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時計の針の音がやけに鼓膜に伝わる。静まり返った化学室に生暖かい風が吹き込んではカーテンが揺れ動いていく。強くスカートの裾を握り締めていた新木が、深呼吸するように息を吐きスカートのポケットからスマホを取り出した。
うねった波状の形をした桃色のスマホケースに、いつもつるむ2人と撮ったであろうプリクラが挟んである。いや、貼っているのか。若者らしい洒落たスマホケースを見つめていれば、戸惑いに満ちた声が届いた。
「えっ、な、なんで……」
「今度はどうした」
「な、ない。無くなってるの。さっきまでちゃんとあったのに!」
焦った声と同時にズイッと向けられたスマホの画面。確かに解放され、使われたであろうDMの痕跡があった。戸惑い震える新木には悪いが、たちの悪い冗談にしか見えないようなDMの跡だ。誰かが悪ふざけで、新木をターゲットにでも変なものを送ったのだろう。そういったものはよく流行る。詳しくは知らないが、時代が変われども変わらず存在するもののはずだ。
「……川……」
「川?」
「……森の中の……川に、真っ黒な人影がいて……それで……スマホを閉じて、もう1回見たら、シュンッ! って感じもなく、あれ? って感じで近くなってて……」
「…………」
そういえば新木は物覚えは良いが説明が壊滅的だった。
しかし川か。冗談にしては随分凝りすぎている。胡里高校の近くに海はあれど森といえば胡里高校から向かって正面に見える森だけだ。だが、あれは大人が車を使って数十分運転した所でやっと辿り着く距離だ。見ている分には近そうだが意外と距離があり、駅からも遠く、森へ続くバスも日に数本しか出ていない。
「さっき、見たときは……もう、すぐ目の前まで、来てたのに……」
「それは何本も送られて来てたのか?」
俺の問いかけに新木はゆるりと首を横に振った。
「1本の動画……日付と時刻は変わってなかった……」
見間違い、とは言い辛い。新木の物覚えもとい記憶力の良さは目を張るものだ。一度見聞きしたことは大抵覚えている。だから授業態度も悪く、出席日数が足りずに各所で怒られている姿が目に入る生徒だ。その代わりテストだけは必ずと言っていいほど、学年上位に組み込んでいる程に。
いつだったか。新木に尋ねたことがある。何故、わざとテストを間違えて提出するのかと。
『そりゃ、常に満点なんておかしーじゃ~ん! 私だって覚えてないことの1つや2つや3つ4つあるし~!』
満面の笑みで言ってのけた言葉に嘘は感じなかったが、同時に本音とも感じ取れなかった。
『私なんかが満点取ったってつまんないじゃん? せんせーは特に』
その時の新木の表情は逆光で見えなかったことだけ覚えている。ただ新木はこの会話すらもきっと俺が忘れたあとも覚えているんだろうなとも思った。
だからこそ見間違いとも勘違いとも言えない。目の前にいるのは新木七海だ。きっと日付と時刻、内容そのものに間違いはない。
「……僻みからの悪戯なんじゃないのか?」
「え、ひ、僻み?」
「僻まれるだろ」
「…………そうかな?」
納得したような、してないような、そんな表情だ。
ただ誰がやったとかは断定できないし、立場上誰か1人だけの味方に付くこともできない。そもそも証拠が消えている以上、何もできないのが現状だ。
「……川の場所に見覚えはあったのか?」
「あったらツッキーに真っ先に言ってるもん!」
不安の隠しきれていない声のまま明るく告げられる。そこまで俺に信用を寄越したところでなにか出来るわけでもないのに。
「とりあえず今日は教室に戻れ。何かあったらまた来ればいい」
「うん……」
説明の出来ない不可解な事が起きているというのはわかる。スマホ閉じてもう1度開くと人影が近寄ってくるなどわからないことだ。余程の編集技術を持っているか何かだが、数秒もしなかったらしい動画にそんな詰め込めるとは思えない。まぁ実物を見ていないから何も言えないが。
「ねぇ、ツッキー」
とりあえず謎の人影とやらの思考を無理に頭の端に追いやったところで、化学室の戸の前まで戻っていた新木が声をかけた。
「塚田梅乃って知ってる?」
「? 塚田小春じゃなくてか?」
「うん。春ちゃんじゃなくて、妹の」
「塚田に妹なんていないだろ」
俺の言葉に何か言いたげな顔をした新木は、何でも無いと言うように微かに笑みを浮かべて化学室から走り去っていった。