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短編集

追いかける

作者: 汐見かわ

西日が深く差す教室は黄色く染まっていた。手元の大部分が色を塗られていないまだ描きかけの絵にも黄色く線が引かれた。 肩まである髪の毛は首にまとわりつく。それがまたじっとりと絡みつく暑さを感じさせ、私は苛々とする。エアコンの設定温度は28度。涼しくはない。 一緒に作業をしていた数人は、ほどほどのところで切り上げて帰って行った。教室に残されたのは一人だけ。 なぜ、四角ばかりの絵にしたのか。全て正方形だ。大小様々な正方形が用紙いっぱいにバランス良く数多く散りばめられて、色を塗る作業が多くなった。さほど美術に思い入れはない。思い付いたデザインがこれだっただけ。それしか思い付かなかった。今更ながら、こんなデザインを決めたことに後悔をした。 『完成させないと成績が付けられないからな』


 先生にそう言われて渋々居残った。自分はほどほどに切り上げることができない。散りばめられた正方形を全て塗らないと明らかに空きが目立つ。気持ちが焦る。苛々する。まだ半分以上は残っている。正方形一つ一つに色を塗らなくてはならない。様々な色を使い、鮮やかにはみ出さないように、丁寧に。 四角を形取る線なんて全て無視して、色を塗りたくってやろうか。一瞬でもそんな考えが浮かんだが、ついには実行に移せなかった。


 突然に教室の扉が開かれ、先生が入って来た。


「まだやってたのか。一人だぞ」


 先生は向かいの机の椅子に座り、使われずに放り出されていた筆を取る。すると、何も言わずに机の上に広げられている正方形だらけの絵に色塗りをし出した。手伝ってくれるらしい。私が帰らないと先生も帰れない。そういうことだ。 四角の中は、あっという間に青色が広がった。爽やかでどこか夜のような深い青色だった。 手慣れているのだろう。真っ直ぐに筆を動かし、線からはみ出す事なく内側を塗る。早くて綺麗。上手だなと思った。


「バランス良く描かれてるけど、色塗りこれじゃあ大変だな」


 そう言いながらも、次々と四角が塗られていく。少し骨張った先生の手が右から左へ。爪は短く切り揃えられている。左から右へ、するりと筆は滑って行く。筆を持ち上げて横にある水差しにちょんとさす。波紋ができるように青く水が濁った。 先生のその指には指輪がはめられていた。


「先生、左利きなんですね」「そう。左利き」


 先生は会話を続ける気はあまりないらしい。手の動きは止めずに、新しい色に筆を付けて再び絵の上に滑らせた。上から下へ、ちょんちょんと少しずつ丁寧に。今度は細かく早く繰り返す。 筆の動きと同じ動きで薬指の指輪もちらちらと動く。 私も筆を持ち、四角の中を塗る。先生の塗っているすぐ隣りの四角を塗ることにした。 こつんと先生の手の甲に指が触れた。 見た目通り骨張った手の感触だった。男の手だと思った。少しごつごつとした大きな手。 先生はすっと離れて行った。


「上手ですね」「一応な。専門だから」


 次に先生は私が塗る四角から一番離れた四角を塗り始めた。 直線の縁にそって筆先がゆっくりと上へ撫でる。そして手が止まり、少しの間を置いてから右へ。筆の毛先が、先生の動きに合わせしなやかにくねる。 四角を塗り終えたので、私も次の四角に取り掛かる。先生の塗る直ぐ真下の四角。 先生は、それまでゆっくりと丁寧に塗っていたのが急に早くなって、私が筆を絵に置く前に手は紙の上からいなくなった。


 それから先生は私が二つ三つ塗り終えるのを待っていたようだった。私の筆が水差しに行ったと同時に、先生の筆が紙に置かれる。私はすぐに赤色の絵の具を十分につけて、先生の塗っているその場所に筆を置いた。男の手の甲に指がぴったりと寄り添った。先生の手は少ししっとりとしていた。


「こうやって色が混ざると良くないですか」


 先生は何も答えてくれなかった。 青色に赤色が混ざり、そこだけまだらに紫色になった。ぽつりと置かれた筆の先から紫がじわじわと広がって行く。先生の手はすっと離れて行った。


 ふと、視線を上げると先生は水差しに視線を向けた。二つの視線が絡むことはなかった。絵の具のついた筆を入れれば水の中は様々な色が混ざり、黒に近い色になっている。指にはめてある指輪だけは綺麗な銀色をしていた。 先生は一つ大きく深呼吸をして再び筆を絵の具に付けた。はあと息をつく音がやけに耳に響く。その音が部屋の温度をさらに上げた気がした。私の首にはずっと髪が絡みついている。空いている方の手で髪を耳にかけた。ほんの少しだけ、首が涼しくなった。


 筆が紙に置かれた。鮮やかな青色が広がり、ゆっくりと四角の中が塗られて行く。先生の塗り方はやっぱり上手で、線から一ミリもはみ出さないでいる。 机の下にある足を一歩前に出してみた。私の膝と先生の膝がこつんとぶつかった。


「おい、いい加減にしろ」


 先生は筆を乱暴に水差しに入れると、立ち上がりそのまま教室から出て行った。 手元の絵を見ると、四角の枠からは少し色がはみ出していた。それは青色だった。




2021年6月作成。

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