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異世界転移記 ~層彩のキャンバス~  作者: 0
第一章 <始まり>
18/30

18話

 この世界に来てから、一か月ほどが経った。最初の頃は、見るもの聞くものすべてが未知で、不安と驚きで満ちていたが、今ではだいぶ慣れてきた。街のざわめきも、人々の話し声も、路地裏に漂う香りさえ、気づけば日常の一部になっている。


 それでも、ときどき思い出す瞬間がある。ふとした静けさの中で、あの世界の風景が胸に浮かぶ。家族の顔。友人たちの声。僕が突然いなくなったあの日から、どうなってしまったのだろう。心配しているだろうか。それとも、僕がいなくても日々は変わらず続いているのだろうか。


 そんな折、ロリスに突然、問いかけられた。


 「なあ……お前、元の世界に帰りたくないのか?」


 その声音は、いつになく真剣だった。僕の目を正面からとらえ、逃がさないように静かに放たれた言葉。


 「もちろん、帰りたいさ。」

 気づけば即答していた。それだけの想いが胸の奥に確かに根を張っている。


 だが同時に——帰れないかもしれない、という現実もまた、ゆっくりと僕の心を締め付けつつあった。


 「でも、どうやって帰るんだ?」

 自嘲気味の笑みが漏れる。「方法なんて、まだ何もわからない。」


 ロリスは一度だけ目を伏せ、何か言いかけて、結局飲み込んだ。


 「……だよな。」


 あの日、黒いポータルのような穴に吸い込まれ、この世界へと落ちてきた——。


 あのとき、渦巻く暗闇に引きずり込まれるような感覚を、今でもはっきりと覚えている。足元の感覚が消え、息を吸う間もなく落ちていくような、どうしようもない無力感。気づいたときには、見知らぬ空の下に投げ出されていた。冷たい風が頬を刺し、広がる青空だけが、かろうじて「生きている」という実感をくれた。


 一か月の間に、僕はいろんな人の話を聞き、反応を観察してきた。ロリスも、兵士たちも、そして博識な宰相でさえも。


 ——ひとつ、はっきりしたことがある。


 こちらの世界の誰にとっても、あの「黒い穴」は説明のつかないものだということだ。


 「知っている」などと断言する者は一人もいなかった。語られるのは曖昧な噂、根拠のない伝承、どこかで聞いたような昔話ばかり。


 外出先で偶然遭遇した、あの時僕に槍を向けた巡回兵たちも、遠巻きにひそひそと囁いていた。


 「呪術で呼ばれた異界の使いじゃないか」

 「人の姿をしてるけど、本当に人間なのか?」


 彼らにとって、あの黒い穴から現れた僕は、どうあがいても「ただの人間」には見えなかったのだろう。


 別の場所では、こんな噂まで耳にした。


 「魔導師の実験が暴走して、異界から何かを引きずり込んだらしい」

 「いや、古代の封印が破れた前兆だ」


 恐怖と興味本位と憶測が、勝手に混ざり合って、僕という存在に“意味”を与えようとしてくる。


 耳に入ってくるその声は、まるで僕の人生を誰かの物語の一部に書き換えようとするかのようだった。


 ——僕は、本当はただの人間なのに。


 その当たり前の事実だけが、ここでは誰にも届かないのだと思うと、胸の奥にひどく小さな孤独が沈んでいった。


 そう思おうとしながらも、胸の奥には拭いきれない違和感が沈んでいた。


 異なる世界から来た自分は、この世界にとってやはり異物なのだろうか——。


 そんな問いが、ふと影のようによぎる。けれど、その答えを知る者はどこにもいない。もしかしたら僕自身でさえも、まだ答えを持てていないのかもしれない。


 ——それでも。


 今、僕はここにいて、ロリスやエナ、そしてこの世界の人たちと日々を過ごしている。


 この奇妙で、不安定で、どこか居心地の悪い居場所が、気づけば当たり前の風景になりつつあった。


 もちろん、自由というわけではない。

 見えない網のような束縛が僕を囲い込み、誰かの視線が常に背中に張り付いている感覚もある。

 好きな時に好きな場所へ行けるわけでもない。


 ——それでも。


 頼りにされている。

 必要とされている。


 その事実だけは、不思議と胸を温めた。ほんの小さな役割でも、この世界のどこかに自分の存在が刻まれているのだと思うと、悪い気はしなかった。


 それに、未知の世界を知ることは刺激的で、時に少しだけ誇らしくすらあった。


 「……案外、悪くないのかもしれないな。」


 思わず口の中で呟き、そっと空を仰ぐ。

 淡い雲がゆるやかに流れ、その向こうには見慣れない星座が静かに瞬いている。


 元の世界へ戻る道は、まだどこにも見えない。

 けれど、それでも歩き続けるしかない——いや、歩いてみる価値はあるのかもしれない。


 そんなふうに、今はほんの少しだけ思えていた。





 こういう魔法が当たり前に存在する世界なら——冒険者ギルドとか、深いダンジョンとか、そういう異世界のテンプレみたいな場所がどこかにあるのかな、とふと思う。

 僕のいた世界で見る物語では、ギルドで依頼を受けて、仲間とパーティを組んで、危険な迷宮に挑む……そんな流れが定番だった。


 けれど、この世界では今のところギルドもダンジョンも名前すら聞かない。


 町を歩けば、目に入るのは質素な服装の人々ばかり。手にしているのは鍬や木箱で、剣でも魔導書でもない。

 冒険者らしい人物なんて一人も見当たらなかった。

 ——そもそも、この世界の人たちにとって戦うという行為自体が特別なものなのだろう。日常を守るので精一杯で、武器を振るう余裕なんてないのかもしれない。


 それでも、まったく戦士がいないわけではない。

 城門を守る兵士たちは槍や弓を携え、日々の鍛錬も怠っていない。彼らの動きには素人ではない重みがある。


 ——そして、なにより。


 僕が知らないだけで、この世界にはすごい魔法使いがどこかに潜んでいるのかもしれない。

 たとえば、僕が何度か目にした妙に落ち着いた老人が、実は大魔導師だったり……いや、考えすぎか。


 「……魔法、使えたらなあ。」


 思わず、ため息がこぼれた。

 届かないものほど、どうしてこうも魅力的に見えるのだろう。


 この世界に来たからといって、僕に特別な力が宿ったわけじゃない。

 火の玉ひとつ飛ばせないし、空を舞うこともできない。

 手をかざして光があふれる——なんて奇跡も起きなかった。


 ただ、どこにでもいる僕が、そのままここにいるだけだ。


 ほんの少しだけ期待していたのだろう。異世界に来たなら、何かが目覚めるかもしれない、と。

 でも、それはあくまで物語の中の都合のいい奇跡。現実は、僕に特別扱いなんてしてくれなかった。


 「……まあ、ちょっとがっかりだな。」


 自分でも笑ってしまうほどの弱音が、夕暮れ風にさらわれていく。


 それでも、どこかで知っている。

 本当に価値があるのは力そのものじゃない。

 この世界で何を見て、何を選んで、どう生きていくのか——そっちの方なのだと。


 そして実際、この世界は僕に選ぶことを求めている。

 力があるかどうかではなく、どう向き合うかを。


 ……そうわかっていても、憧れは消えない。

 魔法のような、手の届かないものほど、心を引き寄せる。


 空を見上げる。

 夜の帳の向こう、星々が淡く瞬いていた。

 その光はどこか冷たく、けれど確かにそこにあって、僕の胸の奥を静かに震わせた。

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