1 師匠と元弟子
最初は短編のつもりでしたが長くなってしまったので分けました。
全3話です。よろしくお願いします。
死んだら生まれ変わっていた。
いや、一度死んだのかどうかも曖昧だ。
生きたまま姿形だけが変わってしまったのか、それとも本当に前世の記憶をもったまま再びこの世に生を受けてしまったのか。どちらにせよ、森で目を覚ました今の状態の体とは別の体で生きた人生があったことは確かだった。その時の感覚も、隅々までの思い出も、記憶としてしっかり残っている。そしてその最後の記憶が自分を抱きしめて泣きじゃくる弟子の姿だということも。
「……はぁ」
リシェルは重たくなった気持ちをため息と共に吐き出してポリポリと頭を指でかいた。頭に触れる手は慣れ親しんだ自分のそれよりもずっと小さく、視界に入る髪の毛の色も見慣れたそれとは異なっていた。
違う体になってしまったことだけは確かだった。体が縮んだわけでも、幼い過去に時間が巻き戻ったわけでもなさそうだ。
久しぶりの病魔に冒されていない体は驚くほどに軽かった。
「うーん……」
せめて設定を教えてほしい。じゃないと、どう対応すれば良いのかわからない。
しかもこの森、覚えがあるし。
リシェルは辺りを見渡した。魔法使いとして独り立ちをして以来、ずっと住んでいたこの森は彼女にとって庭みたいなものだった。
異世界に来たわけではないらしい。
リシェルはずっと前に読んだ、巷で流行っているという小説の内容を思い出しながらそんなことを考えた。
確かな記憶を頼りに、立ち上がったリシェルはザクザクと森の中を進んでいく。
(こっちの方向に向かってまっすぐ歩けばーー)
やっぱりあった。
木々の隙間から見えた見慣れた小屋にリシェルはホッとして足を止めた。自分が住んでいた頃の状態から全くと言って良いほど変わっていない。
やはりここは自分が知っている世界のようだ。
家の雰囲気はそのままだし、森に生きる動物たちの気配もいつも通りだ。リシェルは森の中で眠っていて、何かの拍子に魔法で姿が変わってしまったのだろう。それだと泣きじゃくっている弟子の最後の記憶とは一致しないし、森の中で眠る理由も、体が子どもになった理由も全く検討がつかないが、難しいことは考えたくなくてとりあえずリシェルはそう思っておくことにした。
自分の家に帰る感覚でリシェルは小屋に向かって足を進める。
その瞬間、突然背後から低い声をかけられた。
「何をしている」
「っ……!」
リシェルがバッと後ろを振り向くと、背の高い男がリシェルを冷たい瞳で見下ろしていた。
(びっくりしたーーー!!!!)
リシェルはバクバクとする心臓を押さえて男を見上げる。それなりに魔法使いとして力を磨いて以降、人に背後を取られることなどなかったのだが、どうやら子どもの姿になって人の気配を察知する能力も劣ってしまったらしい。
「子どもがここに何のようだ。迷い込んだなら出口はあっちだ」
驚くリシェルを気にかけることもなく、黒く鋭い瞳を持った男は淡々とした素振りで森の向こうを指す。
「いや、私は家に……」
リシェルはしどろもどろに口を開いて視線を彷徨わせたところで、あれ、とあることに気がついて男の顔をじっと見直した。
(こいつ、ロウじゃん)
記憶の中の人物より線が細くなって精悍な顔つきになってはいるが、今目の前にいるこの男は、かつての(?)リシェルの唯一の弟子だった。リシェルの最後の記憶にいる、あの泣きじゃくっていた可愛い弟子だ。
『師匠のためなら何だってします!』
そんなことをさも当然かのように言ってのける師匠思いの優しい弟子だった。事情を話せばわかってくれるだろうし、喜んで力になってくれるだろう。
「あのさーー」
「ここは俺の家だ。お前のようなガキが来るところではないから今すぐ出ていけ」
「へ?」
穏やかだった弟子の口から出た一度も聞いたことのない乱暴な口調に、リシェルはポカンと口を開けて彼を見上げる。
「聞こえなかったか?今すぐ出て行けと言っているんだ。この家に近づくな」
「いや、あの……」
おかしい。こいつはロウではないのか?
「この家って誰の……」
「俺の家だ」
「私の記憶だと魔法使いが住んでいたような……」
やっぱりここは私の知っている世界ではないのか?
そんなことを思いつつ、一応そう口にすると目の前の男は初めて眉をぴくりと動かした。そして、より一層冷え切った瞳をリシェルに向ける。
「師匠のことで何か用が?」
(師匠いたーーーー!!!!)
リシェルは歓喜に沸いて心の中でガッツポーズをする。
「あのさ、その師匠ってーー」
私だよね?と尋ねようとしたところでそれが彼にとって突拍子のない訳のわからない質問であることに気がついて慌てて思いとどまる。彼にとって今の自分の姿は知らない子どもだ。
「えっと……」
リシェルが言葉に迷っていると、彼の方が先に口を開いた。
「よくわからないが、師匠と呼んで良いのは弟子である俺だけだ」
お前が気軽に師匠と呼ぶなと彼は言外にそう言ってリシェルを冷たく見下ろした。
(それは確かにそうだけど子どもにそんな冷たく接しろと教えた覚えは師匠にはないぞ……!)
リシェルはおそらく自分の弟子であろう人物を心の中で叱りながら言葉を探す。そしてなんとか思いついて尋ねた質問に、今度は男の表情が固まった。
「ええっと、そのお方は今どこにいるんでしょうか……?」
自分という人間は存在しているのだろうか?
そんなことを確かめるための質問だった。しかし男を見上げて、その色を失った顔を見たリシェルは、すぐに何かまずいことを尋ねてしまったのだとわかり慌てて口をつぐんだ。
重たい空気が広がってしばらくして、少し俯き影のかかった男の唇が微かに動いた。
「……師匠は数年前に亡くなったよ」
黒い前髪に隠れて彼の瞳は見えなかったが、その時だけは彼から放たれていた冷たさは一切なりを潜め、哀愁漂う孤独な寂しさがそこに流れた。
「そういう訳だからもう帰ってくれ」
彼は表情を見せないまま、リシェルの横を通り過ぎ、振り向きもせずに家の中へと姿を消した。
ロウの足音が遠のいた後、リシェルはその場にガクリと膝をついて倒れ込んだ。
(ああーーーー!!!!私やっぱり一度死んでいたんだ!しかも死んでから何年か経ってるっぽい!いやまじか!そうかでもそれが一番しっくりくる……!!)
リシェルは一気に把握した情報量に脳内で叫び声を上げながら頭を抱える。
確かにそれが事実なら持っている最後の記憶と一致するし、弟子の見た目が記憶より少し大人っぽくなっているのも納得がいく。彼の性格が冷たくなっている理由は不明だが、幾つも年月が経っていればその間に彼を変えた何かがあったとしてもおかしくはない。しかもリシェルがもうこの世にいないということを告げた時のあの哀愁からは、師匠思いだったあの頃と同じロウの悲しみが存分に伝わってきてリシェルは感極まる。
(そりゃぁ悲しいよな。ロウは私に甘えてばかりの小さな子どもだったんだ。待ってろよ、ロウ。師匠が今お前を救ってやるからな……!)
***
「というわけでこの家にしばらく置かせてくれ」
「は?」
帰ったと思った子どもが再び目の前に現れて、しかもいきなり放たれた言葉にロウは心の底から意味が分からないというような声を出した。
「何がどういうわけでお前をここに置かなくちゃいけないんだ?」
「帰る家がないんだ」
「なんで俺なんだ。街に行けば保護してもらえるだろ」
ロウはしっしと手を振って、本の整理をしていた棚に向き直った。
ロウに追い払われる日が来るなんて。
リシェルは場違いにも弟子の態度に感激した。師匠と弟子の関係だった頃、ロウはどこへ行くにもリシェルに付いて来たがった。森に薬草を摘みに行くときも、街に買い物に行くときも。
「街に出て、生きていることがバレたら命を狙われてしまうんだ」
こう言えばロウは耳を貸すだろうという自信がリシェルにはあった。予想通り、こっちに見向きもせずに本棚の整理を続けていたロウが驚いたように手を止めてリシェルを見返す。
これは、魔法使いのリシェルが森で幼いロウと初めて出会ったときに、彼がリシェルに言った台詞だった。
ロウは裕福な家系の生まれだが、複雑な家族関係と後継者争いに巻き込まれてこの森に逃げ込んできたらしい。家を捨ててきたのか、もしくは家に見捨てられたのか、きっかけはそのどちらなのかは今も分からないが、リシェルが彼を保護して以降、彼は一度もその家族と関わっていないのは確かだから、どちらにせよ現在ロウは生家を捨てていると言って差し支えないだろう。
(お前のことをそんな子どもを放り捨てるような弟子に育てた覚えはないぞ)
リシェルは驚いた表情で目を見張るロウをじっと見上げながら念を送る。ロウはしばらく考え込みながらリシェルを見つめて、それからぽつりと言葉を放った。
「……落ち着くまでなら」
「……!!」
パァッと顔を輝かせたリシェルに対し、ロウはすぐに顔を顰めて、ただし、と強く付け足した。
「数日だけだ。目処が立ったらすぐに出ていけ。俺はお前をずっと置いておくつもりは一切ない」
「え〜〜」
「なんだ」
「わかったよ……」
じっと睨みつけられてリシェルは渋々頷いた。
(私はずっと置いてやったのに)
心の中で文句を言いながら、リシェルは家の中をチラリと見渡す。
扉の閉まった他の部屋は分からないが、今いるこの部屋はリシェルが持つ記憶から何一つ変わっていなかった。窓際に置いている花瓶の位置も、本の上の僅かな隙間まで埋めるような独特な本棚の使い方もそのままだった。
ロウの成長から考えると、リシェルが死んでからしばらく経っているはずなのに、リシェルは昨日まで自分がここで暮らしていた跡があるようなそんな不思議な感覚を覚えた。
「お前、名前は」
不思議な気持ちで部屋を見つめているとロウがぶっきらぼうに声をかけてきて、リシェルはハッと我に返った。
「リシェ……っリーシェ!」
反射的に本名を言いそうになって慌てて偽名を口にするとロウは驚いたように目を見張った。
(やべ、やらかした)
流石に本名と似すぎていたか。ロウの反応を見たリシェルはぎこちなく笑顔を浮かべてエヘヘと笑った。
「あの、どうかしました?」
リシェルの問いかけに固まっていたロウはハッと我に返って首を振った。
「いや、……似たような名前の人を知っていたから」
(ですよねーー!!!!)
弟子を幸せにする道のりはリシェルにとって前途多難になりそうだった。
***
「おい、読んだ本は戻せと何度言ったらわかるんだ」
「あ、おかえり。ごめん。後で片付けるつもりだったんだけど」
「……そう言って片付けた試しがないだろ」
「違うよ。私が片付けようとする前にロウが片付けちゃうんだよ」
「お前がいつまで経っても片付けないからだろ」
「ロウはせっかちなんだよ。いいじゃん、ちょっとくらい」
「おい。それが家に置かせてもらっている奴の態度か」
かつて巷で流行った例の小説を手にカウチに寝転びながら文句を垂れるリシェルに、たった今街から帰ってきたばかりのロウは不機嫌なオーラを全開にしてそう言った。
リシェルを睨みつけるその瞳にはかつて浮かんでいた師匠を慕う敬愛の色は一切見えない。
「邪魔だ。どかせ」
ロウはリシェルが読み終えるごとに机の上に積み上げていった本の山を指さした。ちなみにリシェルが今読んでいる件の小説は数冊にわたる続きものになっていて、机の上のものは全てその前巻だ。
前回は魔法の研究に明け暮れており、興味本位で手に入れた人間の間で流行ったという小説を読む時間はほとんどなかったがこうして改めて読んでみるとなかなか面白かった。
「今、クライマックスの良いところなんだ。ちょっと待って」
「早くしろ。今すぐにだ」
「床に置いても良い?」
「ふざけるな。良いわけないだろ」
ロウは舌打ちすると結局自分で本の山を抱えて棚に向かった。
小説は綺麗なままだった。物語の後ろになるにつれ一度も開かれていないような巻まであった。読むつもりだったリシェルが死んだのだから当然だ。ロウは物語に興味がなく読まなかったのだろう。誰も読まずに、本棚の場所だけを取る小説の束。売ってしまうか物置にでも仕舞ってしまえばよかったのに、今もロウは当時リシェルが置いていた位置をそのままに丁寧な手付きで本を戻していく。
そんな彼をリシェルは本の端からチラリと覗く。
いつまでこの体でいられるかわからないため正体は明かさない。
これはリシェルがここ数日を過ごして心に決めたことだった。結局何がどうしてこの体に生まれ変わったのかは今もわからなかった。見つかっていない魔法なんてたくさんあるし、この世では魔法の力でも説明できない不思議なことで溢れている。どちらにしても、始まりが突然だった以上、終わりも突然である可能性は十分にある。正体を明かして感動の再会をした後に、再び消えてしまうなんて弟子にそんな体験をさせたくはなかった。
前回の別れ際はとにかく弱っていて、ろくに別れの言葉も感謝の言葉もかけてやれなかった。自分が死んだ後はこの家から出て、街の人々と楽しく仲良く生きていってほしいと思っていたけれど、それも十分に伝わっていなかったのか、リシェルが死んで数年経ってもなお彼はこんな森の奥深くで一人孤独に生きている。
ロウは師匠思いの優しい弟子だったから、リシェルが残したものを自分からは捨てられずにいるのだろう。自分が死に際に残した後始末が目の前にあるのなら、自分で落とし前をつけるのが妥当というものだ。
(師匠が綺麗さっぱり片付けてやるからな!!)
良い方法はまだ見つかっていないけれどリシェルは決意を再び固くし、本を握る両手に力をこめた。
「……何だ」
リシェルの熱い視線に気がついたのか嫌そうな顔をしてロウが振り向く。
「別に!それより今から何するの?」
リシェルはにっこり笑って、本が片付けられてすっきりした机に大きな紙を広げているロウに質問する。
「お前には関係ないことだ」
ロウは冷たくそう言い放ったが、リシェルはお構いなしにカウチから起き上がって机の上を覗き込んだ。
そして。
(げっ……)
それが何かわかったリシェルはあの小説が当時と変わらぬ位置に置いてあったのを発見した時と同じ気持ちになった。ただ今回はそれだけじゃない。そこにはリシェルが普段あまり感じることのない困惑があった。
「あの、これって……」
「魔法陣の下書きだ」
「ロウは魔法使いじゃないのに……?」
思わずリシェルがそう言うと、ロウは一瞬だけ驚いたように目を丸くした。
「気がついていたのか。お前は魔力持ちか」
「えと……。まぁ」
この世界には魔力を持っている者と持っていない者がいる。どちらの存在も珍しくはなく、優劣こそ無かったが、魔力持ちの者だけが他人の魔力を感知でき、魔法を発動させることができる魔法陣の設計に関わるのは当然それを使える魔力持ちの人間だけだった。
「これは師匠が完成できなかった開発途中の魔法陣だ。設計図だけはなんとか師匠が書き終えたが、発動できる状態にする前に師匠は病気で亡くなったから俺が続きを描いている」
リシェルは思わずロウの顔を仰ぎ見た。彼の顔は深刻そうに眉間に皺が刻まれていた。
「どうして……ロウが完成させようとしているの?」
設計図をもとに丁寧に描き込まれた緻密な図形や記号はその過程が非常に細かく複雑であることを示している。いくら設計図があったとしても魔法の知識がなければこれを完成させることは難しいはずだ。魔力持ちではないロウにほとんど魔法の知識を教えてこなかったリシェルはまさかロウがこんなことをしていただなんて想像もしていなくて驚いた。それなのにロウはさも当たり前かのように口を開いた。
「俺が師匠の弟子だからだ。ーー弟子が師匠の仕事を引き継ぐのは当然だろう?」
「それはーー」
そうかもしれないけど。
しかしリシェルは別にロウに自分の後を継いでほしくて弟子にしたわけではない。家を失い森に迷い込んで来たロウにずっとここに居られるような大義名分を与えただけだ。
「これは師匠が完成させたがっていたものだから、俺はそれを完成させるまでは絶対に死ねない」
ロウは完成途中の魔法陣を指でなぞった。リシェルもそれを目で追った。記憶の中のそれよりも随分進められている。
「ーー全部ロウが一人で進めたの?」
「ああ。だが、魔力のない俺は師匠の仕事についてほとんど教わってこなかったからな……。本当の弟子ならもうとっくにできていたはずの量の半分程度しか進められていない」
だとしても魔力なしに一からここまで進めたのは驚くべきことだった。きっとロウのことだからここでも他の魔法使いに設計図を売ることなど考えなかったのであろう。
「別に大したものでもないのに」
思わずぼそりと言ってしまったリシェルの言葉に、ロウは驚くわけでも怒るわけでもなく一瞬不思議そうな顔を浮かべてから小さく頷いた。
「師匠もよく同じことを言っていた。大したものではないし急ぐものでもないと」
ロウは設計図をじっと見下ろした。
「だからこれは俺の個人的なわがままなんだ。他の魔法使いに頼めばさっさと完成するかもしれないけれど、もし師匠が許してくれるのならどんなに時間がかかっても俺が最後まで完成させたい」
ロウは決意のこもった瞳を浮かべた。
「設計図のあるこれが俺にできる唯一で、そして最後の師匠に関われる仕事だから」
そう言ったロウの雰囲気はどこか寂しさがありつつも、今までの彼には無かった柔らかな空気を纏っていた。それに触れたリシェルは思わず泣きそうになってしまった。
(っっロウ〜〜!!)
知らなかった。
ロウがそこまで師匠思いだったなんて知らなかった。感動で胸がいっぱいになったリシェルは思わずそばにあったロウの手をガシリと握った。
「ロウ!任せて!私も手伝う!!」
「は?」
「私にも手伝わせて!邪魔だけは絶対しないから!!」
これが完成すればロウの心残りも晴れるのだろう。リシェルとの最後の繋がりを終えてようやくロウは新たな一歩を踏み出せるのかもしれない。師匠としては早くその一歩を踏み出してほしいものだが、弟子の準備期間を心広く見守り背中を押すのもまた師匠の役目だ。
「お前にできることなんてーー」
「たとえばほら、ここの埋まっていない部分とか、こっちに魔力が流れていないから回路が必要なんじゃないかな」
リシェルは空欄の部分を指差して声を上げる。
見守るだけでなく、自分が完成させたいというロウの意志を無視して直に手出しをしてしまっているのだがこれくらいは多めに見てもらいたかった。リシェルの中身はリシェルなんだし、ちょっと不十分だった説明書きを付け加えているようなものだ。なにしろこのままロウだけに任せていたら、彼がこの森を出るのが何年先になるかわからない。
「……それは俺も思ってはいたが、回路を書くのに使う石の種類がわからない。師匠が省略記号を使っているんだ」
リシェルの勢いにたじろぎながらロウはため息をつくようにそう答えた。普通の魔法使いなら感覚で感知する魔力の流れを、理論で理解しているのならなかなか上出来だ。
(さすが私の弟子ではないか)
「これはシヨウ石のことだよ。他にシヨウ石を使っている部分と同じ魔力を感じる」
「……魔力があればそんなこともわかるのか」
長年ずっとわからなくて頭を悩ませていたというのに。
感嘆の言葉と共に呟くようにそう言ったロウはそれから口の端を上げてフッと笑った。それはリシェルがこの体になってから初めて見るロウの笑顔だったけれど、自嘲じみたそれはリシェルが知っているロウの柔らかな笑顔からは程遠かった。
「なんで俺には魔力がないのか……」
それは誰に言うまでもなく、ロウの心から思わずこぼれた言葉だったのだろう。けれどリシェルにはそれを聞かなかったことにはできなかった。私の弟子はまだそんなことを言っているのかと半ば呆れた。
「魔力がないのは、ないからでしょ」
それは前回の生でも魔法が使えないことを嘆くロウに向かって何度も言い聞かせてきた言葉だった。
魔力を持って生まれてくる人にも、そうではない人にもどちらも大した理由なんてない。先祖がどうだったかに左右されるだけでそこには何の使命も責任もない。
「ロウに魔力がないのはロウがそうやって生まれてきたからでしょ」
持っている人がいれば持っていない人も発生する。何かを所有するというのはそういうことだ。
「お前は……俺の師匠みたいなことをいうんだな」
目を見張りしばらく押し黙った後にそう言ったロウの顔は少し柔らかく見えた。
「そ、そうかな?」
「師匠もそういう人だった」
「……ロウから見て師匠はどんな人だったの?」
少し興味が湧いてリシェルは尋ねる。
「師匠は俺の全てだよ。俺を拾ってくれて、俺に生を与えてくれた」
ロウは再び描きかけの魔法陣を指でなぞった。まるでそこにリシェルの温度が残っているとでもいうように。
「魔力のない俺を弟子にしたって師匠にとっては何も良いことなんてないはずなのに、俺を弟子だと呼んで大切にしてくれた」
彼は懐かしそうに目を細めた。リシェルの中でも自然と過去の記憶がよみがえる。
「お前が思っている正解は正解じゃないといつも笑っている人だった」