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14話

 朝の光が静かに差し込む中、木の机の上には数枚の紙と数本のペンが並べられていた。部屋の片隅に立つ棚には、すでに読み終えた練習帳が何冊も収まっている。


 始めたばかりの頃は、記号にしか見えなかった文字たち。けれど今は、意味を持つ形として、少しずつ頭に馴染みつつある。ゆっくりではあるが、確かな進歩を感じていた。


 隣では、サレンが椅子に浅く腰かけ、静かにページをめくっている。ときおり視線をこちらに向け、手元の書き取りを見て、ほんの少しだけ頬を緩めた。


 その笑みは特別なものではない。けれど、それが向けられたことに、胸の奥がわずかにあたたかくなる。


 間違いはまだ多い。記憶も曖昧だし、筆の運びも拙い。けれど、昨日よりも今日の方がうまく書けたと思える。それだけで、十分だった。


 教室でも図書室でもない、ただの一室の、何気ない時間。けれどその静けさの中には、確かに意味があった。


 文字の形をなぞる筆先が止まり、次の行へ移るために一瞬、指が紙から離れた。その拍子に、ふと顔を上げると、サレンは机の向こうで静かに目を伏せていた。何かを考えているようで、何も考えていないようにも見える。


 淡々と、けれど丁寧に教えてくれる姿。たとえ何度書き間違えても、声を荒らげることもなければ、諦める素振りすら見せなかった。


 サレンという人は、不思議だった。


 穏やかで、控えめで、けして多くを語らない。けれど、まるで初めからすべてを見透かしているような静けさを持っていた。


 その静けさは、ただの無口とは違っていた。たとえば、窓から風が入るときにほんのわずか眉を動かす仕草。紙に染みたインクのにじみをじっと見つめる沈黙。言葉ではない、それよりもずっと小さなものが、彼のなかに確かに存在していた。


 以前、廊下で立ち話をしているのを見かけたことがある。相手はこの屋敷の使用人だったと思う。普段と変わらぬ穏やかな口調だったが、相手の目はどこか怯えたように伏せられていて、その光景が妙に印象に残っていた。


 威圧したわけではない。けれど、立場をわきまえさせる何かを、彼は自然にまとっている。

 そう思ったとき、自分がサレンの前で言葉を選ぶ理由も、少しだけ理解できた気がした。


 厳しいとも、怖いとも思ったことはない。むしろ、安心していい相手だと感じている。それでも、決して甘えることができない境界のようなものがある。それは、年齢の差とか、教える者と教わる者という関係だけでは説明できない距離だった。


 ――この人は、何をしてきたのだろう。


 自分と関わることに、何を見ているのだろう。


 問いかけたい気持ちと、知らずにいたい気持ちがせめぎ合う。


 机の向こうで、サレンがまたこちらを見た。目が合うと、ほんのわずかに頬を緩める。それだけで、探るような思いは胸の奥に押し返された。


 目の前の静かな人間に宿る深さに、確かに心を惹かれている自分がいた。


 練習を終え、筆を片づけようとしたとき、サレンが机の前で小さく頭を下げた。誰にというわけでもなく、自然な所作だった。


 礼を返すべきか少し迷ってから、「それ、いつもやってますよね」と、思わず声をかけた。


 サレンは少し驚いたようにこちらを見たが、すぐに目元を緩めて答えた。


 「習慣です。昔いた場所では、日常のことでしたから」


 「上の人に、ってことですか?」


 「いいえ。誰に対しても、です。……それが礼儀とされていたのです」


 そこには、決まりごととして体に染みついた、静かな確かさがあった。


 そういえば、サレンに関して気になっていることがあった。


 ずっと、教える人としてしか見てこなかったけれど――あまりに整った振る舞いや言葉の選び方、そして何よりその物腰の穏やかさに、ふとしたときに違和感を覚えることがあった。


 この人は、どうして、自分のような者に、こんなにも丁寧に教えてくれるのか――。


 筆を置いた手が、まだ微かに温もりを残している紙の上をなぞる。その感触を確かめるようにしながら、言葉が胸の奥で渦を巻く。


 今なら、少し聞いてもいいのではないか。

 そう思ったのは、サレンの表情がほんのわずか柔らかく見えたからだった。


 「……ロリスから、聞きました」

 唐突にならないように、ゆっくりと前置きを置く。


 サレンは本を伏せ、こちらに視線を向けた。問いの続きを待っているような、けれど無理に急かすことのない穏やかな目だった。


 「かつて、官職に就かれていたと……。」


 サレンは目を伏せてから、わずかに口元を緩めた。否定も肯定もしないまま、少しの沈黙が流れた。


 「官職と言っても、あまり洒落たものではありません。……少しばかり、上の席にはいましたが」


 ぼかすように言いつつ、その声に滲んだのは、誇りとも、疲れともつかない微妙な響きだった。


 「人と話し、記録を整え、調和を保つ。それが私の務めでした。争いを避けるために言葉を選び、誰かの想いをすくい上げる。……民の声に、耳を傾けるのが仕事だったんです」


 「大変そうです」


 ぽつりとこぼれた言葉に、サレンはわずかに目を細める。


 「ええ。でも、つらいとは思いませんでした。……少なくとも、国のため、誰かのためになるのだと信じていた間は」


 語尾が少しだけ揺れた。過去形に置き換えられた言葉が、今との距離を感じさせる。


 「疲れはありました。思うようにいかないことも。けれど……誰かの暮らしが、少しでも良くなるならと思えば、不思議と苦ではなかったのです」


 机に置かれた本の表紙を、指先で軽くなぞる。そこには、いまだ触れていない思いがいくつも沈んでいるようだった。


 「でも、今はここにいる。それだけの理由が……あったということです」


 淡く、けれど確かに区切られたその言葉に、問い返す声をのみ込んだ。





 夜も更け、そろそろ湯を借りようと屋敷の廊下を歩いていたときのことだった。角を曲がった先で、ふいに足が止まる。


 ――そこにいたのは、あの人物だった。


 薄明かりに浮かび上がる長身の男。背筋を伸ばし、まるで夜の静けさに溶け込むように立っている。

 宰相――二週間前、屋敷で初めて対面したとき、凍るような視線で言葉を突きつけてきた、あの人物だった。


 目が合った瞬間、思わず背中に冷たいものが走った。だが、相手のほうは驚いた様子もなく、まるでこの場所で出くわすことが最初から予定されていたかのように、静かに口を開いた。


 「……夜分に失礼。どこへ行くところかね」


 「……浴室に。少し、湯を借りようと」


 声が少し震えたのが、自分でもわかった。だが、宰相はそのことに触れることもなく、わずかにうなずいた。


 「そうか。よく眠れるといい」


 それだけを言って、彼はゆっくりと脇を通り過ぎようとする。だが、その歩みがふと止まった。


 「……名乗っていなかったな、前に会ったとき」


 低く響く声に、胸が一瞬だけ強く脈打った。


 「この屋敷の主にして、王宮の宰相。名を、セファー・ヴェルノートという」


 はっきりとした名乗り。なのに、その声音には圧を感じさせない静けさがあった。

 ただ、沈んだ湖面のように深く、その底が見えない。


 セファー・ヴェルノート――。


 その名を胸の奥に刻み込むように繰り返していると、ふいに彼がこちらを振り返った。歩き去ったはずの背が、再び目の前に戻ってくる。思わず息をのむ僕に向かって、彼はまるで少し間を持て余すように、ゆるやかに言葉を継いだ。


 「……この屋敷での暮らしには、もう慣れたか?」


 唐突ともいえる問いかけだったが、嫌味も試すような響きもなかった。ただ、その言葉にはどこか、日常を確認するような静かな気遣いがあった。


 「……はい。あの、何というか、食事も……部屋も、きれいで、静かで……」


 慌てて出た返事は、どこかちぐはぐで、我ながら頼りない。でもセファーはそれを咎めるでもなく、ただ目元をわずかに細める。


 「静かすぎると思うこともあるだろう。」


 セファーは続けてそう言うと、ふと足元に視線を落とした。何気ない仕草だったが、そのまなざしがどこか遠くを見ているようにも感じられる。


 セファーは少しの間、静かに僕を見守ってから、ふと口を開いた。


 「……サレンが君に教えていること、順調に進んでいるか?」


 その問いかけは、予想外だった。まさか、セファーが僕の学びに関して興味を持っているとは思わなかったからだ。


 「ええ、だいたいうまくいっています」と、僕は少し戸惑いながらも答えた。「サレンが教えてくれるおかげで、だいぶ慣れてきました。」


 セファーは静かにうなずくと、軽く視線を落とした。その仕草から、何かを考えているようだった。


 「まあ、励めよ。」


 その言葉を残すと、セファーは背を向けて歩き出した。僕はしばらくその姿を見つめ、どうするべきか一瞬迷ったが、やがて一礼をした。


 その後、セファーが廊下の向こうに消えていくのを、姿が見えなくなるまで静かに見届けた。





 翌日。


 午前の授業を終え、昼食までのあいだに少し時間ができた。庭の縁側に腰を下ろしてぼんやりしていると、涼やかな足音が近づいてきた。


 「こんなところにいたの? 昼前なのに、もうくたびれた顔してるわね」


 声の主はロリスだった。光を跳ねるような明るい笑みで、手には今日の読み物らしき薄い冊子を抱えている。


 「ちょっと聞きたいことがあって……いい?」


 そう切り出すと、ロリスは「ん?」と小さく首をかしげ、僕の隣に腰を下ろした。


 「サレンのことなんだけど」


 僕の言葉に、ロリスは軽く目を丸くしてから、少し表情を和らげた。その顔には、何を聞かれるのか察しているような、どこか余裕を感じさせる表情が浮かんでいる。


 「うん、サレンがどうかした?」


 僕が問いを続けると、ロリスは一瞬、手に持っていた冊子を軽く触りながら、少しだけ視線を落とした。風が静かに草を揺らす音が聞こえる中で、ロリスはゆっくりと口を開いた。


 「そうだよ。宰相様がそう決めたんだ。君に誰か教えをつけるなら、サレンがいいって、あの方が言ったのさ」


 ロリスの言葉は淡々としていて、どこか冷静な響きがある。それでも、その言葉の端々に、慎重な選別や配慮が滲んでいるのがわかる。


 「どうして僕にそんなことを? 最初に会ったとき、あの人、むしろ厳しかった気がするんだけど……」


 僕が疑問を口にすると、ロリスは肩を軽くすくめてから、少しだけ空を仰いだ。その姿勢には、どこかのんびりとした余裕が感じられる。


 「どういうつもりかは知らないが、宰相様が一番大事にしているのは、国の利益だろうな。だからこそ、サレンを先生に着けてくれたのかもしれない。サレンには特別な能力があるわけじゃないけれど、平民出身だからこそ、何かしら君にも通じるものがあるんじゃないかと思う」


 ロリスの言葉は少し考えさせられるもので、僕は思わず考え込んだ。


 ロリスもそうだが、こういう世界ではやはり平民出身で出世できるのは、厳しい立場から這い上がってきた人物だ。宰相の目にかなったのも、その苦労と地道な努力が評価されたからだろう。


 「サレンも大変だったんだろうな」と、僕はふと口にした。


 ロリスは軽くうなずきながら、再び僕を見て、穏やかな表情を浮かべた。


 「大変だったからこそ、君に教えるのには意味があるんだろう。平民としての過去も、貴族として生きる今も、サレンの視点は君にとってきっと役立つはずだ」とロリスは続けた。彼の表情はどこか静かな自信に満ちていた。


 ロリスの言葉には、深い実感がこもっていた。サレンが平民出身であること、その過去を糧にして今に至ること。確かに、あのような背景があれば、僕のように生まれ育ちからまるで違う世界に足を踏み入れた者にとっても、何かしら響くものがあるのだろう。


 「なるほど」と僕は静かに言った。何だか、サレンのことを少しだけ理解した気がした。彼が持つ冷徹な表情の裏に、あんなにも重いものを抱えているのかもしれない。


 「でも、君も大変だったろう? ロリス、君だって平民出身なのに、こんなに高い地位にいるんだろう?」と、思わず口をついて出た。


 ロリスは少し沈黙した後、遠くを見つめるようにして言った。「私の場合、風に関する魔法の天賦があったから、学院に入り、そこで鍛錬を重ねることで力をつけてきた。力を認められて、騎士団の団長に任命されただけのことよ。」


 少し惜しそうに目を細めながら、ロリスは続けた。「でも、サレンは違う。彼は学院にも通わず、膨大な知識を持っている。彼のように、平民から一から積み上げてきた人物が、重要な地位にいたことのは、本当に素晴らしいことだよ。あんなにも多くの経験と知識を持ち合わせた人間は、なかなかいない。」


 ロリスの言葉には、彼自身が感じてきた努力の苦労と、サレンに対する深い尊敬が滲んでいた。彼の目には、どこか遠くを見つめるような切なさが浮かんでいた。


 「だから、君がサレンに学ぶことは、間違いなく価値があることだよ。」ロリスは静かに、しかし力強く言った。


 僕はその言葉をじっくりと噛みしめ、改めてサレンがどれだけ特別な存在なのかを実感した。


 なおさらサレンに、色んなことを教えてもらおうと思った。

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