16話
あの本を手に入れてから、数日が経った。
王都の夜を歩いたあの日とは打って変わって、屋敷の空気はどこか静かだった。政治のざわつきも、奴隷制度の暗い話も、ここではまるで遠い世界のことのように思える。……けれど実際は、サレンの様子を見ていると、その影響は確実に近くまで迫っているのだと感じさせられた。
というのも──サレンはずっと書斎にこもりきりで、例の本とにらめっこしている。
ページをめくるたびに眉間にしわを寄せたり、小さくうなずいたりして、まるで本の向こう側で誰かと静かに議論しているようだった。
僕への授業の時間でも、彼はその本を手放さない。同じ本を何日も読むなんて理解できないけれど、たまに浮かぶあの微妙な表情は……何か大事な手がかりを探し当てようとしているのだろう。そう思うと、むやみに声をかける気にもなれなかった。
サレンの読書はただの読書ではない。
何度も同じページを戻り、行間に潜む意図を拾い、過去と現在をつなごうとする。まるで本と対話しているかのような時間だ。僕には到底真似できない集中力だった。
そんな彼の姿を横で見続けるうちに、いつの間にか僕もこの世界の文字に慣れつつあって、自習──書斎の本を好きに読む時間──が前より楽しくなってきた。
ロリスと劇場で見た“龍の伝説”も、本棚の片隅にあった。
あの壮麗な舞台を思い出しながら読むと、文字だけなのに情景が蘇ってくるようで、不思議と心が弾む。
さらに、貴族の婦人たちが好むらしいロマンス小説も、いくつか手に取ってみた。
豪華な宮廷で、騎士や令嬢が恋に落ちたり、禁断の愛に揺れたり──最初は「なんだこれ」と思ったけれど、読み進めるうちに妙に引き込まれてしまって、自分でも驚いた。
もちろん、価値観がまったく違う部分も多い。
恋より家柄が優先されたり、身分違いの恋が「身の程を知れ」であっさり断ち切られたり……どうしても違和感は残る。
けれど、そういう価値観が世界を形作っているのだと思えば、それもまた文化の一部だ。
「理解はできなくても、読むことで知ることはできる」──そんな気づきを得られたのは、書斎で過ごすようになったこの数日のおかげだった。
家柄が重視されるといえば──書斎で読んだ本の中には、身分制度に触れた物語がいくつもあった。読んだ量は決して多くないけれど、それでも共通して描かれていたのは、貴族社会の冷徹さだった。
どの話にも必ず、より位の高い貴族には媚びへつらい、逆に下位の者──とくに奴隷には露骨にきつく当たる場面が出てくる。
そして、庶民と貴族が結ばれるような展開は、ほとんど見かけない。
たとえ奇跡のように出会いがあったとしても、大抵の物語は悲劇で終わる。
ごく稀に、貴族側が庶民を取り立ててようやく許される──そんな展開だけが、唯一の救いとして扱われていた。
この世界では、身分というものが想像以上に重く、そして時には残酷なほど絶対らしい。
同じ人間なのに、同じ言葉を話しているのに……そんな理由で隔てられることに、読んでいて思わず胸がざわつく瞬間もあった。
けれど、どうやらこれが、この世界の“当たり前”なのだ。
僕の気持ちをひとことで言うなら──もどかしい。それに尽きる。
とはいえ、文字を覚えること以外にも得るものはあった。
ロリスやサレンから聞いた話と、物語に描かれた出来事を照らし合わせていくうちに、
奴隷に落ちるまでの流れ”が、少しずつ形になって見え始めたのだ。
もちろん、一番多いのは借金を負わせるやり方。
けれど、それだけでは、必ずしも思い通りに他人を所有物にはできない。
どうやら──手助けするふりをして取り込む。
そこから始まるのが、この世界での定石らしい。
特に女性の場合は、貴族と知り合える可能性や、手軽に稼げるといった甘い誘い文句で、いわゆる「身を売る」商売へ引きずり込まれることが多かった。
一度その道に足を踏み入れてしまえば終わりだ。借金、契約違反、身柄拘束……理由など、いくらでも後付けできる。気付けば“商品”として扱われ、自由など跡形もなく奪われてしまう。
商品が存在するなら、当然それを扱う商人もいる。
奴隷商人──聞くだけで胸が悪くなる言葉だけれど、彼らは商品を仕入れ、育て、磨き上げ、そして売る。
より高く売るためにどれだけ価値を演出できるかが商人の腕であり、同時に、この世界の闇の深さそのものでもあった。
元の世界のファンタジー小説では、こうした設定は定番だった。
けれど、今は物語ではない。アラン王の若さゆえに政治が揺れ、宰相セファーの陣営と、王を都合よく操ろうとするもう一派閥が水面下でぶつかり合っている──そんな現実の中で奴隷制度の話を聞くと、途端に身近な恐怖として迫ってくる。
セファーは前王の代から仕える切れ者で、王政を立て直すために奔走している……と公には言われている。
実際、改革の多くは彼が主導しているらしい。
だが同時に、政治の混乱に乗じてアラン王を傀儡に変え、好き勝手に利益を吸い上げようとする別の勢力も存在している。
彼らが裏で奴隷商人と繋がっていたとしても、もはや驚かない自分がいた。
そう考えると、この贅沢な屋敷──宰相セファーの邸宅で暮らし始めてから、奴隷らしき人物を一度も見かけていないことにも、妙な意味があるように思えてくる。
使用人は女性ばかりだが、皆きちんと教育を受けたような立ち居振る舞いで、身なりも整っている。
少なくとも、僕の知る奴隷のイメージとはかけ離れていた。
そもそも、奴隷であれば屋敷内を自由に歩き回ることなど許されないだろう。
それなのに彼女たちは自然に仕事をこなし、恐怖で怯えるような素振りもない。
――この屋敷は、本当にきれいな場所なんだろうか。
それとも、見えないだけで何か隠されているのか。
疑念が胸に引っかかったままでは落ち着けない。
そこで、僕はサレンに詳しく聞いてみることにした。
「ねえ、サレン。この屋敷の使用人たちって……もしかして奴隷じゃないよね?」
問いかけると、サレンはほんの一瞬だけ目を見開き、それから眉を寄せて僕の顔を覗き込んだ。
「いや、違うよ。ここにいる人たちは、みんなセファー様の信頼を得た雇われた使用人だ。身分はまちまちだけど、教養は最低限──いや、最低限以上だね。セファー様が雇った者には必ず教育を受けさせるから、礼儀作法や立ち居振る舞いが整っているのはそのおかげさ」
言われてみれば、確かに屋敷の使用人たちには怯えがない。
命令に逆らえない緊張ではなく、職業としての誇りに近い落ち着きがある。
「じゃあ、この屋敷には奴隷はいないってこと?」
僕の確認に、サレンははっきりとうなずいた。
「うん。屋敷の中にはね。ただ……セファー様の領地には工房や農場もあるから、そっちはまた状況が違うかもしれない。直接見たわけじゃないけど、それでも屋敷で働くのは使用人だけだよ」
そこで言葉を切ったあと、サレンは少し考え込むように視線を落とした。
そして、小さく息を吐いて言った。
「……正直に言うと、今の奴隷制度は、やりすぎなんだ」
「やりすぎ?」
僕が聞き返すと、サレンは苦い表情で続けた。
「本来、奴隷っていうのは借金の返済や罪の償いのために、一定期間だけ奉仕する契約奴隷が基本だったんだ。たとえ不当に借金を負わされたとしても……契約が終われば自由には戻れた。完全じゃないけど、それが一応の建前だった」
そこまで言ったあと、サレンは肩を落とす。
「でも今は違う。奉仕期間を終えても、ただじゃ庶民に戻れない。庶民に戻るための資格──名目上は社会復帰のための保証らしいけど、それを買わないと解放されない仕組みになってる」
まるで「期限付きのはずの借金奴隷を、永久に囲い込むための抜け道」のようだ。
サレンは唇を噛みしめ、言いづらそうに続けた。
「貴族にしてみれば、奴隷に正当な賃金を払って働かせるなんて冗談じゃない、ってことなんだろうね。だから契約を終えても解放させないための制度を作った。……改革の名を借りて」
その最後の言葉に、僕は思わず息を呑んだ。
改革。
表向きにはアラン王の名で進められている、あの一連の政策。
その裏で、誰が何を目的に制度を作り替えているのか。
セファーが止めようとしているのか、それとも──。
サレンは肩をすくめ、ため息まじりにぼそりと続けた。
「かといって、普通の仕事でも……無一文で、帰る家もない人を積極的に雇いたいかと言われれば、まず嫌がられる。信用も保証もない。だったら、身分のはっきりしてる庶民を選ぶに決まってる」
なるほど、と僕は思う。
だからこそ、庶民に戻るための“資格”が必要になる。
それは身分の証明であり、この社会に受け入れられるための最低条件なのだ。
サレンはしばらく指先で本の表紙を叩きながら、言葉を探すように続けた。
「実はね、この制度……古くからあるんだけど、一度だけ廃止されたことがあるんだ」
「え、廃止?」
思わず身を乗り出した僕に、サレンはちらりと視線を向け、にやりと笑う。
そして、手に持っていた本をひょいと掲げた。
「――この本に書いてあったんだよ」
妙に得意げだ。ずっと書斎にこもって読み込んでいた本だし、そりゃ詳しくもなる。
「それ、ずっと読んでた本だね」
「うん。」サレンは軽く本を振りながら答えた。「どうやら、神魔大戦が終わったあと、勇者が人の大陸の政治に関わった時期があってさ。そのときに、この制度は一度きれいさっぱり廃止されたらしい」
「勇者が?」
「そう。勇者は異世界から召喚された存在で、当時は新しい時代の象徴みたいに扱われてたんだと思う。改革の一環で、身分制度も見直されたんだろうね」
そこまで言うと、サレンはふっと苦笑した。
「でも……社会の根っこにあった価値観までは変わらなかった。結局、時間が経つと元の形に戻っていった。今の制度も、その名残みたいなものだよ」
言葉自体は淡々としているのに、その声からは、どうしようもない諦めのような静かな感情が滲んでいた。
サレンの言葉に、僕はしばらく黙り込んだ。
サレンは手元の本をぱらりとめくりながら、わずかに眉を寄せる。
「……それにしても、引っかかる記述が多いよね。この辺りの時代、まるで意図的に消されたみたいだ。戦争や大改革があったはずなのに、残っている史料が極端に少なすぎる」
「確かに」
僕も肩をすくめて本棚を見上げる。「大事件が山ほどあった時期なのに、まるで空白みたいに何も残っていない。普通なら逆に記録が増えるはずなのにね」
サレンは本を閉じ、机にトンと置いた。その表情には、好奇心よりもわずかな警戒の色が混ざっている。
「理由はわからない。でも……あまり触れない方がいい、って雰囲気は感じる」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
失われた時代。
消えた記録。
そこに何があったのかはわからない。だが――わからないからこそ、確かめたい。
「真実かどうかはともかくさ」
サレンは少し微笑み、僕の方をちらりと見た。
「こうして断片でも拾えるのは、きっと意味があると思う」
僕はその言葉にうなずき、窓の外へ視線を移した。
茜色の光が差し込み、本棚の影をゆらゆらと揺らす。消えた歴史、失われた時間――そこに何が眠っているのかはまだ見えない。でも、こんなふうに少しずつ手繰り寄せることが、大切な一歩なのだと思えた。
やがて、静けさがゆっくりと部屋を満たす。
ページの擦れる音も止み、僕たちはそれぞれ思考に沈みながら、穏やかな沈黙を共有していた。
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