13話
午前中の光が斜めに差し込むなか、ロリスと僕は、街の東にある病院を訪れていた。
といっても、いわゆる近代的な病院とはまるで違う。建物は修道院のような石造りで、重厚な扉の上には宗教的な文様が刻まれている。中に入れば、静まり返った空間に薬草の匂いが漂い、修道服のような服を着た女性たちがゆっくりと歩いていた。壁際には細長い窓が並び、そこから差し込む光が、白いシーツのかかった簡素なベッドを照らしている。
その一角。淡い布で仕切られた個室のベッドに、彼女はいた。
「……え?」
最初に僕らに気づいたエナは、きょとんと目を見開き、それからぱっと顔を明るくした。
「ちょっと、うそ。来てくれたの?」
少し枕に沈み込むようにしていた体を、ゆっくりと起こす。思いのほか元気そうな声に、僕はほっとした。
「うん、見てたからな。あの時、結構ひどそうだったし」
僕が花束を差し出すと、エナはちょっと驚いたように目を丸くした。それからすぐに、いたずらっぽく笑みを浮かべる。
「わたしの流血姿に感動して、つい駆けつけちゃった? ……なんて、ちょっとロマンチックかも」
「違うよ。どっちかっていうと、ヒヤヒヤした」
「ふふ、それでも花を持ってきてくれたんだ。けっこう本気で心配してたんだね? じゃあ……このお見舞いの代金、何で返してあげようかしら」
彼女は花を受け取り、ひらりと視線を流すように僕を見た。どこか芝居がかった動きは、体を起こすだけでも大変そうなはずなのに、やっぱりどこか“エナらしい”。
「からかわれるために来たわけじゃないんだけど」
「え? 来てくれたってことは、そういうことだと思ってたけど?」
エナがすかさず口を挟む。
「君は誰が来ても、結局そう言うのでは?」
「そうね。じゃあ、特別扱いしてあげる。今日は、とびっきり調子に乗ったエナでお送りします」
「それ、いらないから」
そう言いながらも、僕はどこか安心していた。こうして軽口を叩いていられるくらいなら、大丈夫だ。しばらくは、少しだけおとなしくしててくれると助かるけど——きっと、それは無理だろうなとも思った。
ひとしきり軽口を交わしたあと、エナはふっと目を伏せた。
「……ねえ、ロリス」
珍しく真面目な声音だった。彼女は視線をそっとロリスに向けると、少し唇を引き結び、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「あのとき、本当にありがとう。ゴーレムと戦ってたとき……あなたが来なかったら、たぶん、わたし、あそこで……死んでたと思う」
その言葉は、冗談交じりでも、強がりでもなかった。
ロリスは一瞬だけ表情を和らげたが、すぐにいつもの調子で肩をすくめる。
「君が一人で突っ込まなければ、あんなに危なくなることもなかった」
「それは……そうかも」
エナはちょっとだけ頬を膨らませ、それから照れたように笑った。
けれど、その笑顔がすっといたずらっぽく歪む。
「……だけどさ、ロリスが騎士団からいなくなったから、こういう仕事、私に流れてきたと思うんですけど?」
ロリスは目を細めた。
「責任転嫁か?」
「え、違います? あなたがいた頃は、こういう面倒ごと、全部あなたの担当だったでしょ?」
「それはまあ……おっしゃる通りです」
「でしょう? だから、あなたが抜けたせいで、私がその穴埋めしてるんですよ。まったく、ちゃんとお詫びに何か奢ってほしいなあ」
ベッドの上でふんわりと微笑むエナは、すっかりいつもの調子に戻っている。
そして、ふいにくいっと指を伸ばして、僕の方を指さした。
「じゃあ……この子を頂戴。お詫びの品として♡」
「は?」
思わず変な声が出た。
ロリスはため息まじりに肩をすくめる。
「ダメだ。彼は今、俺の保護下にある」
「え~、けち。怪我人に冷たいなあ」
エナはわざとらしく口を尖らせたあと、僕の反応を楽しむようににやりと笑う。
「じゃあせめて、今度お茶くらい付き合ってね? 退院したら暇だと思うし」
小悪魔のように見えて、その声にはどこかほんの少しだけ、本気の色が混じっていた。
エナに別れを告げて病院を後にすると、日はすでに傾きかけていて、街の石畳には長い影が伸びていた。
ロリスと並んで歩きながら、さっきまでの賑やかなやり取りを思い返す。エナは元気そうだったし、たぶん大丈夫だ。……たぶん。
そんなふうに思いながら角を曲がったとき、ふと視界の隅に見慣れた髪色が映った。
通りの端、いくつかの露店が軒を連ねる小さな広場。そこに、アレーシャがいた。
……いや、いた「ように見えた」。
白やベージュを基調にしたゆったりとしたワンピースに、髪もゆるくまとめていて、どこか可憐な雰囲気をまとっていた。
前に見た、白銀の鎧に身を包み、奮戦したかっこいい彼女とは、まるで別人のようだった。硬質な空気はすっかり影を潜め、代わりに、露店の前で品物を物色しているただの「女の子」として、そこにいた。
右手には小さな髪飾り。翡翠をあしらった簡素な細工のようで、それを指先でつまみ上げて、光に透かしながらじっと見つめている。真剣というより、どこか楽しげに。瞳が柔らかく揺れて、笑みすら浮かべているようだった。
――たぶん、これは彼女の“プライベート”の時間なのだろう。
戦場でも、詰所でもない。仲間に囲まれてもいない。誰かの期待も背負っていない、ただ一人で歩くアレーシャ。
声をかけていいものか、正直、少し迷った。邪魔になるかもしれない。あるいは、あの穏やかな空気を壊してしまうかもしれない。
そんなふうに躊躇していると――
「……よぉ。今日は鎧じゃないんだな?」
僕の横から、軽い調子でロリスの声が飛んだ。
アレーシャは一瞬、翡翠から視線を外してこちらを見た。
その瞳がぱちりと瞬き、次の瞬間、驚いたようにわずかに見開かれる。そして――
「……っ」
彼女の頬がみるみるうちに赤く染まっていった。
まるで見られてはいけない場面を見られたかのように、アレーシャは何も言わず、翡翠の髪飾りをそっと棚に戻すと、こちらに目もくれずそのままくるりと背を向けた。
「……お、おい?」
ロリスが呼びかける間もなく、アレーシャは小走りで歩き出す。
その背中は早足どころか、徐々に速度を上げていき――ついには本格的に走り出してしまった。
「あっ、ちょ、ちょっと待って!?」
僕が慌てて声をかけるも、アレーシャはこちらを振り返ることなく、混み合う通りをすいすいとすり抜けて、たちまち人波の向こうに姿を消してしまった。
「……逃げた、な」
ぽつりと呟いたロリスが、少しだけ面白そうに笑う。
「なあ、もしかして、あれ、俺たちが悪かったか?」
「いや……うん、たぶん、そうかも……」
夕暮れの通りに、ひときわ風が吹き抜けた。
「……悪いこと、したな」
ロリスがぼそりと呟く。からかうでもなく、笑うでもなく。ただ、静かに。
僕も黙って頷いた。
あのときのアレーシャの表情を思い出す。ほんの一瞬だったけれど、どこか嬉しそうで、穏やかで――。
だからこそ、あの赤面と逃げ出すような反応が、やけに刺さった。
「ちょっと、見てくる」
僕はそう言って、アレーシャが立ち止まっていた露店へと足を向けた。
店主はまだ店を畳んでおらず、色とりどりのアクセサリーが夕暮れの光を反射して控えめにきらめいている。
その中から、迷わずひとつに手を伸ばした。
――翡翠をあしらった、簡素な髪飾り。
「これ、ください」
小銭を渡し、紙にくるんでもらった髪飾りを手のひらに収めると、妙にしっくりと馴染んだ。
どうして買ったのか、うまく言葉にはできない。ただ――
気づけば、僕は笑っていた。