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月崎伏二という男は何を考えているかわからない仮面のような人物だと、入学した時から噂が流れていた。実際に口数も少なく生徒と関わることも少なければ愛想もなかった。腹の底が見えない。そう噂されるのも頷けるほどに。
見方が変わったのは七海が選択科目に化学を選んで暫くたったとき。私に向けて嬉しそうに楽しそうに報告する七海を見て不思議に思ったのが記憶の片隅にある。
『なんでそんなにあの先生に懐いてんの?』
『ツッキーは良くも悪くも人を差別しないし、ちゃんと話を聞いてくれるから』
七海が居心地良さそうに告げたのは初めてだった。七海の記憶力というのは教師陣や私達同級生に理解されないことが多い。純粋に凄いと言うものもいれば純粋が故に悪意の無い悪意を言った者も数え切れないぐらいにいる。だから七海が人を、特に、大人を信用するのは多くなかった。それだけ傷ついて生きてきたから。隣で見てきたから。
だから初めて月崎先生と話した時に七海が懐くのも納得した。今まで作業していた手を止めて真っ直ぐ此方を見つめてくる。何の差別も無くただ等しく同じように、1生徒として見てくれていた。そこからだ。自ら月崎先生に話しかけるようになったのは。
「月崎先生。七海を病院に連れて行ってみました」
「どうだった?」
化学室に向かう途中であった月崎先生を呼び止めれば、月崎先生は足を止めてしっかりと私の目を見てくれる。こんなに真面目に人の話を聞く人は中々居ない。
「異常は見当たりませんでした……」
昨日の放課後。七海に付き添って大きな病院へ行った。幼少期からお世話になっていて七海の異常な記憶力をよく知っているかかりつけ医がいるところへ。
七海は担当医の事を覚えていなかった。それどころか初めて来る病院だと言ってのけた。幼少期から私と七海を知ってる看護師の皆さんも驚き、担当医の先生も七海の異常事態にすぐに気がついた。
色んな検査をしたけれど脳への異常は見当たらず、もしかしたら精神的ストレスから来る可能性もあると告げられた。
「軽く授業の事を聞いたんですけど、1日何をしていたか覚えていないって七海は言ってました……」
「そうか……」
精神科にも行こうと思ったが私が担当医からの話を聞いてる間に七海の姿が見えなくなってしまって断念した。七海をよく知る看護師さんが病院の出入り口付近で七海を保護してくれたおかげで、七海が行方不明にならなくて済んだが、もし気づくのが遅れていたらと思い直すとゾッとしてしまう。
「……塚田は……新木から動画の話は聞いていなかったな」
「あ、はい……牛久から一昨日話を聞いたんですけど……あれが関係してるんですか……?」
「どうだろうな……病院でも手に負えなければ憑き物と考えても不自然ではないとは思うが……」
へぇ。月崎先生ってそういうオカルト系みたいなの信じるんだ。意外。非科学的なもの信じないと思ってた。
「声に出てるぞ」
「あ……すいません」
「……まぁだが、あの動画の話を持ちかけられたあとからだぞ。新木が記憶を失くすようになったのは」
牛久も言っていた。あの動画を観て七海が異常に気味悪がって怯えていたと。ただ牛久と七海が観ていたものが別物だったということを。
でももしそれがお化けとか言われる非科学的なものだったとして、何のために七海に憑くのだろうか。
「幽霊とか……そういうの……いませんよ……ありえません。視えないし」
「……」
「七海に憑いて何がしたいんですか……あの子をこれ以上苦しませないで欲しい」
腹ただしい。本当に幽霊だがなんだか知らないが七海に変なことをするのなら潰すしかない。
いつの間にか握りしめていた拳に強く力が入っていた。大して長くないはずの爪が肉に食い込むのを感じて拳をほどいた。
「……この人なら救ってくれそうって霊が思ったら憑くみたいな話を聞いたことがあるな」
「なんですか、それ。死者の分際で生者に面倒事押し付けないでくださいよ」
「……そうだな」
しんと静まり返った時、私の背後の方から授業が始まるという大きな声が聞こえてきた。あぁ、じゃあもう話している時間がない。悔しさに唇を噛み締めたところで月崎先生に声を掛けられた。
「一応……方法が無いか探しておくから教室に戻れ」
「はい……よろしくお願いします」
目に入った月崎先生の手を強引に取り願うように、祈るように握りしめた。どうか。どうか。
するりと逃げていったカサついた手に、すいませんと軽くだけ謝って教室へと戻った。あぁ、なんだか胸がざわざわする。