11話
やがて、剣は大きく弧を描いて滑空しながら高度を下げ、鉱山の外れに広がる岩場の上空へと差しかかった。そこにはすでに数人の兵士たちが待機していた。各々、警戒を解かぬまま鉱山の入り口を見張っている様子が、どこか緊迫した空気を漂わせている。
ロリスが軽やかに着地し、僕をそっと降ろした。まだ足元がふわつく感覚に戸惑いながらも、周囲の様子を見回す。
岩場の上に剣が静かに滑り込むように降下すると、地上の兵士たちがそれに気づいて一斉にこちらを振り向いた。ロリスが僕を抱えたまま軽やかに着地し、僕も少しよろめきながら地に足をつける。
数人の兵士たちが鉱山の入口付近に集まっていた。皆、緊張の面持ちで武器を手に構えたり、交代で周囲を見張ったりしている。だが、その中にあって、ひときわ目を引く存在がいた。
――あれは……。
明らかに周囲の兵士とは違う雰囲気をまとった人物だった。長身で、背筋をぴんと伸ばし、風を受けても揺らがぬ威厳がある。そして何より、身にまとう鎧が――まるで陽光を受けて輝く白銀の鏡のように、美しかった。
磨き上げられたかのように光を反射する装甲は、ただの実用的な防具ではない。肩や胸元には繊細な装飾が施され、全体の造形には気品すら感じられる。装着者自身の整った顔立ちも、その鎧に違和感なく溶け込んでいた。
その人は、目だけをこちらに向け、じっと見つめていた。氷のように澄んだその瞳に射抜かれたような感覚がして、思わず息を止める。
視線を外せなかった。見下ろすわけでも、値踏みするでもない――ただ、まっすぐに、凛としたまなざしでこちらを見ていた。それなのに、まるで心の奥を覗かれているような、奇妙な緊張が走る。
「……アレーシャ・ノア。〈銀環の氷姫〉と呼ばれてる。王都直属の近衛団に所属してる――まあ、軍の中でも別格だ」
ロリスが僕にだけ聞こえるような声で、そっと説明した。
「寡黙で、あまり多くは語らないが……腕は確かだ。魔物退治も、情報収集も、戦場の指揮も、どれも一級品だよ」
ロリスの声には、珍しく敬意のようなものがにじんでいた。
「信頼していい。……ただし、あの人が口を開いたら、それは“本気”の時だからな」
それだけ言うと、ロリスはすっとアレーシャの隣へと歩み寄っていった。自然と兵士たちの視線が彼ら二人に集まり、空気がぴんと張り詰めていくのがわかる。
アレーシャはロリスに軽く視線を向けると、わずかにうなずいただけで、再び無言で前を向いた。彼女の足元に、白銀のマントがふわりと揺れる。
洞窟の入口の前――その、まだ何も見えない暗がりの奥で、何かが息を潜めている気がして、思わず喉が鳴った。
「……じゃあ、始めようか」
ロリスの低い声が合図だった。彼とアレーシャは兵士たちに指示を飛ばし、動き出す。
僕は一歩後ろに下がり、静かに拳を握りしめた。今は、ただ見て、知ることしかできない。
中へと進むと、岩肌むき出しの通路が続いていた。鉱山らしく、所々に木製の支柱が組まれており、古びたランタンの残骸が吊るされている。奥へ進むほど、ひんやりとした空気が肌にまとわりついてきた。
足音だけが響く。ロリスは無言で先頭を歩き、すぐ後ろをアレーシャが守るように続く。彼女はほとんど足音を立てず、地を滑るような動きだった。兵士たちは緊張で呼吸を控えめにしながら、背筋を伸ばして彼らの後に続く。
やがて、空気に鉄のような匂いが混じり始めた。喉の奥に鈍いものが張りつく感覚――血の匂いだ。ロリスの眉間に皺が寄り、アレーシャも一瞬だけ足を止め、鼻をわずかに鳴らす。
「……濃くなってきたな」
ロリスの呟きに兵士たちがわずかにざわめいたが、彼の手の合図ひとつで再び沈黙が戻る。その先に進むと、天井がやや高くなった空間に出た。
そこには、暗がりに沈む広間のような空間が広がっていた。天井は高く、壁面には掘削の跡が無数に走っている。かつては採掘に使われていた場所なのだろう。だが今、その中央に、大きな血だまりが残されていた。
ロリスはその前で立ち止まり、わずかに腰をかがめて血に目を落とした。
「……もう乾いてるな」
低く、ぼそりと呟く。その声に、兵士たちが息を呑んだ。
血はすでに黒ずみ、床の岩に染み込むようにして広がっている。時間が経っていることは明らかだった。
アレーシャも血の縁に膝をつき、指先で表面をそっとなぞるように触れた。感情の読めない横顔が、一瞬だけロリスと視線を交わす。
「魔物の血かどうか、判断はできない。人間のものでないとは言い切れない」
「ただ……」
アレーシャが言葉を継ぎながら、血だまりから伸びる一筋の跡に目を向けた。岩の床に、黒く乾いた血が細長く尾を引いている。それは、まるで何かが引きずられたか、自ら這っていったかのように続いていた。
「この跡……まるで、道のように続いてる」
ロリスもそれに気づいたように、目を細める。視線の先には、空間の奥――さらに深くへと続く通路が、闇に溶けるように口を開けていた。
「……魔物の血か。三つ首の獣、エナが苦戦するような魔物なら、これだけの量があっても不思議じゃない」
彼は立ち上がり、掌で腰の剣を軽く叩いた。
「この跡を辿れば、何か手がかりがあるかもしれない。獣の死骸か、それとも……」
言葉を濁し、口をつぐむ。兵士たちもまた、血の道に目を奪われ、わずかに顔をこわばらせていた。誰もが、何が待ち受けているか分からない不安を抱いていた。
アレーシャは立ち上がり、ロリスに目を向ける。無言のまま、わずかに頷いた。その仕草には、「進むべきだ」という静かな意志がこもっていた。
ロリスもそれに頷き返すと、兵士たちに視線を向けた。
「行くぞ。距離はわからんが、この血の先に何かある」
兵士たちが小さく息を呑み、それぞれ剣や槍を握り直す音が響いた。僕はその後ろで、思わず手のひらに力を込めた。
暗闇の中へと伸びる血の道。その先には、何が待っているのだろうか――。
血の跡をたどるように、一行は再び歩を進めた。足元の乾いた血は、時折岩に擦れたりして消えかけていたが、それでも一本の線となって奥へ奥へと続いている。灯りの届かない闇の深さが、行く先を見えなくさせていた。
ロリスは無言のまま先頭に立ち、周囲に細心の注意を払って進む。目は闇に慣れているのか、些細な物音や空気の揺れにも敏感に反応していた。アレーシャはそのすぐ後ろ、常に斜め後方を守るような配置で動いていた。鋭い視線が、わずかな影の揺らぎさえ見逃さない。
兵士たちは沈黙を保ちつつも緊張を滲ませていた。呼吸は浅く、歩幅も自然と揃ってくる。それぞれが訓練された動きで警戒を崩さず、しかしその表情には不安の色が濃く浮かんでいた。
――そして、通路の先がふいに広がった。
まるで人工的に掘られたかのような、広大な空間。天井は高く、壁の一部には古びた鉄製の足場が組まれている。そこには使われなくなった道具や錆びた台車が転がっており、かつてここが本格的な採掘現場だったことを物語っていた。
だが、視線を引きつけたのは――その中心だった。
血の跡は、そこへと収束していた。そして、その中心に、ぐったりと横たわった何かがあった。
ロリスが一瞬だけ足を止める。アレーシャの眉がわずかに動いた。兵士たちの誰かが、ごく小さく息を飲む音が聞こえた。
それは――黒ずんだ体毛に覆われた、巨大な獣の亡骸だった。身体の各所に深く抉られた傷があり、その肉の裂け目からはすでに血の流れも止まっている。だが、最も異様だったのは、首の部分だった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
――確かに、三つの首があった。
「……あれが」
ロリスが静かに口を開いた。
「エナが仕留めた魔物、だな」
アレーシャは黙って頷く。だがその瞳は、どこか張り詰めたままだった。すでに動かないはずの亡骸を前にしても、彼女は決して油断していない。
獣の亡骸の先――崩れた岩の陰に、さらに奥へと続く通路らしき裂け目が見えた。誰かが息を呑み、声をあげかけたその時、ロリスが手を上げて制した。
彼は唇の前に指を当て、音を立てるなと示す。ぴたりと場の空気が凍りついた。
その沈黙の中で、聞こえた。
ごく微かに、空間を這うような音――擦れるような、湿った音。風かと思ったが、それにしては重い。響きの方向が定まらない。不思議な感覚に思わず首をかしげた。
――いや、違う。
音が、頭の上から降ってくる。
「……上だ」
ロリスの声が低く響いた、その瞬間だった。
轟音とともに、天井が崩れた。
岩の塊が悲鳴のような音を立てて降り注ぐ。粉塵が一気に視界を奪い、広間が暗闇と混乱に包まれた。
「下がれッ!」
ロリスの怒鳴り声がこだまする。
同時に、彼は腰に携えた剣を素早く抜き、足元を一歩踏み込んだ。
一振り――風をまとった斬撃が宙を奔る。目には見えぬ刃が、唸りを上げながら崩れ落ちる岩を斬り裂いた。乾いた衝撃音とともに巨岩が弾け飛び、粉塵と破片が周囲に散る。その風は周囲を巻き込むようにして広がり、押し寄せる瓦礫の奔流を切り裂く盾となった。
兵士たちが後方へ退き、アレーシャが身を低くして瓦礫の雨を避ける。その視線は一点――粉塵の向こう、崩落の隙間に釘付けになっていた。
――そこに、いた。
瓦礫の嵐の向こう、わずかに晴れた粉塵の隙間から、それは姿を現した。
岩と鉄の塊をそのまま人型にしたような異形。巨大な体軀はほとんど彫像のようで、腕は柱のように太く、足音一つで地が震えそうだった。表情のない顔に、冷たく光る深紅の光点が二つ――
まるで、岩そのものが命を得たかのような存在。
ファンタジーの伝承で語られる“ゴーレム”の姿だった。
そしてその胸には、大きく斜めに走った斬撃の痕――まだ乾ききらない、鮮烈な傷跡が残っている。
「……エナがやり合ったのは、これか」
ロリスが息を潜めるように呟いた。
粉塵が完全に晴れたとき、ゴーレムは音もなく首をこちらへ向けた。その動作ひとつに、岩が擦れる重い音が響き渡る。
アレーシャが前に出ようとするのを、ロリスが手で制した。
「待て。あの傷――深いが、動きに支障はないようだ」
ゴーレムはゆっくりと、一歩を踏み出した。大地が微かに震える。そのたびに、瓦礫に残った血だまりが微かに揺れ、黒く濁った水滴が跳ねた。
ゴーレムの体表には、いくつもの切り傷が刻まれている。中でも、胴体の中央には鋭く抉られた裂傷が一本走っていた――だが、そこからはもはや血も流れず、代わりに青白く燐光を放つ魔力の筋が露出していた。
「こんな傷を負わせたってのに、まだ動いてやがるのか……」
ロリスが呟いたその声が届いたのか、ゴーレムが再び一歩、ずしりと前に出る。重みを帯びた足音が響くたびに、地面が軋んだ。
兵士たちは一歩一歩、確実に後退しながら、僕を守るように入口付近を固めている。彼らの視線は鋭く、緊張の面持ちが見え隠れしていた。僕にはただ見守ることしかできなかった。
どれだけ彼らが構えていても、この場の主導権は――ゴーレムのほうにあるように思えた。
その存在感は圧倒的だった。ゆっくりとした動き一つ一つが、まるでこの空間全体を支配しているような錯覚を覚えさせる。岩の巨体から伝わる重圧が、空気を揺らし、心臓の鼓動を早める。見上げるたびに、その威容に息が詰まりそうになった。
ゴーレムの動きは単純だ。攻撃といえば、腕を振り上げ、拳を振り下ろすだけ。まるで幼稚な巨人のような――そんな印象を最初は受ける。
だが、それが錯覚だったと気づくのに、時間はかからなかった。
その拳は、ただの「パンチ」などではなかった。振り下ろされるたびに大気が圧縮され、風が逆巻き、地面が割れる。地を這う衝撃波が、周囲の瓦礫を巻き上げ、壁に突き刺す。岩の塊のような巨体には似つかわしくない、重さをものともしない駆動の強さと速さ――それが、ただの“鈍重な敵”という油断を、すぐさま打ち砕いた。
そして、誰もが避けることしかできていなかった。
ロリスも、アレーシャも、的確に身を翻し、回避してはいる。だがその動きには、どこか「受け」の姿勢がにじんでいた。攻めるでもなく、牽制を試みるでもなく、ただ相手の攻撃範囲を測りながら動いているように見える。
それが、余計にゴーレムの支配感を強めていた。
アレーシャは一歩、また一歩と円を描くように動きながら、じっとゴーレムを見据えていた。その瞳には、恐れよりも冷静な観察が宿っている。しなやかな身体が揺れるたび、腰に佩いた細身のレイピアがわずかに鳴った。
アレーシャの視線が、わずかに深くなる。
次の瞬間、彼女は左腰に据えていたレイピアを静かに抜いた。細身の剣身が鞘から滑り出ると同時に、その刃先に――ひんやりとした青白い光が咲く。
まるで氷の花。
空気が、きしんだ。
彼女は歩き出す。1歩、2歩、3歩――真正面から、堂々とゴーレムへ向かって。
足元に、氷の道が生まれていく。彼女が踏みしめた石床は瞬く間に薄く凍り、淡く光を放ちながら冷たい床へと変わっていった。
ゴーレムが反応する。音もなく首を向け、拳を振り上げる。
だが、遅い。
アレーシャの姿が、空へ跳ねた。
氷の床を滑るように助走をつけ、低く抉るように跳躍。空中で一回転すると、無数の突き――まるで雪嵐のような刺突が、降り注いだ。
細いレイピアの一突き一突きが、ゴーレムの装甲を滑り、突き、砕き、その岩肌と激しく擦れ合った。鋭い音とともに、熱と冷気が交錯する。
蒸気が――舞った。
氷の剣と、灼けた岩肌。その衝突から生まれた白い蒸気が、まるで霧のようにゴーレムの周囲に立ち込めていく。視界が揺れるほどの熱気と冷気のせめぎ合いが、戦場の空気をさらに研ぎ澄ませた。
アレーシャは体勢を崩すことなく着地し、すぐさま構えを取り直す。
――僕はてっきり、“氷姫”という称号は、その寡黙さゆえについたものだと思っていた。感情の起伏を見せず、誰にも媚びず、ただ冷たい沈黙をまとって立つ彼女に、人々がそう名付けたのだと。けれど。
違う。
氷は、冷たいだけじゃない。
それは時に、鋭さで敵を断ち、静けさで心を呑む。そして今、彼女が振るうその剣は――まるで情熱の裏返しのように、研ぎ澄まされていた。言葉で語る代わりに、すべてを技で示す。静謐なその瞳の奥には、きっと――燃えるような意志が、ある。
“氷姫”とは、ただの異名ではなかった。彼女自身が、その名にふさわしい。
その目は、なお冷静に、ゴーレムの芯を見据えていた。
蒸気の霧が戦場を包む。
岩肌を削るはずの突き――それを幾度となく受けたはずのゴーレムだったが、煙の奥から現れたその姿に、誰もが息を呑んだ。
……効いていない。
ひび割れこそいくつか増えていた。肩のあたりの装甲がわずかに剥がれ、先ほどの刺突が確かに傷を刻んだ痕跡はある。だが、それだけだった。
「なんて硬さ……」
兵士の一人が、思わず呻いた声を漏らす。
ゴーレムは、止まっていた。だが、それは硬直ではなかった。
反撃のための、わずかな溜め。
その岩のような巨体が、ずしりと膝を曲げる。地がきしみ、粉塵が再び舞い上がる。
直後、空気が震えた。
ゴーレムが地を蹴る。鈍重そうな外見とは裏腹に、その突進は雷のようだった。粉塵を吹き飛ばしながら突き進むその影に、思わず僕は息を呑んだ。
アレーシャが動く。
それを追うように、ロリスのマントが翻る。
氷と風――それが、一瞬のうちに戦場を満たしていた。ゴーレムの腕が振り抜かれ、床が砕ける。けれどその瞬間、ロリスの風がその動きを逸らし、アレーシャが刃を滑り込ませる。絶妙なタイミング。完璧な連携。
「すげえ……」
どこかから、誰かのかすれた声が漏れた。
ただの感嘆だった。けれど、その一言がすべてを物語っていた。
二人の動きは、言葉では形容できないほどに研ぎ澄まされていた。まるで長年の訓練が染みついた舞のように、無駄がない。風が敵を揺さぶり、氷が隙を突く。ゴーレムは防御にすら回らない。その巨体に、自らの重さにすら構わず、ただ攻撃に集中している――
それでも、ロリスとアレーシャは押されていない。いや、ギリギリのところで互角を保っている。
「人間の動きじゃねえ……」
もう一人の兵士がぽつりと呟いた。
僕はただ、その戦いを目の前で見ていることにすら実感が持てなかった。風が巻き、氷が舞い、そして重い衝撃音が、心臓の鼓動に重なるたび、足が震えた。
氷の刃が幾度となく閃く。蒸気が上がり、空気が軋む。
だが、それでも――決定的な一撃には至らない。
アレーシャの攻撃は、間違いなく正確だった。動きの無駄も、迷いも、見当たらない。それなのに。
……通らない。
ゴーレムの装甲は、あまりにも硬かった。裂け目を狙ったはずの突きすら、岩の奥深くまでは届かず、ただ表面に新たな傷を刻むばかり。
「効いてねえのか……」
また一人、兵士が小さく唸った。
アレーシャがすれ違いざまに放った斬撃が、鋭い氷の残滓を残してゴーレムの腕をかすめる。鋭い火花と共に、その氷が砕けた。
目に見える損傷は、ある。だが、それは“削っている”にすぎなかった。
“壊している”わけじゃない。
攻撃が通らないのではなく、通すために必要な何かが、まだ届いていない。そんな感覚が、もどかしさと共に胸を締めつける。
それでも、アレーシャは止まらない。
動きを緩めることも、怯むこともなく――むしろ、次の一手に備えるように、再び距離をとった。
ロリスも動く。風が渦巻き、空気が変わった。戦局はまだ、終わっていない。けれど、その均衡がいつまで保てるのか――僕には、まるで予想がつかなかった。
アレーシャがふと、ロリスの方を見た。言葉は交わしていない。けれど、その一瞬の視線に、確かな意思が宿っていた。ロリスは微動だにせず、それに応えるようにただ、わずかに頷いたように見えた。
アレーシャは目を閉じた。
その場に静かに立ち、深く呼吸をひとつ。わずかに肩が上下する。
そして、音もなく前へ一歩、二歩と進み――
足を床に踏み下ろした、その瞬間だった。
ピシッ――と小さな音が響き、すぐにそれは爆ぜるように広がっていく。
アレーシャの足元から、霜が走るように氷が放射状に広がった。瞬く間に床を這い、壁を駆け上がり、天井へと広がっていく。
僕は息を呑んだ。
次の瞬間、彼女が目を開く。その瞳には、凍てつくような青い輝きが宿っていた。
――寒い。
肌を刺すような、鋭く純粋な冷気が一気に満ちる。まるで空気そのものが凍ったかのようだった。息を吸うだけで肺が痛い。
見渡せば、そこはもう――“洞窟”ではなかった。
岩壁、瓦礫、空気までもが、薄く氷に覆われ、氷晶が静かに舞っている。まるで別の空間――アレーシャの魔力が支配する“氷の領域”が、現実を上書きしたかのようだった。
「な、なんだこれは……」
兵士の一人が、喉の奥で声を漏らした。
だがその言葉に誰も応じない。ただ静寂と、凍てついた世界だけが、支配していた。
氷の世界を切り裂くように、アレーシャが動いた。
その身体はもう、先ほどまでの慎重な観察者ではなかった。
今や彼女は、この空間の主であり、意志そのものだった。
レイピアの刃が淡く光を帯び、鋭く突き出されるたびに、ゴーレムの手足に白い閃光が走る。関節部、動力の軸、動きに必要な箇所ばかりを正確に狙いすました攻撃――氷の刺突が、寸分の狂いもなく繰り出される。
それでも、ゴーレムの動きは止まらない。
アレーシャの攻撃が遅れれば、一撃で潰される。
だからこそ、彼女は止まらない。氷と氷を踏み、滑るように次の一手を放つ。
そしてその刹那、背後で“風”が生まれたような感覚があった。
ロリスだった。
彼は宙に浮いていた――いや、正確には、地を離れたまま静かに“滑って”いた。氷の床からわずかに浮いたそのふくらはぎの下、空気が歪む。何かが押し出されているような、見えない噴流のようなものが足元から吹き出し、彼を前進させていた。
音もなく、抵抗もなく、すべるような加速。
ロリスはそのまま一直線にゴーレムへと向かいながら、腰の剣を引き抜く。
ロリスの剣が、アレーシャの援護と呼応するように閃いた。
エナが刻んだ、胸にある大きいな斬撃痕のその一点を目指し、ロリスは一直線に駆け込んだ。地面から浮かぶように滑る動きは、まるで風そのもの。剣を握る手には一切の迷いがなく、狙いはただ一点。
「……!」
音が爆ぜた。まるで雷鳴のような轟音と共に、ロリスの剣が何度も振り下ろされる。目に見えぬほどの速さで、同じ場所を正確に、狂いなく。
ゴーレムの巨体が、ぐらりと傾いた。
その直前、アレーシャがさらに一手を加えていた。素早く手足に攻撃を重ね、ひと呼吸おいてレイピアを構えた。氷の世界の中心で、静かに天に向けて刃を掲げ――
「……!」
突きが走った。
ゴーレムの中心へ向かって放たれた、その一撃。 そして同時に――
ゴーレムの手足に刻まれた痕跡から、白い氷の花が一斉に爆ぜる。 爆ぜた氷花は鎖のようにゴーレムの動きを縛り、関節を凍らせた。
「今だ……!」
兵士が思わず声を漏らすよりも早く、ロリスが再び動く。抉るように剣を打ち込み、刻み、音を立てて岩を砕いていく。振り下ろされるたびに、地鳴りのような響きが洞窟を揺らした。
ゴーレムはもはや、自由に動けてはいない。
その巨体が、ゆっくりと――傾き始める。
ゴーレムの体が、ついに重力に従って崩れた。
巨岩が砕けるような轟音が洞窟に響き渡り、舞い上がる氷の欠片と粉塵が視界を白く染め上げる。巨体が地に沈むたびに、床がうねるように揺れた。
その音が静まり、氷の世界に再び静寂が訪れた。
誰もが息を呑み、立ち尽くす中――ロリスが、ぽつりと呟いた。
「……エナはどこだ?」
彼の声に呼応するように、奥の通路から微かな物音とともに、かすれた声が届いた。
「……ここ、です……」
視線が一斉に向く。氷のきらめきの中、瓦礫の向こう――薄暗い通路の影から、ひとりの少女が現れた。
エナだった。
その姿は痛々しくも、どこか幻想的だった。服はところどころ裂け、傷だらけの肌が露わになっていた。肩や太もも、胸元にかけては、氷の反射に照らされるように滑らかに光を帯び、血の跡が乾いて赤黒く染まっている。
ゆっくりと歩み出るたびに、足元に水滴が落ちた。それがすぐに凍って、足跡を残していく。
「……!」
僕は、その姿に思わず目を伏せた――いや、顔に手を当てて、指の隙間からかすかにうかがっていた。
冷たい汗が額に浮かび、心臓の鼓動が異常に速くなった。目の前にいるのは、仲間であり戦士だという認識はある。しかしその姿があまりにも……。
どこか、罪深いまでに美しい。凛とした強さと、それを打ち砕かれたような、儚い痛みが交錯している。誰もが目をそらすことができない――見てはいけないと感じながらも、目が離せない。
兵士たちの反応も様々だった。
一人は顔を真っ赤にし、必死に地面に視線を落としている。口元を固く結びながら、気まずさに顔をそむけ、どうにかしてその熱を冷まそうとしているようだった。
別の兵士は、思わず目を見開き、喉から音もなく息を呑んだ。その目は、恐らく何もかもを忘れて見入っていたのだろう――目が離せない、だが、どうしても言葉を交わすことはできなかった。
さらに一人は、無意識のうちに、彼女の傷ついた肌に引き寄せられていた。その視線が、まるで凍りついた空間に溶け込んでいくように、何度も彼女の姿を追ってしまっていた。
誰もが、言葉にならない感情に包まれていた。
エナは、そんな視線を意に介すこともなく、ゆっくりとこちらへと歩いてくる。
傷だらけの体を引きずりながらも、その歩みはまっすぐで、凛としていた。どこか別の世界に意識を置いているかのように、彼女の瞳は揺るぎなく、静かな光を宿している。
そのとき、不意にアレーシャがこちらを振り向いた。
鋭く細められた瞳が、僕たち――視線を逸らす者も、逸らせなかった者も含めて――を静かになぞる。
「……何を見てるの?」
言葉には出さなかったが、そう言いたげな表情だった。どこか冷たく、けれど正しく、まるで氷の刃のように突き刺さる視線。僕たちは慌てて目を逸らすしかなかった。
その直後だった。
ロリスが駆け寄る。氷の破片を踏みしめながら、まっすぐにエナのもとへ。
「エナ、大丈夫か……!」
そう声をかけながら、彼はそっとその肩を抱え、体を支えた。
エナは、ほんのわずかに体を傾ける。そして――静かに、微笑んだ。
その笑顔は、あまりにも優しかった。痛みに歪むことなく、誰かに見せるためのものでもなく、ただ「今」を受け入れるような、穏やかで透き通るような微笑。
……こんなにも傷ついているのに。
あのとき最初に出会った彼女は、つかみどころがなくて、不真面目なやつだとさえ思った。何を考えているのかわからない、そんな存在だった。
けれど、今――目の前に立つ彼女は、まるで別人のように見えた。
いや、きっとそうじゃない。
見えていなかっただけだ。僕が、見ようとしなかっただけだ。
この人は、最初からずっと、こうだったのかもしれない。
笑いながら、痛みを隠していた。
軽く見える態度の裏で、誰よりも強く、まっすぐに立っていた。
そしてその強さに、誰よりも深く、優しさが宿っていた。
ロリスの肩に身を預けたエナは、ふとこちらを見た。
そして――片目をつぶって、軽くウインクしてみせた。
まるで、何でもないよとでも言うように。
その仕草に、僕は一瞬、息をのんだ。
気丈にふるまっていることが分かった。あの微笑も、このウインクも、本当の意味ではきっと強がりだ。それでも彼女は、笑って見せることを選んだ。
弱さを見せないためでも、誰かに心配をかけたくないからでもなく――きっと、自分自身の足で立ち続けるために。
僕は、ただ立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
ただ、胸の奥にじわりと広がっていくものがあった。
それは、言葉にするには少し照れくさいような、けれど間違いなく――尊敬だった。
どんなに傷ついても、なお前を向いて歩くその姿に。
心のどこかで、僕もああありたいと思った。
……次に彼女が笑うときには、せめて、もっと頼られる存在であるように。