4
新木が来ない。化学の授業が始まって数分立つが新木の席だけが空白となっている。まぁ、新木が授業に参加しないことは割と通常運転だが塚田のこともあり気にはなる。しかし授業を止めてまで新木を探しに行くかと言われれば否だ。そんな暇はない。
「遅れましたー」
ガラッと戸を遠慮なしに開ける音と呑気な声が聞こえて板書していた手が止まる。振り向けば先ほどまで俺の中で話題に出ていた新木の姿があった。申し訳なさそうな表情をすることもなく、さっさと自分の席に座った。
塚田の気にしすぎではないのかというほどいつも通りだ。さして変わった様子もない。
「今日はどうした」
「……今日、化学ないと思ってた。ごめんね、ツッキー」
「は……」
新木のその言葉に化学室全体がざわついた。授業態度は悪くとも、新木の記憶力というのは2年の同学年で知らないものはいない。新木が何かを忘れるなんて前代未聞だ。
「……ツッキー」
「今度は何だ」
「……ごめん、教科書ない」
確かにこれは塚田の言う通りだ。様子がおかしい。新木の表情におふざけは感じない。
本気で忘れているんだ。本人に自覚がないまま。どういうことだ。
「……班の人に見せてもらえ」
「は~い。ごめんね、見せて?」
「え、あ、う、うん……」
戸惑いが伝染している。ザワザワと騒がしくなったのが何よりの証拠だ。良くも悪くも新木は人に注目される。これは広まるぞ。学年中に。
ふぅと小さく息を吐き出して頭を抱えたくなる気持ちを抑える。人間だから忘れてもおかしくはないが、昨日の相談を聞いたあとだと何かあるのではないかと勘繰ってしまう。だめだ。今は授業に集中しなくては。
「……あ、ツッキー」
「何だ」
「このあとって何があったっけ?」
「は?」
「時間割忘れちゃって……」
「時間割表は配ってるだろ」
「持ってない」
そうだった。1度見ただけで覚えてしまうんだから、新木にとって時間割表などただの紙切れ、それもゴミ同然のものだ。必要なんて無いから持ち合わせてすらいないんだ。覚えてしまうからいいかではなく、普段から持つことを心掛けさせておくべきだった。
「塚田から見せてもらってないのか?」
「あ~……ね……見せてもらったんだけど……なんか、頭がふわ~っとして覚えられなくて……ボヤァって感じで見てるだけだった……」
塚田が気にかけろと言った理由がヒシヒシと伝わってくる。あまりにも様子がおかしすぎる。
「千葉」
「あ、はい! 持ってます!」
「見せてやれ」
千葉が新木に教科書と共に時間割表を見せたのを確認したあと、何事もなかったかのように授業を再開した。ただのたまたまだったら良いが、これが何日も続くようだったら新木自身も困るが周りも困るし戸惑うだろう。それに新木の担任である桜木先生は新木にあたりが強いから助けにはならない。他所のクラスの事に首を突っ込むわけにはいかないが、相談を持ちかけられた次の日ということもある。暫くは様子を見ておいた方がいいだろう。精神的なものかもしれないし。
暫く授業を進めていると授業終了のチャイムが鳴り響いた。思ったより授業が進んでしまった事にため息をついて授業を終わらせた。今日は片すものがそんなに無いから楽でいい。
早々に次の授業に向かう生徒達を見送りながら新木に声を掛けた。
「あの動画は届いたのか?」
「え、なんのこと?」
「……変な動画が届いたって言ってなかったか?」
「え……そう……だっけ……?」
まさか昨日のことまで覚えていないのか。うんうんと悩みながら動画の事を思い出そうとする新木に静止をかける。
「覚えてないならいい」
「うーん……うん、わかった! じゃあね、ツッキー!!」
深く考えるのをやめた新木は走って化学室から出ていった。廊下を走るなということを覚えているのかも怪しいまま、新木が座っていた席を眺めた。
「忘れ物……」
置き去りにされた文具を見つめ眉間に力を込めた。