15話
住む世界はもともと違うし、使う言語だって異なるはずなのに、不思議と通じてしまうのはなぜなのだろうか。
通じてしまうからこそ、あるいは運よく地頭が良かったからなのか――この世界に来てから、まだひと月ほどしか経っていないのに、読み書きはある程度できるようになっていた。
これはきっと、サレンの教え方が上手だったからだろう。彼の静かな語り口や、押しつけがましくない導き方には、どこか安心感があって、自然と身が入った。
知識を学ぶのは嫌いじゃないし、学びの時間は確かに大切だ。けれど、そればかりでは息が詰まってしまう。
先週などは、エナの見舞いに一度出たきりで、ほとんど屋敷の外に出ることもなかった。
エナが屋敷にいないのも、大きな理由のひとつかもしれない。
あんな騒がしいのがいたら、嫌でも引きずられて外に出ていたに違いない。
いや、むしろ――あいつが屋敷にいたら、とてもじゃないけど勉強なんてしていられなかったと思う。
騒がしいといっても、結局のところは構ってほしいとか、僕をいじってくることばかりだ。
まるで暇を持て余した子犬のように、こちらの都合などおかまいなしに絡んできて――それでも、うっとうしいと思いながらも、どこか憎めないのがエナらしいところだった。
けれど、そんなエナがいない今、この屋敷は不気味なくらい静かだ。
窓を開ければ、風が木々を揺らす音がわずかに届くが、それすらも耳に残るほどに、空間が澄んでいる。
あまりに静かすぎて、たまに自分の呼吸すら気になってしまうほどだ。
勉強が捗るのは確かだが、何かがぽっかり抜け落ちたような気もする。
一緒に過ごした時間だけで言えば、ロリスと同じくらいだが、サレンのことは人伝でしか知らない。
僕にとってはただの教師とはいえ、彼の過去や背景については、やはり気になる。
サレンのことを少しでも知れたら、もっと彼との距離も縮まるような気がする。
しかし、彼はあまり自分のことを語ろうとしない。それが逆に、僕を余計に興味を引かせるのだ。
ロリスと違って、サレンはどこか一線を引いているような気がする。
過剰に干渉してこないし、必要以上に感情を見せることもない。彼の態度はいつも冷静で、必要なことだけを淡々と教えてくれる。そんなところが、逆に不安を感じさせることもある。
ロリスがどんな時でも親しみやすく、気軽に話しかけてくれるのとは対照的に、サレンはあまりにも距離を置いているように思える。もちろん、それが悪いわけではないのだろうけれど、時々、彼の本当の気持ちが見えなくて、少しだけ孤独を感じることがある。
ふと、外の静けさを感じながら、サレンに対してどんな風に近づいていくべきかを考え始めていた。
翌日、静かな屋敷での生活に少し飽きてきた僕は、サレンを外出に誘うことを決めた。何か新しい刺激が欲しかったし、彼ともっと親しくなれるかもしれないと思ったからだ。
午前の授業で、サレンはいつも通り冷静で落ち着いた様子で教えていた。今日も変わらず、必要なことだけを淡々と伝える彼に、少しだけ肩の力を抜いてもらいたいと感じていた。
授業が終わり、僕はふとそのタイミングを待っていた。サレンが自分の資料を片付けるのを見計らって、言葉をかけることにした。
「サレン、少し外に出てみないか?」
僕の提案に、サレンは少しだけ顔を上げ、軽く眉をひそめる。
「どうして?」とサレンは淡々と聞いた。
その冷静な声に、僕は少しだけ息をのんだが、すぐに意を決して答える。
「なんとなく、外の空気を吸いたくて。授業ばかりで少し息が詰まってるし、気分転換にもなるかなって。君もずっと屋敷の中だろうし、たまには気分を変えたほうがいいと思うんだ」
サレンは少し考え込むように資料を整理しながら、無言で僕の言葉に耳を傾けていた。そして、しばらく沈黙が続いた後、彼はようやく口を開いた。
「……わかった。少しだけなら、付き合おう」
サレンの答えに、少しだけ安心したような気持ちが湧いた。
ロリスとサレンと共に普段、サレンは冷静で一歩引いているような存在だから、こうして一緒に出かけるのは少し特別な感じがする。
屋敷の外に出ると、すぐに新鮮な空気が僕を包み込み、少しだけ身体が軽く感じた。静かな庭園の中を歩きながら、サレンは歩調を合わせてくれる。
サレンという知識人もいるので、楽しませたいという念もあり、本屋がある区画に足を運ぶことにした。彼が本を楽しんでくれるかどうかはわからないが、少なくとも何か新しい発見があれば良いなと思っていた。
街の中を歩きながら、周りの喧騒とは対照的に、サレンは黙って歩き続けている。その姿は、まるで世界のすべてを一歩引いて見ているような印象を与える。自分のペースで歩くサレンを見ていると、彼がどんな思いで今この瞬間を過ごしているのか、少しだけ気になった。
本屋に到着すると、街の喧騒から少しだけ隔絶された空間が広がっていた。木製の扉を押して入ると、古びた香りのする空気が迎えてくれる。棚には、厚い革の表紙や金箔で装飾された本が並び、まるで時間が止まったかのような雰囲気が漂っていた。どこか古典的な中世の異世界を感じさせるその本屋は、まさに知識の宝庫といった感じだ。
本屋の中は、薄暗い光の中に点々と吊るされたランタンが揺れ、柔らかな明かりを放っていた。高い天井からは、年代物の木材が使われた梁が見え、店内には微かな木の匂いが漂っている。静かな空間の中で、時折ページをめくる音が響く。
サレンは少しだけ目を輝かせて、棚に並んだ本を静かに見つめていた。どれもこれも、タイトルが見慣れぬ異国の言葉で書かれており、内容も魔法や伝説に関するものが多い。魔法書や歴史書、古代の遺物について書かれた書物が、並べられた棚ごとに整然と並んでいる。金色に輝く魔法の秘伝書や、古の魔法使いが記したという伝説の巻物が目を引く。
本棚の隅には、魔法の符号が描かれた古文書もあり、その表紙には奇妙な模様が刻まれている。これらの本は、ただの物理的な本ではなく、ある種の神秘を感じさせるような存在だった。魔法が実在し、過去の時代の神々や英雄たちが語られる伝説が記されたものだろう。
サレンが棚の一番奥に目を向けると、古びた革表紙の本がひときわ目を引いた。その本は、他の本たちよりもずっと厚みがあり、重厚な印象を与えていた。タイトルには金箔で「古代の伝説」と刻まれており、見た目からして長い歴史を感じさせる。
サレンはそれを手に取り、慎重にページをめくり始めた。その書物には、古代の英雄たちや、失われた文明、そして不朽の伝説が詳細に記されているようだった。内容は非常に細かく、まるで口伝のように語り継がれてきた物語が綴られており、各地域ごとに異なる神々や怪物、歴史的な戦争の記録が描かれている。
「この本、伝説や神話に関して非常に貴重な資料が多いですね。」サレンはページをめくりながら、少し感心したような表情を浮かべた。
彼の指先が触れたそのページには、時の流れに擦れたインクで、重々しい筆致の文字が綴られていた。神魔戦争──それは、神々と魔族、そして人間たちの運命を決定づけた、大いなる激突の記録だった。
ページをめくるサレンの手が止まった。そこには、淡い金のインクで描かれた三つの大陸の図があった。中央の大地は割れ、まるで星が砕けたかのように三方向へと広がっている。
>「かつて世界は一つなりし大陸しか存在してはいなかったが、神魔の衝突、すなわち〈神魔大戦〉によりその均衡は崩れ、大地は三つに裂かれたり」
サレンはじっとその一文を見つめた。記述は簡潔ながらも重く、ページの隅には震えるような手で書き加えられたような注釈が続いていた。
>「一、大地は“人の世”と成りて、勇者たちの歴史を刻む。」
>「一、深き闇より生まれし魔族の地、終わりなき夜を湛えし大地。」
>「一、神々の住まいし楽園、空に浮かびしが、地に降りて今は姿を隠す。」
サレンの目が細くなった。
「神の楽園……空に浮かんでいたが、今は三大陸の一つになっている……」
彼は本を閉じず、図の中心に描かれたかすかな円環模様に注目した。まるで天から降りた痕跡のように、それは静かに金色の光を放っていた。
「つまり、今の三大陸のうちのどれかが、元は神の居場所だったってことか……」
それは単なる神話の名残ではなく、もしかすれば現実の大地に今もその痕跡が存在している可能性を示唆していた。
それにしても──サレンは眉をひそめながら、再びページをじっと見つめた。
「私の知る世界の成り立ちよりも、ずっと詳しく……神話や伝承の域を超えて、まるで実際に見てきたように描かれている……一体、誰がこれを書いたんだ?」
興味とわずかな不安が胸をよぎる。彼は本をそっと閉じ、革表紙をなぞるように撫でたあと、書棚の間を抜けて、静まり返った店のカウンターへと戻った。
カウンターの奥では、年老いた店主が分厚い眼鏡をかけて、古びた帳面に何やら書き込んでいた。サレンは手にした本を掲げて、問いかける。
「この本について、何かご存じですか? 誰が書いたのか、あるいは、どこから来たものか……」
店主は顔を上げ、本をちらと見ると、少しだけ目を細めた。しかし、その反応は予想以上に曖昧なものだった。
「さぁ……わからんなあ」
サレンは思わず眉を上げた。
「本当に?」
店主は肩をすくめ、帳面に視線を戻しながら、ゆっくりと答える。
「こういった古本の類はな……たいていは、貴族様が屋敷の蔵を整理した時に処分する書物を、まとめて買い取ったものか、あるいは誰かが持ち込んでくるのを買い取るか……」
店主はそう言いながら、そこまで滑らかだった口調を急に言い淀んだ。サレンが訝しげに視線を向けると、店主はちらりとあたりを見回し、わずかに声を潜めて続けた。
「……もしくは、墓荒らしどもが手に入れた副葬品だったりもする」
その言葉に、サレンの指が本の背表紙を強く握った。
「副葬品?」
「ああ。古代の王族や司祭の墓から掘り出してきたもんだ。呪いがあるだの、祟りがあるだのって噂が立つが……金に目が眩んだ連中は気にしちゃおらん」
店主はため息をつきながら、帳面を閉じた。
「この本もな、妙に保存状態がいい。紙の質も、製本も、普通じゃ考えられんくらいしっかりしてる。……だからって、本物の“神代の記録”だなんて、信じるには早すぎるが」
「……とりあえず、じっくり読みたい。気になることが多すぎる」
サレンは静かにそう告げると、再び革表紙の感触を確かめるように本を撫で、代金を支払った。
サレンは無言で店を後にした。本を大切に布で包み、肩に掛けた鞄の中へと納める。その重みが、ただの紙の束以上のものに思える。
街に出ると、日差しはやや傾きかけていた。だが、いつも人で賑わっているはずの大通りが、なぜか不自然なほどに空いていた。
「……ん?」
サレンは足を止め、遠くの通りの先を見やる。砂煙がわずかに舞い、舗装された石畳を優雅に滑るように──
大通りに出ると、僕たちは足を止めた。昼時とは思えないほど、道が不自然なほど開けていたのだ。
「……なんか変じゃない?」僕がロリスの隣で声をひそめる。
サレンが一歩前に出て、じっと遠くを見つめた。
「……国王の馬車だ」
そう言いながら、通りの先を指さす。
そこには、きらびやかな装飾をまとった豪奢な馬車が、ゆっくりとこちらへ向かっていた。その車体の側面には、誰もが一目でそれと分かる紋章──王家の双頭獅子が金糸であしらわれている。
「外の町の視察にでも行ってたんじゃないか?」サレンが小声でつぶやくと、ロリスが首をわずかにかしげた。
「そうかもしれないが……あの随行の数は、ただの視察にしては多すぎるな」
馬車の周囲には、十数騎の騎馬兵が厳重に陣を取り、通行人を寄せつけぬように目を光らせていた。その装備は実戦を想定した重装備であり、緊張感が肌を刺すように伝わってくる。
「見て、あの配置……中央と前後を固めて、側面は警戒重視。王都でこんなに厳重な警戒態勢を敷くなんて、よほどのことだ」
ロリスが冷静に分析しながら、手を少しだけ腰に置いた。彼の目線は馬車をじっと見つめている。警戒心が強く、周囲の動きも見逃さない。
サレンがちらりと僕を見て、思い出したように問いかける。
「カイ、君は王を見たことがあるか?」
「ないよ。」僕は素直に答えると、少し首をかしげた。「王国の中心である王宮には足を踏み入れることなんてなかったから、王様の姿を見る機会はなかったな」
サレンはしばらく考え込み、再び馬車の方を見つめた。ロリスも同じように静かに周囲を観察している。
「そっか……」サレンは軽くうなずくと、何か思いついたように続けた。「国王は普段、あまり民衆の前に現れることはないから、見る機会がないのは仕方ない」
サレンは少し考えてから、国王のことについて説明を始めた。
「国王は今、王国の第6代目だ。歴代の王たちは、長い間この王国を支えてきた。もちろん、各代ごとに特徴的な政策や戦争があったけど、現在の国王は比較的若いし、まだ治世が始まったばかりだ」
彼は一瞬、遠くの馬車を見つめてから、続けた。
「現国王の名前はアラン・ベルガン。前王、つまりアラン王の父親は長命で、戦争と平和のバランスをうまく取りながら統治していた。しかし、アラン王が即位してからは、統治の方向性が少し変わった。前王が“守り”の王だったとするなら、アラン王は“動き”の王だ。内政改革を進めながら、武の面でも王国の存在感を強めようとしている」
サレンの口調は穏やかだったが、その中にはどこか警戒するような響きも混ざっていた。
「新たに設立された近衛団は、貴族だけでなく、地方の下級騎士や平民出身の者まで広く登用している。それだけ聞けば、公平で開かれた制度に聞こえるだろうけど……」
サレンは視線を遠くに投げ、少し口を引き結んだ。
「その一方で、身分制度そのものを廃するわけではなかった。むしろ、形式としての貴族制度をより強固にして、下の層──特に奴隷階級に近い者たちには、より厳しい統制が課せられるようになったんだ」
サレンの声音が低くなる。
僕はふと疑問に思ったことを口にした。
「奴隷っていうと、なんか力仕事とかをやらされてるイメージですけど……あんまり見かけたことないです。王都でも、そんなふうに扱われてる人って、表には出てこないのかな」
ロリスが静かに答えた。
「表には、な。だが裏にはいる。そういう連中は登録されていない存在として扱われていて、役所にも記録が残っていないことが多い。いわゆる“影の労働者”ってやつだ」
「闇商人や、一部の貴族が所有してる場合もある。……昔ほど露骨じゃないが、その分、見えにくく、消えやすい」
サレンは小さくうなずきながら、静かに続けた。
「王都の地下や、辺境の工房、あるいは鉱山の中……そういう場所で働かされていることが多い」
「奴隷になった理由は様々だが、多いのは二つだ。貴族を怒らせたか、あるいは見た目が珍しかったりする種族であること」
ロリスは淡々とそう言った。まるで、それがこの国では当たり前の話だとでも言うように。
「けれど──このヴァイス帝国に限って言えば、王都が閉鎖的な地形と政策で囲われてる分、好き好んで移住してくる外の人間は少ない。だから、後者の“異種族だから売られた”というケースは、ここではあまり見かけない」
サレンが静かに言葉を継いだ。
「その代わり、前者──つまり、貴族に歯向かったとか、礼儀を欠いたとか……とにかく、貴族に狙われるようなことをすれば最後だ。彼らは、あらゆる手段を使って正当性を装い、どうにかして“借金”という形に持ち込む。そして、支払えなければ奴隷に落とされる。弁償という名のもとに」
サレンの声は低く、まるでその光景を何度も見てきたようだった。
「“借り”を作った瞬間に、首輪が見えてくる。返す手立てもなく、“契約に従って”と書類一枚で自由を奪われる。しかも、その契約は──往々にして偽造や改ざんされてることすらある」
ロリスが小さくうなずく。
「俺のいた騎士団でも、何人かいた。国のために働くことが評価されて、奴隷にはならないこともあったけど──それでも、危険地帯での任務に駆り出されることが多かった。戦場に出れば、命の保証はない。命を賭けて、国を守るために働いていたのに──戻ったときに何も残っていないなんて、ざらにある話だ」
ロリスが軽く肩をすくめ、少し顔をゆがめた。
「……まあ、こういう話はやめだな。話してても気分が悪くなるだけだ」
その言葉を聞いて、サレンが少し苦笑いを浮かべながら、視線を外に向けた。
「気を悪くしたなら、すまない」
ロリスがしばらく無言で考え込んだ後、静かに言った。
「じゃあ、もう行こう。帰るぞ」
ロリスの言葉に、サレンも軽く頷き、僕もその後に続く。
三人はそのまま歩き出し、王都の喧騒から離れて、少しずつ静かな街並みに向かって帰路についた。町の道は暗く、街灯がないため、月明かりや星明かりだけが頼りだ。道の先がほのかに見える程度で、足元も不安定な部分が多かった。しかし、道路沿いのお店の灯りが、わずかながら道を照らしており、その明かりが行く先を優しく導いていた。ほんの少しの音も耳に響きやすく、静寂の中で帰路を歩くことになった。