2 魔女と子ども
陽も差し込まないような鬱蒼とした森でリシェルは地面に横たわる布切れを見つけた。
「わぉ、こんなところでどうしたの?」
摘んできた薬草が入っている籠を地面に置いてリシェルは人の気配がする布の下へと声をかけた。魔力の気配を感じないから人間の子どもだろう。人と、まして人間の子どもと関わることなんて滅多にないリシェルは興味本位に手を伸ばしておそらくマントであっただろう汚れた布の上からその体をつんつんと突いた。
「う……」
モゾモゾと動いて布の下から顔を出した子どもは想像していたよりもずっと幼い顔だった。眠っていたのだろう。体のあちこちに傷を作ったその子どもは目を擦ろうとして、痛みに顔を歪めていた。
「どうしたの?迷い込んだのなら出口はあっちだよ」
初めて見合わせた顔にリシェルはやぁと笑いかける。目の前の子どもの顔には恐怖心が浮かんでいた。
「……あなたは誰?」
震えた声で尋ねてくる。逃げ出す気力は残っていないのか、それとも最初から逃げ出すことは頭にないのか立ち上がろうとする素振りは見せなかった。
「私?私は魔女のリシェル。君は何しに来たの?」
「魔女?お兄様たちの仲間ではない?」
「お兄様?誰それ」
他にも子どもが落ちてるの?とリシェルは辺りをキョロキョロと見渡したが他の気配は感じなかった。そんなリシェルの様子を見ていた少年は安心したのかほっと息を吐いて肩の力を抜いた。
「僕は……気がついたらこの森にいて……」
ようやく話ができそうになった子どもをリシェルは、お?と見下ろした。
「お家に帰りたいの?案内してあげましょーか?」
そう言うと子どもはサッと顔を青ざめさせて首を横に振った。
「嫌だ、帰りたくない……!生きていることがバレたら命を狙われる」
それは幼い子どもの口から出るには、否、平和なこの国の人間の口から出るには随分と物騒な内容でさすがのリシェルもギョッとした。
「うぇ、まじ?君、何やらかしたの?」
「ーーっ何もしてないっ!」
そこで子どもは初めて大声を出し、今にも泣き出しそうな顔になった。
「わーわー、ごめん。お姉さんが悪かったよ」
確かに初めから決めつけたのは良くなかった。リシェルは失言を認め素直に子どもに頭を下げた。
「まあさ、よくわかんないけど、とにかくうちに来れば良いよ」
リシェルは籠を持ってよっこらせと立ち上がった。失言のお詫びに丁寧に申し出てあげたのだが子どもはサッと警戒の色を浮かべて再び体を固くした。
(今まで苦労してきたんだろうな)
そんな様子にリシェルは深い同情心と共に内心ため息を吐く。警戒心が強いのは良いことだけど、このまま攻防戦を続けるのはいささか面倒だった。
「ーー夜は人喰い狼が出るらしいよ?」
リシェルはニヤリと笑って少年に手を差し出した。
***
「師匠、またこんなところに魔導書を置きっぱなしにして。きちんと元の場所に戻してくださいと何度も言っているじゃないですか」
「あー、ごめんごめん。後で片付けるつもりだったんだけど」
「そう言って片付けた試しがありませんよね?」
「違うよ、片付けようとする前に我が優秀な弟子が片付けちゃうんだよ」
「……まったく、師匠は仕方がない人ですね」
大量の資料に埋もれるリシェルに呆れた顔を向けながらもどこか嬉しそうな雰囲気を隠しきれていないロウは、結局床に溜まっていたいくつかの魔導書を拾い上げ、それらを棚へと戻していった。
ロウがこの森で暮らすようになって数年が経って、彼はリシェルのことを師匠と呼ぶようになっていた。リシェルがある日そう呼んで良いと口にしたのだ。
「お前が呼びたいのなら私のことを師匠と呼ぶのを許してやろう」
「……弟子にしてくださると言うことですか?」
「……まぁ、そーいうことだ」
「……魔法が使えないのに?」
「ーー私はお前だから弟子にしてやると言っているんだ」
確かそんなやりとりだったはずだ。直後にロウがリシェルの腰に勢いよく飛びついてきて腰を痛めたところまで覚えている。
ロウはあの時ほど生きて良かったと思った瞬間はないのだとしばらく経った後でもよく口にした。リシェルにとってもそれは忘れられない思い出で、特に飛びついてくる直前の、迷子の子どもが帰る家を見つけた時のような様々な感情が一気に溢れ出たロウの表情は一生忘れられそうにないものだった。
勇気を出して伝えて良かった。
機会を伺って一人で一日中緊張していたリシェルはその顔を見て心からそう思った。
初めは本当にただ目の前にいたから手を差し出したに過ぎない存在だった。ロウであってもロウでなくても子どもが森に落ちていれば変わらずリシェルは手を差し出していただろうし、ある日突然ロウが街に戻ると言っても気にも留めないはずだった。それなのに、彼がリシェルの中でかけがえのない存在となり、これからも大切にしていきたいと思うようになったのはいつからだっただろうか。
家を失ったロウがずっとここに居られるような大義名分を与えたのは事実だけれど、果たしてそれは誰のためだったのか。これはリシェルにとって口が裂けても言えない秘密だった。
「いやーすまんな、ロウ。迷惑かけて」
ロウと出会って5年、リシェルは街から戻ってきたロウに今度はベッドの上から声をかけていた。
「迷惑なんかじゃありません。俺は全然苦じゃないですし、ようやく師匠の役に立てて嬉しいです」
出会った当時のボロボロだった姿から見違えるほど、ロウは大きく成長していた。彼は持ち帰ってきた大量の荷物を部屋の隅に置くとベッドの横に置いてある小さな椅子にサッと腰掛け、横たわるリシェルの額に手のひらを置いた。
「どうですか、体調は?果物を買ってきましたが食べられそうですか」
「ああ、だいぶ良いよ。しかし、こんな時期に果物なんてすごいな。無理をしたんじゃないか」
「いえ、知り合いから安く譲ってもらったんです」
「知り合い?いつも言っている仕事の仲間か?」
「ええ、そんな感じです」
「そうか……」
リシェルはケホケホと小さく咳をした。ここ数ヶ月でリシェルはすっかりベッドの上の住人となっていた。症状を診てもらった医者には治す術がないと言われており、リシェルの人生はどうやら二十年とそこらで終わってしまうようだった。
「市場にはほとんどパンも出回らなくなっているんだろ。最近はお前のお陰でだいぶ調子も良いんだから無理だけはするなよ」
リシェルはロウに念を押した。この国では自然災害による影響で不作が相次ぎ、市場からは多くの食べ物が姿を消していた。それなのにロウは毎回どこで手に入れてくるのか、街へ行くたびにリシェルに食べさせるための栄養価の高い食べ物を持って帰ってきていた。
「わかっていますよ。……だけど師匠が気にするべきことは自分の体調のことだけです。どうです?少しは眠れましたか?」
ロウはニコリと微笑んでズレていたリシェルの毛布を整えた。ーーが、そこでピタリと動きを止めて口を開いた。
「ーー師匠?」
数秒前とは打って変わった低い声の温度にリシェルはびくりと肩を震わせる。
「なんでしょうか……?」
そう尋ねるリシェルの顔は引き攣っている。
「どうしてずっと使っていたはずの毛布ががこんなに冷たいんですか?」
「さぁ……?」
「俺がいない間にベッドから出て仕事をしていましたね……?」
「……」
沈黙は無言の肯定である。だらだらと冷や汗をかくリシェルにロウの目尻は釣り上がった。
「大人しく寝ていてくださいと言ったでしょう!何してるんですかっ!!」
珍しく本気で怒った様子でリシェルに対して大声を出したロウに、リシェルは言い訳をするためにキョロキョロと視線を彷徨わせて言葉を探した。
「いや、だってロウがいるときはなかなか仕事をさせてもらえないしーー」
「当たり前でしょう。病人は寝るのが仕事です!」
キッパリと返された言葉にリシェルはぐぐぐと奥歯を噛んだ。
「ーーでもでも色々と前にやっておかなくちゃいけないことがあるんだよ!」
何の前に。ーー死ぬ前に。
言外の言葉を察知したのか今度はロウが黙り込んだ。そんな顔をさせたい訳ではなかった。リシェルは慌てて再び言葉を探した。
目の前にあるものをあるものとして受け止める。
相変わらずリシェルは自身の病気も受け入れて大して悲観することもなかったが、唯一弟子に迷惑をかけているこの状況だけはどうにかできないものだろうかと考えていた。
「ーーこの私が死ぬまで大人しくしていられると思うのか?」
リシェルは目の前の黒髪をくしゃりと撫でた。成長したとは言ったものの、まだまだリシェルにとっては小さな頭だった。
「……子ども扱いしないでください」
してないよ。
そんなことを言う代わりに頭を撫でる手にさらに力を込める。ロウは大人しくされるがままだった。
「開発途中の魔法陣の継承を頼んだり、バラバラだった研究内容をまとめたりさ。私がいなくなった後に急にいろんな人がこの森に来たらロウが困るだろう?意外と価値があるんだよ。私の研究は」
リシェルは笑った。ロウは毛布を握る手にグッと力を込めた。
「……俺が師匠の後を継げればそんなことをする必要はなかったのに」
それは今にも折れてしまいそうなくらい細く、弱く、それなのに力のこもった悔しさが滲んだ声だった。
「俺に魔力があれば良かったのに。なんで俺には魔力がないんだろう……」
きっと切実な願いなのだろう。ずっと一緒にいたリシェルにはロウの気持ちがよくわかった。魔法を見せるたびに、たまにやって来る友人と魔法について話すたびにロウが羨ましそうにこっちを見ているのには気付いていた。
「ーーロウ、いつも言っているだろう」
「わかっています。師匠が言う通り、そこに大した理由はないんだって。でも、どうしても願ってしまうんです。もし俺に魔力があったらもっと師匠の力になれるのにって」
「ーーもう十分力になってるよ」
「“もっと”です」
「……私の弟子は欲張りだなぁ」
リシェルは眉毛を下げて苦笑した。
「ーーなぁ、ロウ。私はお前に出会えたことが人生最大の幸福だよ」
触れていた肩からロウが息を呑んだのが伝わった。リシェルは微笑みながら言葉を続ける。
「それはお前があの森に来てくれたから出会えた幸せだ」
ロウがゆっくりと顔を上げてリシェルを見つめた。
「ボロボロだったお前はどうしてあの時生きるのを諦めなかった?」
「……分かりません。あの時はただ生き延びるのに必死で」
リシェルの問いにしばらく思考を巡らせたロウが答えた。本当に自分でもよく分からなかったのだろう。過去の自分を思って困惑の色を浮かべるロウの顔は、最近見せるようになった大人っぽい顔からはあまりにもかけ離れていて思わずリシェルは吹き出してしまった。声を出して笑った拍子に少し咳き込み、ロウが慌てて背中をさすってくれる。リシェルはその顔に笑いかけた。
「それで良いんだよ、ロウ。人は生まれたから必死に生きるんだ。そしてその延長線上で私とお前は出会ったんだ」
「延長線上、ですか?」
「ああ。ロウがロウでいてくれたから。だから私はお前に出会い、お前に出会ったから私は手を伸ばした」
リシェルは愛おしい濡羽色の瞳を覗き込む。
「ロウがここにいる理由がそれだけじゃ不満か?」
「ーーっ不満なんか一つもありません!俺は、師匠といれて幸せです」
ロウはリシェルの痩せて枯れた手をとった。リシェルは少し喋りすぎたせいか疲れを感じてゆっくりと息を吐きながら力を抜いて微笑んだ。
「……ロウ、ありがとう。私は今のお前で十二分に満足だよ」
「ーーっそんなの、俺の方こそ……。貴方だからっ」
リシェルの手を握るロウの手が小さく震える。片付けも家事もリシェルを温めることもできる優秀な手だ。リシェルは繋いだ手だけに意識を残し、しばらく眠ろうと目を瞑る。
しばらく経ってポタポタと落ちてきた雫は焼けるように熱かった。
***
「俺はお前に、師匠がくれたものと同じものを与えられるとは思えない」
描きかけの魔法陣を前にどこか遠い目をしたロウが言った。彼もまたかつての記憶を思い出していたのかもしれない。
「お前はさっさと他の奴のところへ行くべきだ」
ロウは少し弱った顔でリシェルを見下ろした。その台詞は冷たさというよりもロウの誠実な心を表しているようだった。
「数日後、魔力持ちの知り合いがここに来ることになっているんだ。その時にお前の面倒を見てくれそうな知り合いがいないか尋ねてみよう」
そう言ったロウは静かに窓の外へと視線を移した。つられてリシェルも顔を上げればそこにはかつて二人で何度も眺めた夕日があった。あの頃と変わらない真っ赤な夕日は再び二人の影を床へと刻んだ。