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寺の生活

 梵鐘の鳴動で宝塔の軒の下に吊るされた青銅製の風鐸が微かに震える。

 それが儼かな雰囲気を醸す。闇。何もない。何も見えない。意識は分別のない、未だ蒙昧な、昏沌たる夜であった。鐘の音声が臍下に眠る魂魄を低い振動「どをゐん、どをゐん」で呼び醒す。僕の基へ曖昧模糊ながらもじぶんがじぶんへ還るような、漠然とであるが、そんな感覚があり、光がようようと差すように、意識が少しずつ息を吹き返した。生命が甦り、幕が開くように世界が現象し、瞼が開くと同時に展開する。

 冬睦月。いつものように、黎明の前の昏い刻に起床した。見えずとも墨や硯や筆などの存在を幽玄と観ずる。存在とはそういうものらしい。無意識にそう思いながら、布団をたたみ、衣を整えるうち、うっすら空気があおみを帯びる。

 障子を開けて房から狭く暗い廊下へ出た。屋内でも息が白い。角を曲がって少し幅ある廊下に入り、同じく若き一人の僧と遭う。その後を歩き、建物の外周を巡る外廊下に出る。雪冷えした空気が冴え冴えとして、粛として爽やかだ。そこにはまた、幾人かの僧がいた。

 小さな流れが集まってやがて河となるように、分岐する外廊下を渡るうち、次第に合流し、皆で静々と歩む。階を下り、雪駄を履き、石敷を逝き、大伽藍の本堂へ。雪駄を脱いで階を上がった。奉燈を灯す。

 釈迦牟仁像の前で皆ともに読経した。修禅堂へ移動の途中、白み始め、坪庭の枯山水が見えた。大小もさまざまに、苔のむす石が片寄った、均等ではない配置に置かれ、静なる動の沈黙をなす。白砂に引かれた水流の線文様もまた然り。鋭く刈り込まれた濃い緑の椿が沈と寂莫。

 石が(いつ)く荒々しきおもてを晒す。ふぞろいに偏りながらも、(そろ)いたるさまを観ぜしめる見事な配置であった。いつ見ても新た。清々しくもつつましく、深く澄みたる美しさであった。

 ただ、時々襲う動悸のような動揺が、暗鬱さで胸を塞ぎ、息が苦しい。重たい、どんよりとした物に呼吸が遮られた。いつも何かの契機で蓋をされるこのこころがほんの束の間の安堵を覚えさせられる。存在の不安などと言えば、演技のし過ぎであろうか。確かに僕も気取り過ぎと感じる。そういう感性だ。だが、実はそんな高尚ぶったことではない。実際は、もう少し切羽詰まっている。存在していることが無防備なまま裸体で荒野に晒されているように感じ、縋るものが見つからなくて、暗黒の濁流のなか、儚い筏で怒濤に竿差すような、確かさと安定を求める不安の根源は、生存への不安であって、生存への本能が僕を超えた意識の奥底から、僕を凌いで渇望しているのであろう。そういう恐ろしさも、芸術が慰めてくれる。御仏の道の齊たる美が。存在の不安という詩句も、こころをわずかに慰める文學となる。

 見るうちに何かがこころに滲み透り、祓い清められたようなきぶんになった。かようにこころ洗われることも又、魂の汚れや燻みである執著を拭い、世俗の汚濁を厭離するという御仏の道への一歩へと繋がる。

 粛々と務めを果たしていった。決められたとおり整然と移動する。禅堂で坐禅し、その後、一杯の粥と二切れの沢庵漬けとの朝餉を済ませ、房へ戻って丁寧に経文を読誦した。声を肚からゆるりと湧かせながらも静かに。

 連子窓から、半ば無意識に、素朴な垣根の庭を見遣る。未だ咲かぬ古い梅。生きた枯山水みたいだ。

 さりげない平凡な日常に添えられた古典の美に浸る時、僕は歴史に個我を埋没し、安堵する。永遠に、こうしていたいと欲する。仕事も務めもせずに、終生、芸術に埋没していたい。御仏の御教えの精緻な美に耽溺して生きていたい。真理の大伽藍に住まう永遠の住人として暮らしたい。諍いや欲望や搾取や生存から乖離して。儚い望みだ。

 ひと切れの雲が流れた。翳が過ぎる。風に木の葉が揺れた。雀が庭木の下の苔に降りて何か啄む。しばしの休憩を終えた。再度、衣襟を確かめる。房を出た。勤行が続く。


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