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1話

 朝日がゆっくりと地平線の向こうから顔を出し、柔らかな光が世界を染め上げる。木々の葉先に宿った露がきらりと輝き、小鳥たちが枝々でさえずり始める。カーテンの隙間から漏れる光が、瞼の裏をじんわり染めていく。


 今日も、いつものように僕を困らせていた。目を閉じたまま、ふうっと息を吐く。こんな朝くらい、もう少し寝かせてくれてもいいのに。


 突如、枕元で鳴り響く着信音。眠気混じりの頭でスマホを手に取り、画面を見る。知らない番号。ため息をつきながら応答すると、交番からの連絡だった。父の財布が届けられているらしい。


 頭の中にその言葉がじわじわと染み込む。父の財布が交番に?なぜ?


 父はすでに仕事に出かけているはず。電話には出られなかったらしい。僕が代わりに受け取りに行くことにした。


 布団を蹴り飛ばし、着替えを済ませる。顔を洗い、寝癖を適当に直し、玄関の扉を開けた。朝の空気はひんやりとしていて、さっきまで布団に包まっていた体には少し冷たく感じる。自転車を引っ張り出し、ペダルを踏み込む。


 冷たい風が当たり、寝ぼけた自分には気持ちよささえ感じる。自転車のタイヤがアスファルトを踏みしめる音が、静かな朝に微かに響く。信号が青に変わるのを待ちながら、ふと考える。


 父はどこで財布を落としたのだろう。普段ならそんな失敗をする人じゃない。もしかすると、何か急いでいたのか、それとも……。


 普段なら何の縁もない場所。通り過ぎることはあっても、自分が用事で訪れるなんて滅多にない。ましてや、父の財布を受け取りに行くことになるなんて。


 ハンドルを握る手に、じんわりと力が入る。不安なのか、焦っているのか、自分でも分からない。考えすぎだと自分に言い聞かせる。


 ほどなくして、小さな交番が見えてきた。朝日に照らされた白い壁と青い看板。扉の向こうで、制服姿の警察官がデスクに座っているのが見える。


 自転車を止め、深呼吸をひとつしてから扉を押す。


 財布を受け取る。黒い革の感触が指に馴染んだ。確かに父のものだった。


 警察官の説明では、近所の方が拾って届けてくれたらしい。だが、財布の中には現金がほとんど残っていなかった。


 盗まれたのだ。


 息を呑んで財布の中身を確認する。100円玉が数枚、カードが数枚。普段ならもっと入っているはずなのに。誰かが現金を抜き取ったに違いない。


 事務的な手続きを行いながら、他愛もない話を繰り返す。


 お礼を言い、交番を後にする。外に出ると、さっきまで感じていた朝の心地よさが消えていた。代わりに、じっとりとまとわりつくような不安だけが残る。


 自転車にまたがり、家へと向かう。


 学校では「盗みはよくない」と教えられたけれど、それでも欲に駆られ、目の前にある金に動かされてしまうことがある。


 誰が盗んだのか。その理由や動機を考えてしまう。


 学校では、盗みをする人間を「悪い人」として教えられた。しかし、現実に直面すると簡単に割り切れない。


 誰が盗んだのか。その人には、何か理由があったのだろうか。考えても仕方のないことなのに、心がざわつく。


 きっと物価が上昇するこの世の中、生活が苦しくなれば、誰でも誘惑に負けてしまうのだろうか。自分がその立場だったら、どうしていたのだろう。仕事もなく、金銭的に追い詰められたら、目の前に現金があったとき、心の中でどう葛藤するのだろう。


 けれど、何をどう考えても、盗むことが許されるわけではない。結局、盗んだ者が悪いのだろう。


 思わず自分に置き換えて考える。もし、自分が財布を拾ったら。僕はどうするだろうか。


 正直に警察に届けるか。それとも、何かしらの理由をつけて手元に残すか。


 考えすぎだと思いながらも、答えのない迷路に迷い込む。


 高校時代の友人を思い出す。あいつは変わり者で、周りの人が呆れるような話ばかりしていた。ある日、宗教勧誘を受けて、気づいたら2時間も年老いたばあさんの説法を聞かされていたという逸話を持っていた。


 周りからは笑いものにされていたが、あいつは全く気にしていなかった。


 優しい人だからか、断れなかっただけかもしれない。


 周りがどんなに笑おうと、あいつは自分の意思を貫こうとする。それが、いつも他人を気にせずに行動できる理由なのか、それともただ流されてしまうだけなのか、僕にはよくわからなかった。


 僕にはそれができない。


 現実と向き合うたびに、どうしても他人の目が気になるし、周りの反応を考えすぎてしまう。


 あいつのように、何かに引きずられないで生きていけたら、どんなに楽だろう。


 正解のない世界の中で、常に選択を迫られる。どちらを選んでも、後悔が残る。


 あいつなら、そんな葛藤も感じずに、ただ自分の直感に従って進んでいけるのだろう。


 でも、僕は違う。


 自分の行動が、他人にどう映るのか、どう思われるのか。そのことが頭を離れない。


 そして、最終的にはどんな選択をしても「これでよかったのか?」と自問してしまう。


 正解がなくても、何か一つの答えにたどり着けるなら、それが楽なんじゃないか。


 あいつは、そんな迷いもなく、自分を信じて進むことができる。あいつがどうしてそんなに自信を持てるのか、僕にはわからない。


 それが羨ましくて仕方ない。


 でも、今の僕にはその自由さを手に入れることはできそうにない。


 答えのない問題にどう向き合うべきか、考えれば考えるほどわからなくなっていく。


 その日の夕方、父親が帰宅した。財布の件について話すと、彼はあっさりと受け入れた。


「金が盗まれたのは仕方ないさ」と言ったのだ。


 お小遣い制の父にとっては、かなり大きな打撃だと思ったが、意外とそんなことは気にしていないようだった。むしろ、盗まれたこと自体にはあまり気に留めていないように感じた。僕が驚くべきだったのは、父の反応が予想よりもずっと穏やかだったことだ。普段はお金のことに厳しく、無駄遣いには神経質な父なのに、今回ばかりは何かを諦めたかのように思えた。


 でも、僕にはそれがどうしても理解できなかった。普通なら、もう少し怒ったり、悲しんだりするものじゃないのだろうか。


 僕は自分の中で、いろいろな感情が入り混じっているのに、父のように何も感じていないわけではないだろうと感じてしまった。父の反応があまりにも冷静で、どこか達観しているようにさえ思えたからだ。


 社会に出たらわかるようになるのか?家庭を持つとこうなってしまうのだろうかと、心の中で考えてしまう。


 僕は今、何も知らないからこそ、感情に流されているだけなのだろう。


 そんなことを考えていると、外から爆発音のような音がした。

 

 花火だった。


 花火大会がやっているらしい。


 窓越しでも、夜空に色とりどりの花火が咲き誇るのが見えた。


 よりはっきり見たいと思い、窓を開け、家のベランダに出た瞬間だった。


 一瞬、踏み外したかと思ったが、視界に映る情景に思考が停止するほど驚いた。


 黒い渦のようなポータル、まるで異世界への入り口のようなものが視野に広がっていた。


 平衡を崩し、抗う間もなく前へと倒れた。まるで見えない力に引き寄せられるかのように、不思議な虚空へと飲み込まれていく。

 

 気づけば、全身が虚空の中に引き込まれていった。

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