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「月崎せんせー!!」
新木の様子がおかしくなった次の日。早々に昼を終えて、次の授業の準備や小テストの準備をしようと職員室に向けて歩いていた。背後から大きな声が届いた事で足を止めた。廊下に響き渡るほどの声に呆れながら振り向けば、俺が副担任を務めるクラスの男子生徒がそこにいた。
牛久翼。2年B組に属し男子生徒にしては身長が標準よりも低く、制服の上から黒のパーカーを着ている。高校1年の梅雨頃に転入してきたことをキッカケに、新木と塚田と仲良くなった男子生徒だ。
「……今日はお前か」
「え、え……なんすか?」
「いや……」
いつも新木と塚田と共に行動し、新木キッカケで塚田と仲良くなったというからか、牛久と新木が付き合ってるのではないのかという噂が流れていたことがある。本人達が否定しているので無いとは思うがそれほどまで距離が近いともいう。
クラスの中心的立ち位置になるほど、立ち回りがうまく新木同様良くも悪くも人の目を惹く存在だ。頭は少々残念だが人気者ではある。
「それでどうしたんだ」
「……いや……あの七海のことなんすけど……」
「……今度は何を忘れたんだ……」
新木七海の物忘れ事件はあっという間に広まっていた。噂を広めるのが速い生徒が昨日の授業に出ていたのだろう。授業が終わった頃には既に広まりつつあり、朝には職員室にまで回ってきていた。新木七海の記憶力の良さの事を知っている教師陣は、新木の様子を俺や桜木先生に尋ねることが多かった。
「……」
「どうした?」
返事が返ってこない。目を伏せた牛久は言いづらそうに口をもごつかせて、俺と床を交互に眺めては顔を顰めている。そんなに酷いものか。新木の様子というのは。
「ツッキーじゃん!! 何してんの?」
ひょっこりと俺の横から顔を出したのは今話題に出ていた張本人だった。ジッと俺を見上げたあと、牛久を見つめてもう1度俺を見た。
「2人で何してんの?」
「いや……特に……」
「え〜珍しぃじゃん〜!」
昨日ほど変わった様子のない新木にホッと胸を撫でおろす。俺達の気にしすぎ。たまたま昨日の新木が調子悪かっただけだ。
「…………七海……オレの名前は?」
そう思い込もうとした時、やっと重たい口を開いた牛久が心配そうに新木に問いかけた。何をと動かそうとした口は新木の表情を見て止まった。まるで苦しむような、悲しむような、そんな顔で、何度か、口を、動かして、泣きそうな程歪んだ顔を浮かべていた。
「……あの……わ、わかるよ! え、えっとね!」
「うん……」
「わ、わかるんだよ……し、知ってるの……わかるの……」
あぁ。俺の気にしすぎという件はもう無くなった。昨日の忘れ物の文具といい、今目の前で起きている、友達の名前が思い出せないという事実。
泣きそうな声で苦しんだ表情で必死に言葉を、名前を思い出そうとする姿は、以前の新木では有り得ないものだ。
「っ…………名前、名前…………なんだっけ……」
ぎゅうとスカートの裾を握りしめ俯く新木は他の誰よりも小さく見えた。名前を忘れられている本人も同じ様に。
「牛久」
「……あ……」
「牛久翼だろう」
「……そうだ……サバちゃんだ……」
俺の言葉であだ名も思い出せたようで、申し訳なさそうな表情のまま新木は牛久を見つめ微笑んだ。何を言うにもこの気まずさは当人同士で補い合うしか方法はない。いくら新木の様子がおかしくとも。
「新木」
「あ、な、何、ツッキー」
「次の授業は体育だろ。準備しなくていいのか」
「あ、忘れてた!! ありがと、ツッキー!!」
じゃあね!! と言いながら廊下を駆け抜けていく新木にため息を溢す。授業の事も昨日と変わらず忘れている。予め桜木先生に確認を取っておいてよかった。
病院に連れて行ったほうが安全なのだろうが俺がこれ以上口を出していいのかも悩みどころだ。
「せんせー」
「なんだ」
「……七海から動画の件って聞いてるっすよね」
「まぁな」
「その件で話があるんで放課後、時間とれねーっすか?」
例の動画は俺も詳しくは知らない。新木のいつメンの1人である牛久なら、俺よりも詳しい可能性が高い。このあとのスケジュールを思い出して頷けば、牛久はようやく安堵した表情を浮かべ、そして、目を伏せた。
「オレ、あの動画見たんすよ」