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異世界転移記 ~層彩のキャンバス~  作者: 0
第一章 <始まり>
10/29

10話

 一週間が経とうとする頃には、僕の生活はすっかり滞在客そのものになっていた。決まった時間になれば温かい食事が運ばれ、浴室にはいつも湯が張られ、寝具は毎晩ふわりと体を包む。勝手のまるで違う異世界に来たはずなのに、待遇だけでいえば実家よりいいんじゃないかと思うほどだ。


 エナは鉱山の任務に出たきり戻らず、ロリスは護衛として屋敷の近くにいるものの、暇があれば訓練場で黙々と剣を振っている。話しかけても返事こそしてくれるけれど、あれではとても長話はできそうにない。


 そうして気づけば、僕は何もせず過ぎていく一日に、うっすらとした物足りなさを覚えるようになっていた。


 衣食住は十分すぎるほど満たされている。だけど――娯楽がない。


 テレビもゲームもスマホもない世界では、時間の流れ方がまるで違う。書斎に並ぶ分厚い本の山は壮観だったけれど、この世界の文字を読めない僕には、ただの「読めないオブジェ」にしか見えなかった。


 そんな退屈を持て余す僕を見かねてか――あるいは、最初からそのつもりだったのかもしれない。


 ロリスがぽつりと言った。


 「……文字、教えてくれるやつを見つけた。明日から来る」


 その一言に、胸の奥がわずかに弾む。


 ――大学生だった自分が、まさか異世界で家庭教師をつけてもらう日が来るなんて。


 思わず笑いそうになるのをこらえつつ、僕は久しぶりに次の日が待ち遠しいと感じていた。





 翌日の昼、扉をノックする音が響いた。


 出迎えたロリスの背後から現れたのは、僕の想像よりずっと年配の男性だった。白髪をひとつに束ね、深い皺を刻んだ顔には落ち着いた気品がある。ゆったりしたローブをまとい、静かな足取りで部屋に入ってくる姿は、まるで物語に出てくる老賢者そのものだった。


 「……この子だな。教えるのは」


 低く穏やかな声。僕を見つめるその目は、年齢以上の深さを湛えているように感じられた。


 ロリスが紹介する。


 「都で官職についていた人だ。引退していたが、知人のつてで来てもらった。名前はサレン」


 サレンは軽く会釈し、柔らかく微笑んだ。


 「文字を学ぶのは、根気のいる作業だ。しかし知識とは、己の世界を広げる鍵でもある。……その鍵を受け取る手助けができれば、私としてもうれしい」


 その言葉に、思わず背筋が伸びた。

 ロリスが“文字を教える人”と言った時に想像していた、子ども向けの読み書き教室とはまるで違う。

 この人からは、文字以外にも何かもっと深いものを学べそうだ――そんな予感さえした。


 初めての授業は、ゆっくりと始まった。


 サレンは羊皮紙と羽ペンを机に広げ、まずは基本となる音節記号を書いてみせる。直線と曲線が織り交ざったその形は、どこか音の揺らぎを写し取ったようで、見ているだけで意味の気配が伝わってくる。


 「焦らずに。文字とは形と音を結びつける作業だ。時間をかければ自然と身につく」


 サレンの声は、まるで長い旅の支度を手伝ってくれているかのような、静かな優しさに満ちていた。


 僕がぎこちない手つきで記号をなぞると、サレンは隣から言葉少なに手元を見守る。歪んだ線を引いてしまっても、ため息をつくことすらなく、淡々と次に進むべき線を指先で示してくれた。


 説明よりも、その微細な動きのほうがずっと多くを教えてくれる。


 何度か失敗して手が止まった時――

 サレンはほんの少し目を細めると、まるで「大丈夫だ」と言うように、すぐ新しい記号を書き足した。


 その静かな寄り添い方に、気づけば僕の中の焦りが和らいでいく。

 ペンを走らせる手は、いつの間にか少しだけ自信を帯びていた。


 日が経つごとに、僕は少しずつ文字を書くことに慣れていった。最初はただの記号の羅列にしか見えなかったものが、意味を持ち、音と結びつき、世界に色をつけ始める。

 サレンの指導はいつも静かで、揺るぎない。必要以上の言葉はなく、けれど手元の動きは驚くほど丁寧で、僕が迷えばそっと正しい線を示してくれた。視線ひとつで伝わるものがこんなにも多いのかと、毎日のように思わされる。


 書斎の本棚に並ぶ本も、読める単語が増えたことで急に“触れられるもの”へ変わった。

 背表紙の一部が理解できただけで胸が弾み、ページをめくるたびに断片的でも意味が取れることが嬉しかった。

「これは植物の章かな」「この単語、人名っぽいな」――そんな小さな気づきだけで、世界が少し広がった気がした。


 サレンは、そんな僕の反応をただ穏やかに見守るだけだった。褒めるでも急かすでもなく、たまに小さく頷く。その仕草はどこか、成長を確かめるような温かさがあった。


 夕暮れどき、窓が茜色に染まると、サレンは静かに立ち上がり、片付けを始める。

 僕もその合図を受け取ってペンを置く――言葉のいらない終わり方が、いつの間にか好きになっていた。


 書斎を出ていくサレンの背中を見送りながら、ふと気づく。

 学ぶことをこんなにも楽しめるなんて、大学時代には思いもしなかった、と。


 ――この穏やかな時間が、少しでも長く続けばいいのに。





 ある朝。

 いつものように書斎へ向かう廊下を歩きながら、僕は自然と足取りが軽くなっているのを感じていた。扉の向こうに広がる静かな時間が、今ではどこか“自分の居場所”のように思えていたからだ。


 ロリスは一歩後ろをついてきている。無言だが、いつも通り僕の動きをよく見ているのがわかる。廊下には朝の光が差し込み、石床に淡い影が連なっていた。


 その静けさを破るように、遠くで急ぎ足の音が響いた。


 振り返る間もなく、角を曲がった兵士がこちらへ駆けてくる。


 「ロリス殿、緊急の報せです!」


 肩で息をしながら、兵士はロリスに駆け寄る。

 ロリスは一瞬だけ僕に視線を向け、すぐに兵士の前へ歩み寄った。


 聞こえないよう声を潜めて話を交わす二人。

 距離はあるのに、ロリスの表情がみるみる硬くなっていくのがはっきり見えた。


 ただならぬ空気が、廊下にじわりと満ちていった。




 やがてロリスは兵士に短く頷き、こちらへ戻ってきた。


 「予定を変更する。サレンの授業は今日は中止だ」


 「……何かあったんですか?」


 問い返すと、ロリスはしばし無言で僕を見つめた。迷いを隠せない、珍しい表情だった。


 「……ついて来い。ここに残すより安全だ」


 意味を考える前に、ロリスは踵を返す。僕は慌てて後を追った。


 「護衛の判断でもあるが……お前は、俺の目の届くところにいたほうがいい」


 その言葉に胸がざわつく。怖さもあるのに、不思議と心強かった。


 屋敷を抜けて外に出ると、朝の冷気が肌をかすめた。中庭に降り立ったロリスは、腰の佩剣を抜き――何の前触れもなく、まっすぐ空へ投げ上げた。


 ひゅん、と鋭い風切り音。

 剣は重力を裏切るように上昇し、そのまま空中でぴたりと静止した。淡い光が刃を縁取っている。


 次の瞬間、ロリスが跳躍する。人一人を軽々と置き去りにする高さ。重力が彼だけに甘い顔をしたみたいだった。


 宙に浮いた剣の上へ、当然のようにロリスは降り立った。


 「……うそ」


 言葉が震えた。どう見ても剣一本で人の体重を支えられるはずがない。それでも、そこに“足場”があった。


 「二人分は無理だ。乗れ」


 ロリスが片膝をつき、手を差し出す。


 「え、ちょ…え、え……!」


 抗議する暇もなく、抱き上げられた。視界が急速に地面から遠ざかる。肩越しに感じる硬い胸板に、顔が熱くなる。


 「……はずかしいんだけど」


「耐えろ。ここから落ちたら洒落にならん」



 見下ろす地面は、想像していたよりずっと遠い。風が頬を撫で、怖さがじわりと広がる。


 「え、ほんとに落ちないよね……? だって剣でしょ? 浮いてるっていうか、乗ってるっていうか……物理どうなってるの……?」


 情けない声が漏れる。ロリスは答えないが、腕に力をこめて抱き直してくれた。


 ……それだけで、少し落ち着く。


 足元には、微かな反発。雲に触れているみたいな、頼りないけど不思議な感覚。怖い。でも――ほんの少しだけ胸が高揚していた。


 こんなの、現実じゃありえない。

 落ちるのは絶対イヤだけど、それでもこの非日常が心の奥をくすぐる。


 剣はふわりと滑り出し、揺れかけてもロリスが角度を調整するとすぐ安定した。重力とは別の法則に従っているようだった。


 「この剣……どういう仕組みなの?」


 前を向いたまま、ロリスが答える。


 「風魔法で保持している。俺の魔力と連動しているから、集中を切らさなければ落ちん」


 さらっとした説明なのに、「集中を切らさなければ」の部分だけ、妙に胸に残った。


 「……それ、集中が切れたら?」


 「そのときは落ちるな」


 あまりにあっさり言うものだから、思わず眉を寄せた。抱えられたままでは逃げ場がない。下を見れば、城の塔が米粒みたいに小さくなっている。


 「……落ちないよね、本当に」


 「落ちない。少なくとも、俺は一度も墜ちていない」


 ――安心するべきか判断に困る情報だった。


 それでも、剣が空を滑るように進むにつれ、頬を撫でる風が少しずつ恐怖を削り取っていった。胸の奥のどこかに、子どもの頃に夢見た“空を飛ぶ”感覚がふっと灯る。


 「……ちょっとだけ、楽しいかも」


 呟くと、ロリスがほんの一瞬だけ横目を寄越し、口元をわずかに緩めた。


 「そうか」


 その一言が、浮遊している風よりも柔らかかった。


 ロリスは前へ視線を戻し、声の調子を少しだけ硬くする。


 「……エナが、鉱山で怪我をした」


 短く告げられた言葉が、風の音に紛れず耳に残った。


 「怪我って……どんな?」


 「噛まれた。肩と脇腹を。……三本の顎でな」


 ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。


「三本……?」


 「巨大な獣だ。黒い毛並み、赤い目。頭が三つあったそうだ」


 ロリスは眉間をわずかに寄せる。


 「エナが一度は仕留めたが、獣は地中へ潜った。その先に空洞があった」


 「空洞……?」


 「古い人の痕跡がある。だが問題はそれだけではない」


 語気が落ち、空気がひやりと張り詰めた。


 「エナが魔法を使ったとき、空洞の奥にあった“何か”が反応したらしい。土壁だと思ったものが、突然腕を伸ばして襲ってきた」


 想像するだけで息が詰まる。空にいるはずなのに、どこか湿った不安が胸の中で膨らんだ。


 「動きは鈍いが硬い。エナの剣では貫けなかった。……古い魔導技術の魔法機構、“土の人形”の一種だろう」


 「それって……敵、なの?」


 「今は違う。鎮めることには成功した。だが止まっているのは一時的だ。魔力を集めれば、また動き出す」


 ロリスはちらりと後ろを振り返り、風の中でまっすぐこちらを見る。


 「今回はそれを封じに行く。……次に動いたとき、誰かが近くにいたら、無事では済まない」


 その声音は静かなのに、避けようのない重さがあった。


 僕は、胸の奥の怖さを飲み込みながら、黙ってうなずく。行かなければならない理由が、はっきりと理解できた。


 そのとき、前方の雲が風に流れた。遥か下、岩山が鋭く切り立ち、その中腹にぽっかりと黒い穴が口を開けている。


 ――そこが、目的地だ。

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