1話
朝日がゆっくりと地平線を越え、世界を薄い金色に染めていく。葉先の露が光を跳ね返し、遠くで小鳥の声が重なった。
カーテンの隙間から漏れた光が、まぶたの裏をじんわりと温める。
——今日も、変わらない朝だ。
そう思った矢先、枕元のスマホがけたたましく鳴り響いた。
知らない番号。嫌な予感が、眠気よりも先に胸の奥で目を覚ます。
通話ボタンを押すと、落ち着いた声が聞こえた。交番からの連絡だった。
「お父さんの財布が届いています」
最初は、言葉の意味がうまく入ってこなかった。
父の財布? 落とすような人じゃない。もう仕事に出ているはずだ。
数秒の沈黙ののち、「分かりました」とだけ答えた。
布団を蹴飛ばし、着替えを済ませる。冷水で顔を洗うと、眠気が抜ける代わりに、胸の奥がざらつくように冷えた。
玄関を開けると、朝の空気が頬を撫でた。自転車のペダルを踏み込むたび、風が体を切り裂くように流れる。
——なぜ落としたんだろう。
信号待ちの間、ハンドルを握る手がわずかに汗ばんでいるのに気づいた。
普段は几帳面な父が、財布を。
急いでいたのか。それとも……。
ほどなくして、白い壁の小さな交番が見えた。朝日に照らされた看板がやけに眩しい。
中では警察官が書類をめくっていた。扉を押すと、チャイムの音が乾いた空気に響く。
手渡された黒い財布を開く。見慣れた革の感触。確かに父のものだ。
だが、札入れの中はほとんど空っぽだった。
——盗まれたのか。
息が詰まる。
中には百円玉が数枚、カードがいくつか。
「拾ってくださった方が届けてくれたんですよ」警察官の声は淡々としていた。
その“拾ってくれた方”が、全てを届けたとは限らない。
形式的な書類にサインをして交番を出る。
空気が少し冷たくなっていた。
朝の爽やかさはもうどこにもない。代わりに、胸の奥に重い石のようなものが沈む。
ペダルを踏みながら、思考が勝手に動き始める。
——盗みは悪いことだと、学校で教わった。
でも、現実はそんな単純じゃない。
盗んだ誰かにも、きっと理由がある。生活が苦しくて、どうしようもなかったのかもしれない。
もし、僕がその立場だったら?
空腹で、途方に暮れて、目の前に金があったら——。
考えれば考えるほど、心の奥がざわついた。
正しいことを知っているのに、なぜか答えが出ない。
高校時代の友人の顔が、ふと頭をよぎった。
あいつは、変わり者だった。周りが引くような話ばかりしていたくせに、どこか憎めない。
ある日など、宗教の勧誘に捕まって、気づけば二時間も年配の女性の説法を聞かされていた。後日、そのことを目撃した同級生が言いふらして、変人扱いして笑っていた。
みんなは呆れていたけれど、あいつはまるで気にしていなかった。
優しいのか、鈍感なのか。たぶんそのどちらでもあった。
なんですぐに立ち去らなかったのかを聞いたことがあった。その答えは相手のほうはきっと何かあったからだという。
別に憐みだけで付き合っていたわけではないが、そのやさしさもどこか残酷なもののように思えた。
他人の目を気にせず、思うままに行動するあいつを、僕はどこかで羨ましく思っていた。
僕には、できない。
いつも誰かの視線を意識して、失敗を恐れて、言葉の一つさえ慎重に選んでしまう。
現実の中で何かを選ぶたび、心の中で何かを捨てている気がした。
——あいつなら、きっと迷わないだろう。
自分の直感に従って進んでいける。
正解なんてなくても、「それが自分だ」と言い切れる強さ。
僕には、それが怖い。
答えのない世界の中で、僕はいつも立ち止まってしまう。
選べば後悔し、選ばなければ置いていかれる。
それでも、あいつのように自由にはなれない。
そんなことを考えていた、その日の夕方。
父が帰宅した。
財布の件を話すと、彼は驚くでもなく、ただ淡々と頷いた。
「金が盗まれたのは、仕方ないさ」
まるで誰かの他人事みたいだった。
僕は思わず、父の顔をまじまじと見た。
普段なら、無駄遣い一つで説教を始める人だ。けれど今は、怒りも嘆きもなく、まるで何かを手放したような表情をしていた。
——なぜだろう。
諦めなのか、悟りなのか。
僕には、それが理解できなかった。
社会に出たら、こういう感情になるのだろうか。
家庭を持つというのは、こんなふうに心を削ることなのだろうか。
僕はまだ若く、何も知らない。だからこそ、理不尽に対して感情的でいられるのかもしれない。
それとも、ただ幼いだけなのだろうか。
そう思いながら、ふと外から音が響いた。
——ドン。
爆発音のような響き。
一瞬、胸がざわついたが、次の瞬間、夜空に色とりどりの光が咲いた。
花火だ。花火大会があることをすっかり忘れていた。
ベランダの窓を開けると、風が流れ込んだ。夜の匂いと、遠くの歓声。
しばらくその光景を見つめていた。だが、不思議と胸の奥は静まらなかった。
もっとはっきり見ようと、ベランダへ一歩踏み出した瞬間——
空間が、歪んだ。
まるで空気が水のように揺らめき、視界の中心に黒い渦が生まれる。
花火の光が、その闇に吸い込まれていく。
理解が追いつく前に、体が勝手に前のめりになった。
落ちている。
どこへ、とは言えない。
現実が遠ざかるように、音も光も薄れていく。
最後に、夜空の花火がひとつ、逆さまに消えていった。
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