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異世界転移記 ~層彩のキャンバス~  作者: 0
第一章 <始まり>
14/30

14話

 朝の光が静かに部屋へ射し込み、木の机の上には数枚の紙と数本のペンが整然と並べられていた。

 部屋の隅の棚には、使い切った練習帳が何冊も積み重なっている。


 この世界の文字を学び始めた頃は、ただの模様にしか見えなかった。

 けれど今は、ひとつひとつの形が意味として結びつき、ゆっくりと頭に馴染み始めている。

 歩みは遅い。だが確かな前進だった。


 隣ではサレンが椅子に浅く腰かけ、静かにページをめくっていた。

 ときおりこちらに視線を向け、書き取りの跡を確認すると、ほんのわずかに頬を緩める。


 特別な笑みではない。

 それでも――その小さな弧が自分に向けられたと思うだけで、胸の奥が微かに温まった。


 まだ間違いは多いし、筆の運びもぎこちない。

 それでも、昨日より今日の方が少しだけ形になっている気がする。

 その実感だけで十分だった。


 教室でも図書室でもない、ただの一室。

 けれどこの静けさには、確かな意味があった。


 筆先を紙から離したとき、ふと顔を上げる。

 サレンは机の向こうで目を伏せ、何かを考えているようで、何も考えていないような表情をしていた。


 淡々としているのに、雑ではない。

 こちらが何度書き間違えても、声を荒げることも、呆れる気配すら見せない。

 必要なことを必要なだけ、静かに示してくれる。


 ――サレンという人は、不思議だ。


 穏やかで控えめで、言葉少な。

 けれどその静けさは、ただの無口とは違う。

 窓から風が吹き込むと、わずかに眉が揺れる。

 紙に滲んだインクを見つめ、ほんの短い沈黙を置く。

 そういう小さな仕草の奥に、何か見えない層があるようだった。


 以前、廊下で彼が使用人と話す場面を見かけたことがある。

 いつもと同じ落ち着いた声だったが、相手はなぜか怯えるように目を伏せていた。

 その光景が、妙に印象に残っている。


 威圧したわけではない。

 それでも、立場の違いを自然に理解させる何かを、サレンは纏っていた。


 ――だから自分は、彼の前では無意識に言葉を選んでしまうのかもしれない。


 そう思うと、少しだけ腑に落ちた。



 厳しいとも、怖いとも思ったことはない。むしろ、安心できる相手だと感じている。

 それでも、決して踏み込めない境界のようなものがある。年齢でも、立場でも説明のつかない距離だ。


 ――この人は、いったい何をしてきたのだろう。


 自分と向き合うとき、その奥にどんな意図があるのだろう。


 知りたい気持ちと、知らないままでいたい気持ちが、胸の内で揺れる。


 机の向こうのサレンがふと顔を上げ、目が合った瞬間、ほんのわずかに頬を緩めた。

 その自然な笑みに、探るような思考はゆっくりと押し戻される。


 静かな人間の奥にある深さに、確かに自分は惹かれていた。


 練習を終えて筆を片づけようとしたとき、サレンが静かに頭を下げた。誰に向けたものでもなく、息をするように自然な所作だった。


 礼を返すべきか一瞬迷い、それより先に言葉が出た。


 「……それ、いつもやってますよね」


 サレンはわずかに驚いた顔をしたが、すぐ目元を緩めて答えた。


 「習慣です。……昔いた場所では、当たり前のことでした」


 「目上の人に、ってことですか?」


 「いいえ。誰に対しても、です。そういう“形”が決まりのようにあったのです」


 その声音には、長い時間を経て身にしみた“当たり前”の響きがあった。


 そういえば、と胸の奥がざわつく。

 サレンについて、ずっと引っかかっていたことがある。


 教える人として見てきたけれど――言葉遣いも、品のある所作も、穏やかな物腰でさえも、どこか“普通の暮らしのもの”ではない気がしていた。


 この人は、どうして自分のような者に、こんなにも丁寧に接してくれるのだろう。


 置いた筆先の余熱が紙にかすかに伝わる。その感触を頼りに、渦を巻く言葉をそっとまとめる。


 今なら、少しだけ聞けるかもしれない――。


 そう思えたのは、サレンの表情がいつもより柔らかく見えたからだ。


 「……ロリスから、聞きました」


 唐突にならないよう、慎重に前置きする。


 サレンは本を伏せ、静かにこちらへ視線を向けた。急かさず、ただ待つような穏やかな目。


 「昔、官職に就かれていた……って」


 サレンは目を伏せ、口元をほんのわずかに緩めた。

 肯定も否定もせず、けれど何かを受け止めたような沈黙が落ちた。



 「官職と言っても、洒落たものではありません。……少しばかり、上の席にはいましたが」


 ぼかすように言う一方で、その声には誇りとも疲労ともつかない、複雑な響きがにじんでいた。


 「人と話し、記録を整え、調和を保つ。それが私の務めでした。争いを避けるために言葉を選び、誰かの想いをすくい上げる。……民の声に耳を傾けるのが仕事だったんです」


 「大変そうです」


 思わず漏れた感想に、サレンはほんの少し目を細めた。


 「ええ。でも、つらいとは思いませんでした。……少なくとも、国のため、誰かのためになるのだと信じていた間は」


 語尾だけが柔らかく揺れた。

 過去形に置かれたその一言が、今との距離を静かに物語る。


 「疲れはありました。思うようにいかないことも、たくさん。けれど……誰かの暮らしが少しでも良くなるならと思えば、不思議と苦ではなかったのです」


 机に置かれた本の表紙を、指先でそっとなぞる。

 その仕草には、まだ言葉にしていない思いが沈んでいるように見えた。


 「でも、今はここにいる。――それだけの理由が、あったということです」


 淡く、しかしはっきりと区切られたその言葉に、飲みかけた問いが喉奥で静かに止まった。





 夜も更け、そろそろ湯を借りようと屋敷の廊下を歩いていたときのことだった。

 角を曲がったその先で、ふいに足が止まった。


 ――そこに、あの人物がいた。


 薄明かりに長身の影。背筋を伸ばし、夜気に溶けるように佇む男。

 二週間前、初対面の場で凍えるような視線を向け、容赦ない言葉を投げつけてきた、あの宰相だった。


 目が合った瞬間、背筋に冷たいものが走る。

 だが彼のほうは驚く様子もなく、まるでこの邂逅を当然とでも言うように、静かに口を開いた。


 「……夜分に失礼。どこへ行くところかね」


 「……浴室に。少し、湯を借りようと」


 自分でもわかるほど声が震えた。

 だが宰相はそれに触れもせず、ただ静かにうなずく。


 「そうか。よく眠れるといい」


 それだけを告げ、すれ違おうとした――その歩みが、ふと止まる。


 「……名乗っていなかったな、前に会ったとき」


 低く落ち着いた声に、胸が一瞬強く脈打った。


 「この屋敷の主にして、王宮の宰相。名を、セファー・ヴェルノートという」


 しっかりとした名乗りなのに、不思議と威圧のようなものは感じなかった。

 ただ、深く静かで、湖底の見えない水面のような気配がそこにあった。


 セファー・ヴェルノート――。

 その名を胸の内で繰り返していると、歩き去っていたはずの彼が、再びこちらを振り返った。


 戻ってきた影が、ゆるやかに言葉を継ぐ。


 「……この屋敷での暮らしには、もう慣れたか?」


 唐突な問いだった。

 けれど、嫌味も試す色もない。ただ、日常を確かめるような、静かな気遣いだけがあった。


 「……はい。えっと、その……食事も、部屋も、きれいで……静かで……」


 慌てて出た言葉はどこかちぐはぐで、我ながら頼りない。

 だがセファーはそれを否定するでもなく、目元をわずかに細めた。


 「静かすぎると思うこともあるだろう。」


 セファーは続けてそう言い、ふと足元へ視線を落とした。何気ない仕草のはずなのに、そのまなざしはどこか遠く、手の届かない場所を見ているようでもあった。


 短い沈黙が落ちる。

 やがて彼は、こちらに視線を戻し、静かに問いを投げた。


 「……サレンが君に教えていること、順調に進んでいるか?」


 意外な質問だった。

 この人が僕の学びに関心を持つとは思っていなかったから、思わず呼吸が浅くなる。


 「ええ……はい。サレンのおかげで、だいぶ慣れてきました」


 多少の戸惑いをそのままに答えると、セファーは小さくうなずいた。

 その目がわずかに伏せられる。何かを思い返しているようにも、言葉を選んでいるようにも見えた。


 「……そうか。なら、励め」


 その一言は短いのに、不思議と重みがあった。


 セファーはそれだけ告げると、静かに背を向けた。

 長い影がゆっくりと伸び、廊下の奥へ消えていく。


 僕はしばらく立ち尽くしたまま、その背中を目で追った。

 去っていく姿が完全に見えなくなってから、ようやく深く一礼をする。


 静けさが戻った廊下に、僕の吐いた小さな息だけが響いた。






 翌日。


 午前の授業を終え、昼食までのあいだに少し時間ができた。庭の縁側に腰を下ろし、ぼんやりと風を眺めていると、涼やかな足音が近づいてきた。


 「こんなところにいたの? 昼前からそんな顔して、もう疲れたの?」


 声の主はロリスだった。光を弾くような笑みを浮かべ、手には今日の読み物らしい薄い冊子を抱えている。


 「ちょっと、聞きたいことがあって……いい?」


 そう言うと、ロリスは「ん?」と首を傾け、僕の隣に腰を下ろした。


 「サレンのことなんだけど」


 その名を出した瞬間、ロリスは少しだけ目を丸くし、すぐに穏やかな表情に戻った。

 どこか、内容を察しているような顔だった。


 「うん、サレンがどうした?」


 問いを続けると、ロリスは手元の冊子を指先で軽くつまみ、視線を落とした。風が草を揺らし、縁側の木が微かに軋む音がする。


 やがて、ロリスは静かに口を開いた。


 「……あれは、宰相様が決めたんだよ。君に教えをつけるならサレンがいいって、はっきり言ったらしい」


 言い方は淡々としている。けれどその奥に、慎重な配慮が透けて見える。


 「どうして僕に? 初めて会ったときなんて、かなり厳しい雰囲気だった気がするけど……」


 疑問を口にすると、ロリスは肩をすくめ、のんびりした仕草で空を仰いだ。


 「本当のところは、俺にもわかんない。でも……宰相様が一番気にしてるのは“国の得になるかどうか”って点だよ。君に学ばせるにしても、無駄を避けたいんだろうね」


 そして、少しトーンを落として続けた。


 「サレンって、特別な力があるわけじゃない。けど――平民出身でここまで来た人だ。君にも通じる部分がある、って思ったのかもしれない」


 言葉そのものは柔らかいのに、妙に胸に残った。

 ロリスの言う通り、こういう世界で平民が上へ行くには、ただ頑張っただけじゃ辿り着けない。

 宰相の目に留まったのは、積み重ねた努力と、きっとそれ以上のものに違いなかった。


 「サレンも、大変だったんだろうな」

 思わず漏れた独り言に、ロリスはゆるく頷き、僕の方へと視線を戻す。その目は、ただ単に同意を示すだけのものではなく――どこか、かつての彼自身の苦労を重ね合わせているようにも見えた。


 「大変だったさ。だからこそ、君に教える意味があるんだよ」

 ロリスは落ち着いた声で続けた。

 「平民として生きてきた過去も、今の貴族としての立場も、どちらも知っている。…そういう視点を持っている人間は稀なんだ。君が置かれた状況にも、きっと通じるところがある」


 淡々としているのに、不思議と温かい。ロリスの言葉には、単なる説明ではない説得力が宿っていた。


 確かに――サレンの背負ってきた時間を思うと、その冷たさに見える態度でさえ、一つの理屈を持っているように思えてくる。彼の鋭い言葉の裏側に、どれほどの積み重ねがあるのだろう。


 「なるほど」

 そう呟いた瞬間、胸の奥で何かがほどけるような感覚がした。

 僕は彼のことを、ほんの少しだけだが理解できた気がした。


 気づけば、言葉がこぼれていた。

 「でも、君だって大変だったんじゃない? ロリス。平民出身なのに、団長まで上り詰めたんだろう?」


 ロリスは「ふぅん」と息を吐くように小さく目を細め、庭の向こうへと視線を滑らせた。昼の光が頬に落ち、その横顔をどこか涼しげに見せている。


 「私の場合は、風だよ」

 短く言うが、その声には静かな重みがあった。

 「風魔法の天賦があったから、学院に入れて、鍛錬すれば強くなれた。力を示し続ければ、地位もついてくる。…そういう世界さ」


 その言い回しは軽いようでいて、境遇が軽かったわけでは決してないことが伝わってくる。


 ロリスは膝の上の冊子に視線を落とし、指で紙の端をそっとなぞった。

 「でも、サレンは違う。彼は学院に通ったわけじゃない。魔法で一目置かれていたわけでもない。膨大な知識を、誰から強制されたわけでもなく、自分だけで積み上げてきた。…平民出身で、あれほどの地位に至った人間なんて滅多にいないよ」


 尊敬と、少しの羨望と、ほんのわずかな切なさ。

 ロリスの声には、その全部が透けていた。


 「だから――」

 彼は僕を見つめ、穏やかながらも真剣な声で言った。

 「君がサレンに学ぶことは、間違いなく価値のあることなんだ」


 その言葉は、不思議なくらいまっすぐ胸に落ちた。


 サレンがどれほど特別な存在なのか。そして、そんな人物に選ばれた意味があることを、ようやく理解できた気がした。


 ――もっと知りたい。

 彼のことを。

 彼の見てきた世界を。


 なおさらサレンに、いろんなことを教わりたいと思った。

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