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異世界転移記 ~層彩のキャンバス~  作者: 0
第一章 <始まり>
11/29

11話

 剣は大きな弧を描きながら高度を下げ、岩肌むき出しの鉱山外縁へと滑り込んでいった。下では数人の兵士がすでに待機しており、皆が鉱山の入り口を固い表情で見張っている。張りつめた空気が、遠目からでもわかった。


 地面が近づいた瞬間、ロリスは剣から軽やかに飛び降り、僕を腕の中からそっと地面へ下ろした。足が地を踏んでいるはずなのに、まだ身体がふわふわしている。


 兵士たちがこちらへ目を向けた。その視線を受けながら周囲を見回したとき――ひとり、場の空気を変える人物が目に入った。


 長身。無駄のない立ち姿。風を受けても揺るがぬ静かな威厳。


 だが何より目を奪ったのは、その身にまとった白銀の鎧だった。


 陽光を反射して淡く輝くそれは、ただの防具というより、一つの工芸品のようだった。肩当ての曲線、胸元を飾る紋章、鏡のように磨き込まれた表面――どれも隙がない。鎧の持つ品格と、着ている本人の整った顔立ちが不思議と調和している。


 その人物――女性は、ほんのわずかに首を動かし、目だけをこちらに向けた。


 白銀の鎧とは対照的に、瞳は氷のように澄んでいて、射抜くようでも、見下すわけでもない。ただまっすぐに僕を見ていた。なのに胸の奥を覗かれたような、息を止めたくなる感覚が走る。


 視線をそらせない。

 そらしてはいけない、とさえ思った。


 「……アレーシャ・ノア。《銀環の氷姫》と呼ばれてる。王都直属の近衛団だ。軍の中でも別格だよ」


 ロリスが僕にだけ聞こえる声で言う。


 「寡黙だが、腕は確かだ。魔物討伐、情報任務、戦場指揮……どれも最上級。信頼していい。ただ――」


 ロリスは小さく息を吸った。


 「……あの人が口を開いたら、それは本気の合図だからな」


 そう告げると、ロリスは自然な動作でアレーシャの隣へ歩み寄った。

 途端に、周囲の兵士たちの視線が二人に集まり、空気がぴん、と引き締まる。


 ――ここから先は、ただの見学では済まない。


 そんな予感が、足元の岩の冷たさよりも鮮明に広がっていった。


 アレーシャはロリスに視線を送ると、ほんのわずかにうなずき、また前へ向き直った。白銀のマントが静かに揺れ、その一動作だけで周囲の空気がすっと引き締まる。


 洞窟の入口――どこまでも黒く落ち込む暗がり。その奥に、何かが息を潜めているような錯覚がして、喉の奥がひきつった。


 「……始めよう」


 ロリスの低い声が、空気の膜を破るように響く。

 彼とアレーシャは短い指示を兵士たちに飛ばし、隊列が整えられた。


 僕は一歩下がり、拳を握る。

 今の僕にできるのは、ただ見て、知ることだけ――それでも、目をそらすわけにはいかなかった。


 洞内へ進むと、岩肌むき出しの通路が続いていた。古い支柱がところどころで斜めに傾き、朽ちたランタンがぶら下がっている。奥へ進むほどに空気はひんやりと重くなり、肌にじっとりとまとわりついた。


 足音だけが響く。

 先頭のロリスは一切無駄のない歩調で進み、アレーシャはその背を守るように、影のように続く。彼女の足音は驚くほど静かで、本当に地を踏んでいるのか確信が持てないほどだった。

 兵士たちは緊張のあまり呼吸すら細く、通路の空気は張り詰めた糸のようだった。


 しばらくすると、空気に鉄のにおいが混じり始めた。喉の奥に重くまとわる、嫌な気配。


 血のにおいだ。


 ロリスの眉間に皺が寄り、アレーシャは一瞬だけ足を止め、反応を確かめるように鼻先を動かした。


 「……濃いな」


 ロリスの呟きに兵士たちが息を呑むが、手の合図ひとつで再び静寂が戻る。そこから先の通路はゆるやかに広がり、やがて天井が高くなった。


 かつて採掘場として使われていた広間――。

 しかし今、その中心には異様な光景があった。


 乾いた血が、黒い湖のように岩床を染めていた。


 ロリスは血だまりの前で止まり、静かに膝を折る。


 「……だいぶ経ってるな」


 低く落ちる声に、兵士たちの背がさらに強張った。


 血はすでに黒ずみ、表面はざらりと乾いている。時間が経っただけでなく、量も多い。誰のものかはわからない――だが、何かがここで確かに起きた。


 アレーシャも膝をつき、血の縁に触れる。白い指先が黒ずんだ跡をなぞり、彼女の無表情な横顔がロリスの方へ一瞬だけ向けられる。


 「魔物の血とも、人の血とも断言はできない」


 その声はいつものように冷静だったが、わずかに硬さが混じっていた。


 「ただ……」


 アレーシャが視線を動かす。

 血だまりの片端から、細長い黒い痕が通路へ向かってのびている。


 まるで何かが引きずられた――

 あるいは、這いずって逃げた――

 そんな跡が、乾いた黒で岩に残されていた。


 「この跡……まるで道みたいに続いてる」


 ロリスも同じものを見ていたらしく、視線を細めた。血の線は広間の奥――さらに深い闇へと吸い込まれるように伸びている。


 「三つ首の獣……エナが手こずる相手なら、この量でもおかしくない」


 腰の剣に手を添えながら、ロリスはかすかに息を吐いた。


 「辿れば、死骸か……あるいは別の何かが残ってるかもしれん」


 その曖昧な言い方が、兵士たちの表情をわずかに引き締める。未知の何かが待っているという実感が、空気を重くした。


 アレーシャが立ち上がり、ロリスに目を向ける。言葉なく、ただ一度だけ頷く。

 ――行くべきだ。

 その意志が、静かに伝わった。


 ロリスが振り返る。


 「進む。気を抜くな。何かある」


 短い命令に、兵士たちは緊張を吐きながら武器を握り直した。僕も思わず手に汗を感じる。


 血の筋は奥へ奥へと続いていた。時折途切れかけては岩肌に擦れ、また現れる。その細さが、逆に何かが「引きずられた」後の生々しさを際立たせている。


 一行は再び歩き出した。ロリスは闇の気配ひとつ逃すまいと先頭を進み、アレーシャはその背を守るように滑るような足取りで続く。兵士たちは呼吸を潜め、喉の緊張だけがわずかに震えていた。


 ――そして、不意に通路が開けた。


 人工的に削られたような広大な空間。古びた足場、放置された台車、錆びついた工具……かつての採掘の名残が散乱している。


 だが、視線を奪ったのは中央だった。


 血の筋が一点に収束していた。そして、その中心に――巨大な黒い塊が横たわっている。


 ロリスの足が止まり、アレーシャの眉がわずかに寄る。兵士たちの間を、小さな息の音が走った。


 そこにあったのは、黒ずんだ体毛を持つ巨大な獣の亡骸だった。全身に深い傷が走り、肉は大きく抉れている。血はすでに乾き、死はとうに訪れていた。


 ただ――異様だったのは、首だった。


 ひとつ、ふたつ、みっつ。


 ――確かに、三つの首があった。


 「……あれが」


 ロリスが静かに言った。


 「エナが仕留めた魔物だな」


 アレーシャは頷いたが、その表情は張り詰めたままだ。目の前の亡骸が完全に動かないと分かっていても、彼女は一瞬たりとも警戒を解かない。


 その死体の奥――崩れた岩の陰に、さらに深い通路へ続く裂け目が見えた。兵士の一人が息を呑んだ瞬間、ロリスが手を上げて制した。


 唇の前に指を立て、「音を立てるな」と無言で示す。


 空気が凍りつく。


 その静寂の中――聞こえた。


 湿ったものが這うような、かすかな音。風かと思ったが、重さが違う。音の方向が定まらず、どこから響いているのか判別できない。


 ――いや、違う。


 音は、頭の上から。


 「……上だ」


 ロリスの低い声が響いた直後――


 天井が崩れ落ちた。


 轟音。岩の塊が雨のように降り注ぎ、粉塵が爆ぜるように視界を奪う。


 「下がれッ!」


 ロリスの怒声が混乱を裂く。


 彼はすでに剣を抜き、前へ踏み込んでいた。一閃――風をまとう斬撃が宙を走り、崩れ落ちる巨岩を片端から斬り裂く。破片は弾け飛び、風の壁が瓦礫を押し返していく。


 兵士たちは後方に退き、アレーシャは身を沈めて瓦礫を避けた。その視線は一点――粉塵の奥へと釘付けになっている。


 そして――見えた。


 崩落の隙間から、巨体が立ち上がるように現れる。


 岩と鉄の塊がそのまま人型を成したような異形。

 腕は柱のように太く、足は地を踏むだけで震動を起こしそうだった。

 無表情な岩の顔の奥で、深紅の光点が冷たく輝く。


 ――石に命が宿ったような存在。


 伝承で語られる“ゴーレム”そのものだった。


 胸には、斜めに深く刻まれた斬撃の痕。まだ乾ききらぬ生々しい傷跡が光を吸っている。


 「……エナがやり合ったのは、これか」


 ロリスの呟きは、ほとんど息と同じ静けさだった。


 粉塵が晴れきったとき、ゴーレムはゆっくりと、音もなく首をこちらへ向けた。

 その動きに合わせて、岩が擦れる重い音が地下空間に響く。


 アレーシャが踏み込もうとした瞬間、ロリスが手を横に払って制した。


 「待て。あの傷……深いが、動きは鈍っていない」


 言葉を裏付けるように、ゴーレムが――ずしり、と一歩踏み出した。

 地面が小刻みに震え、足元の血だまりが波紋を描く。黒く濁った雫が跳ね、岩肌に散った。


 その巨体の表面には無数の切創が刻まれている。中でも胴の中央を走る大きな裂傷は、肉の代わりに青白い魔力の筋を露出させ、淡く燐光を放っていた。血はすでに枯れ、代わりに“魔力そのもの”がむき出しになっている。


 「……こんな傷でもまだ動くってのかよ」


 ロリスの呟きが落ちきるより早く、ゴーレムはさらに一歩、

 ――地を踏み割るような衝撃とともに前へ進んだ。


 兵士たちは確実に後退しながら、僕を中央に囲って入口側へ陣形を寄せていく。彼らの表情は鋭く引き締まり、呼吸の一つすら乱すまいとする気配が伝わる。

 だが僕には、ただ立ち尽くし、見ていることしかできなかった。


 この場の主導権は――完全にゴーレムの側にあった。


 その存在感は圧倒的だった。ゆるやかに動くだけで、空気が重く振動する。岩の巨体が発する“圧”が胸にのしかかり、心臓の鼓動を早める。見上げれば見上げるほど、存在そのものが壁のように迫ってくる。


 ゴーレムの攻撃は単純だ。腕を振り上げ、拳を落とす――ただそれだけ。

 一見すれば、知性の欠片もない巨人のような、鈍重な仕草。


 ……だが、それは錯覚だった。


 振り下ろされた瞬間、拳の周囲の大気がねじれ、轟音とともに圧縮される。

 風が逆巻き、地面がひび割れ、浅い衝撃波が通路の奥まで駆け抜けた。瓦礫が巻き上げられ、壁に叩きつけられて砕ける。


 ――重さを無視して加速する、異常な駆動力。


 ただの巨体ではない。

 その動きには、この世界の魔力が形を与えた“理不尽”が宿っていた。


 そして、誰も反撃に転じる余裕がない。

 ただ避けるだけで精一杯だった。


 ロリスもアレーシャも、確かに的確に身を翻していた。攻撃は避けている。だが――どこか、受け身だ。

 切り返すでもなく、隙を作るでもなく、ただ相手の間合いを測りながら守勢を保っているだけに見える。


 その静かな観察こそが、むしろゴーレムの“主導権”を際立たせていた。


 アレーシャは、弧を描くように歩きながらゴーレムを見つめていた。

 その瞳には恐れよりも冷たく研ぎ澄まされた分析が宿り、揺れるしなやかな身体に合わせて、腰のレイピアが涼やかに鳴る。


 そして、視線が――決まった。


 アレーシャは静かに左腰のレイピアを抜いた。

 鞘を滑り出た細身の剣身に、青白い光がひらりと宿る。


 ――氷の花が咲いたようだった。


 空気がひび割れるように冷える。


 アレーシャは真っすぐに歩み始めた。一歩、二歩、三歩――まるで戦場の中心へ向かうことを躊躇う理由がどこにもないかのように。


 彼女の足跡から、薄氷が生まれていく。

 踏みしめた床石が瞬く間に凍り、淡く光を帯びながら、彼女のためだけの“氷路”へと変わった。


 ゴーレムが反応し、音もなく首を巡らせ、拳を振り上げる。


 ――遅い。


 アレーシャの姿が、風を切って跳ね上がった。


 氷の道を滑るように助走をつけ、低く抉るような跳躍。空中で身を翻し、降り注ぐのは無数の刺突――まるで吹雪そのものが剣となったかのような乱れ突きだ。


 レイピアの細い刃が、岩の装甲を滑り、突き、砕く。

 鋭い音が連続し、熱と冷気が交錯する。


 そして――蒸気が立ちのぼった。


 氷の刃と灼けた岩肌が触れ合うたび白い蒸気が噴き上がり、ゴーレムの周囲に霧が巻きつく。

 揺らぐ視界の中、熱気と冷気の衝突が、場の緊張をさらに研ぎ澄ませていった。


 アレーシャは空中からの攻撃を終えると、着地と同時に体勢を整え、迷いなく再び構えを取る。


 ――“氷姫”。

 僕はこの異名を、その寡黙さゆえに呼ばれているのだとばかり思っていた。

 感情の揺れを見せず、媚びず、冷ややかな沈黙をまとって立つ彼女を、周囲がそう呼んだのだと。


 けれど――違う。


 氷は、冷たいだけの存在じゃない。


 鋭く、静かで、時にすべてを断ち切る覚悟を宿す。

 今、彼女の剣にはそんな“温度の裏側にある情熱”が、研ぎ澄まされた形で宿っている。

 言葉ではなく、技そのものに想いを込める。

 その沈黙の奥には――燃えるような意志がきっとある。


 “氷姫”とはただの呼び名じゃない。

 彼女そのものが、その名を体現していた。


 アレーシャの瞳は、なおも揺るぎなくゴーレムの核――その一点を見据えていた。


 蒸気の霧が、戦場を包み込んだ。


 岩肌を削るはずの突きを幾度も浴びたゴーレム――その姿が、白い靄の奥からゆっくりと現れる。


 ……まるで効いていない。


 ひび割れはいくつか増え、肩の装甲がわずかに剥がれ落ちている。アレーシャの刺突が確かに痕跡を刻んではいた。

 けれど、それ以上の手応えは――どこにも見えなかった。


 「なんて硬さだ……」


 兵士の一人が、呑まれるような声で漏らす。


 ゴーレムは動かない。だが、それは硬直ではなかった。


 反撃のための、わずかな“溜め”だ。


 巨体が、ぎしりと膝を沈めた瞬間、石畳が軋み、粉塵が跳ね上がる。


 そして――空気が震えた。


 ゴーレムが地を蹴り、巨大な影が雷のように突進してきた。

 鈍重に見える外見など完全に裏切る速度。粉塵を吹き飛ばし迫るその質量に、僕は思わず息を呑む。


 アレーシャが動き、ロリスのマントが風を裂いた。


 氷と風――二つの力が、瞬きほどの間に戦場へと満ちる。


 ゴーレムの腕が振り抜かれ、床が砕け散る。

 その瞬間、ロリスの風がわずかに軌道を捻じ曲げ、アレーシャの刃が滑り込み、弱点の隙を探る。


 絶妙すぎるタイミング。

 呼吸すら合わせたような、完璧な連携。


 「すげえ……」


 誰かが呟いたその声には、ただの感嘆以上のものが滲んでいた。


 二人の動きは、説明のつかないほど研ぎ澄まされていた。

 まるで長年の鍛錬が染みついた舞だ。

 風が敵の体勢を揺さぶり、氷がその隙を突く。

 ゴーレムは自らの重さも無視して攻撃に集中し、防御の動きを一切見せない。


 それでも――ロリスとアレーシャは押し切られない。

 圧倒的な質量差の前で、ギリギリの均衡を保っている。


  「人間の動きじゃねえ……」


 別の兵士が、呆然と呟く。


 僕はもう、戦いを“観戦”している感覚ですらなかった。

 風が激しく巻き、氷の粒が舞い散り、重い衝撃音が鼓動に重なるたびに、膝が震える。

 ここにいること自体が現実味を失っていく。


 アレーシャの氷の刃が幾度も閃き、蒸気が上がり、空気が悲鳴を上げる。


 だが――決定的な一撃には至らない。


 アレーシャの動きは完璧だ。迷いも無駄も存在しない。

 それでも。


 ……通らない。


 ゴーレムの装甲はあまりにも硬く、深部には達しない。

 裂け目を狙った突きですら、岩の皮膚を浅く刻むだけに終わり、ただ新たな傷を増やすだけだった。


 「効いてねえのか……」


 また一人、兵士が低く呻く。


 アレーシャがすれ違いざまに放った斬撃が、鋭い氷の尾を残してゴーレムの腕をかすめた。

 火花と氷片が同時に弾け、白い霧のように散る。


 ダメージは、確かに刻まれている。

 だが、それはあくまで――削っているだけ。


 壊しているわけじゃない。


 攻撃が通らないのではなく、通すための決定打がまだ足りていない。

 そんなもどかしい確信だけが、胸の奥でじわりと冷たく広がっていく。


 それでもアレーシャは一切止まらなかった。

 怯えも焦りも見せず、むしろ次の一手を読むように、静かに後ろへ跳び、距離を取る。


 ロリスも動いた。風が渦巻き、空気の密度が変わる。

 均衡はまだ保たれている――けれど、この張り詰めた糸がいつ切れてもおかしくないことを、僕は直観していた。


 そのときだ。

 アレーシャがふとロリスへ視線を送った。


 言葉は一つもない。

 けれどその一瞬で、意思のやりとりが完全に成立したのがわかる。

 ロリスがわずかに顎を引き、応えたように見えた。


 アレーシャは、目を閉じた。


 静かに立ったまま、ひとつ深呼吸をする。

 肩が上下し、空気が揺れる。


 そして――踏み出した。


 足が床に触れた、その一瞬。


 ピシッ――。


 細い音が響き、すぐに爆ぜるように広がっていった。


 アレーシャの足元から、白い霜が網目のように走る。

 それは放射状に床へ、壁へ、天井へ――一気に駆け上った。

 まるで空気の隙間にまで氷が染み込むように。


 僕は、息を飲んだ。


 アレーシャが目を開く。

 その瞳は、凍てつく青――光を宿した氷そのもの。


 ――寒い。


 肌を刺す冷気が一気に満ちた。

 息を吸うだけで肺が痛む。

 空気そのものが凍りついたような、純粋すぎる寒さ。


 気づけば、そこはもう洞窟ではなかった。


 岩壁も瓦礫も空気も、どれも薄く氷をまとい、光を反射して青白く輝く。

 氷晶がふわりと舞い、きらきらと静かに落ちていく。


 まるで――現実そのものが書き換えられたようだった。

 アレーシャの魔力が作り出した氷の領域。

 世界そのものが、彼女の意志で塗り替えられていく。


 「な、なんだこれは……」


 兵士の一人が、喉の奥で震える声を絞り出した。


 しかし誰も応じない。

 音すら凍ってしまったかのように、静寂だけが支配していた。


 その氷の世界を切り裂くように――アレーシャが動いた。


 一歩。

 ただそれだけで、空気がひび割れたかと思うほど鋭く冷える。


 もはや彼女は、ただの剣士ではなかった。

 慎重な観察者ではなく、この凍てついた空間の主そのもの。


 白銀の氷姫――その名が、現実味を伴って迫ってくる。彼女は実にこの領域の支配者となっている。


 レイピアの刃が淡く光り、その一突きごとに白い閃光がゴーレムの関節を裂いた。

 動力の軸、可動の支点――動きを司る箇所ばかりを的確に狙いすました刺突。冷たい花弁のような氷片が舞う。


 しかし、それでもゴーレムの動きは鈍らない。


 アレーシャがわずかでも攻撃の“間”を作れば、一撃で叩き潰される。

 だからこそ、止まらない。氷に爪を立てるように滑り、跳び、次の一手へと繋いでいく。


 その刹那――背後で、風が生まれた。


 ロリスだった。


 彼は宙に浮かんでいた。いや――氷の床と皮一枚で隔てられた空中を、滑るように進んでいた。

 ふくらはぎの下で空気がゆがみ、見えない圧流が噴き出す。

 踏むのではなく、押し出されるように前へ。


 ――滑空。


 音も抵抗もない、異様なほど静かな加速だった。


 そのままロリスは一直線にゴーレムへ向かい、腰の剣を抜く。

 アレーシャの氷が動きを縛り、ロリスの風が軌道を作る――二人の戦法が完璧に噛み合う。


 狙うはただ一つ。

 エナが刻んだ、胸の深い斬撃痕。


 「……ッ!」


 雷鳴のような音が爆ぜた。

 ロリスの剣が、光の軌跡を描きながら同じ一点へ、狂いのない連撃を叩き込む。

 岩を断ち切るというより、抉りながら内部へ侵食していくような鋭さ。


 巨体が、ぐらりと揺れた。


 だが、その直前。

 すでにアレーシャは次の一手を放っていた。


 滑らかに身を翻し、さらに手足へ氷の突きを繋げる。

 一拍置き、静かにレイピアを掲げる。

 氷の世界の中心で、天を貫くように刃が上がり――


 「……!」


 閃光の突きが走った。


 ゴーレムの中心へ吸い込まれるように放たれた氷の一撃。

 そして同時に――


 ゴーレムの四肢に刻まれた氷痕から、白い“花”が咲いた。


 氷花が一斉に爆ぜ、関節を縛り、動力を凍りつかせる。

 ごり、と岩が軋む音が響いた。


 「今だ……!」


 兵士の声が漏れるより先に、ロリスが動いた。


 風を噴き出し、身体ごと弾丸のように跳び込む。

 抉るように剣が落ち、刻まれ、砕き、岩を割る。

 連撃の度に洞窟全体が震え、地鳴りが響く。


 ゴーレムは――もう、自らの重さすら支えられなかった。


 巨体が、ゆっくりと。

 だが確実に、重力へ傾き始める。


 ──そして。


 崩れ落ちた。


 岩盤を叩き割るような轟音が洞窟を震わせ、氷片と粉塵が嵐のように舞い上がる。

 白い世界がさらに白く染まり、視界が一瞬、吹雪のようにかき消えた。


 やがてその音が収まり、

 氷に覆われた世界に、再び静寂が訪れた。




 誰もが息を呑み、立ち尽くす中――ロリスが、ぽつりと呟いた。


 「……エナはどこだ?」


 その声に応じるように、奥の通路から微かな物音がした。続いて、かすれた声。


 「……ここ、です……」


 一斉に視線が向く。氷のきらめきの向こう、瓦礫の隙間から――薄暗い影を押し分けるように、ひとりの少女が姿を現した。


 エナだった。


 その姿は痛ましく、なのにどこか幻想めいていた。服は裂け、肌には無数の傷が走り、乾いた血が淡く黒ずんでいる。氷の光がその輪郭を照らし、濡れた素肌に冷たい輝きを与えていた。


 歩み出すたび、足元に雫が落ちる。床に落ちた水滴は一瞬で凍り、小さな足跡となって連なっていく。


 「……っ」


 僕は思わず手で顔を覆った――いや、指の隙間から、見ないようにしながら見てしまっていた。


 胸がざわつく。鼓動がやけに速い。

 目の前にいるのは仲間だ。それは分かっているのに、その姿はどこか、罪深いほどに美しく、脆く、目を逸らさせてくれない。


 兵士たちの反応も様々だった。


 一人は顔を真っ赤にし、地面へ視線を落としたまま一歩も動けずにいる。

 別の兵士は、息を呑んで硬直したまま、ただ見入っていた。

 さらに一人は、無意識のうちに彼女の傷を追うように視線を滑らせてしまい、慌てて目をそらす。


 言葉にならない空気が、氷の世界に満ちていた。


 エナは、そんな視線など気にも留めずに歩いてくる。

 傷だらけでありながら、その足取りはまっすぐで、確固としていた。まるで痛みを遥か遠くに置き去りにしたように、その瞳は静かで揺らがない。


 そのとき、不意にアレーシャがこちらを振り向いた。


 鋭く細められた青い瞳が、僕たち――目をそらした者も、そらせなかった者も、まとめて射抜くようにゆっくりとなぞった。



 「……何を見てるの?」


 言葉にはしなかったが、アレーシャのその視線はそう告げていた。冷たく、正しく、氷の刃のようにまっすぐ僕たちの胸を突く。皆、慌てて目を逸らすしかなかった。


 その直後――ロリスが駆け寄った。


 氷の破片を踏みしめながら、迷いなくエナのもとへ向かう。


 「エナ、大丈夫か……!」


 支えるように肩へ手を添えると、彼女はわずかに体重を預け、そして――静かに微笑んだ。


 傷だらけのはずなのに、その笑みは柔らかく穏やかで、痛みを感じさせなかった。


 ……こんな状況で、どうしてこんな顔ができるんだ。


 初めて会ったとき、彼女は掴みどころのない、軽い印象の人物だった。何を考えているのか分からず、適当な人間だと思っていた。


 けれど今、目の前にいる彼女は違うように見えた。


 いや、違うのではない。

 ただ僕が、そこにあるものを見ようとしていなかっただけだ。


 この人はきっと、最初からずっと――

 笑って痛みを隠し、軽い態度の裏で、まっすぐ立ち続けていたのだ。


 ロリスに支えられたまま、エナがふとこちらを見てくる。


 そして――片目をつぶって、軽くウインクした。


 なんでもないよ、と言うみたいに。


 「……っ」


 息が止まった。

 気丈に振る舞っているだけだ。微笑も、ウインクも、本当は強がりだ。

 それでも彼女は、笑うことを選んでいる。誰かのためではなく、自分が前に進むために。


 僕はただ立ち尽くし、言葉を失っていた。


 胸の奥に、静かに熱いものが広がっていく。


 それは――尊敬だった。


 傷だらけでも前を向いて歩く、その強さに。

 その背中を見て、僕も心のどこかで、ああありたいと思った。


 ……次に彼女が笑うときには、せめてもっと、頼られる自分でいたい。

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