2話
僕は無言のまま、騎馬兵の列の中央に押し込まれた。重い鎧の音が足元で響く。歩を進めるたびに、地面を踏みしめる音が規則正しく鳴り、賑やかだった市場の喧騒が次第に遠ざかっていく。
その時、隊長の腰元に目が止まった。鋭い視線から逃れられぬまま、どうしてもそれが目に入ってしまったのだ。
——銃。
いや、銃のようなもの。だが、明らかにこの時代のものではない。
精巧な金属の質感と滑らかな曲線、持ち手には刻印のような模様が走っている。
僕は息を呑んだ。この世界の技術では到底造れないはずの代物。
胸の奥にざらつくような違和感が生まれる。どうしてあんなものが、ここにある?
まるで、時代の裂け目からこぼれ落ちたような異物だった。
僕はその疑問を飲み込み、黙って歩き続けた。
通りの両側に人々が並び、行列を見つめている。
「何だあれ……」「あの禁域に落ちたってやつか?」
ひそひそとした声が耳に届く。誰もが立ち止まり、好奇と恐れが入り混じった目でこちらを見ていた。
顔が熱くなる。注目されていることが、これほどまでに苦しいとは思わなかった。
自分は“ただの通りすがり”だと信じたかった。それなのに、今はまるで見世物だ。
胸の奥が締めつけられるように痛い。
「なんで僕なんだ……」
その言葉が心の奥でこだまする。歩幅を速めても、背中に突き刺さる視線は消えない。
やがて街を抜け、石造りの壮麗な建物が見えてきた。
高い門をくぐった瞬間、外の喧騒が嘘のように消える。
——宮殿だ。
金の装飾が施された壁、精緻な彫刻の柱、天井から下がる大きなシャンデリア。
だが、美しさよりも先に感じたのは、圧倒的な静けさだった。
廊下を進むたびに、甲冑のこすれる音だけが響く。その音がやけに重く、足元から静寂を増幅させていく。
幾度も曲がり角を抜け、左右対称の扉が並ぶ廊下を歩く。どこも似たような装飾で、方向感覚を奪われた。
まるで、意図的に外界から切り離された迷宮のようだった。
やがて隊長が立ち止まり、低く一言。
「ここだ。」
背中を押され、部屋へ足を踏み入れる。
その直後、背後で隊長が短く命じた。
「下がれ。」
それだけで兵たちは一斉に動き、迷いなく扉の外へと下がった。
扉が閉まる音が重く響き、鎧のきしむ音が遠ざかる。静寂が落ちた。
「……さて。」
隊長が小さく息を吐き、ゆっくりと僕の方を向く。
先ほどまでの軍人然とした鋭さが、ほんのわずかに和らいでいた。だが、その目の奥に宿る力は消えない。
彼の視線が僕を射抜く。
喉の奥が乾き、息をするたびに空気が重く感じる。
この部屋の静けさは、外の壮麗さよりもずっと重たかった。
何かを待っているのか、それとも試しているのか。
沈黙が長く伸びるたびに、心の中のざわめきだけが大きくなっていく。
言葉を発すべきか。
それとも、沈黙を貫くべきか。
どちらを選んでも、戻れない気がした。
隊長は無言のまま僕を見つめ続ける。
何かを待っているのか、それとも僕の反応を探っているのか——けれど、沈黙が長く続くほど、居心地の悪さが増していく。
何か言うべきか。だが、下手な言葉を発せば、それこそ状況を悪くするかもしれない。
そう考え始めた矢先——
静寂を裂くように、部屋の扉が音もなく開いた。
入ってきたのは、隊長とは異なる威厳を纏った人物だった。彼が一歩踏み入れるだけで、まるで空気の密度が変わったように感じた。
漆黒の外套に金糸の刺繍が走り、光を受けて微かに揺らめく。身のこなしには無駄がなく、背筋はまっすぐ。穏やかさの奥に、支配者特有の緊張感を孕んでいた。
隊長は姿勢を正し、深く頭を垂れた。
「殿下」
その言葉で、僕は息を飲んだ。
殿下。つまり、この国の上層に位置する人間。
男は僕に目を向けることなく、淡々と問う。
「その者を連れてきたのか」
低く響く声だった。冷たいというより、重みがある。
隊長はすぐに答える。
「はい。封鎖区域にて確認されました。状況を踏まえ、直ちにお目通りをお願いすべきかと」
男——殿下はわずかに頷くと、ゆっくりと歩を進めた。
足音が石床に響くたびに、空気が張り詰めていく。
そして僕の目の前で立ち止まり、ようやく視線を向けた。
その目と、合った瞬間——
身体の芯が冷たくなる。
年齢は、三十代前後だろうか。若すぎず、しかし年老いてもいない。
けれど、その瞳の奥に宿るものは、明らかに「この場所を動かしている側」の人間のそれだった。
静かで、深く、見透かすような目。
「名を」
短く放たれた声に、思わず背筋が伸びた。
気づけば、反射的に口が動いていた。
「……カイ、です」
自分の声が、思っていたよりもはっきり響いた。
殿下は眉ひとつ動かさず、その名を心の中で転がすようにして繰り返した。
「カイ、か」
沈黙が落ちる。
彼の目が、ゆっくりと僕を測るように動いた。
何かを探っている。いや、確かめている。
「出身は?」
思わず息を詰めた。けれど、もう誤魔化すことなどできない。
「……東京、です」
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
ほんの一瞬——隊長の目が見開かれる。だが殿下は、まるでその言葉を待っていたかのように、静かに頷いた。
驚きも、疑念もない。
ただ、理解の色だけがあった。
隊長は困惑したように殿下を見つめるが、殿下は彼の視線を受け止めることもなく、低く囁いた。
「……ロリス」
名前のようにも、符号のようにも聞こえるその言葉を、彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。
だが、確かに隊長の表情が変わった。
その一瞬で、何かが伝わったのだろう。疑念は消え、代わりに不可解な納得の色が宿る。
僕はそのやり取りを理解できず、ただ黙っていた。
けれど胸の奥がざわつく。
“東京”という言葉に、彼らが何かを知っているような、そんな感覚。
沈黙が再び訪れる。
扉の外の足音も遠ざかり、室内には僕たち三人の呼吸音しか残らない。
殿下の目が、もう一度僕を射抜く。
それは、問い詰めるようでいて、どこか哀しげでもあった。
何も言われていないのに、心の奥を抉られるような居心地の悪さ。
逃げ出したいのに、足が動かない。
——この人は、僕のことを知っている。
そんな確信が、根拠もなく胸を支配した。
この人はいったい、何者なんだろう。
隊長よりも上の立場なのは、見れば分かる。だが、威圧というより——静けさが怖い。
まるで何も語らないまま、すべてを知っているかのような目をしていた。
沈黙が、形を持ってこちらを押しつぶしてくる。
やがて彼は、ほんのわずかに顎を動かした。
その仕草だけで、隊長は反射的に動いた。
「……はっ」
短く答えると、僕の方を一瞥してから、迷いもなく部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに長く響いた。
部屋に残ったのは、僕と彼だけだった。
しんとした空気。
外の喧騒が遠い世界の出来事のように思えた。
彼はしばらく僕を見据えたまま動かない。
その視線に耐えきれず、息をひとつ呑む。
何もされていないのに、心の奥を覗かれているような感覚。
やがて彼はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
音ひとつ立てずに、手を組み、視線を外さない。
——試されている。
そう思った。
でも、何を?
僕はただここに連れてこられただけなのに。
何かを暴かれるような、そんな感覚が背筋を這う。
自分が小さく、裸のまま晒されているような気がした。
やがて、彼は静かに立ち上がった。
椅子の背に手を添え、そのまま本棚へと歩み寄る。
その動作に迷いはない。まるで、次に何をするか最初から決まっていたかのようだった。
指先が、一冊の古びた本を抜き取る。
皮表紙に金の綴じ飾り。触れただけで、空気がわずかに震えた気がした。
彼はページを数枚めくり、ある一点で手を止めた。
そして、表紙ごと僕の方へと向ける。
目に映った瞬間、息が止まった。
黒いインクで刻まれた奇妙な文字列。
見たことのない文字。どんな言語にも似ていない。
それでも、何かを伝えようとしているような、異様な迫力があった。
「……何が書かれているか、分かるか?」
低い声が、空気を切り裂くように響いた。
僕は首を横に振った。
「いいえ。分かりません」
声がかすれていた。喉が乾いているのに、それでも答えなければいけない気がした。
彼はすぐには何も言わなかった。
ほんのわずかに目を細め、何かを確かめるように僕を見つめる。
それは落胆でも失望でもない。
ただ、静かに観察する目だった。
「そうか」
短く呟き、本を閉じる。
硬質な音が部屋の静寂を貫いた。
そして、そのまま本を棚に戻す。
滑らかな動きで、まるで儀式のようだった。
やがて、彼はゆっくりとこちらを振り返り、淡々と告げた。
「——君は、この世界の住人ではないらしいな」
その声音には驚きも怒りもない。
まるで、既に分かっていた事実を確認するかのような静けさがあった。
「前にも、同じような事例が二件、記録に残っている」
彼は一歩近づき、言葉を続けた。
「断片的な報告にすぎんが……君とよく似た話だった」
彼の視線が、まっすぐ僕を射抜く。
その目に宿るのは、好奇でも敵意でもなく、ただ真実を測る者のまなざし。
「どちらも、“あの穴”から現れた者たちだった」
その一言の穴という部分で、彼の声がわずかに沈む。
まるで、その名を口にすること自体を躊躇うように。
「……その前に現れた二人組は、こちらの者が声をかけた途端、妙なものを突きつけてきた」
彼の目がわずかに細められる。過去の光景を思い出しているのか、それとも、感情を切り離して語っているのか――判断がつかなかった。
「手のひらほどの黒い金属製の道具だった。こちらでは見たことのない形状だったが……それを向けて、何かを発射した。音がした次の瞬間、兵が倒れていた」
声にはわずかな怒気があった。だが、それ以上に、冷静な記録者としての意志が勝っていた。
「七人が死傷した。うち三人は即死、四人も重傷で……そのうち二人は、いまも床から起き上がれん」
部屋の空気が、ひときわ冷たくなった気がした。沈黙ではなく、明確な圧がそこにあった。
「君は、あの市場の一角で、ただ縮こまっていた。それだけだったな」
それは確認であり、同時に評価でもあった。疑念を孕みつつも、敵意はなかった。
「だからこそ――君は今のところ無害なのだろう」
その言葉の端々には、警戒と一線を保つ距離感がにじんでいた。
「君の言葉どおりなら、君はこことは違う世界の住人だ」
淡々とした声。その奥にある感情は、まるで霧に隠されたように読み取れない。
「だが、その違う世界がどんな場所で、君がそこから何を持ち込んだのか――それを我々はまだ知らない」
視線がまっすぐに突き刺さる。逃げ場のない問いかけだった。
「……だから、聞かせてもらおう。君の世界のことを。そして、君自身について」
一拍の間を置いて、彼は低く続けた。
「だが、その前に――」
声の調子が、わずかに沈む。
「君には、私の下で……私のために働いてもらう」
穏やかな口調。それでいて、拒否という選択肢が最初から存在しないことを、自然に悟らせる響きだった。
「もちろん、断ってもいい。ただし――その場合、君の生死は私の関知するところではない」
その言葉には、同情もためらいもなかった。淡々とした事実の提示。それがかえって、底知れない重みを帯びていた。
「……何の罪も犯していない、という顔だな」
唇の端がわずかに持ち上がる。その笑みは、嘲りでも慈しみでもなく、観察者のそれだった。
「ああ、確かに。君は何の罪も犯していない」
静かに認め、そして突きつけるように続ける。
「だが、君が“突拍子もなく”現れたところを、何人が見た?」
問いは答えを求めていなかった。ただ、現実を無言で押しつけてくる。
「異なる世界から来たなどと――誰が信じるだろう?」
皮肉すらない。ただ、静かな残酷さがそこにあった。
「そして――君と同じようにこの世界に来た者は、あの殺傷事件を起こした」
彼の声が、わずかに低く沈む。
「当然ながら、この国で異界の者が好意的に受け入れられることはない」
肩をすくめながら、淡々とした口調で言う。
「我々が保護していなければ――君は“奇術使いの不審者”として、即刻処分されていたはずだ」
脅しではない。冷徹な事実として告げられたその言葉に、胸の奥が鈍く疼いた。
「恐れられているんだ、君は」
その静かな声が、胸の奥深くに突き刺さる。
再び沈黙。重い、深い沈黙。
やがて、彼は視線を落としながら問いを投げた。
「……君は、どうする?」
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