には、ますます不信感が漂っていた。彼は僕の顔をじっと見つめ、疑念を深めるように言った。
「お前、何かを隠しているな。」
その言葉に、周囲の衛兵たちも一歩前に出て、僕を取り囲むように立ち位置を変えた。槍の先が僕のほうに向けられ、緊張が高まる。
「看板に書かれている警告を無視して、何故あの場所に現れたんだ。答えろ。」
その問いに対して、僕は再び言葉を探す。しかし、どんな言葉も彼らの疑念を晴らすには不十分に感じた。突然の現れに、どう答えるべきなのか、言葉が浮かばない。
その時だった。
遠くから蹄の音が響いてきた。衛兵の一人が目配せをすると、数人が道を開けるように後退する。
やがて、呼びに行った衛兵が何人かの騎馬兵を伴って戻ってきた。彼らの装備は目の前の衛兵たちよりもさらに威厳があり、鎧の装飾も重厚なものだった。
先頭に立つ男は馬上から鋭い目を僕に向け、厳しい声を発した。
「こいつが例の者か?」
「はい。突然、封鎖区域に現れました。」
衛兵が即座に答えると、騎馬兵の隊長らしき男は一瞬だけ沈黙し、次の瞬間、ゆっくりと馬から降りた。
彼の存在に気づいた衛兵たちは、一瞬警戒を解く素振りを見せたが、すぐに姿勢を正し、右拳を胸に当てる敬礼を取る。
隊長の存在がこの場の空気をさらに引き締めた。
彼の肩に輝く紋章が、その地位の高さを示していた。
「お前の身元を確認する必要がある。…異論はないな?」
威圧的ではないが、絶対的な権威を帯びた声だった。僕は逃げ場がないことを悟り、静かにうなずくしかなかった。
「連れて行く。」
彼の言葉に、衛兵たちは一斉に動いた。僕の腕を慎重に掴み、騎馬兵の列の中央へと導く。
重厚な鎧がこすれる音が響く中、僕はただ、従うしかなかった。