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酷い喪失感に襲われる時がある。それがいつから始まったものなのかはよく覚えていない。気がついたら心に穴が空いたまま社会人になって高校教員にまでなっていた。かつて輝かしいと思っていた大人にはなれないまま。
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昼を知らせる音が鳴る。授業が終わり生徒達が化学室から出て行くのを見送り、机の下に隠していたビニール袋を取り出す。
だいたいの教員は職員室、もしくは自分の受け持つクラスで食べることが多い。俺のように化学室や空いてる教室で食べている人の方が珍しかったりする。そういった教員達は落ち着くとかいった理由は毛頭なく、ただ一人になる時間が欲しいだけで人気のない所にいることがある。
かくいう俺は化学室の静かな空間はそこまで好きではない。が、化学教諭という立場とだけあって使い慣れている化学室で食べるのが一番楽だ。移動するのも面倒だからこそ、だが。
「ツッキーせんせーいますかー?」
静かな空間の中、突然届いた明るい透き通った声に手が止まった。
昼休みというのは意外と時間が無い。唯一出来る至福の時間を壊されたのもこれが初めてではない。適当にコンビニで買ったおにぎりを開けるのを諦め、ため息を包み隠さず振り向けば笑顔を浮かべる女生徒の姿があった。
「……新木か」
パッチリとした目に、黒に近しい焦げ茶の肩までの髪を持ち、胡里高校のブレザーの制服を着崩した生徒、名を新木七海。2年D組の生徒で、俺が受け持つ広報委員会の生徒の1人だ。教師に向けて渾名とタメ口で話しかける一方で、物覚えが良く成績優秀だ。
「残りの2人はどうした」
「いっつも一緒じゃないよー」
ケタケタと笑いながら告げる新木は、どことなく落ち着きがない。いつも落ち着きがないぐらい騒がしいが、その騒がしさが見当たらない。正直、不気味なくらいに。
「……あー……あのさ。この間、階段から落ちたところを助けてくれたじゃん?」
「あぁ……?」
「うっそ、覚えてないの!?」
「なんとなくはな」
「だから彼女いないんだよ」
「……で、どうした」
「話そらした〜」
確か一昨日のことだったか。俺が職員室に戻っている最中に、足取りの悪い新木が階段の上から降ってきたのは。顔を真っ青にした新木を受け止め、すぐに保健室まで連れて行った記憶はある。だが、それだけだ。その他の関与は新木の担任と、養護教諭が行っていたから詳しくは知らなければ興味もない。
腹の虫が鳴りそうな様子を感じ取りながら、何かを言いづらそうにしている新木を見つめる。
「それで……ツッキーに相談があって……」
新木から出た言葉に驚いたのは最初だけだった。次に感じたのは疑問。俺は新木の担任ではないし、生徒の相談に乗ったことはない。生徒達から仮面のようだとコソコソ言われているのを耳にしているし、その件で学年主任から注意をされたことだってある。そんな俺に何を相談するつもりだ。
「……桜木先生はどうしたんだ」
「…………相手にしてもらえなかったから、ツッキーに来た」
そこで何故俺の名前が出てくる。生徒同士の揉め事だった場合面倒事でしかない。ズキズキと頭が痛くなる気配を感じながら、ずり落ちてきた眼鏡を元の位置に戻す。
新木の不安げな目がまっすぐと俺を見つめ、何度か躊躇した素振りを見せながらゆっくりと口を開いた。
「変な動画が届いたの」
「変な動画?」
「そう。DMに。……気がついたのは昨日の朝、なんだけど、流石に気味悪くて」
「いつ届いた」
「届いてたのは一昨日。保健室で休んだあと、家帰ってしばらくしたぐらいの時間に……」
ぽつりぽつりと話す声に覇気はない。簡単にそんな動画を流すなとも言いたいところだが、最近のスマホは送られてきた時点で動画など勝手に流れていくと聞く。その状態で見るなと言う方が無理があるか。
「不審者の連絡ならそれこそ担任と警察に」
「違うの!!」
続くはずだった言葉は泣き出しそうな新木の声によって遮られた。
「影が……真っ暗な……人影が……近付いて消えるの……」
「目の前で……」
新木の絞り出した声だけが化学室に響いた。