10話
一週間が経とうとしていたころ、僕の生活はすっかり客人のようなものになっていた。毎日決まった時間に温かい食事が用意され、湯の張られた浴室も使えるし、寝具はふかふか。勝手の違う異世界とはいえ、ここでの貴賓扱いは想像していたよりずっと手厚いものだった。
エナは鉱山の任務に出てから、まだ戻ってきていない。ロリスは護衛役として一応そばにいるが、暇さえあれば訓練用の剣を振っていて、話しかける隙もない。
そうして気づけば、僕はただ何もせず過ごす日々の中で、どこか物足りなさを感じ始めていた。
衣食住に不自由はない。でも――娯楽がない。
テレビもゲームもスマホもないこの世界では、時間の潰し方ひとつ取っても現代とは感覚が違う。目の前にある広い書斎、ずらりと並ぶ蔵書にも心惹かれたが……この世界の文字が読めない僕には、ただの“お飾り”に過ぎなかった。
そんな僕を見かねてのことだったのか、それとも最初からそのつもりだったのか。
ロリスが言ったのだ。
「……文字、教えてくれるやつを見つけた。明日から来る」
――大学生だった自分が、まさか異世界で家庭教師に教わることになるとは。
思わず笑ってしまいそうになるのをこらえながら、僕は少しだけ、明日が楽しみになっていた。
翌日の昼、扉をノックする音が響いた。
出迎えたロリスの背後から現れたのは、予想よりずっと年配の男性だった。長い白髪を後ろで束ね、深い皺を刻んだ顔には品のある落ち着きが漂っている。ローブのような衣を身にまとい、ゆっくりとした足取りで部屋に入ってきたその姿は、まるで物語に出てくる老賢者のようだった。
「……この子だな。教えるのは」
低く穏やかな声。僕のことをじっと見つめる目は、年齢のせいだけではない深みを感じさせた。
「元は、都で官職についていた者だそうだ。引退後、知人の紹介でこっちに来てもらった。名をサレンという」
そうロリスが説明すると、サレンという名の老紳士は小さく頷き、ゆるやかに微笑んだ。
「文字を学ぶのは、退屈な作業になるかもしれん。しかし、知識とは己の世界を広げる鍵だ。……君にそれを渡す手助けができれば、私としても喜ばしい」
僕は思わず姿勢を正していた。
まさか、異世界で、こんなちゃんとした家庭教師と出会う日が来るなんて。
ロリスが「文字を教える」と言ったとき、正直、子ども向けの読み書き教室のようなものを想像していた。でも目の前のこの人は、その域をとうに超えている。
文字だけじゃない。
この人からは、もっといろんなことを学べる気がする。
初めての授業は、ゆっくりとしたペースで始まった。
サレンは机の上に羊皮紙と羽ペンを広げると、まずはごく基本的な文字――この世界で使われている音節の記号――から教えてくれた。書き順や発音の癖。それらを丁寧に、まるで幼子に接するような口調で教えてくれる。
サレンは机の上に羊皮紙と羽ペンを広げ、最初にシンプルな記号をいくつか書き始めた。それは直線と曲線が織り交ぜられた形で、まるで音の振動を捉えたかのような印象を与える。彼の手元を見つめながら、僕はその記号が何を意味するのか、ただ直感的に感じ取ることしかできなかった。
サレンは次々と新しい形を繰り出し、それぞれに異なる音や感覚が結びついていることを示していった。言葉というものが、この世界ではどれほど違った形で存在しているのか、少しずつ理解が深まっていくようだった。
サレンはペンを持つ手を少し止め、僕の顔をじっと見つめた。
「焦ることはない。これから一つ一つ覚えていくんだ。最初は難しく感じるかもしれないが、何度も繰り返すうちに慣れる。」
その言葉には、まるでこれから長い旅を共にするかのような、優しさと確信が込められていた。彼の口調には、どこか生徒を大切に思う気持ちが感じられ、僕は少し安心した気がした。
サレンは黙って僕の隣に座り、ペンを動かす手元を見守るようにしていた。僕が書くたびに、少しずつ形が崩れていくのを見て、彼は優しく視線を移し、深いため息ひとつもつかず、ただ静かに僕の動きに合わせて手を進めていた。
時折、僕が書いた文字が不完全であることに気づくと、サレンはすぐに手を止めることなく、柔らかな手つきで次に進むべきラインを示す。微細な動きでのアドバイスは、言葉よりも遥かに多くのことを伝えていた。
僕が何度目かに失敗してペンを持つ手が止まると、サレンは一瞬だけ目を細め、何事もなかったかのようにまた新しい文字を紙に描き足す。その繰り返しの中で、僕は自然と、ただ「教わる」というよりも、共に成長していく感覚を抱くようになっていた。
言葉ではなく、動きと視線だけでその優しさが伝わってくる。その静かな見守りに、僕は次第に焦りを感じなくなり、少しずつペンを走らせる手にも自信が芽生えてきた。
日が経つごとに、僕は少しずつ文字を書くことに慣れていった。最初はただの記号だったものが、だんだんと意味を持ち、音が結びついていく感覚が不思議だった。サレンの指導はいつも静かで、穏やかだった。彼の手元が僕のペンの動きに合わせてそっとガイドしてくれる。言葉での指摘はほとんどなく、その代わりに視線と動きが、何よりも多くを教えてくれた。
書斎に置かれたいくつかの本も、かろうじて読める単語が増えてきたことで、以前よりもずっと身近に感じられるようになった。背表紙に並ぶ文字列の意味が、ほんの少しでも理解できると、それだけで世界が広がったような気がする。ページをめくるたび、未知の世界が少しずつ“知っている”ものへと変わっていく。
サレンは、そんな僕の様子を静かに見守っていた。無言のまま、時折僕が指でなぞる文字をちらりと見ては、うなずくだけ。その表情には誇らしげな色も、急かすような気配もなく、ただ淡々と、けれどどこか温かく、僕の進歩を受け入れているようだった。
書物の内容は、まだ断片的にしかわからない。それでも「これは植物の名前だろうか」とか、「この章は人の名前が多く出てくるな」といった、ほんの些細な気づきが嬉しかった。読み取れた言葉をノートに書き写しては、何度も反芻する。意味を知るたびに、それがこの世界に自分が少しずつ根を下ろしていっている証のように思えた。
夕暮れどき、窓の外が茜色に染まりはじめると、サレンは静かに立ち上がり、片付けを始めた。その動作もまた、言葉よりも雄弁だった。今日はここまで――その無言の合図を受け取って、僕も羽ペンをそっと置いた。
扉を出ていく背中を見送りながら、ふと、自分の中で芽生えつつある「学ぶことへの興味」に気づいた。それは大学にいた頃には持てなかった感情だ。
そして、不意に思った。この静かで穏やかな時間が、もう少しだけ続けばいいのにと。
ある日、いつものようにサレンに教えてもらおうと、書斎へ向かう廊下を歩いていた。足取りは自然と軽くなる。扉の向こうに広がる静かな時間と、少しずつ理解できるようになってきた文字の世界が、今ではどこか心地よく感じられていた。
ロリスが一歩後ろをついてきていた。彼はいつものように無言で、けれど確かに僕の歩みに注意を払っていた。廊下には朝の光が差し込み、窓の影が石の床に淡く伸びている。
その静けさを破るように、遠くから急ぎ足の音が響いた。振り向く間もなく、一人の兵士が角を曲がって現れ、まっすぐロリスのもとへ駆け寄ってきた。
「ロリス殿、緊急の報せです!」
兵士は息を荒げ、額には汗をにじませながら立ち止まった。ロリスは一瞬、僕の方へちらりと視線をよこすと、すぐに兵士のほうへ歩み寄り、声を潜めて言葉を交わす。
僕にはその内容は聞こえなかったが、ロリスの表情が徐々に硬くなっていくのを、距離を置いたまま見ていた。
やがてロリスは兵士に小さく頷くと、こちらへ戻ってきて言った。
「予定を変更する。サレンの授業は今日は中止だ」
「……何かあったんですか?」
声を潜めて問い返すと、ロリスは少しの間、黙ったまま僕の顔を見つめていた。何かを判断するような、珍しく迷いのある眼差しだった。
「……やはり、ついて来い。ここに残すよりも、そのほうがいい」
「え?」
言葉の意味を飲み込む前に、ロリスは振り返って歩き出した。僕も慌ててその背を追う。
「護衛としての判断もあるが……お前が目の届くところにいたほうが安全だ」
その言葉に、少しだけ胸の奥がざわついた。自分の無力さも不安もあったが、それ以上に、ロリスが“目の届くところ”と言ってくれたことが、妙に心強く感じた。
館の外へ出ると、朝の空気が肌にひやりと触れた。中庭に降り立ったロリスは、腰に差していた佩剣をすっと抜き、無言のまま天へ向けて放り投げた。
――ひゅん、と風を裂く音がし、剣は真っ直ぐ空へ舞い上がる。
その瞬間、ロリスは地を蹴って跳躍した。軽やかに、けれど信じられないほど高く。まるで重力の制約から解き放たれたかのようだった。
剣は宙に止まり、微かに光をまとったまま空中に浮かんでいた。その上に、ロリスは何の違和感もなく立っていた。
「……うそ」
見上げた僕の声は、小さく震えていた。どう見ても、剣一本で人の体重を支えられるはずがない。だがそれは確かに、空中に在った。
「二人分はさすがに無理だ。乗れ」
そう言って、ロリスが片膝をついて手を差し伸べてきた。
「え、あの、え……!」
戸惑う間もなく、僕は軽々と抱き上げられていた。片腕の中で身体が浮き、視界が地面から急速に離れていく。肩の後ろにロリスの硬い胸板を感じながら、頬がかっと熱くなった。
「……はずかしいんだけど」
「耐えろ。落ちるよりはマシだろう」
見下ろせば、地面は思っていたよりもずっと遠く、小さくなっていた。風が顔を撫で、空に浮いているという現実が、急に重くのしかかってくる。
「え、ちょ、これ……本当に落ちないよね……? 剣だよ? ただの剣でしょ? 浮いてるっていうか、乗ってるっていうか……ていうか、どうして落ちないの? これ、物理的に……」
思わず口から出た言葉が、自分でも落ち着きのなさを際立たせているのがわかった。ロリスは何も答えなかったが、代わりに腕の力を少し強めるように抱え直してくれた。
……少しだけ、安心した。
足の裏に感じる微かな反発と、宙にいるという信じがたい感覚。こわい。でも――ほんの、ほんの少しだけ、心が浮き立っていた。
こんな空中移動、現実で味わえるなんて思ってなかった。もちろん、落ちるのは絶対に嫌だけど。それでもこの不安と隣り合わせの非日常が、どこかで胸の奥をくすぐっていた。
ロリスの剣は、まるで空気に支えられているかのように、ふわりと浮いたまま静かに滑り出した。最初はわずかに揺れたが、ロリスの足が軽く角度を変えると、すぐに安定した滑らかな軌道に戻った。重力から解き放たれたような不思議な感覚に、僕は身体を強張らせながらも、息を呑んだ。
「この剣……どういう仕組みなの?」
そう尋ねると、ロリスは前を向いたまま答えた。
「風魔法で浮かしてる。制御は俺の魔力と連動してるから、集中を切らさなければ落ちることはない」
さらりとした口調だったが、「集中を切らさなければ」という一言が、胸の奥に小さな不安の種を植えつけた。
「……それ、集中が切れたら?」
「そのときは、落ちるな」
あっさりと言い放つロリスに、思わず眉をひそめた。彼の腕に抱えられたままでは、逃げ場もなにもない。下を見れば、城の塔が豆粒のように遠い。
「……落ちないよね、本当に」
「落ちない。少なくとも、俺は今まで一度も墜ちたことはない」
――それは安心していいのか、判断に困る実績だ。
それでも、剣が滑るように空を進んでいくうちに、身体を包む風の感触に、ほんの少しずつ気持ちがほぐれていくのを感じた。恐怖のすぐそばに、子どもの頃に夢見た“空を飛ぶ”という感情が顔を出しはじめていた。
「……ちょっとだけ、楽しいかも」
そう呟くと、ロリスはほんの一瞬だけこちらを見て、口元をわずかに緩めた。
「そうか」
その一言が、まるで高空に漂う風のように、軽く、心地よかった。
それはそうと、とロリスは視線を前に戻しながら、ふと口を開いた。
「……エナが、鉱山で怪我をした」
短く、それだけだった。けれどその言葉は、風を切る音の中ではっきりと耳に残った。
「怪我って……どんな?」
問い返す声に、ロリスはわずかに息を吐いた。
「噛まれたらしい。肩と脇腹。……三本の顎でな」
ぞくりと背筋が粟立つ。思わず、ロリスの腕の中で体を強ばらせる。
「三本?」
「巨大な獣だ。全身を黒い毛で覆われていて、目は赤く光っていたそうだ。何より、頭が三つあったと……」
そこで言葉を切ると、ロリスは空を睨むようにしてわずかに顔をしかめた。
「エナが一度は仕留めたが、獣は地中に逃げた。彼女が追っていった先に、空洞があった」
「空洞……?」
「人の痕跡があった。だが、それだけじゃない」
ロリスの語調がわずかに沈む。
「そのとき使った魔法に反応したのか、空洞の奥にあった“何か”が動き出したらしい。最初はただの土壁だと思ったものが、突然、腕を伸ばして襲いかかってきたと」
その光景を思い浮かべるだけで、胸の奥がざわつく。無音のはずの空に、どこか粘り気のある不安が滲んだ気がした。
「動きは鈍いが、硬い。エナの剣がまともに通らなかったらしい。おそらく、古い魔導技術で作られた魔法機構……記録にある“土の人形”の一種だろうと」
「じゃあ、それも……敵、なの?」
「今のところは違う。いったん鎮めることには成功した。ただ、止まっているのは一時的なものだ。魔力が集まれば、また動き出す」
そう言って、ロリスはちらりと振り返った。風をはらんだ視線が、真っ直ぐに僕を射る。
「今回はそれを封じに行く。……次に動いたとき、もし誰かが近くにいたら、無事では済まない」
彼の声には、判断の余地がなかった。真剣で、だからこそ静かだった。
僕は黙ってうなずいた。恐怖は確かに胸の奥にあったけれど、それでも、行かなければならない場所があるのだと、はっきりと感じていた。
そのとき、前方の雲が風に流れ、遥か下の岩山が姿を現した。鉄のように鋭く切り立った崖、その中腹に、ぽっかりと黒い穴が口を開けている。
――そこが、目的地だ。