最短距離
本作が第九回ネット小説大賞にて、一次選考を通過いたしました。ご一読くださった皆様、ありがとうございます。
「例えば明日、地球が滅びるとするよ」
高校2年生の7月頭。ちょうど先週、1学期の期末テストが終わった。来月から夏休みで、残りの1学期の1ヶ月間は消化試合みたいなものだ。
僕が、テスト明けの穏やかな気持ちでお弁当を食べていたら、隣の女子グループからぶっそうな言葉が聞こえた。なんだ、「地球が滅びる」って。女子たちの間で流行っている、何かのゲームだろうか。
窓を閉め切った教室は、ガンガンにクーラーが効いていて、クーラーのない廊下に出るのが億劫になるくらい快適だった。
「さあ、皆は今日何をする?」
そう訊いたのは、畑中凪という女子だ。彼女はいつも、昼休みには仲の良い4人で集まっている。
「えー、何するだろ。明日で終わってしまうなら、美味しいもの食べに行くかな」
「それはいいね。最後の晩餐ってやつ」
「あたしは、ディズニーランドに行く」
「混んでそうだねえ」
「いいじゃん。最後くらい、一番行きたい場所に行くのも」
禅問答のような畑中さんの問いに、足立さん、吉村さんが答えた。残るは、安藤和咲という女子だ。
「和咲は?」
何か意味があるのかどうか分からない質問なのに、畑中さんは真剣に彼女の答えを待っていた。
「私は……うーん、そうだなあ」
無意識に、僕は彼女の声を必死に聞き取ろうと耳をそばだてる。
周囲の話し声や運動場でサッカーなんかして遊んでいる人たちの声が、全部聞こえなくなった。
安藤さんは、少し考えたあとで、答えを口にする。
「好きな人と一緒にいたい、かな」
あまりにも、直球だった。
直球すぎて、質問をした女子も、二の句を継げずにいた。だって、普通こういう場面だったら、「今まで行きたかったけれど、行けなかった場所に行く」とか、「やりたかったことをする」とか、最後の日じゃないとできないことをすると言うのではないのか。
「そ、そっか。和咲は好きな人、いたんだっけ」
畑中さんの質問からして、安藤さんには恋人はいないようだ。
「うん、いるよ」
「へえ、それって」
誰? という言葉を、僕は聞き逃さないようにお弁当箱に突っ込んだお箸をそっと宙に浮かせた。
けれど、なんともちょうど良いタイミング、いやこの場合は間が悪いとでも言うか、教室の外から、「おーい凪」と、畑中さんを呼ぶ声がして畑中グループ全員が振り返った。
「ああ、美咲。ちょっと待って」
どうやら、畑中さんを呼んだのは隣のクラスの女子らしい。つくづく、友達が多い人だと思う。畑中さんは、先ほどまで話していた3人に「ちょっとごめん」と両手を合わせてそそくさと廊下に出て行った。
クラスの女子3人は、突然会話が強制終了させられた上に、畑中さんのあまりの行動の速さに呆気にとられていたようだが、まあいつものことなんだろう。「ねえ、昨日のドラマの続き見た?」と、いかにも女子がしていそうな日常会話を始めた。
ああ、もう少しだったのに。
もし、隣のクラスの女子が畑中さんを呼びにこなかったら、安藤さんの好きな人を聞くことができたかもしれない。
もちろん、それが自分かもしれないなんて、1ミリも思っていない。うん、本当だ。僕は自他共に認める“ただ要領が良いだけの男子”なのだ。部活は一応陸上部に入っているが、大きな大会に行けるほどの実力はない。ただ、走るのは速い方なので、短距離走者として毎日練習はしている。勉強はまあ、上々といったところだろうか。学年でトップまではいかないが、50番以内には入っている。小学校のときにそろばんを習っていたおかげで数学が得意。国語はさっぱりだが、その他の教科は普通に勉強をしていれば毎回の定期テストで80点は取れる。かといってトップほどではない成績をいちいち披露する場はない。僕の部活や勉強の成績を知っている人は小学校から同じだった、矢部浩人ぐらいだろう。
彼は、お調子者でクラスのムードメーカーだ。勉強はイマイチだが、サッカーをやらせると彼の右に出る者はいない。大学も、先生たちからはスポーツ推薦で進学できるだろうと言われている。
特別に格好いい、というほどでもない彼は男子も女子も関係なくみんなから好かれている。本人が「全員友達だ!」という勢いで初対面の人とでも一瞬で会話の緒を掴むのがその所以である。
とにかく、僕がどういう要領で生きてきたかを知っているのは浩人だけで、その他大勢からすれば、僕などはなんとなく勉強ができるくらいの、フツーの男子なのだ。
自分の考えになんだか自分で悲しくなってきたところで、後ろから「あの」と声をかけられた。
「板倉奏太」
ぎこちなくフルネームでそう呼んだのは、同じクラスの岡田京子という女の子。
「なにかな」
「これ、落ちてたけど」
彼女はぶっきらぼうな口調で、僕に一枚の紙を差し出した。それは、4限目の英語の授業内で行った小テストだった。
「ああ、ありがとう」
どうやら僕の後ろの席のあたりに落ちていたらしかった。先ほど鞄にしまおうとした時に落としてしまったんだろう。自分でも気づかなかった。
「それだけだから」
そう言って彼女は自分の席に戻ってゆく。確か、彼女の席は窓際の一番後ろの席のはずだ。記憶の通り、彼女は授業中の居眠りにはうってつけのその席に座った。
わざわざ、あんな遠くの席からプリントが落ちていることを伝えてくれたんだろうか。
確かに、小テストとはいえ、誰かに見られるのは居心地が悪い。点数の良し悪しに関係なく、僕はテスト用紙はさっと隠すようにしてしまう癖があった。
もし、岡田さんがテストを拾ってくれなかったらと思うと、ちょっと身震い。彼女には見られてしまっただろうけれど、大勢の人に見られるよりはだいぶマシだった。
岡田さんが席についたところで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。僕はいそいそと5限目の国語の教科書を準備する。この時間帯の国語は、全生徒に対して「眠ってください」と言っているようなものだ。
ちらりと、右斜め後ろに座っている彼女を見た。岡田さんとは反対側の一番後ろの席にいる、安藤さん。彼女は僕と同じように、机の上に国語の教科書とノートを出し、左斜め前の方を眺めていた。誰か、特定の人を見ているのか、単にぼうっとしているのか分からないが、彼女の目線が浩人に続いていると感じるのは、醜い男の嫉妬心のせいだろうか。
男子という生き物は、年頃の女子からしたら、随分と子供らしい。僕は男子ながら、その事実に気づいていた。そして、気になる女子に対しては、いかに“子供っぽさ”を出さないかが、勝敗を決める。何の勝敗かと聞かれればそう、恋愛の勝敗だ。
「はい、板倉」
僕のところに、"それ"が回ってきたのは、二日後の金曜日。5限目と6限目の間の十分休みのことだった。
「なんだ、これ」
それは、一枚の紙。一瞬、先日岡田さんが拾ってくれた小テストが頭をかすめた。
「見たら分かるだろ」
持ってきたのは、僕の後ろの席の男子生徒、宮沢健一だ。
「見たらって……」
言われた通り、彼から渡された紙をひっくり返してみる。
あ。
「出席簿?」
五十音順に並んだクラスメイトの名前。ただし、女子の名前しかない。しかも、よく見たら、いやよく見なくても手書きだ。一目でクラスの誰かが作ったものだと分かった。
「違うって。ランキング」
「ランキング?」
まったく説明足らずな宮沢の言葉に、僕はちょっといらいらしてきた。人に何かを頼みたいなら、もっと分かりやすく簡潔に言って欲しい。
「だーかーらー、女子のランキングだよ。うちのクラスの。かわいい女子ランキング」
「かわいい女子ランキング」
何かの本に書いてあった。返答に困った際には、相手が言った言葉をそのまま返しなさいと。オウム返し作戦だ。
「そう。クラスの女子の中で、かわいいと思う人に票を入れて回してくれ。もちろん、男子だけだぞ。一人3票まである」
それだけ言うと、宮沢はクールダウンして自分の席についた。もう説明はしないという態度だ。もともとそんなに仲が良いわけでもないので、僕もこれ以上何か返す気にもなれなかった。
「くだらねえなあ」
と思ったものの、実際に口に出したりはしない。学校社会において誰かを敵に回すような発言はNGだ。
隠しきれないため息をつきつつ、周りを見回す。特に、自分のことを見ているような輩はいない。
ならばあまり神経質にならずに、適当に投票すれば良いだけだと、シャーペンを持ち女子だけの名簿に「正」の線を入れた。
一つは安藤さんに、もう一つは畑中さんに、最後は足立さんに。
適当に、と思った割りにしっかりと片想いをしている相手に票を入れてしまうのだから、僕も他の男子にあれこれ言えやしない。
正の字を書いたとたん、急に教室の中がざわざわと音を立て始めた。いや、むしろ投票している際に、とんでもなく集中して周りが見えなくなっていたせいかもしれない。ペンを置くと、右掌がじゅっと汗ばんでいた。
何か大罪でも犯してしまったかのように、心臓が激しく音を立てていた。こんなことは、大したことではない。男子の中で流行っている遊び。きっと他のクラスの連中だって同じようなことをしているに違いないのだ。それに、持ちかけてきたのは宮沢であって、僕ではない。
僕は悪くない、と自分に言い聞かせながらも視線を感じてさっと後ろを振り返る。
一番後ろの席で、岡田さんと一瞬目が合ったような気がしたけれど、多分気のせい。
彼女は休み時間の大半、頬杖をついて窓の外を見ているだけなのだから。
「ねえ、見た?」
放課後、僕の左斜め後ろに座る畑中さんが、さらに彼女の後ろに座っている安藤さんに声をかけているのがたまたま聞こえてきて、鞄に荷物を詰めていた僕の手を止めた。
「え、何を?」
「ほら、あの男子が回してた紙」
「紙? 何それ」
「和咲、気づいてなかったの?」
「うん」
じゃあ、仕方ないな。教えてあげる。
畑中さんは、男共の重大な秘密を知って、それを友人に打ち明けるのが楽しみだというふうに、いたずらっ子の声色をしていた。
僕は、先日の昼休みと同じように、全然聞いていないフリをして彼女たちの会話を必死に追いかける。
「可愛い女子ランキング」
「かわいいじょし、らんきんぐ」
異国の言葉でも聞いたかのように、安藤さんが反復する。素直な彼女のことだ。この世にそんな不埒なランキングが存在しているなんて、夢にも思っていないのだろう。
「そう。男子が可愛いと思ううちのクラスの女子に、投票してるみたいなの」
「そうなの? それってなんだかすごく、失礼じゃない」
「まったくその通りよ。本当、くだらないよね」
「ええ。でもまあ、男の子ってそういう生き物なのかな」
透き通るような彼女の声が、本来なら僕の心を熱くするはずなのに、この時ばかりは細い針で突かれたみたいにチクリとした。
安藤さんの言う“男の子”というのが、男という生き物、というよりも誰か特定の人物のような気がしてならなかった。
「どうしたの、和咲」
「ううん、ちょっと気になっただけ」
「ランキングのこと?」
「ええ。怖いもの見たさっていうのかな」
安藤さんがランキングの結果を気にしているというのは、心底意外だった。ああいう清楚系で優等生タイプの子は、男子のちょっとした遊びなどには気にも留めないと思っていたからだ。
僕はようやく教科書や筆箱を鞄に詰め終わり、紐を肩にかけた。これから陸上部の練習がある。あまり遅くなれば大会前でピリピリしている先輩たちの神経を刺激しかねない。
振り返って、彼女たちの方を見た。畑中さんは帰り支度を始めていた。安藤さんの横顔が、美しい曲線を描く。彼女の目が、廊下側の一番後ろの席に向いているのを僕は見逃さなかった。
その席が、親友の矢部浩人の席であることが、僕の胸をいくらか締め付けていた。
幻想だ。僕の。悪い冗談で妄想で、簡単に真実だなんて思っちゃあいけない。
準備体操をしながら、筋トレをしながら、短距離を走りながら、頭の中に思い浮かぶのは、彼女の横顔だけだった。
聞かなくても分かる。あの顔は間違いなく、恋をしている顔。
ずっと気になってはいた。自分が好きだと思う人の好きな人。だって知りたいと思うだろう。でも同時に、知りたくない気持ちもあった。
「くっ……」
短距離走。
いつもこのレースの最中は頭の中を空っぽにする。腱が伸びるのを感じながら、地面を蹴る感触に浸りながら、一番速くゴールまでたどり着ける方法を探していた。必死に走り抜ける以外にとるべき手段はないのだけれど。あとは、なるべく邪念を捨てることくらいだ。
目標だけを見据えて、僕は走る。
僕が手を伸ばして掴みたい君は、親友に恋をしている。
***
翌日、僕は失態を犯した。
いつもより30分も寝坊をしてしまったのだ。
目を覚ますと二階の部屋の外から雨音が聞こえてくる。母さんは起こしてくれなかったんだろうか。
時計を見たあとでベッドから飛び降りた僕は一階に降りて洗濯物を干している母親と出会す。
「あ、奏太! あんた寝坊よ」
「知ってる」
学校が始まるのは午前8時45分。ただいまの時間、午前8時30分。
学校まで歩いて15分、走ればぎりぎり間に合うくらいだろうか。
着替えを済ませ、食卓に置いてあった食パンを口の中に放り込んで、僕は雨の中大疾走した。
なんとか時間内に学校に到着し、靴箱で靴を履き替えている時に頭上からチャイムが降ってきた。「やば」と口にはしないが、焦って2階の教室までダッシュ。同じような遅刻組に、生徒指導の先生が「早くいけー」と後ろから叱咤していた。
「はあ……はあ。セーフ……」
教室の扉を開けると、皆が一斉にこちらを向いた。普段なら担任の伊藤先生がすでに教卓の前に立っていてもおかしくない時間だが、今日はまだ来ていないようだった。
「なんだ、板倉か」
誰かが呟く声がして、皆の視線が僕からそらされる。
それにしても。
おかしい。
いつもとはまったく違う教室の空気。クラスメイトたちの三分の一が教室の後方に集まっていて、残り半分以上の生徒は自分の席で後方を見つめていた。誰も口を開かない。恐ろしく静かな空間が、夏場にもかかわらず肺の中にひやりとした空気を運んでくるようだった。
僕は、皆の視線を追うように、教室の後ろの方を見遣る。
「なんだあれ」
僕たちの教室の後ろには、黒板があった。
連絡事項があればいつもそこに書いて全員に知らせるのだが、今、そこにはデカデカと「2年4組 可愛い女子ランキング」の下手くそな字。
タイトルの下には、「1位 池田ななみ」「2位 藤堂亜希」「3位 安藤和咲」に続き、「19位 岡田京子」まで書き連ねてある。
「は?」
思わず口から軽蔑の声が漏れ出る。おそらく、僕以外の全員がこれを見た瞬間に、同じ反応をしただろう。
「なあ、あれ誰が書いたんだ?」
僕は幼なじみの矢部浩人の肩を叩いて問う。
彼は、気まずそうに件の黒板の前に立つ宮沢健一を指差して、
「たぶん、あいつだと思う」
と囁くような声で言った。
「宮沢か」
彼は、黒板の前で数人の男子と集まってニヤニヤしながらランキング結果について「あいつはないな」とか「池田が1位なのは当然だろ」とか、楽しんでいるようだ。
後ろから見つめるクラスメイトたちの冷ややかな視線が、気にならないのだろうか。
僕に、女子の名簿を渡してランキングに投票しろと指示してきたのもあいつだった。その時は男子たちの間でこっそり結果を見て楽しむぐらいのものだと思っていた。
しかし、彼は今こうして、ランキングの結果をクラスの全員の目に触れるように公開している。
「最悪だな」
僕は、静まりかえった教室の中で自分でも恐ろしいくらい黒い声で、彼らに告げた。
「はあ?」
誰だ、と問われる前に、宮沢は気弱な僕の顔を見て、「今なんて?」と目で合図する。
「だから、最悪じゃないかって、言ってるんだ」
ああ、どうしてこうなるんだろう。
僕は生まれてこのかた自ら他人に喧嘩を売ったことも売られたこともなかった。そういうのはもっと派手な奴らが、自己顕示欲に塗れた男たちが、僕とはなんら関係のない世界でするものだと。
それなのに今回ばかりは完全に、僕の方から喧嘩を売ってしまったことになる。
しかも相手はクラスでもかなり影響力をもつ宮沢だ。矢部とは違った意味で、彼の発言には力がある。要するに、「逆らったらどうなるか分かってるか?」という威圧感だ。
くだらない。
そう思いつつ、僕は一瞬身を竦め、「前言撤回!」と叫ぼうかと本気で思案した。
でも、僕らのやりとりを静かに聞いているクラスメイトの全員が——特に、女子たちの目線が、自分への期待のまなざしに思えて。
僕の中の少しの正義感が大きく膨らんでゆくのが分かった。
「こんなこと全員の目に見えるように書いて、何か良いことでもあるの? 傷つく人、いるじゃん」
いま思えば、慎重に言葉を選ばずにこんな台詞を吐いてしまったことが間違いだった。
宮沢が、はんっと鼻を鳴らしたのと、教室から一人の女子が飛び出してゆくのが同時だった。
「まって、和咲!」
教室から出て行ったのは、紛れもなく僕が想いを寄せる少女、安藤和咲。彼女を追いかけるために、仲良しの畑中さんも駆けてゆく。他にも数人の女子が後を追いかけようとしていたが、ちょうど担任の伊藤先生が教室に入ってきて、「待ちなさい」と残りの女子を教室に留まらせる。
「何があったのか、教えてくれませんか?」
先生だって、教室に来るなり女子が飛び出してゆき、後ろの黒板に書かれているランキングを見ても、何が起こったのか瞬時に把握できなかったのだろう。
「あれを書いたのは誰ですか」
罪人を追及する厳しい口調で、先生はのたまった。
僕たちは全員顔を伏せてたり視線を泳がせたりしていたけれど、先生がすぐに「宮沢君」と名前を呼んだので、他の皆は自分に嫌疑がかけられなかったと知ってほっとしていただろう。
しかし僕は、先ほど教室を飛び出す前に安藤さんが見せたくしゃりと歪んだ顔が脳裏をかすめ、先生からの説教に怯えるどころではなかった。あの時、一瞬僕の目を見たのも。それから、彼女が好いているであろう矢部浩人のことも一瞥していた。
僕はあの瞬間、彼女が僕に何を言おうとしたのか、分からない。
でも、彼女が僕に何かしらの感情を抱いたのは間違いない。
その日から、彼女は学校に来なくなった。
***
「元気出せよ、奏太」
「可愛い女子ランキング事件」から、1週間が経過した。皆の中であの事件は確かに由々しき出来事に分類されているに違いないのだが、1週間も経てば何事もなかったように過ぎていく時間が、僕を焦らしていた。
昼休み、浩人が僕を気遣って肩をポンと軽く叩く。休み時間、彼はいつも教室にいることが少ないのだが、今回の事件があってからは毎日僕のところにやって来てくれる。まったく義理堅いやつだ。
とはいえ、彼の気遣いに助けられているのも事実だ。あの事件に関して、女子は全員完全な被害者だし、男子も黒板に結果を書いた奴ら以外は被害者だと思う。けれど、皆の目に、もしかしたら僕は加害者として映っているかもしれなかった。
空席のままになっている安藤和咲の席を眺める。彼女が学校に来ない間、畑中さんたち女子グループが二日に一度彼女の家に訪れていると聞いている。
僕から畑中さんには聞きづらいため、浩人に事情を聞いてもらったところ、
「話してはくれるんだけど、部屋に篭って出てこないんだよー」
と困った顔をしていたそうだ。
「まあ、何かきっかけが欲しいんだろうね」
畑中さんも畑中さんで、安藤さんのことをかなり考えてくれているらしい。どうやら、安藤さん自身、あの忌々しい事件が起きた際にショックを受けたものの、そろそろ学校に行かなければならないという焦りもあるようだ。
「お前さ、心配なんだろう」
浩人は僕の安藤さんへの気持ちに気づいている。はっきりと伝えたわけじゃない。けれど、これまでの僕の態度を見ていれば分かるのだ。
「そりゃ、心配だよ」
僕のような平凡でありきたりの人生を送っている男子生徒ならまだしも、彼女は学校に来るべきだ。楽しい学生生活。青春。僕には手に入らないかもしれないことが、彼女は当たり前のように教授する権利があるのだから。
なんて、そこまで言うと自分を卑下しすぎかもしれないが。
とにかく、僕は安藤さんに学校に来て欲しかった。
「そんなら、とっとと迎えに行けばいいじゃん」
「はあ」
迎えに、とはなんて甘美な響きなんだろう。
それって、付き合っている男女がやるもんなんじゃないか……。
「さすがに、そこまでの勇気はないよ。彼女にとって、僕はただのクラスメイトの男子なんだから」
「そんなの別にいいだろ。お前がそうしたいなら迎えにでも話にでもなんでもしなきゃ、彼女、振り向いてくれないぞ」
浩人の言うことはもっともだ。
けれど、君の口からは聞くのには幾分か複雑な気持ちになるんだ。
教室には、いつもと同じ、生暖かい夏の風が舞い込んでくる。外は暑そうだけれど、日の当たらない室内はとても爽やかだ。
「あの」
浩人以外の、女の子の声がして、僕は後ろを振り返る。そこに立っていたのは、ショートヘアで背の低い女の子、岡田京子だった。
僕も浩人も、突然の彼女の登場にお互いの顔を見合わせた。なぜなら彼女は、男子生徒だけでなく、女子生徒ともほとんど会話をしない人だからだ。いわば、一匹狼。
彼女は何か言いたげな雰囲気を醸し出し、僕たちが「何?」と聞いてくるのを待っているようだった。
頭の中で、「19位 岡田京子」の文字がチラつく。ともすればあの事件の一番の被害者である彼女が僕たちに何か恨みを抱いていたとしても不思議じゃない。
「どうかした……?」
僕は、恐る恐る、という感じで彼女に問うた。
「安藤さんの家に行くの?」
彼女の瞳は主人が旅に出るのを見送る子犬のように不安げに揺れていた。
「いや、別にまだそう決まったわけじゃ……」
僕は、なぜ彼女が僕たちの会話に割って入ってきたのか全然見当もつかないまま、答える。
「そうなの?」
今度は隣にいる浩人の方を向き、僕の発言の真意を確かめるように親友に訊いた。
なんなんだコイツ。ずけずけと僕らの会話に入ってきて会話の主導権を握ってやがる。まったく面白くない。
「うーん、俺は行くべきだと思うし、本当は奏太も行きたいんだろう」
おい!
ここでまさかの浩人からの証言。
確かに、行きたいか行きたくないかと聞かれれば行きたい。すごく。好きな人の顔を一週間も見ていないのだ。少しでもいいから、顔を合わせたいと思うのが普通じゃないか。
それに、もし他に彼女を好きだという男がいれば、なおさら。それがもし、ここにいる浩人だったら? いや、彼はないか。安藤さんは浩人のことが好きなんだろうけれど、彼も安藤さんを好きだと思っているのだとすれば、ここで僕に彼女の家へ行くようけしかけたりしないだろう。
岡田さんが、僕の目をじっと見つめる。その目が「どっちなの?」と僕を追い込んでくる。
「……分かったよ。今日、僕が行くよ」
完全に敗北。観念した。それでも、心が踊っているのは僕が男だからだろう。
「それじゃあ、私も一緒に行く」
なぜこんなことになったのか、僕には分からない。
放課後、僕は今日部活を休んだ。同級生に風邪を引いたと伝えたら、「大会前なのに」と嫌な顔をされた。
いつもの帰路とは違う道を歩く僕の隣に、岡田京子。彼女の表情が心なしかいつもより明るい。そういえば、学校では一人でいることが多く笑った顔や明るい表情を見たことがなかった。
いじめられているのか、と聞かれれば多分そうではない。彼女は彼女自身の意思によって、いつも一人でいるようだった。寂しそうでも悔しそうでもなく、ただ教室にいる。彼女の存在に、どれくらいの人間が注意を払っているだろうか。
「あのさ、今更なんだけどなんでついてきたの」
彼女には周りくどい表現よりも直球で聞いた方が意思疎通がしやすいと思った。
「べつに、理由なんかないよ」
そんなことないだろう。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
理由なく、僕みたいな平凡なクラスメイトの男子についてきたりしない。例えばそうだ、浩人みたいな人気者なら分かる。彼を好きだと思う人間は性別問わずたくさんいるのだから。
頭の中で、安藤さんの切なげな表情が浮かぶ。彼女が見ているのは、浩人の席。いつもいつも、そうだった。僕が見ないフリをしていただけで、たぶんずっと前から、彼女は彼を見ていた。
安藤さんの家に行く道は、坂道が多かった。登ったり降ったり、なんのためにあるのか分からないアップダウンを繰り返して、ようやく「安藤」という表札のかかった戸建ての家に着いた。閑静な住宅街で、彼女の家以外にも玄関先に色とりどりの花の植木鉢が並んだ家が多くあった。
「なんだ、近いじゃん」
岡田さんがふう、と息を吐く。そうだろうか。僕には結構遠く感じたけれど。
目の前に安藤さんの家がある。彼女がこの中にいる、と思うと、僕の心臓は弾けそうなくらい早く鳴り出した。自分の心臓の音をこれほどはっきり聞くのは、陸上部の大会ぐらいだ。
僕は、ごくりと生唾を飲み込み、彼女の家のインターホンを鳴らすため手を伸ばした。が、震えてしまい、ボタンを押すのをためらった。ああ、もう! 自分の不甲斐なさにイライラする。
「深呼吸、したら?」
ふと、隣にいる岡田さんが僕の肩にポンと手を置いた。
深呼吸。
そうだ、陸上の大会のとき、僕はいつも深く息を吐いているじゃないか。深呼吸しようとすると、息を吸おうと必死になる人がいるけれど実は逆で、まず吐かなければならない。息を吐きさえすれば、自然と吸いたくなる。
普段自分が意識していることなのに、忘れていた。そういえば昔、誰かに同じようなことを言った覚えがある。中学の時、部活の後輩にでも言った言葉かもしれない。
僕は思い切り息を吐き、今度は大きく吸った。すると、緊張が解れ爆発しそうだった心臓がようやく静かになった。
「……ありがとう」
「ううん」
この時、岡田さんが女神のように優しく見えたのは気のせいだろうか。もしかしたら、僕が知らないだけで彼女は元来親切な人なのかも。
彼女の視線に見守られながら、僕はゆっくりとインターホンをならした。ビーっという電子音がして、中から「はーい」という明るい声がした。
「あら、こんにちは」
出てきたのは安藤さんのお母さんと思われる女性。僕の母親よりだいぶ若い。お姉さんと言われても信じてしまうだろう。
「こんにちは。突然押しかけてすみません。和咲さんのクラスメイトの岡田です」
好きな人のお母さんを前にして咄嗟に言葉が出てこなかった僕の代わりに、岡田さんは流暢に挨拶をしてみせた。
「同じく、クラスメイトの板倉といいます」
彼女に続き、僕は「決して怪しい者ではありません」というオーラを出して言う。
「始めまして。和咲の母です。和咲を呼びに来てくれたのかな?」
「はい。彼女と少し話がしたくて」
「それはありがとう。良かったら上がって」
初対面の人と接するのにまったく臆さない岡田さんに助けられ、なんとか安藤さんと話せる機会を手に入れた。
「お邪魔します」
僕たちは玄関で靴を脱ぎ、彼女の母親について家に上がらせてもらう。
安藤さんの家は大きくて小綺麗だった。彼女の部屋は二階にあるらしく、お母さんが「ここよ」と案内してくれた。
「和咲、お友達が来てるわよ」
「だれ?」
「板倉君と岡田さん。同じクラスでしょう。あなたの様子を見に来てくれたの」
「……」
部屋の中の彼女は、やって来たのが仲良しの畑中さんたちではなく、僕と岡田京子だということに驚いているのだろう。反応が返ってこないということから窺えた。
「お母さん、あとは僕たちにお構いなく」
「そう。それじゃあ、私は下にいるわ。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
お母さんが下の階に降りていくのを確認してから、僕はようやく現実決心がついた。
彼女の部屋の扉を2回ノックし、「板倉です。突然ごめん」と声をかける。
「……どうしてあなたが」
彼女の声色には、見舞いに来てくれて嬉しいというより、僕が来たことへの戸惑いと落胆が滲み出ていた。
ショックなど、受けないつもりだった。
ここに来る前から、彼女の心に自分がいないことを知っていたから。彼女の中にいつもいるのは間違いなく、あいつだということも。
「心配だったから、見に来たんだ。岡田さんも一緒に」
「あまり話したことないけど、私、岡田京子。板倉の見張りね」
「なんだ、見張って」
「だって、一人だったら安藤さんに何するか分かんないじゃん」
「何もしないって!」
僕らのやりとりを聞いてか、部屋の中から安藤さんの笑い声が聞こえてきた。
「……と、今のは冗談なんだけど、安藤さん最近どうしてるかなって」
緊張しているのは変わらなかった。けれど、適度に僕の気持ちを解してくれる岡田さんのおかげか、いつもよりも素直に言葉が出てきた。
安藤さんとちゃんとした会話をするのは初めてかもしれない。学校では、必要最低限のコミュニケーションしか取らない。一言でも言葉を交わせた日には、1週間分の気分が明るくなるくらい、僕は彼女に心を奪われている。
「私は、元気だよ。板倉君は?」
あくまで部屋の中に入れてくれたり、顔を合わせてくれたりはしないつもりらしい。
きっと彼女が会いたいと望んでいるのは僕じゃない。僕はそれを知っている。でも、自分の気持ちを優先してここに来た。彼女が会いたくないというのなら、限られた時間で彼女に伝えるしかない。
「僕は、安藤さんがいなくて、ちょっと寂しいかな」
扉の向こうで、息を飲む音が聞こえた気がした。
岡田さんは僕たちの会話に口を挟むことなく、静かに見守ってくれている。
「……そっか。ごめんね。でも私、あの時から行く気が起きないの、学校」
知っているよ。1週間前、教室で起きた事件。あんなことをしたやつを、僕はいまだに許せていない。
けれど、周りを見れば、クラスのやつらの大半は、ランキング事件のことなどとっくに水に流して普通に生活しているんだ。
君だけだよ。僕と君だけなんだ。前に進めていないのは——。
悔しくないの? 安藤さんだって、知ってるんでしょう。畑中さんが何度か見舞いに来てるって言っていた。きっと彼女の口からクラスの様子も教えてもらったはずだ。
僕たちだけが、取り残されているなんて、君は悔しくないの。
そう、喉の入り口まで言葉が出かかった。けれど、実際にそんなことを口にしてしまえば絶対に嫌われることが分かっていたから、僕は必死に言いたいことを全部飲み込む。
「安藤さんがショックだったのは、一番じゃなかったから?」
僕は、彼女がどうしたら出てきてくれるのかを必死に考えていた。
それはつまり、彼女が悩んでいる原因を取り除くことに等しい。
となれば、あの日女子の中では上位にランクインしていたにもかかわらず彼女がショックを受けてしまったのは、彼女の中では自分がクラスの女子の中で一番綺麗だという自負があったからではないか。
それを指摘するのは、些か勇気のいることだった。
誰だって、自分のことを認めて欲しいし、自分が何かで一番優れていると思いたい。勉強や部活、趣味・特技。彼女にとって、それは容姿だった。
彼女はあのランキングの存在自体に憤慨したのではなく、その結果が受け入れがたいものだったから、傷ついたのだ。
「……そうだね。馬鹿だよね、そんなことに傷つくなんて。私、自惚れてたんだ。自分が絶対、男の子に好かれてるって思ってた。ううん、私は矢部君に好かれたかった」
決定的な一言。
ああ、そうだ。
僕はその一言が聞きたかった。
僕の心をへし折って、叶わない恋をしていると糾弾されたかった。
そうしたら僕はきっと、君にもう一度向かっていけると思うから。
隣にいる岡田さんは、依然として静かに僕らの言葉を聞いている。こんなところ、他の誰かに見られるなんて、僕の生涯の黒歴史決定だ。
「あいつら、酷いよね。あんなランキング公開しやがって、どれだけの人の気持ちを踏みにじったと思うんだ、てね」
「うん」
「こんなこと聞きたくないかもしれないけど。僕は真っ先に君に票を入れたんだ。……君のことが好きだから」
心の安寧が、もうとうに崩れ始めていて、あと数分もしないうちに壊れてしまうことは分かっていた。何もかも投げ出したくなる前に、彼女に気持ちを伝えたい。ただその一心で。
僕は背中に流れる汗を感じた。岡田さんが小さく息を吐く。僕はつられて大きく息を吸った。
「そう……。ありがとう。でも、私、さっきも言ったけど矢部君が好きなんだ。今もずっと、あなたの言葉を聞きながら、彼のことを考えてる。ねえ、板倉君。矢部君は私に、票を入れてくれたのかな?」
極限まで吸い込んだ空気に息苦しさを覚え、ようやく吐くことを覚える。岡田さんが僕の背中をさする。そんなに僕は、情けない男だっただろうか。
「……ああ。きっと入れたさ。浩人だって、安藤さんのこと気にしてるんだから」
「そっか、嬉しい」
浩人が彼女のことを心配しているというのは嘘じゃない。そうでなければ今日、彼は僕に彼女の家に行くように仕向けたりしなかった。
でも、彼の気持ちの本当のところは分からない。
「それだけでも聞けて良かった。来てくれてありがとう、板倉君」
この時の安藤さんはきっと、どうしようもなくエゴイストで、それは僕自身にも言えることだった。
「っ……」
もうこの場にはいられない。これ以上心が引き裂かれるなんて耐えられない。
たまらなくなって、僕は彼女の部屋の前から離れた。階段を降り、玄関の方へ一直線。
「ちょっと板倉!」
突然方向転換した僕に、岡田さんは戸惑っているに違いない。けれど僕には、彼女のことを気にしている余裕がなかった。
「あら、もう帰るの?」
一階に降りるとお盆にオレンジジュースを乗せた安藤さんのお母さんが不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「すみません、長居するとご迷惑なので、今日はもう帰ります」
「全然ゆっくりしていって大丈夫なのに」
「いえ、突然でしたし。お邪魔しました!」
いち早く、この場から去りたかった。
今日安藤さんと話したことを全部忘れたい。少しでも彼女から遠く離れたい。情けない姿を一分一秒でも他人に晒したくはない。
大急ぎで靴を履き、玄関を出ると、自然と足が速く動いた。早歩きから走り出すまで、十秒と経たなかった。
「待って!」
後ろから、岡田さんが必死に追いかけてくる。ごめん。でも今は君とも話したくないんだっ。
大体、今日のこの行動自体、おかしなところばかりだ。
安藤さんからすれば単なるクラスメイトの僕が訪ねてきて、迷惑だっただろう。しかも、なぜか岡田さんが一緒にいるし。僕らが仲良しなら分かる。でも、その場の流れで安藤家へ一緒に行くことになっただけの仲だ。
ああ、もう! 全部なかったことにしたい。僕は今日、彼女の家へは行かない。いつも通り部活に参加して暗くなる頃に家路に着く。それで十分。平凡な僕の人生は、平凡な毎日がよく似合う。
そうすれば僕は彼女にあんなかたちで想いを伝えることもなかった。
彼女の親友への気持ちを、あれほど真っ直ぐな気持ちを、この胸で受け止めなくて済んだ。
「……くっ」
ずでん、と嫌な衝撃が右半身を駆け抜ける。
どうやら道端の出っ張りにつまずいて転んだらしい。転ぶなんて久しぶりすぎて、どうやって受け身を取ればいいのかも分からずなすがままに身体を打ち付けた。
「った」
幸い、人通りの少ない道で誰にも見られずに済んだ。
……ただ一人、岡田京子を除いては。
「板倉! 大丈夫!?」
彼女は僕に駆け寄り、最初は心配そうな表情をしていたのに、僕の身に大した怪我がないと分かると平手で僕の頬を殴った。
「……え」
先ほどとは種類の違う衝撃が背中を走る。
痛い、という感覚よりは「なぜ?」という疑問。その答え考える前に岡田京子は倒れていた僕の胸ぐらを掴んだ。
「あんたは大馬鹿だね!」
すごい迫力。
大人しい彼女が急変し、怒りのこもった瞳を僕にぶつけている。僕の思考は相変わらず追いついていない。
「な、なにすんだよっ」
「酷い? 最悪? あんたが一番最悪で最低よ!」
こいつは何を言ってるんだ? いきなり掴みにかかったと思えば、訳のわからないことをのたまう。
「なんだよ。急になんのこと?」
「すっとぼけないで。あんたが言ったんじゃん。あのランキング、あんなこと書くやつは最低だって!」
ああ、ようやく分かった。
彼女が怒っているのは、先ほど僕が安藤さんから逃げてきたことなんかじゃない。例のランキングを見た時の僕の反応のことらしかった。
「それの、何が悪い? 僕は当たり前のことを言ったまでだ。お前だって、悔しくなかったのか? 最下位で公表されて、あんなことやったやつが憎いだろ!」
「違う! 自分も同じでしょう!」
気がつけば、目の前の岡田京子はボロボロと涙を流していた。僕は、咄嗟の出来事に「え!?」と声を上げるだけで、彼女を慰めるべきなのか、突然殴ったことを怒るべきなのか見当もつかない。
お願いだから、誰もここを通らないで欲しい。誰かに見られれば、警察に通報されかねない。
じりじりと、照りつける夕陽が彼女を真っ赤に染め上げる。光に照らされた彼女は、なぜだかとても美しい。あまりよく見たことがなかった彼女の瞳は、透き通るほど澄んでいてまぶしかった。どうしてこの子が、クラスのランキングで最下位になったのか、今はもう信じられないくらいだ。
「自分だって、誰かに投票したんでしょっ……。それと、黒板に結果を書くのが、違うっていうの? 同じことじゃない。結局、あの場では皆が同じ罪を背負ってた。なのにあなたは、『ランキングを書いたやつが悪い』って。傷つく人がいるじゃんって。どうしてわざわざ口にしたの? そんなことされたらさ……最下位の私はさ……、あなたに好きだって言う権利だって、なくなるじゃない!」
「え——」
彼女はもう、僕の知っている岡田京子ではなかった。
いつも一人で佇んで、友達がいなくたって平気そうな顔をしている。誰に構ってもらわなくても、自分の道を歩くことのできる少女。クラスの揉め事にだって関心がない。
僕の中で構築されていた「岡田京子」の像が崩れる音がした。
「人間関係に……最短距離なんてない。私はそれを知ってたから、あんなふうに好きな人との距離を詰めようとするあんたが、馬鹿みたいだと思った。……でも同時に、あんたを今すぐ手に入れたいと思ってしまった。あんたが安藤和咲に抱いた気持ちがまっすぐすぎて、まぶしくて……。だから、私も同じだったよ。こうやって、弱ってるあんたに付け込んでいるんだから」
岡田さんの腕が、僕の首元から離れ、彼女は自分自身の頬を拭う。
宝石みたいだと思った。
彼女の涙が、珠のように光っては消えてゆく。僕は、彼女の気持ちを知らずにとても残酷なことをしてしまったのだ。
結局は皆エゴイストで、自分の手に入れたいものとの距離を測りかねている。
「岡田さん、ごめん」
何に対する「ごめん」なのか、自分でもよく分からなかった。僕が彼女を不快にさせたといえばそうだ。けれど、彼女もまた、自分の正義の中で勝手に傷ついていたのには変わりない。
「私も、ごめん」
彼女の頬にはもう水滴はなくて、代わりに紅く染まっていた。夕陽のせいかもしれない。でも、彼女の想いを聞いてしまった今は、別の意味に取れた。
「好きだって言ってくれて、嬉しかった。でも、僕たちそんなに話したことなかったよね。どうして僕のことをそんなふうに思ってくれたの」
反則だろうか。彼女の気持ちに今すぐ応えられるわけでもないのに、こんなことを訊くのは。
けれど彼女は、僕の質問を不快だとは思っていない様子で、ぽつりぽつりと話しだした。
「板倉は覚えてないかもしれないけれど……。中学の時、あなたに助けられたことがあったの」
「……うそ」
中学の時? 彼女と僕は違う中学校だ。彼女とは高校で初めて出会ったはず。
しかし彼女はそうではないと首を振る。どうやら本当に僕が覚えていないだけらしい。
「三丁目の交差点で、私、横断歩道のど真ん中で転んだことがあった」
三丁目。
交差点。
「あ」
思い出した。三丁目と言えば、僕が通っていた中学の隣の中学校のテリトリーだ。
その交差点で、確かに女の子が転ぶのを見た。それで、その後は——。
「車の人たちや他の歩行者に見られて、とても恥ずかしくて。立ち上がれずにいたら、あなたが私の腕を引っ張ってくれた」
『大丈夫。ほら、深呼吸』
僕はそう口にしたのだ。その言葉を、彼女は今でも覚えてくれていた。僕自身、中学の時から陸上部に入っていたから、走り出す前にルーティンでしていたことだ。
「あの時、あなたがそう言ってくれたから、私は立ち上がることができたの。本当にありがとう」
そう言って緩く微笑んだ彼女が、この上もなく美しい。
どうして今まで気づかなかったのだろう。僕の本当の恋は、こんなところに眠っていたのだ。
「岡田さん、僕の方こそありがとう。おかげで目が覚めた」
よし! と拳を握り、立ち上がる。へたりこんでいた彼女に、もう一度手を差し出して。
「一緒に帰ろう」
彼女が手を伸ばす。繋がれた手が温かく、心まで沁みてゆく。
僕はもう、最短距離なんて目指さない。
君との距離が少しずつ、埋まっていけばいい。
【終わり】