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12話

 ウインクを返したエナの顔は、どこか誇らしげで――それでもやっぱり、どこか痛々しかった。


 すぐにでも支えになりたかったけれど、その前にロリスの声が響いた。


 「アレーシャ、あれ……まだ動かないよな?」


 僕らの背後には、崩れたゴーレムの残骸。とはいえ、異形の魔力を宿していたそれが、完全に無力化されたとは誰にも断言できない。


 アレーシャは氷の破片を踏みしめ、無言でゴーレムへと歩み寄ると、手をかざした。


 風のない空間に、淡い霧のような冷気が広がる。


 「……念のため、全体を凍らせておく」


 彼女の言葉と同時に、ゴーレムの残骸が白く染まりはじめた。砕けた石も、割れた魔核も、ひとつ残らず凍結し、洞窟の床に同化していく。


 「これで、再起動しても身動きは取れないはずよ」


 そう言って戻ってきた彼女の表情は、いつもどおりの無表情――けれどどこか、安堵の色があった。


 「エナの治療を急がないと」


 ロリスが低く呟く。支える腕に、エナの重みがかかるたびに、その切実さが増していく。


 「ここで応急処置しても限界がある。外へ出よう」


 誰も反論しなかった。むしろ、皆が同じ想いだった。


 僕らは氷の洞窟を後にする。


 崩れた床、砕けた氷、そして凍結された巨体――すべてを背にして、冷気のトンネルを抜ける。


 外に出たとき、思わず息を吸い込んだ。冷たいけれど、それでも新鮮な空気だった。


 馬車までの道のりで、簡単に治療の段取りが決まった。


 「アレーシャと私で病院に行くわ」とエナは自ら提案し、ロリスと僕はうなずいた。


 「ならば、私たちは屋敷に戻るとしよう」


 ロリスが、そっと気遣うように言葉を継いだ。


 彼の視線には、エナをひとりの戦士としてではなく、傷ついたひとりの女性として案じる想いがにじんでいた。


 アレーシャはその言葉に静かに頷き、彼の腕の中にいるエナへと手を差し出す。


 ロリスはしばし逡巡したようだったが、すぐにうなずき、慎重にその体をアレーシャへと引き渡した。エナの細い肩がアレーシャの腕に寄りかかり、わずかに眉が動いたものの、彼女は何も言わなかった。ただ、静かに目を閉じ、身を預ける。


 アレーシャはそのままエナを抱え上げ、くるりと踵を返すと、馬車の並ぶ道ではなく、崖の縁――道なき方角へと歩き出した。


 「……は?」


 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。


 思わず叫びかけたが、アレーシャはまったく気に留める様子もなく、崖の方へと進んでいく。しかも、その足取りは迷いのない、まっすぐなものだった。


 足場もない斜面へと向かうその後ろ姿に、思考が一瞬止まる。

 どこへ向かうつもりなのか、なぜそちらを選んだのか、問いかける間もなく、彼女は崖の縁までたどり着いた。


 まるで躊躇いがない。


 次の瞬間、足元の土がかすかに崩れたように見えた。

 重力に引かれるように、その身体が傾く――


 と思ったその刹那。

 風すらない空間に、鋭い音が走った。


 アレーシャの足の下に、淡い光を帯びた氷が静かに広がっていた。

 崖に沿って、道が形を成していく。氷の小道が、空を這うように。

 冷たい美しさと危うさが同居するその道を、アレーシャは一歩も迷わず歩き出す。


 エナを胸に抱えたまま、まるで重さを感じさせぬ軽やかさで。


 氷が軋む音も、足音も、何一つ響かない。

 ただその背中だけが、静かに遠ざかっていく。


 ただ見送るしかなかった。

 あんな足場を、あんなに静かに歩けるなんて――。


 氷の道は、まるで空中に浮かぶように、崖の曲線に沿って延びていく。

 その細く不安定な道を、彼女は一歩も乱さず進んでいた。


 風も、声も、届かない。

 ただ、あの背にある凛とした佇まいだけが、確かにそこにあった。


 ……すごいな、と思った。


 言葉にすれば陳腐になるような感情が、胸の奥から静かに湧き上がっていく。

 尊敬とか、憧れとか、そういうものが、渦を巻くように。


 彼女のことを、僕はまだ何も知らなかった。

 けれど今、少しだけ――ほんの少しだけ、その背中に手が届いた気がした。


 氷の道の先で、アレーシャは振り返ることなく、ゆっくりと姿を小さくしていった。

 その背に寄り添うエナの輪郭もまた、白い霧に溶けていくように。


 まるで幻想のようだった。

 でも、それは確かに現実だった。


 僕は、いつまでもその背中を見つめていた。

 氷の道が消えるまで、あの白い影が視界から消えてしまうまで――ただ、ぼんやりと。


 そんな僕の隣で、ふっと気配が動いた。

 ロリスが、小さく息をついて僕の方を見る。


 「……惚れたか?」


 からかうような声でもなく、深刻でもなく、ただ静かに。

 けれどその言葉には、僕の内側を見透かすような温度があった。


 返す言葉は見つからなかった。

 だけど、ロリスはそれで十分だったらしい。苦笑のような表情を浮かべ、剣の柄に手をかける。


 「帰るぞ」


 ロリスは柄に手を置き、軽く踏み出すと、剣がふわりと宙に浮かび上がった。


 「……ほら、掴まれ」


 声に従って腕を取られ、次の瞬間、体は優しく引き寄せられ、ロリスの腕の中に収まった。しっかりと支えられている感触が心地よく、けれどそのぬくもりが妙に安心させてくれた。


 「行くぞ」


 その一言とともに、剣は再び動き出し、音もなく宙を駆けた。地面が遠ざかる感覚、冷たい風が頬を撫でる中、心は不思議と落ち着いていた。


 ふと振り返ると、遥か彼方に氷の道を歩むふたつの影が見えた。ゆっくりと、確実に進んでいるその姿に、何かを感じていた。


 魔法という可能性が絶たされた僕には……


 ――いつか、あの背中に追いつけることなどできるのだろうか。


 ただ、ロリスの腕の中で、その思いに浸っていた。





 数日後――。


 洞窟での激闘の痕跡は、すでに冷たく乾いた風に洗われ、ただの岩の広がりに戻っていた。けれど、そこに残されたものたちは、確かに何かを語っていた。


 研究施設の一角。魔物の解析を担う部門に、巨大な檻に封じられた氷塊と、分解された魔物の一部が運び込まれていた。


 氷漬けとなったゴーレムは、体躯は人の数倍にも及び、その全身を覆う外殻は岩石と魔力の織り交ざったような重厚さを持っていた。


 斬撃も魔法もほとんど通さず、ただ圧倒的な質量と暴力で前進するそれを、エナは、一人で食い止めた。


 一方で、研究者たちの関心を強く引いたのは、もう一体の魔物――


 《ケルベロスらしき個体》。


 その正体を確かめるべく、研究施設では連日、解析が進められていた。


 氷漬けにされたまま運び込まれたゴーレムとともに、《ケルベロス》の遺骸も慎重に解体され、組織片、魔核、骨格、筋繊維の構造まで細かく調べられていた。


 戦闘の詳細は、回復したエナ本人の口から語られた。


 「あれは、速すぎた。……攻撃の隙なんて、なかった」


 その言葉通り、彼女は右肩と左の脇腹を深く噛まれていた。だが、それでも退かず、攻撃の瞬間にわざと自分を囮にして、三つ首のうちの一つに飛び込ませ――


 その顎が食い込んだ瞬間、水の魔力を一気に凝縮し、水刃を形成。喉元を内側から断ち切るように、力を叩き込んだのだという。


 「あれが限界だった。あれ以上は……勝てなかった」


 その告白に、研究者たちは静まり返った。


 一方、ゴーレムに対してはより冷静な対処が施されていた。


 外殻は極めて硬質で、通常の斬撃も魔法も通らなかった。だが、エナは機転を利かせ、大量の水を圧縮し、重力ごとねじ伏せるようにして水牢を形成。逃げ場を奪った上で、胸部の一点に向けて水刃を集中させ、かろうじて魔核を破壊した。


 「どちらも、もう一度やれと言われても無理だと思う」


 そう語る彼女の表情には、誇りよりも疲労が色濃く滲んでいた。


 そして、洞窟の最奥で発見された隠れ家――


 粗末なベッドや食器に混じって、古びた書類や研究資料がいくつも見つかった。


 乱雑に積まれた紙片の中には、ゴーレムの構造に関する図解や魔力の流れを示すような手描きのスケッチ、破損した記録媒体もあった。内容のほとんどは劣化し、文字も読み取れないものが多かったが、それでも研究者たちには十分すぎるほどの価値があった。


 床の一角――


 そこには、かすかに光を帯びた線のようなものが走っていた。


 埃にまみれた岩の床に、うっすらと刻まれた幾何学的な模様。見方によっては、魔法陣のようにも見えるが、完全な形ではなく、中心も構成も歪で、明確な意図を読み取るには至らなかった。


 「これは……魔法陣……? いや、違う。もっと根本的に、何かが違う」


 調査にあたった術式研究班の一人が、思わず声を漏らす。


 一般的な魔法陣の構造とは明らかに異なる線の流れ――まるで、“動かす”ことを前提としていないかのような、静的な陣。


 「これ、ロストテクノロジーか……?」


 誰かがそう呟いた。誰も返事はしなかった。


 それがゴーレムに関するものであることは、近くに残された図面の断片や、周囲の道具からも明らかだった。


 けれど、肝心の“作った者”の姿はどこにもない。


 研究資料に記されていた一節。


 ――「第一試体、制御不能。廃棄処理、実行」


 その短い文は、冷たい事務処理のような語調で、あまりに簡潔だった。


 第一――ということは、少なくとも二体目、三体目も存在したということ。


 確認されたのは、《第一試体》――。


 技術の黎明期に造られた、最も原初の個体であり、その制御系統や魔力流路は粗く、動作も不安定だったと見られる。だが、それだけに純粋な出力や物理的な強度は現在の常識を逸脱していた。


 「これが“最初”なら……後続の個体は、もっと厄介かもしれないな」


 研究者のひとりが、苦い声でつぶやいた。


 制御と安全性が向上すれば、単純なパワーの増強も、魔法的な応用も、さらに高度になっていく。第一試体が“暴走”の末に廃棄処理されていたことからも、その過程で多くの試行錯誤があったことが伺えた。


 ――つまり、この一体だけが発見されたわけではない、ということ。


 そして、未発見の“後続”がまだ存在する可能性を、誰も否定できなかった。


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