18話
この世界に来てから、一か月ほどが経った。最初のころは、見るもの聞くものすべてが未知で、不安と驚きでいっぱいだったが、今ではだいぶ馴染んできた気がする。街の空気や、人々の話し声、路地裏に漂う匂いさえ、いつの間にか自然に感じられるようになっていた。
それでも、時折、ふとした瞬間に思い出す。あの世界のことを。家族のことを。友人たちのことを。僕が突然姿を消したあの日から、どうなったのだろう。心配しているだろうか。それとも、僕がいなくても日常は続いているのだろうか。
そんなある日、ロリスにふいに問いかけられたことがある。
「なあ、お前……元の世界に帰りたくないのか?」
その問いは、意外なほど真剣だった。まっすぐに僕の目を見て、静かに投げかけられた言葉だった。
「もちろん、帰りたいさ。」僕は即答した。即答できるだけの想いが、胸の奥にしっかりとあった。
だけど、その一方で——帰れないかもしれない、という現実が、じわじわと心に根を張り始めていることも自覚していた。
「でも、どうやって?」僕は自嘲気味に笑って言った。「帰り方なんて、まだ何もわからない。」
ロリスは少しだけ目を伏せ、何かを言いかけてやめた。
「……だよな。」
黒いポータルのような穴で、この世界に来た。
あのとき、渦巻く暗闇に吸い込まれる感覚を、今でもはっきり覚えている。気づいたときには、見知らぬ空の下に立っていた。どこからか吹き抜ける風の冷たさと、どこまでも広がる青い空だけが、現実感をくれた。
一か月の間に、僕はいろんな人の話を聞き、反応を見てきた。その場に居合わせたロリスも、兵士たちも、博識そうな宰相でさえも。
——分かったことがある。
こちらの世界の人間たちにとっても、あの「黒い穴」は未知の存在だということを。
誰も「あれはこうだ」と断言しなかった。むしろ、曖昧な噂や伝承、謎めいた昔話としてしか語られなかった。
外出するときに偶然出会った、あのとき僕を槍で警戒した巡回中の兵士たちも、僕のことを「呪術使い」だとか「異界の使者」だとか、そんなふうに囁いていた。
彼らにとって、あの「黒い穴」から現れた存在——つまり僕は、どうあがいても“普通の人間”とは見えなかったのだろう。
「魔導師の実験で失敗した結果、異界から何かが来たんじゃないか」
「いや、古の封印が解かれた証だ」
彼らの言葉は、恐怖と好奇心と噂が入り混じったものだった。
耳に入ってくるその声たちは、まるで僕の存在そのものを物語の登場人物に仕立て上げるようだった。
——僕は、ただの人間なのに。
そう思いながらも、否定できない違和感が心の奥に残った。
違う世界から来た自分は、この世界の住人にとって“異物”なのだろうか。
そんな問いが、ふと心をよぎる。けれど、それに答えを出せる者はいない。もしかしたら僕自身でさえも。
——それでも。
今、僕はここにいて、ロリスやエナ、そして他の人たちと日々を共にしている。
この奇妙で、少し不安定な“居場所”が、今の僕にとっての現実だ。
もちろん、自由ではない。いくつもの束縛が僕を取り囲んでいる。いつでも出て行けるわけではないし、見えない監視の目があるのも知っている。
それでも、頼りにされている。小さなことでも必要とされる。それが、どこか悪い気はしなかった。
知りえない新しい世界について学べることも、時には刺激的で、少し誇らしくすら思えた。
「……案外、悪くないのかもしれないな。」
僕は自分にそう呟きかけ、空を見上げた。淡い雲がゆっくりと流れていく。その向こうに、見慣れない星々がまたたいていた。
元の世界への道は、まだ何一つ見えていない。けれど、今はこの世界で、歩き続けるしかないのだと、そんな風に思えた。
こういう魔法が使える世界って、冒険者ギルドのようなところやダンジョンみたいな場所はあるのかな、とふと思った。僕がいた世界では、異世界ものにおいてそういった設定はかなりよく見かけたものだ。作品にもよると思うが、冒険者ギルドがあって、そこから依頼を受けたり、パーティを組んでダンジョンに挑んだりするのが王道の流れだった。
でも、この世界では、まだ“ギルド”や“ダンジョン”の存在をはっきりと耳にしたことはなかった。
町を歩いていても、見かける人々はみな、質素な服装で、農具や商売道具を手にしている。剣や鎧を身につけている人なんて、ひとりもいなかった。
僕がいた世界で見た異世界もののように、剣を背負い、冒険に出る戦士たちが町を闊歩する——そんな光景はここにはない。人々は日々の暮らしを守るのに精一杯で、武器を持つことすら特別なことのように思えた。
けれど、まったく戦う者がいないわけでもない。警備する兵士たちは、槍や弓を携えていたし、街道を守るために日々の訓練も欠かしていないようだった。
——それに。
もしかしたら、僕がただ知らないだけで、この世界にはとんでもない力を秘めた“すごい魔法使い”が、すぐそばにいるのかもしれない。
「ああ……魔法を使えるならなあ。」
僕は思わずため息をついた。
この世界に来たからといって、僕に何か特別な力が宿ったわけじゃない。火の玉ひとつ飛ばせるわけでもないし、空を飛べるわけでもない。手をかざせば何かが光るなんてこともない。
ただ、“普通の僕”がここにいるだけだ。
ほんの少し期待していたのかもしれない。異世界に来たら、何か不思議な力が目覚めるんじゃないかって。でも、それは物語の中の話だった。現実は、そんなに都合よくできていない。
「……ちょっと、がっかりだな。」
自分でも笑ってしまうような小さな声が、夕暮れの風にさらわれていった。
でも、どこかで知っている。たぶん、本当に大事なのは“力”じゃない。僕がこの世界で何を見て、何を選んで、どんな風に生きるのか——それが、きっと意味を持つのだろう。
実際、それを、この世界は求めている。
そうわかっていても、やっぱり魔法には憧れる。あの星々のように、手の届かないものほど、心を惹きつけるのだ。
僕は空を見上げ、そっと目を細めた。星々の瞬きが、淡い光の粒となって、夜の帳の向こうで静かに揺れていた。