第一話
昔々あるところに緑豊かな王国がありました。
小さくも豊かな国、ヴォリメラ国には3人の王子様と5人のお姫様がいました。
その中でマデリンは5番目のお姫様。一番末の幼い娘です。
マデリンは夢見がちなお姫様でした。そんなマデリンを上のお兄さまやお母さまは笑ってからかいます。
「お前の理想の王子様はいやしないよ」
「まぁなんと空想が上手い娘だこと。お前のために言っておくよ。お前も上のお姉さまと同じように決められた相手と結婚するのだからほどほどにしておかないといやな思いをするのだよ」
厳しいようですが本当の事でした。マデリンはまだ14歳ですがあと3年もすれば婚約者が決められて嫁ぐのです。マデリンはいい子でした。本当は好きな相手と結婚したくとも王国のためならぐっと我慢して言う通りに結婚しようと思っていました。
ある日のことです。
マデリンはお城から抜け出して一人森の中へお出かけをしました。良く整えられた森林は木漏れ日がチラチラと瞬いて小鳥たちの歌声で満ちています。この秘密の外出はマデリンにとって初めての外でした。そのため普段見れない幻想的な景色に小さなお姫様はすっかり舞い上がって深い場所まで入り、迷子になってしまったのです。
「お兄さま!お母さま!ばあや!……どうしましょう。帰り道が分からないわ」
人の手が届いていない森の中はがらりと雰囲気が変わって暗くじめじめとしていて不気味です。可哀そうなお姫様。少しでも背が高ければ、木に登れたらすぐに帰り道がわかるものをずっとお城の中で暮らしていた幼いお姫様にそんなことは思いつきません。
しばらく蔦や木の葉をかき分けてさまよっていると大きな湖のほとりに出ました。透明な水が底に陽光を届けてキラキラと輝いています。湖の周りには小屋も人影もなく静まり返っていました。
マデリンはへたり込みました。歩きなれない森の中をずっと歩いていたせいで足が痛み疲れ果てていました。それに健気に頑張り続けていたマデリンの心はとうとう折れてしまったのです。ほとりに蹲って彼女はさめざめと泣きました。言いつけを破ってお城を抜け出してしまったことや好奇心に負けて森の奥まで入ってしまったことを後悔していました。ふと、大きな風が吹きました。木々の擦れる音や湖の波紋が収まったあと、マデリンはそっと顔を上げて息を呑みました。なんと大きく美しい白鳥でしょうか。陽光に照らされた白銀の羽はキラキラと瞬いてすらりと伸びた首の先についた小さな頭を傾げてマデリンを不思議そうに見つめています。黒い瞳がキラキラと光っていて吸い込まれるような魅力に満ちていました。
「白鳥……?それに一羽だけだわ。はぐれたのかしら?」
こんなに美しく気高い生き物なのに自分と同じように孤独なのだと思うと親近感がわいて悲しいのがちょっとだけ収まりました。
「あなたはとても綺麗ね。私は上のお姉さまたちみたいにスタイルがいいわけでも器量がいいわけでもないから羨ましいわ」
そっと手を差し伸べて白鳥の顔の前に掲げると近づいてすり寄ってくれました。まるでマデリンを慰めてくれているような様子に心が温かくなってくすりと笑います。
「まぁ!それに優しいのね。ありがとう、おかげで疲れも消えてしまったわ。あなたはひとりで寂しくないの?」
白鳥はぶるりと羽を揺らしました。人の言葉がわかっているような素振りに驚きましたがそれも当然の事のような気がして受け入れました。
マデリンと白鳥はしばらく話しました。話したといってもマデリンが一方的に話してそれを白鳥は聞き入っているだけでしたが白鳥は逃げませんでしたしマデリンは普段話せないことをたくさん話せる楽しい時間でした。しかしそれもじきに終わります。日が傾いて辺りが赤く染まり始めたのです。暗くなってしまえばいよいよ帰れません。でもだからといって帰り道も分からないのです。八方塞がりでした。さっきまで楽しそうに話していたマデリンが黙りこくって俯いてしまうと白鳥は不安げに覗き込みました。コオ、と一声鳴いて寄り添います。
「……心配してくれるの?ごめんなさい、帰り道を思うと辛くなってしまったの」
マデリンは自分が迷子であること、帰り道がとんと分からないことを語りました。白鳥は静かに聞き入って小さな体に寄り添います。
「聞いてくれてありがとう。でもこんなことを言ったって何にもならないわね」
滲んだ涙を拭って顔を綻ばせました。すると白鳥はお姫様の腕をすり抜けてあっという間に飛んでしまいました。
「待って!」
深く静かな森の中です。白鳥が消えてしまえば暗い森の中に一人で取り残されてしまいます。マデリンは急いで立ち上がり白鳥を追いました。木々が重なって一瞬見えなくなっても白く大きい白鳥の姿はすぐに見つけることができます。どれくらい走ったことでしょうか。息が上がりヘトヘトになった頃、ついに白鳥が降り立ちました。それに駆け寄って抱きしめた後顔を上げるとなんということでしょう、すぐ近くに見慣れた庭がありました。城の庭園です。ふらつくように立ち上がって足を踏み入れました。城は静かです。まだマデリンが抜け出したことに気づいていないようでした。後ろで白鳥が一声鳴きます。マデリンは泣き出しそうな心地で振り返って辛うじてお礼を言えました。
一国のお姫様は大忙しです。婚約者はまだ決まっていませんがどこに行っても恥ずかしくない娘にするために沢山の教育を受けて立派な淑女を目指すのです。そんなマデリンの楽しみは図書館にこもって物語を読むことでした。しかし最近は湖のほとりであの白鳥と一緒にお話しすることに変わりました。相変わらずマデリンが一方的に話して白鳥は傍に寄り添って聞くだけの関係でしたがそれでも楽しくかけがえのない日々でした。この時間があるからこそマデリンは頑張れます。
その日も同じようにマデリンは目印をつけた道を通って待ち合わせ場所にやってきました。
いつもの場所にいつものように白鳥は佇んでいます。マデリンを見かけると一声鳴いて迎えてくれました。
「まぁ!もう待っていてくれたの?今日こそ一番に来ようと急いだのに、あなたってとても早いのね」
白鳥は湖から上がって体を振ると木陰の傍に座りました。その横に腰かけて会えなかった間に体験したこと、楽しかった本のお話をします。マデリンはお姫様のため毎日来れるわけではありません。そのため会える日には沢山のお話を持って来れるのです。今回もあっという間に帰る時間が来てしまいました。楽しい時間ほど一瞬です。もう帰り道もばっちりなのでギリギリまで粘りますがそれでも別れの時間は来てしまうのです。マデリンは白鳥に寄りかかってため息をつきました。帰ってしまえばまた退屈な教育の時間と侍女以外会話のない日々が待っています。マデリンは睫毛を震わせて言いました。
「あなたが人間だったらいいのに。そうしたら私はあなたと結婚するわ。あなたほど魅力的で私を見てくれるひとはいないもの。……もしかしたらあなたは本当は人間で、悪い魔女に姿を変えられていたりしないかしら?そして真実の愛のキスで本当の姿に戻るのよ」
白鳥を引き寄せて口づけました。けれど白鳥は白鳥のままです。マデリンは寂し気に笑って「やっぱりね」と呟きました。
「そんな都合のいい話は、ないもの」
次の日のことです。今まで連続で来れる日はありませんでしたが運のいいことに先生の都合により教育がおやすみになったのです。今まで沢山頑張ったので宿題もなく一日自由に過ごせるようになりました。そのため早速マデリンは白鳥の元に向かいました。
その日はいつもより暗く、あと少しで雨が降りそうな天気でした。じっとりと肌に染みつくような湿度でドレスが重く感じます。それでも彼女は元気を振り絞って湖のほとりへやってきました。水面は静まり返り小鳥の歌い声も聞こえません。まるで皆が黙りこくって白鳥の死を悲しんでいるようです。マデリンは力が抜けたように座り込んで呆然と見つめました。白鳥は死んでいました。辺りに綺麗な羽を巻き散らかして胸から腹までナイフで切りつけられたような傷を残してこと切れていました。分かっていましたが信じられなくて羽を触りましたがピクリとも動かず地面に横たわっていました。
気づけば自分の部屋で膝を抱えていました。
木の葉が髪に付いていて青白い肌で口を結んでいます。侍女がマデリンの傍で何かを言っていました。肩をさすって髪を整えて紅茶を出しても反応を返さなかったのでとうとう諦めて出て行ってしまいました。きっとお母さまに報告しに行ったのでしょう。そこまで考えてようやくマデリンは白鳥が死んでもう二度と会えないことを理解しました。賢く優しかった白鳥。マデリンは白鳥が大好きでした。友達のいない彼女の唯一の親友だったのです。
白鳥がいなくなっても日常は続きます。
当たり前のことです。今まで白鳥といなくても生きていたのですからいなくなったからと言って全部なくなるわけではないのです。マデリンは17歳になります。そろそろ婚約者を決めなければいけません。マデリンはお父さまに呼び出されて執務室に向かいました。豪奢な装飾に囲まれた一室の奥でお父さまは静かに待っていました。宰相はマデリンのカーテシーに頷きました。
「きちんと教育をこなされているようですね。これで安心して婚姻を結べます」
褒められたら嬉しいはずなのにマデリンはどこか他人事のように聞いていました。沈黙が広がります。要件は気になりますが国王が話す許可を出していないため聞くことはできません。
「マデリン、第五王女よ」
お父さまは重々しい口を開いて真っすぐ目を見つめました。
「婚姻申し込みが入った。ペ―ルフォ王国のペートゥル第二王子からだ。どうする?」
ペ―ルフォ王国は大陸の中でいっとう大きな国土と軍力を持っている国です。お父さまはマデリンの意志を確認しているような言葉遣いをしましたが自然豊かで飢えることがなくとも小国に過ぎないヴォリメラ国に選択肢はないのです。
「畏まりました。謹んでお受けいたします」
それがマデリンに発することができる唯一の言葉でした。
それからというものの、彼女の教育はがらりと変わりました。それまでは王族に嫁ぐのか降嫁するのか決まっていなかったため両方の教育をかいつまんで受けていたのですが王族、それも大国の第二王子に嫁ぐとなったら今までのような勉強では不十分なのです。そのためより厳しく秒数までスケジュールを組まれるような日々になりました。マデリンはどんなに辛くとも泣き言を言わず努力をしました。その様子に教育係はマデリンを褒め、お母さまも鼻高々です。けれどマデリンだけはずっと曇り顔。すっかり笑顔を見せなくなって教育がない時間は部屋にこもって窓から森を見つめるのです。あの日の後日、白鳥の死体だけでもと思って森に入りましたが狼が食べてしまったのか、羽一枚すら見つけることができませんでした。朝露に濡れて血液すら消えてしまったその場所はまるであの光景が質の悪い悪夢であったようです。けれど何日訪れても何時間いても白鳥は来ませんでした。涙もすっかり涸れ果てて笑いも泣きもせず淡々と教育をこなすマデリンを侍女だけは不安げに見つめていましたが何も言えないまま日付だけが過ぎていきました。
一か月経った頃、婚約者との面会許可が出ました。ペ―ルフォ王国側から何度も面会の要請が来ていたとはいえ異例の速さです。これは国王が大国の王子に会わせても大丈夫だと判断できるほどマデリンが完璧な淑女になれたということです。城の中は喜びの雰囲気に満たされました。優しく可憐なお姫様と体が弱く表舞台に出ることはなかったけれど気高く美しいと噂の王子様。召使いは浮足立って夢のようなお話に花を咲かせました。
王子様はきっとこの間の交流会でお姫様を見初めたのだわ。
それがいたく熱望なさっているという噂じゃない。
マデリンは交流会があったことを知りませんでした。王族といっても末の第五王女。舞踏会でもお茶会でもお兄さまほど政治に関わらずお姉さまほど重要な役目はしないのです。そのため召使いたちの夢物語は残念ながら外れていました。そもそもマデリンが交流会に顔を出すことも無かったですし、聞けば王子様は体調不良のため欠席していました。出会いようが無かったのです。
マデリンはテラスから森林を眺めて目を伏せました。噂がどうであれ、あの白鳥ほど美しく優しくマデリンを気にかけてくれる存在はいないでしょう。それもそのはず。この17年で彼女のありのままを愛してくれるのは白鳥だけでした。夢見がちなことを言っても笑わないで聞いてくれたのだってあの子だけだったのです。涙が一粒零れました。涸れ果てたと思っていた涙がまだ残っていたことに驚いて少し笑います。悲しめてよかった、だって同じ一人ぼっちの白鳥の死を想って泣くのはマデリンだけなのですから。
そうこうしているあいだにあっという間に面会の日になりました。
本来なら小国のヴォリメラ国から訪問するのが礼儀ですが第五だとしても王女を嫁がせるのでべ―ルフォ国から出向いてくれるようです。その対応も相まって王子はお姫様を大切に想っているのだという噂が市民の中で流行りました。以前ならマデリンも市民と同じように浮足立っていたことでしょう。しかし彼女の心はいまだに白鳥に囚われており侍女から聞かされても物憂げに微笑むだけでした。
マデリンは応接間で静かに待ちました。つい最近まで病弱で外に出ることも無かった王子様。最近になってようやく歩けるくらいに回復して王太子の補佐を務めるようになったという彼はとても優秀で人柄も穏やか。引く手あまただというのです。そんな人が何故小国の、それも第五王女のマデリンを所望したのかとんと見当もつきませんがきっと何らかの取引があったのでしょう。マデリンの役目は国の発展を支えるために努めること。そのためにはこの場でうんと王子に気に入ってもらわなければなりません。侍女たちによるとびっきりのドレスや髪飾り、お化粧はまるで花の精のようにマデリンを演出しています。あとはマデリンの頑張りだけ。何度も練習したことでしたがいざ本番になると緊張します。それでもおくびにも見せず凛と背を伸ばして到着を待ちました。
ノックが響きます。時間通りです。
マデリンは召使いに目配せで指示をして扉を開けました。頭を垂れて出迎えます。軽やかな革靴の音がして頭を上げる許可が出されました。心地よく柔らかな声質です。ほっと息をついて顔を上げて息を呑みました。数多の絵画を見て沢山の人に会いましたがここまで目を奪われるような人は初めてです。王子は夢のように美しい人でした。日に照らされてキラキラ輝く白髪もさることながら彫りの深い顔立ち、甘く弧を描く知的な瞳も呼吸を忘れさせる神聖さを醸し出していました。
「この度はご足労いただき誠にありがとうございます」
「いいえこちらこそ突然の申し出にも関わらず受けて頂けて光栄です。それに、こんにちはマデリン嬢。あなたとまた出会えて嬉しいです。堅苦しいのはやめてあの時のように話してください」
王子はふんわりと笑ってマデリンの手に口づけました。王子の瞳は不思議な色です。薄い青目の中心に黄色が混じってまるで地球のような目をしています。マデリンは慌てて微笑み返して手を戻しました。
「まぁ!申し訳ございません。私ペートゥル様とお話しした記憶がございませんの。幼いころにお会いしたことがあったのですね。非礼をお詫びいたします」
「いいえ、幼い時ではないのですよ。まだ私のことが分からないのですか?それも仕方ないのかもしれませんね」
王子様は悲し気に睫毛を伏せて上目遣いにマデリンを窺い見ました。必死に記憶を掘り返してみますが本当に分かりません。ほとほと困り果てたマデリンは小さく謝罪しました。
「あの時、私に口づけをしてくださったでしょう」
「っ!?もしかして」
「はい。あなたのおかげですっかり元に戻れたのです」
王子は顔を綻ばせて甘く目を細めました。瞳がどろりと溶けて口角が上がっています。後ずさるマデリンを捕まえて優しく囁きました。
「私が人間になったら結婚するとおっしゃったでしょう?嬉しかったです。私もあなたが好きでしたから、人間に戻ってすぐ国に帰って求婚したのですよ」
「でも、あの死体は」
「白鳥の体を抜け出した時の抜け殻です。病弱のため表舞台に出られないと言われていたのは白鳥になったことを隠すためなのです。なによりこのことを知っているのが何よりの証拠でしょう?」
その通りでした。あの時縋った願いがまさか本当になるなんて。震え始めたマデリンを王子は優しく抱き寄せて愛を囁きます。
可愛いマデリン。不憫なマデリン。これから先はずっと一緒です。
マデリンの涙を拭ったペートゥル王子は、それはそれは美しく微笑みになりそっと口づけたのでした。
***
昔々あるところに幸せな国がありました。賢王と呼ばれた国王に慈悲深く社交が得意な王妃様。前王太子の突然死による唐突な交代にも関わらず国を守り発展させた二人は歴史に名を刻む名君です。それに加えて二人の恋物語は数多の名作を生みだしました。王妃を何より深く愛した王の伝説は国中の乙女の憧れです。国民に愛されて二人はいつまでも幸せに暮らしました。豪奢な王座に二人きり。めでたしめでたし。
マデリンは夢見がちなお姫様でした。でも、夢と現実を混合させることはありません。魔法が存在しないこともあの白鳥がいくら賢くてもただの動物であったこともちゃんと分かっています。けれどそれ以上にマデリンはいい子でした。
いい子なので王子が何故あの話を知っていたのかも第一王子が突然病死してしまったのか分かっても態度に出すことはありませんでした。隠されたことは最後まで暴かない方が良いのです。
いい子のマデリンは今日も王座に座って微笑んでいます。いい子のマデリン。怪物に捕まってしまった可哀想なお姫様。
彼女は今日も気づかれないように大好きな白鳥を想って泣くのでした。
おわり