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ヴァレリー法律事務所

ホワイトコーヒー

作者: 飛鳥京子

2019年 夏   パリ




 イギリスでは、ミルク入りのコーヒーをホワイトコーヒーと呼ぶ。メニューにもその名前でのっている。

 この呼び名が、同じ英語圏であるアメリカで通じなかったのは、エラリイにとってちょっとしたカルチャーショックだった。無論、パリでも通じない。

 そもそも、パリでは、コーヒー(カフェ)を注文するとエスプレッソが出てくる。イギリス人にとって普通のコーヒーはカフェ・アロンジェ、ミルクコーヒーはカフェ・クレームといわねばならない。 

 しかし、パリのカフェ・クレームは、たいていエスプレッソを薄めたものにミルクが入った、どちらかというとカフェオレに近い飲み物だ。

(違うんだけどなあ)

と思いながらも、いつしかあきらめかけていた頃、彼はその店に出会った。

 セーヌ右岸にある、アイボリーの壁が明るいカフェだった。六月下旬から続く熱波のせいでオープンテラスには人影がなく、皆、冷房のきいた店内に逃げ込んでいた。エラリイも屋内の二人がけテーブルにつき、さして期待もせずにカフェ・クレームを頼むと、ドリップしたコーヒーにミルクの入ったピッチャーが添えられて運ばれてきた。

(うそだろう〜)

 エラリイは目を疑った。カップに鼻を近づけて香りを味わい、ピッチャーのミルクを注いだ。スプーンで静かにかき混ぜ、カップを口に運ぼうとした時、誰かの強い視線を感じた。

 顔を上げると、一対の明るい茶色の瞳とまともに目が会った。淡い褐色の肌、足元までのワンピースの上に店のエプロンをつけた娘が、エラリイの銀髪と青紫色の目を、まじまじと覗き込んでいる。

(この子、ムスリムなのかな? 違うのかな?)

 体を覆うゆったりした衣装の色は、黒ではなくモスグリーンで、同色の布をカチューシャのように、二つくくりにした黒髪にあしらっている。いや、よく見ると、髪は耳のあたりまでのショートで、肩まで届く長い房のついたイヤカフをしているのだった。

「シェエラザード!」

 きつい声がとんで、揃いのエプロンをつけたスタッフがとんできた。娘の肘をつかむと、スタッフ専用ドアの奥へ引きずって行く。

 エラリイは呆然と二人を見送り、やがて気を取り直してホワイトコーヒーを味わった。



 店を出ると、エラリイはゆっくりと自転車を走らせた。速度を出すと、かえって熱風に包まれてしまうからだ。ペダルを踏む度に古い石畳が振動を伝えてくる。

 セーヌ川が近づいてくると、かすかに風が変わった。水の上を渡る際に、わずかだが空気から熱が奪われるようだ。セーヌの中州の一つ、サン・ルイ島に、彼の職場であるヴァレリー法律事務所はある。

 橋に向かってペダルを踏み込みかけた時、風に混じってバイオリンの音が流れてきた。ペダルをゆるめて、音のする方に近づいてゆくと、一日中日陰になっている路地に、そこだけ光が当っているように見える一角があった。

 演奏しているのは金髪の少年で、夏の日焼けがきれいに残ったような蜂蜜色の肌がなめらかだ。子供と大人のあわいにある顔は端正で、エキゾチックなアポロンを思わせた。この猛暑の中、汗もかいていない。

 路地の奥には、下校途中らしい少女達が、彼を遠巻きに眺めていた。日が差さないとはいえ、熱気に灼かれた石壁の間で、皆、頰を上気させている。

 その背後から、二人の男が彼女達を押し分けて演奏者の前に立った。先に立つ体格のいい男が、威圧するように演奏者を見下ろした。

「おい。ショバ代も払わずにこんなところで弾かれちゃ困るな」

 もう一人の男は楽器ケースを抱えて、少し後ろに控えている。どうやら、この男が場所荒らしをされたと訴えたようだ。

「おれは音楽学校の生徒だ。ここでは練習してただけで、金なんかとってないぜ」

 金髪の少年は空のバイオリンケースを示した。

「場所が悪かったんなら、二度とここでは弾かないよ」

「生意気な野郎だな」

 体格のいい男は、少年の胸ぐらをつかんだ。その瞬間、光の加減で、いかつい顔に斜めに走る傷跡が浮かび上がった。軍人上がりだ。エラリイは直感した。

 彼は自転車を降りると、素早く二人の間に割って入った。

「やめろよ、おっさん」

「何だ、おまえは」

 男が剣呑な表情で言った。

「ただの通りすがりだよ。この人は別にあんたに逆らったりしてねえだろ」

 言いながら、エラリイは男の胸の一点に軽く指を当てた。男はなおもエラリイに迫ろうとしたが、動きを止めたまま顔をこわばらせ、身を引いて間合いを取った。

「まあ、今日のところは許してやる。二度と人の商売の邪魔をするんじゃないぞ」

 そう捨て台詞を吐くと、大きな手のひらを、犬でも追い払うようにひらひらさせた。

「災難だったな」

 金髪の少年と並んで自転車を押しながら、エラリイは言った。

「なあ、あんた。さっきのあれ、どうやったんだ?」

 少年はバイオリンケースのストラップを肩に掛けながら訊いた。ケースの色はエメラルドグリーンだ。楽器ケースなど黒一色だと思い込んでいたエラリイは、軽く目を見張った。

「あれ? ああ、人間の体にはそこを押さえるとそれ以上動けなくなるポイントがあるんだ。コツさえつかめば誰でもできるぜ」

「へえ……おっと」

 アポロンのような少年は、ハニーゴールドの首筋から滑り落ちかけた、木製の十字架をつかんだ。革紐の弱くなっていた部分が、さっき胸ぐらをつかまれた拍子に切れてしまったようだ。

 少年は長い指で、切れた箇所を結ぶと、首にかけ直した。

「珍しいな、木製なんて」

 エラリイが言うと、

「ステージに立つ時は金属製の物は身につけられないんだ。ライトを反射しちまうから」

という答えが返ってきた。

 エラリイはとっさに手帳の白いページを広げ、相手に差し出した。

「よかったらサインしてくれねえか。きみが有名になったら家宝にするよ」

 少年ははにかんだように笑って、ペンを走らせた。

「何て読むんだ? シャ……」

「シャルル・ロベール」

「おれはエラリイ・スターリング」

 二人は軽く握手した。

「じゃあな、エラリイ」

 シャルルは手早くローラースケートを履くと、風のように走り去った。

 再び自転車にまたがろうとして、エラリイはまた強い視線を感じた。振り向くと、先刻カフェでみかけた、ムスリムなのかどうか判じ難い娘がいた。たしか、シェエラザードと呼ばれていた。エラリイが店を出る頃にシフトが終わったというところか。

「えーと、どうしたの?」

 彼女があまりにもこと問いたげだったので、彼は声をかけた。

「あなた……アメリカ人?」

 ひどくたどたどしいフランス語だ。なるほど、これでは客の前に出せないだろう。

「おれはイギリス人だけど」

 エラリイが答えると、娘はもどかしそうに首を振った。

「ノン。あなた……あなた……」

 エラリイは、今度は英語で話しかけてみた。アメリカ人云々というのなら、英語がわかるかもしれないと思ったのだ。しかし、少女はきょとんと目を見張るばかりだ。

「もしかして、おれと一緒にいた、金髪の、バイオリン弾いてたやつのこと、訊いてるの?」

 エラリイはまたフランス語に戻り、一語一語をゆっくり区切って訊ねた。彼女は再度首を振り、パッと身を翻すと、脇の路地に走り入ってしまった。

 


「おまえがいればよかったんだけどな、エース。一応、元アメリカ人だし」

 エラリイの言葉に、ラエスリール・エースナイト弁護士は、微苦笑しながら、氷の入ったグラスに紅茶を注いだ。

 ヴァレリー法律事務所は、サン・ルイ島にあるアパルトマンをほぼそのまま利用している。個室は早い者順に各弁護士の執務室にあてられ、エースは、壁の一面が作り付けの本棚になった、書斎のような部屋を選んでいた。

 デスクはコンパクトで、依頼者や相談者とは、デスクの前に置いた大きめのテーブルを囲んで話すようになっている。エースは、そのテーブルに二つのグラスを並べた。

 ついさっきカフェでホワイトコーヒーを飲んだところだが、あれはホットだったので(いまだにエスプレッソをアイスで飲む気にはなれない)、冷たい喉越しが心地よかった。

「ごめん。クッキーがきれてて、お菓子はないんだ」

と、申しわけなさそうに細い眉を寄せるエースの風貌は、金髪碧眼、やや額の広い白皙と、まさに英国紳士の趣きだ。生まれはアメリカだが、親戚にあたるイギリス貴族の家に養子にいったので、今はイギリス国籍なのである。金持ちはややこしいことが好きだと、エラリイは思う。

「その、ドリップコーヒーが飲めるカフェに、ぼくも行ってみたいな。今度連れて行ってよ」

 彼もエースも、紅茶は好きだが、コーヒーも飲む。

 エラリイがオーケーと身を乗り出す前に、その娘さんの役には立てないと思うけど、とエースは小さくつけ加えた。

 


 結局、エースがシェエラザードに会う機会はなかった。

 エラリイが彼女に出会ってから一週間後、シェエラザードはピガールの飲食店に手榴弾を持って飛び込もうとし、それを阻止した警備員共々、爆死してしまったのだ。



2


−−昨日、午後八時ニ〇分頃、ピガールの飲食店、『ル・プランタン』で起きた爆破事件の続報です。爆死した

少女は不法入国のアラブ人で、フランス入国後しばらくはシェエラザードと名乗ってピガールで街娼をしていました。その後、同胞の世話でカフェに一日勤めたものの、翌日からは無断欠勤していたということです。フランス語はほとんどできず、彼女と接触を持った人達の話を総合すると、彼女はイラク人で、アメリカに行くつもりだと言っていたとのことです。警察では、手榴弾の入手先や、テログループとの関連を調べています。

 犠牲となった警備員は、元アメリカ陸軍のブルーノ・タイラー軍曹。イラク戦争に従軍し、ニ〇一〇年の第一次米軍撤退に伴い帰国……』



 エラリイはテレビから目を離すと、フライパンのベーコンエッグを手早く皿に移した。エースは別のフライパンで焼いたソーセージをのせる。

 二人は倉庫のようなロフトをルームシェアしていた。各自プライベートルームは確保しているが、食事は共同のダイニングキッチンでとることが多い。

「飲食店だって。そんなお上品なもんじゃねえだろ」

 プチトマトの葉をちぎりながら、エラリイはつぶやいた。

 ピガールはヨーロッパでも屈指の歓楽街だ。昼間は白茶けたシャッター街のようだが、灯ともしごろになるとガラリと表情を変え、夜の街が顔を見せる。『ル・プランタン』も単に飲食を楽しむ店ではないことは、以前、店の従業員の刑事弁護をした際に見知っている。 

「あんな店に自爆テロしかけて、どうするつもりだったんだろう」

 好奇心いっぱいに見開かれたシェエラザードの瞳が、エラリイの脳裏に甦る。澄んだ明るい茶色の目は、とてもテロリストのものには見えなかった。

「ついでに言うと、あのブルーノ・タイラーってやつも、体張って、周りにいる人達を爆発から守るような人間には見えなかったけどなあ」

 ニュースで彼の写真を見て、エラリイはすぐにそれと気づいた。シャルルにショバ代がどうのといちゃもんをつけていた男だ。警備員というより、用心棒といった方が正確なのだろう。そういった手合いは得てして、いざとなると臆病なことが多いが、ブルーノは、シェエラザードごと手榴弾を抱きかかえ、被害を自分達二人にとどめたという。

 テレビには、事件現場に花束を置いてゆく人々が映っている。勇敢な行為で命を落としたブルーノへの献花だ。気温が四〇℃前後を記録する熱波はひとまずおさまっているが、山と積まれた花束は既にしなびていた。

「イラク戦争従軍か」

 エラリイは小さく呟いて、テレビのスイッチを切った。



 エラリイの少し前を走るエースの自転車は、紫陽花色としか言いようがないしろものだ。いわゆるママチャリで、前部のフレームがラベンダー色、後部はライラックだ。それにパステルピンクの前カゴと、ミントグリーンの荷台がついている。

 よほど買い手がつかなかったらしく、自転車屋の親父が破格の値段で譲ってくれたらしい。

−−そういうのは、押しつけられたっていうんじゃねえの?

 エラリイは言ったが、エースは結構気に入っているようだ。

 エラリイの愛車のボディは黒。カゴも黒で、ハンドルと荷台の銀が映えている(はずだ)。

 その日は二人共、午前中の仕事が午後に食い込み、遅い昼食をすませて事務所に戻ったのは、もう日暮れ時だった。自転車を並べて停めていると、学生アルバイトのシルフィードが飛び出してきた。

「エース先生。今日の法律相談当番、先生でしたよね」

「そうだけど」

 法律相談当番は、その日に舞い込んできた相談を聴く役割で、弁護士が持ち回りで担当している。今日はエースの順番らしい。

 シルフィードが血相変えてとんできたのは、たった今、ムスリムの一家が、なだれ込んできたからだ。

「わかった。すぐ行くよ」

 エースは荷物をひっつかむと、事務所に駆け入った。

 


 ムスリムの一家がぞろぞろと事務所を出て行くのを見送ると、エースも後を追うように出かけていった。その日は事務所には戻らず、自宅にもなかなか帰って来なかった。

 エラリイが夕食を二人分作って先に食べていると、携帯電話が鳴った。エースからだ。

−−悪いけど、今すぐパリ警視庁まで来てくれないか』



 パリ警視庁は、セーヌ川のいま一つの中州、シテ島にある。シテ島と、ヴァレリー法律事務所があるサン・ルイ島は、橋一本でつながっている。

 エラリイが自転車をとばしてパリ警視庁に行くと、エースと三人の男が待っていた。一人はラファエルという警部で、一人は検察官、いま一人はDNAT(中央司法警察局テロ対策課)の捜査官だった。

「スターリング先生、こんな時間にお呼びたてして申し訳ありません。実は、二、三確認していただきたいことがありまして」

 ラファエルは礼儀正しく言うと、一枚の写真を取り出した。警察署で撮ったものだろう、無表情な正面写真だ。

「この人物をご存じですか?」

 エラリイは頷いた。

「一度だけ会ったことがある。音楽学校のバイオリン科の生徒で、シャルル・ロベールっつってた。街頭で弾いてた時、爆破事件で死んだブルーノ・タイラーに、ショバ代払わずに演奏するなって、いちゃもんつけられてたんだ」

 三人の捜査官は顔を見合わせた。

「先生にはシャルル・ロベールと名乗ったんですか? シャール・ロメールではなく」

「そうだよ」

 だが、シャール・ロメールがその人物の本名だと刑事は言う。とりあえず、この場では呼び方を「シャール」に統一することにした。

「彼と会った時のことを話して貰えますか?」

 ラファエルが言う。

「シャールが街頭で演奏してるところへ偶然通りかかったんだよ。上手いなと思って聴いてたら、ブルーノ・タイラーが、ショバ代も払わずにこんなとこで弾くなみたいなことを言いに来たんだ。やっぱり演奏家みたいな男が後に立ってた。シャールはすぐに弾くのをやめたのに、タイラーは胸ぐらをつかんでさらに詰め寄ったんで、おれが割って入ったんだ。タイラーも、大人が出てきたらややこしくなると思ったのか、捨て台詞吐いて行っちまったよ」

「それは確かにブルーノ・タイラーだったんですか?」

「そうだよ。おれ、テレビ見て、すぐわかったもん」

 ニュースには、通行人が事件の瞬間を映した動画も流れていた。シェエラザードが手榴弾を持って、ブルーノのいる方向へ走り寄る場面だ。正面写真ではわかりにくい、ブルーノの顔の傷跡も、はっきり映っていた。

「写真だけでもわかったけど、あれで確信した」

 ラファエルは小さく頷き、次の質問に移った。

「その時、他にシャールの演奏を聴いていた人間がいましたか?」

「いたよ。学校帰りっぽい女の子が五、六人かたまってた」

 検察官がおもむろに一歩踏み出した。シェエラザードの写真を手にしている。

「この少女もいましたか?」

「シェエラザード? 後から来たみたいだったけど」

「後から?」

「別にあの子の存在を意識してたわけじゃないから、気がついたらいたって感じだったけど」

「なんだか、お知り合いみたいな口ぶりですね」

 DNATの捜査官が初めて口を開いた。軍人のような短髪と、上質なスーツがちぐはぐな印象を与える。

「シャールに会うちょっと前に、あの子がバイトしてたカフェにたまたま入ったんだよ」

 エラリイはその時点に遡って説明した。

 エラリイがカフェにいた時、シェエラザードも店にいたのだから、彼女が店を出たのは、早くとも彼と同時かその直後のはずだ。あの時立っていた位置からいって、演奏場所から皆が離れる頃に通りかかったように思われる。

「ロメールと何かコンタクトをとった様子はなかったんですね?」

 ラファエルが訊いた。

「シャールはあの子には全く気づかなかったと思うし、あの子もシャールに用がある風じゃなかった。あの子は、アメリカ人を探してたんだ」

 捜査官達が怪訝そうに眉をひそめる。

「フランス語が下手すぎてどういう事情かわかんなかったけど、『あなた、アメリカ人?』て訊かれて、でも、アメリカ人なら誰でもいいって感じじゃなくて、やっぱり、特定の誰かを探してるみたいだった」

 眉間の皺をますます深くする三人に、エラリイの方から訊ねた。

「そもそも、あの子、本当にムスリムなの? 服装はそれっぽかったけど、なんか、微妙に違う感じも……」

「少なくとも、ムスリムの血筋であることは確かです。カフェの店長や、彼女にそこの仕事を世話したムスリムの婦人に確認しましたから」

 ラファエルが答えた。

 その婦人は、パリのムスリムの間では世話好きで通っているという。彼女は街頭に立っているシェエラザードを見つけると、すぐさま叱りつけて自宅に連れ帰り、翌日、同胞が経営するカフェに就職させた。

−−どうもイラクからヒッチハイクしてきたみたいで、体を許すとお金を貰えたり頼みを聞いて貰えると、その道中で覚えたようなんです。あの服とイヤカフは、一晩泊めてくれたデザイナーのプレゼントで、髪は国を出てすぐお金に換えたそうです。

 婦人はしきりに首を振りながら言ったそうだ。シェエラザードは、その名義の偽造パスポートを持っていた。おそらく、彼女は言われるままに体を開いて、それを手に入れたのではないか。まったく無邪気に、そうするものなのだと思って。

 その婦人にいわせると、シェエラザードは、幼子のようにもの知らずだったという。アメリカへ行くのだとしきりに言っていたが、彼女はアメリカを、イラクと地続きの近隣国だと思っていたふしがある。イラク戦争が起きた年にはまだ生まれていなかったはずだが、アメリカの占領下で育ったので、すぐ近くから兵隊がやってきているように感じたのだろう。

 そんな話を聞いているうちに、

 エラリイ、勉強しなさい。

 もういなくなった人の声が脳裏に甦った。

 学校の勉強は馬鹿馬鹿しく思えるかもしれないけど、何であれ知っているということは力になるのよ。こういうことを知っていれば騙されなかった、ひどい目に合わずにすんだということがいくらでもあるの。

 その人は、エラリイと同じ貧民街に住んでいたが、一目で貴婦人だとわかる雰囲気をまとっていた。皆が彼女のことをマリア様のように崇めていた。

 後にエースと軍で出会い、

−−ロンドン大学の通信教育を受けよう。

と誘われてその通りにしたのも、あの声が頭の中にあったからだ。法学を専攻したのは、法律を知らないと一番馬鹿を見るからだ。

 新兵はボロボロにしごかれる上に、宿舎に戻ってからも雑用が待っている。その合間を縫ってまで、なぜ勉強しなければならないのかと思ったことは、一度や二度ではない。それでも……

「意見書にも書きましたが、シャールくんの身柄を解放していただけませんか?」

 エースの声に、エラリイは追想から覚めた。

 検察官はクリアファイルから書面を取り出してパラパラとめくった。エースが今日一日走りまわった成果をまとめた書面のようだ。

「検討して、後ほどご連絡します」

「ご検討の間に接見してもいいですか?」

 エースはすかさず言った。

 おそらく、最初の接見は、家族から弁護を頼まれたことを伝え、シャールに反対の意思がないことを確かめる程度の慌ただしいものだったのだろう。弁護人としては、このあたりでもう少し、立会い人なしで接見する時間が欲しいところだ。

 ラファエルは他の二人と素早く目を見交わし、

「十分だけならいいですよ」

と言った。

「おれはもう失礼していいかな?」

 エラリイは返事を待たずに身を翻した。シャールに会えるものなら会いたかったが、自分は弁護人ではない。一足先に帰って、エースの食事を温めておいてやろう。



 いったん冷めてしまった食事がちょうど温まった頃、エースが帰宅した。

「シャールは釈放されたの?」

「いや」

 エースの声は疲労でひび割れていた。

 フランスでは、警察は裁判所の令状がなくとも被疑者の身柄を拘束できる。そのかわり勾留期間は原則一日だ。厄介なのは、この勾留がもう二四時間、あるいは、テロ犯罪事案とされてさらに延長される可能性があることだった。

「まあ、何か食えよ。これ、おまえの分」

 エラリイはトーストにスクランブルエッグとベーコンを添えた皿と、スープの残りを出した。

「ありがとう」

 ちょうどテレビニュースが、この日何度目かの『ピガール爆破未遂事件』の進展を伝えていた。アラブ系の音楽学校生が警察留置されたという続報が流れる。

「だいたい、何で、シャールがテロに関係してるなんて話になったのさ?」

「シャールくんがいつも身につけていた木製の十字架が現場に落ちていたそうだ。あと、シャールが街中でバイオリンを弾いている時、シェエラザードが近くにいたという目撃証言があったらしい」

「はぁ、それだけ?」

 エラリイはあきれ声を出した。

「警察としては無視するわけにもいかなかったんだろう。あれがテロだとしたら、何がなんでも背後にいる組織の手がかりがほしいはずだ」

「今日事務所にきたムスリムの一家は、シャールの家族だったの?」

「そうだよ。シャールくんは午後の授業が終わったところを警察に連れて行かれたらしい。あの人たちは校長先生から連絡を受けて、うちへとんできたんだ」 

 エースは、彼らの相談から始まった長い一日について、順を追って話し始めた。



 テーブルを囲んだムスリムの一家は、総勢八名。シャールの両親と祖父母、すぐ上の姉、長男とその妻子という構成だった。エースが彼らの向かいに座るなり、八つの口が一斉に開いた。

−−わたしたちは、何十年も前にアルジェリアから移住してきて、もう立派なフランス人なんです。

−−シャールは金髪で、どこへ行ってもアポロンみたいだって言われるようなきれいな子で。

−−わたしらはムスリムですが、あの子はクリスチャンです。わたしらの反対を押し切ってキリスト教に改宗したんですよ。

 その勢いにエースがたじたじとなっていると、姉娘のライラがテーブルをバンと叩いて皆を黙らせた。砂色の髪、蜂蜜色の肌の、白人といっても通りそうな娘だ。アルジェリアはかつてフランスの植民地だったので、この一族にもどこかでヨーロッパの血が混じったのだろう。それが、ライラとシャールに濃く現われたようだ。この娘が話を整理してくれた。

 それによると、彼らの一族はアルジェリア独立の翌年、フランスに移住してきた。現在では、全員フランス国籍を持つフランス人だ。

−−シャールは、わたしよりさらに白人に近い容貌なので、この国に同化したい思いが強かったのでしょう。十五の時にキリスト教に改宗しました。進学や就職の際、ムスリムだというので不利に扱われたくないという打算はあったと思いますが、教会の神父さんの教えとお人柄に惹かれたのも事実なんです。

−−だから、ムスリムの自爆テロになんか関係してるはずありません。

 母親がたまりかねたように口をはさんだ。大きな手でくしゃくしゃのユーロ札とコインをエースの方に押しやり、

−−先生、どうかあの子を助けてやって下さい。

と、泣き崩れた。

 エースは、イタリア人事務員のベアトリーチェに内線電話をかけ、司法扶助申請の用紙を持ってくるように言うと、ライラから必要事項を聴いてノートに書きつけていった。

 


「それから、接見に行って、取調べに立ち会ってから、シャールくんの音楽学校と教会へ行ったんだ」

 エースがまず足を向けたのは、音楽学校だった。彼はそこで、シャールのクラス担任と実技担当の教師、クラスメイトのリロイ・ウェントワースと面談した。



−−シャールは、何というか、太陽のような存在なんです。

 クラス担任のステファン・ラウルは言った。

−−いつも、みんなの中心で、明るく輝いている。どんなイベントも、彼がいなければ盛り上がりません。

 音楽学校の生徒は、もともと学校行事には消極的だという。そんなことに時間をとられるより、楽器や歌の練習をしたいのだ。

−−でも、シャールは皆を巻き込むのがすごく上手いんです。彼が音頭をとると、みんながついてきます。

−−人望があるんですね。

−−ええ。それも、学年、クラス、実技科目の枠を越えて、学校中の人気者なんです。もちろん、男子生徒にも、女子生徒にも。

 ステファンは、自分のことのように誇らしげな顔になった。

−−ただ、これは、ぼくも先ほど初めて気づいたんですが。

と、眉根を寄せる。

−−それほど誰からも人気があるのに、特別親しい人間というのがいないみたいなんです。先生がシャールの親しい友人と話したいとおっしゃったので、生徒達にきいたら、誰も心当たりがないんですよ。クラス委員のりロイ・ウェントワースが、とりあえず自分が一番一緒いる時間が長いと思うと言うので、来て貰ってますが。

−−広く浅くというのが、今の若い人達のつきあい方なのかもしれませんね。どうもお手数をおかけしました。

 エースは恐縮して、ステファンをねぎらった。

 シャールがクリスチャンであることは周知の事実だったようだ。肌身はなさぬ木製の十字架は、かなり有名らしい。

−−演奏の前には必ず十字架に触れて精神統一するそうです。だから、実技試験の前に十字架をなくした時は大騒ぎでした。

−−十字架をなくした? それはいつのことです?

 心臓がひと跳ねするような興奮を、エースはかろうじて抑えた。 

−−ええと、テストが今週の月曜で、その前の週末でしたから、六日、七日あたりですかね。青くなって探していたんで、みんな、テストへの影響を心配したものです。まあ、本番は見事な演奏だったそうですが。

−−十字架は、その後、見つかったんですか?

 爆破事件が起きたのは、十一日の夜だ。それ以前にシャールが十字架を紛失し、事件までに手元に戻っていなかったのなら、別の人間が現場に運んだ可能性が出てくる。

−−さあ。シャールのために学校中探していた連中もいたんで、見つかったのなら耳に入ってくると思うんですが、そういう話は聞いていませんね。

 ラウルは答えた。 



−−シャールは素晴らしい素質を持ったバイオリニストです。

 シャールの実技指導教官、ダビッド・シャロンは、自身もソリストや弦楽四重奏団の一員として活躍する演奏家だ。エースもコンサートを聴きに行ったことがある。猛禽類を思わせる厳しい顔が、曲想につれてえもいわれぬ優しい表情に変わるのが印象的だった。

−−技術もさることながら、演奏に華がある。音楽家としてとても大切なことです。

「華がある」という言葉に、エースはちくりと胸を刺された。子供の頃から地味だと言われ続けたせいかもしれない。

−−あの子は、未だ建てられていない大聖堂です。基礎工事さえしっかりやれば、いかようにも素晴らしい建物を構築できるでしょう。

 だが、とダビッドは首を振った。

−−あの子は基本を無視しすぎる。その奔放さがあの子の演奏の魅力でもあるのですが、今はまだいけません。土台のないところには何も建てられない。

−−八日に実技試験があったそうですが。

−−ええ、ありましたよ。シャールがトップの成績でした。

−−彼は試験前にお守りの十字架をなくしたそうですね。

 エースが言うと、ダビッドは眉間に深い皺を刻んだ。

−−それがどういうことか、先生はおわかりですか?

 彼がいうには、演奏家が舞台に立つ際のプレッシャーは大変なものである。どんなベテランでも、演奏前には逃げ出したい衝動にかられる。いくら場数を踏んでも、その緊張には決して慣れることはない。

−−だから、みんな、少しでも緊張をやわらげようと自分なりのルーティンをつくるんです。シャールの場合は、あの十字架に触れることでした。それができずにテストに臨むのが、いかに精神的にきつかったか。それでも平常心で弾ききったあの子には、大きな拍手をおくってやりたいと思いました。

−−先生は、シャールくんが十字架をなくしたことをご存じでしたか?

−−もちろんですよ。金曜の放課後に血相変えて練習室の鍵を借りにきましたからね。大事なものを忘れたかもしれないといって。

−−金曜というのは、先週の、五日ですね?

−−そうです。

−−シャールくんが言っていた「大事なもの」が、十字架だったことに間違いはありませんか?

−−もちろんです。それを聞いて、わたしもしばらく一緒に探しましたから。

 彼も、その後十字架が見つかったとは聞いていないそうだ。二人の教師に陳述書を書いて貰えば、シャールが事件の前後に十字架を所持していなかった間接証拠になるかもしれない。

−−先生、一刻も早く、あの子を連れ戻してください。一日練習しないと、音楽家の腕は三日以上後戻りします。シャールは今頃、気が狂いそうでしょう。

 ダビッドはエースの腕をつかんで揺さぶった。



−−はじめまして、ロード・アディントン。お目にかかれて光栄です。

 シャールのクラスのクラス委員、リロイ・ウェントワースはこう挨拶して、エースを驚かせた。

 ロード・アディントン。まさか、その名をこんなところで耳にしようとは。

 もう領地も屋敷もない、名目だけの爵位だが、後継者のエースが生きている限りついてまわる称号だった。

−−普通に名前で呼んでくれればいいよ。きみの方こそ……

 ウェントワース家といえば、代々判事を輩出している名門のはずだ。

−−ええ、あのウェントワースです。祖母は、ぼくが音楽の道に進むのは反対だったんですが、王立音楽院の先生が説得して下さったんです。ついでに祖母のお膝元からも離れたかったので、留学しちゃいました。

 リロイはいたずらっぽい笑みをうかべたが、どこか予定調和に見えた。

−−ご両親よりお祖母様の方が厳しいのかな?

 エースが訊くと、

−−両親はもう亡くなりました。祖母が結婚に反対だったので、駆け落ち同然だったんです。

 リロイは淡々と答える。エースが、

−−お祖母様はいろんなことに反対みたいだね。

と言うと、プッと噴き出した。一瞬だが、初めての感情の発露だった。

−−ところで、エースナイト先生、ぼくは正確にはシャールくんの親友というわけではなくて、クラスで何かやる時に、たいていぼくら二人が実行委員みたいな役割りになるという程度なんです。

−−ああ、そのあたりのことは担任の先生から聞いているよ。立候補してくれてありがとう。

−−いえ。ただ、先生のご質問に満足にお答えできるかどうか。

−−わかる範囲で答えてくれれば十分だよ。早速だけど、きみは、シャールくんが木製の十字架をいつも身につけていたことは知っている?

−−ええ。

−−先週末ぐらいに、彼がそれをなくしたことは?

−−知ってますよ。学校中、ちょっとした騒動でしたから。

 リロイは、持参した革の手帳を取り出した。ペンフォルダーにはイギリスの有名メーカーのボールペンがささっている。その手帳のマンスリーページを広げ、

−−シャールくんが十字架をなくしたのは、先週の金曜だったと思います。その晩は、自分こそが見つけてやろうと、目の色変えてさがしまわってた奴が大勢いましたよ。

−−週明けには実技のテストがあったんだよね?

−−ええ、八日の月曜日に。でも、シャールが十字架をなくしたことがわかったのは、レッスン室が閉まってからだったんで、その日はもう練習できなかったんです。

−−きみもさがしたの?

−−ぼくはとてもじゃないけど、そんな余裕ありませんでした。祖母は、「やるからには一番になりなさい」が口癖の人ですから、成績如何では、帰国して法律の勉強をしなきゃなりません。シャールには悪かったけれど、部屋で楽譜を見直したりしてました。

−−結局、十字架はみつかったのかな?

−−わかりません。少なくとも、シャールくんはテストの時はあの十字架をしていませんでした。あれは、シャールくんのお守りみたいなもので、演奏の前には必ずあの十字架に触れるんです。

 中には、クリスチャンであることをことさらにアピールするポーズだと言う者もいたが、それは穿ち過ぎだと思う、とりロイは言った。

−−きみには、シャールくんの信仰は本物に見えたのかな?

−−一度、シャールくんとそんな話をしたことがあるんです。ぼくは祖母から、同じキリスト教でも、カトリックの典礼なんか出ちゃダメだと言われてましたから、改宗なんてすごく葛藤があったんじゃないかと思って、訊いてみたんです。

−−でも、同じ啓典の民だから。

と、シャールは答えたそうだ。唯一神から示された啓典がクルアーンから新約聖書に変わるだけなら、郷に入っては郷に従えだと。

「だから、シャールくんの中では、案外ハードルが低かったのかなって」

 エースの脳裏に、彼自身が『啓典の民』を授業で習った時の記憶が浮かんだ。若い歴史の教師は、叩きつけるように板書しながら、口角泡を飛ばしてまくしたてた。

 曰く、イスラム圈では、ユダヤ教徒とキリスト教徒(後に仏教徒などにも拡大)を『啓典の民』として、人頭税を納めることを条件に信仰を認めていた時期があった。つまり、ムスリムとクリスチャン、アラブとイスラエルは太古の昔から宿敵だったわけではなく、平和理に共存していた時代もあったのだ。それが、十字軍運動やレコンキスタ、イスラエル建国にまつわるごたごたといった歴史の流れの中で対立を深めていった。

−−こうした経緯をきちんと知っておかないと、過激な言動を真に受けて、憎まなくてもいい相手を憎むことになるっ!

 この教師は、間もなく、父兄から、授業にイデオロギーを持ち込みすぎると批判を受け、校長とも喧嘩になって学校を去った。実際には、それほど偏った人物ではなかったと、エースは思っている。ただ、あまりに性急に己の正義を周囲に認めさせようとするあまり、極端な人物に見えてしまったのではないか。

「あの」

 リロイの声で、エースは追想から引き戻された。

「さっきから、十字架や改宗のことを訊いておられますが、それが何か事件と関係あるんですか?」

 どう答えるべきか、エースは思案した。彼の性分としては、率直に話をしたい。だが、事件の当事者ではないリロイをそういう形で巻き込むのはどうであろう。そこで、

−−実を言うと、よくわからないんだ。

と、あながち嘘でもない返答をした。

−−この事件は、一見、誰の目にも明らかな、単純なものに見えて、不可解な点がいくつもある。だから、何が重要な意味を持つかも、今の時点でははっきりしないんだ。

 リロイは印象的な緑の瞳を、大きく一つ瞬いた。 

 


 エースが次に向かったのは、シャールが洗礼を受けた教会だった。

 ビュルダンという神父は大きな体のすみずみから情熱が溢れ出ているような人物だった。

−−最初はぼくも驚きました。アラブ系の少年がキリスト教の信者になりたいと言うんですから。

 二人は何度も面談したが、ビュルダンはそのたびに、シャールの信仰が本物だという確信が強まったという。

−−彼は、自分はフランス人なのだから、もっとフランスに同化すべきだと考えているようでした。ご存知のように、この国ではムスリムだというだけで不利益を被ることがあります。シャールくんのように、白人といっても通る容貌の人間なら、改宗する方がはるかに有利でしょう。仮にシャールくんにそういう計算があったとしても、わたしは責める気にはなれません。何より、シャールくんには信仰に対する熱意がありました。聖書も読み込んでいて、キリストの教えをよく理解していました。

 神父は、何度もシャールの家に足を運んで、家族を説得した。数か月かかって、ようやく彼の信仰を黙認するというところまでこぎつけたという。

 改宗後のシャールは、模範的なキリスト教徒だった。

 典礼には欠かさず出席し、教会の行事でも中心的な役割を果たした。音楽学校に入学し、寮に入ってからはさすがに教会には足を運べなくなったが、学校の祈祷には欠かさず出席しているという。

−−シャールくんが木製の十字架を肌身離さず持ち歩いていたことはご存じですか?

−−ああ、あれは、知り合いのアクセサリーショップに頼んで作って貰ったんです。金属製だと光を反射するんで、舞台ではつけられないというんで。

 先月の終わり頃、紐が古くなってきたので、そろそろ取り替えた方がいいと話していたところだったという。

−−先生、ぼくはシャールくんのためなら何でもするつもりです。裁判の証人にも喜んでなります。

 神父は大きな体でエースに迫ってきた。



 エースはその日面談した全員の陳述書と、それをもとに大急ぎでまとめた意見書を捜査官に提出した。要旨は以下のようなものだ。

 シャールは、警察留置の要件である「犯罪を犯し、又は犯そうとしたことを推認させる徴表が存在する者」にはあたらない。理由は以下の通りである。

 唯一の物的証拠とされる十字架は、事件の前週に遺失されており、以後本人の手には戻っていない。したがって、現場で発見された十字架は、シャールが落としたものとは考えられない。

 また、シャールは自らの意思でキリスト教に改宗し、熱心な信者となったのであり、ムスリムのテロに関わるとは考えられない。シャールとシェエラザードの間に接点があったことを示す証拠もない云々。

 捜査官達がそれを検討している間に十分だけ会えたシャールは、改めて見ると、誰もが言うようにアポロンのような輝かしさを放っていた。波打つ金色の髪。金茶色の瞳とそれを縁取る長い睫毛。光に照らされた砂丘を思わせる蜂蜜色の肌。

−−バイオリンを差し入れてくれ。

 むなしい訴えを繰り返してしゃがれたのであろう声で、シャールは言った。

−−ここから出られないなら、せめてバイオリンを弾かせてくれ。こうしている間にもどんどん腕がなまっていくようで、気が狂いそうだ。

 シャールはしばらく空っぽの両手を眺め、その手で頭をかきむしった。

−−きみの先生も、きみが今頃そんな思いをしているだろうと心配しておられたよ。

 エースは、担任のステファン・ラウルも、実技担当のダビッド・シャロンも、ビュルダン神父も、彼の無実を信じ、弁護活動に協力してくれたと話した。

−−きみのクラスのリロイくんも、きみのために陳述書を書いてくれた。おそらく、きみは今、焼けつくような焦燥を感じているだろうが、どうかもう少し辛抱してほしい。

−−もう少しっていつまでだよ。大体、何でおれがこんなとこに入れられなきゃならないんだ。みんな、おまえら白人の勝手な思い込みじゃないか。アラブ系だからテロリスト? うちはじいちゃんの代からフランス人なのに、いまだに移民扱いかよ。

−−申しわけない。

 エースとしては、自分はそんな偏見とは無縁だと思いたい。だが、無意識のうちに、シャールが今言ったようなものの見方をしていなかったか。移民の定義の一つは、「労働に従事する目的で海外へ渡って住むこと又はその人」である。 とすれば、自分こそがそれに該当するのに、移民、難民と聞くと、中東やアフリカ系の人間を思い浮かべていないか。

−−シャールくん。警察が根拠にしているのは、きみの十字架が現場に落ちていたことと、きみが街頭で演奏していた時、シェエラザードがたまたま近くにいたらしいことだけだ。きみが事件の前に十字架をなくしていたことは、音楽学校の皆さんが証言してくれている。念のために確認しておくが、十字架は紛失されたままきみの元へは戻ってはおらず、シェエラザードとの間にも接触はなかったんだよね?

−−その通りだよ。大体、シェエラザードって誰だ? 写真見せられたけど、会ったこともない子だよ。しかも、その子はイラク人なんだろう? うちはアルジェリア系だっつーの。なあ、今すぐおれをここから出すか、バイオリンを差し入れるか、どっちかにしてくれよ!

 シャールは両手でカウンターをドンと叩いた。



「それで、おまえ、どうしたの?」

 食後のコーヒーをいれながら、エラリイは訊いた。

「捜査側にもう一度かけあったよ。実際問題、バイオリンを差し入れるというのは現実的じゃないし、嫌疑も薄弱なんだから、シャールを釈放してくれって」

 ラファエルは、テロ事案であるかを見極めるためにも、警察留置の二四時間延長を要請するつもりだという。延長には、大審裁判所検事正の書面による許可が必要だ。エースは、そちらにも意見書と陳述書のコピーを提出して、許可を出さないよう頼んできたそうだ。

 その後、家族代表で携帯番号を教えてくれていたライラに一日の報告をして、今日の弁護活動は終わった。ライラはエースの労をねぎらってくれたが、シャールを連れ戻せなかった失望が声ににじみでていたそうだ。

「まあ、本人や家族にとってはそこがキモだからなあ」

 エラリイは両手を頭の後ろに組んで、椅子に背をそらせた。

 刑事事件においては、有罪無罪と同程度に、身柄が自由かどうかが重要になる。仮にシャールが起訴されて予審(事件を正式裁判にまわすかどうか、予審判事が捜査権を行使して審理する手続き)に付されても、在宅と勾留されたままでは天と地ほども違う。

 何とかシャールの身柄が解放されるよう、エースは週末返上で奔走せねばならないだろう。

「ここでクヨクヨしてたってしょうがねえ。明日に備えて少しでも休んどけよ」



3

 

 週が明けても、シャールの身柄は依然拘束されたままだった。警察留置のニ四時間延長が認められ、その後、「テロ犯罪の捜査のため必要がある時」に該当するとして再延長が認められてしまったのだ。

 その朝、エラリイは午前九時に裁判所に直行しなければならなかった。午前中に審理が行われる事件が法廷のドアに貼り出されている。全部で四十件。エラリイの依頼者の名前は三十番目にあった。審理が始まるのは昼過ぎだろう。

 馴染みの書類屋が、ドアの前に立つ彼にすり寄ってきた。

「裁判所に提出する書面があれば、お出ししますが」

 フランスの裁判は書面主義だ。口頭弁論は審理の最後に一度あるだけ。エラリイは書類屋にその日提出予定の書面と委任状を渡した。

 事務所に戻って午前中の仕事をすませると、エースを誘って、本物のホワイトコーヒーが飲めるカフェに行った。そこは、シェエラザードが一日だけ勤めた店でもあったので、エースは既に店主に話を聴きに行っていた。

「シャールとシェエラザードに物理的な接点がないように見えても、今はインターネットがあるからね。でも、シェエラザードは携帯電話の存在すら知らなかったらしい」

 就職に際して連絡先を訊いたところ、シェエラザードにはその意味がなかなか通じなかったという。店主が自分のスマートフォンを見せると、目をぱちくりさせていたそうだ。

「何か、想像つくよ」

 オープンサンドにかぶりつきながら、エラリイは言った。もの珍しそうに自分を見つめていた明るい茶色の目を思い出し、自然に口角が上がった。

−−あんな子が街角に立つなんて、いけないに決まっている。だからうちで雇ったんだが、一日だけだったのに随分手を焼かせられた。まず、うちは飲食店なのに薄汚れた服で出勤してきた。仕方がないからバックヤードで掃除をさせていたが、すぐお客様のところへ出て行ってしまうんだ。とにかく、何もかもが珍しくて仕方ないようだった。まるで、三つか四つの子供みたいだったよ。

 店長はそんな風にシェエラザードを語ったという。

−−わたしなら、あんな子をテロの手先には使わないね。指示を理解させるだけでひと苦労だ。

「そういうことも、捜査側には伝えたんだけどなあ」

 エースはため息をついた。

 何でも、捜査側は、警察留置の再延長に加えて、さらに補足延長も考えているらしい。これは、「捜査又は警察留置そのものの初期情報から、フランスもしくは外国におけるテロ行為が起こる緊急かつ重大なリスクが存在する場合」か、「国際協力の必要性がそれを要求する場合」に認められる、かなり例外的なものだ。

「何で、そんな大げさな話になるのさ」

「シャールが留置された最初の日に、DNATの捜査官が来てただろう?」

「ああ、あの、エリートマッチョ?」

 エラリイが言うと、エースは苦笑した。

「どうも、DNATの方に何らかのテロ情報が入っていたらしい。そこへあの事件が起きたんで、関連性を疑ってるみたいだ」

「だけど、それって……」

 エラリイが言いかけた時、カフェのドアが開いて、背の高い女性が入ってきた。明るいベージュのスーツを着て、髪を水色のスカーフで覆っている。

 スーツの女性はカウンター越しに店長と言葉を交わすと、まっすぐにエラリイ達のテーブルに歩いてきた。

「エースナイト先生、シャールがお世話になっております」

 エースは慌てて立ち上がって挨拶し、彼女−−シャールの姉のライラだった−−にエラリイを、エラリイに彼女を紹介した。実をいうと、一目見た瞬間、エラリイには彼女がそうだとわかっていた。顔立ちがシャールにそっくりだったからだ。シャールよりアラブ色が強く、エキゾチックな雰囲気があるが、二人並べば、さながらアポロンとダイアナかもしれない。週末には彼女達家族も事情聴取されたせいか、頰のあたりに疲労の翳があった。

 彼女は、フェアトレード(開発途上国に対し、生産物を安く買い叩くのではなく、公正な価格で取引する)指定業者に勤めており、この店は、コーヒー豆の納品先の一つなのだそうだ。シャールが逮捕された後も、店長は彼女に非難の目を向けず、むしろ、シェエラザードが迷惑をかけて申し訳ない、シャールの嫌疑が一日も早く晴れることを祈っていると言ってくれたそうだ。

「店長はあの子に随分手こずらされたみたいですね。その分、シャールに同情してくれているみたい」

 ライラは複雑な笑みを浮かべた。

「どういう境遇の娘さんだったのかしら。両親のどちらかが白人なんじゃないかって、店長は言ってましたけど」

 たしかに、あの娘は、アラブ人にしては、髪の色も目の色も明るかった。肌の色はちょうど−−エラリイがカップに目を落とすと、

「イギリスでは、ミルクを入れたコーヒーを、ホワイトコーヒーというそうですね」

 ライラが彼の考えを読んだように言った。

「その通りです。よくご存知ですね」

 エースが頷く。

「イギリスから留学してきた生徒さんが、シャールはホワイトコーヒーだと言ったそうです。弟からその話を聞いて、それで知ったんですわ」

 エラリイもエースも意味がわからず、顔を見合わせた。

「コーヒーにミルクを入れても、真っ白にはならないでしょう? それと同じで、どんなに白人に似た見かけをしていても、本質は違うという意味のようです」

(えっげつねー)

 エラリイは、今飲んでいる飲み物が急に気まずくなって、カップを置いた。

「フルートを専攻していらっしゃる、金髪のきれいなお嬢さんだそうです。貴族の家柄だとか」

「申し訳ありません。同胞が失礼なことを」

 エースが詫びたので、ライラは驚いたようだ。

「……先生は、イギリスの方なんですか?」

「もともとはアメリカ人だったんですが、イギリスに養子にいったんです」

「そう……アングロサクソンのお顔だとは思っていましたが」

 エースの身の上については、エラリイも詳しくは知らない。代々優秀な軍人を輩出した軍閥の家に生まれたが、あまりにひ弱だったので、子供のいないイギリスの親戚に養子に出されたという話だった。

 それなのに、二人が出会ったのがイギリス軍だったのは、貴族だった養父が亡くなった後、家も領地も失って放り出されたエースが、とりあえず、衣食住が保証される軍隊に身を寄せたからだ。ひ弱な子供でも成長するにつれ、それなりに体力がつく。エースはぎりぎりの成績で何とか採用され、エラリイと同期入隊したのだった。エラリイの入隊理由も、エースと似たりよったりだった。

 虚弱なエースと、体の小さなエラリイは、そろってダメ新兵の烙印をおされ、それがきっかけで親しくなったといってもいい。

 ライラの話は続いている。

「シャールとわたしはこんな見かけなので、ムスリムの共同体では逆に浮いていたんです。子供の頃、二人だけで公園で遊んでいると、白人の奥様方が、なんてきれいな子なんだろうともてはやしてくれました。シャールが、ムスリムにしがみつくよりもフランスに同化すべきだと考えるようになったきっかけは、もしかするとそれだったかもしれません」

 そう考えて改宗までしたのに、まがいもののホワイトコーヒーなどと言われたシャールの胸の内はいかほどだったろう。これは何だか、ムスリムのテロに加担する動機になりそうでまずい。聞かなかったことにした方がいいかもしれない。

「ああ、ごめんなさいね。つまらないお話をして。せっかくコーヒーをおいしく飲んでいらしたのに」

「いえ、参考になりました」

 エースが生真面目に言うと、ライラは微苦笑した。テーブルに肘をつき、頭を抱える。

「シャールがあんなことになって、わたしはことさらに背筋を伸ばし、胸を張っていました。あんなのは不当逮捕なんだから、おどおどしてはいけない。シャールを信じているなら、堂々としていなければと。でも、エースナイト先生とお話ししていると、何だか肩の力が抜けて、あんな愚痴みたいな話もつい口をついてしまいました」

 依頼者に限らず、エースはよく人からこんな風に言われる。話し手を咎め立てせず、ニュートラルに耳を傾けるからだろうと、エラリイは思っている。

 それにしても、シャールがムスリムの間で浮いていたとは、全く思い至らなかった。少し考えればわかりそうなものだが、人はどうしても自分を基準にものを考える。視点を変えるというのは、言うほど簡単なことではない。

 シェエラザードもそうだったのだろうか。エラリイは思いを馳せた。白人の父親を持つのではと思われる彼女も、イラクではことあるごとに、異なった子供として扱われたのだろうか。

 ライラが立ち上がる気配に、エラリイはハッと目を上げた。

「今日はお話しできて良かったわ。先生、シャールをお願いします」

 そう言って、ライラは歩き去った。背を伸ばし、胸を張って、彼女をありのままに受け入れようとしない二つの世界の狭間を歩いて行った。



「おれは、そろそろ裁判所へ行かなくちゃ」

 エラリイはエースに軽く手を振ると、立ち乗りで自転車のペダルを踏んだ。そうしないと、日光を吸ったサドルで火傷しそうになる。

 パリの裁判所はもとは警視庁と同じシテ島にあった。それが、昨年四月に凱旋門の近くに移転し、アクセスが悪くなった。エラリイにすれば、地下鉄に乗るほどではないが、自転車ではやや距離を感じるというところだった。

 バックパックから取り出した法服を着込み、書類屋から受け取った相手方の主張書面と書証にすばやく目を通す。名前を呼ばれて法廷に入ると、互いに相手方の主張に対する意見を述べ、裁判所から双方に対して、次回期日までに主張立証してほしいことを言い渡される。その間、約五分。午前九時から延々と待ち続けていたのでは、あまりに割が合わない。

 裁判所を出ると、エラリイはその日の結果を伝えるべく、セーヌ右岸に住む依頼者を訪ねた。マダム・ユペールは、いつものように彼をキッチンに通し、大きなテーブルについて相手方の書面を繰った。節くれだった指がゆっくりと、紙をめくってゆく。テーブルにはアイスティーとクッキーが用意されていた。年季の入ったエアコンがガタガタ音を立てる部屋では、やはり冷たい飲み物がありがたい。エアコンは、ニ〇〇三年に欧州が熱波に襲われた時、孫達が金を出し合って買ってくれたのだそうだ。今回の裁判の相手方は、その孫達だった。

 相手方の主張書面を読むマダム・ユペールの灰色の瞳が、青みがかってゆく。エラリイには、悲しみが満ちてくるように見えなくもない。

「ばあちゃん、身内のことは赤の他人同士みてえに割り切れないだろうけど、昔からいうだろう。貧すれば鈍す、金持ち喧嘩せずって」

 人間は余裕がない時には、自分のことしか見えなくなるものだと言いたかったのだが、マダム・ユペールはにっこり笑って訂正した。

「その場合の『金持ち』につける冠詞は、lesですよ」

 フランス語の名詞にはすべからく性別があり、冠詞も形容詞も、名詞の性別に合わせて形を変える。おまけに、複数形や不可算名詞にも冠詞をつける。不可算名詞につける冠詞は部分冠詞といい、これも、男性名詞につくか、女性名詞につくかで形が違う。フランス語の勉強で、エラリイがまず手こずったところだ。マダム・ユペールが指摘した箇所は、複数形の定冠詞をつけねばならなかったようである。

(何で、フランス語って、こうまで冠詞に命賭けるのかなあ)

 文句をつけても詮無いことだが、エラリイはぼやかずにはいられない。



 マダム・ユペールの家を後にして、火照った石畳の路を走るうちに、エラリイはふと過去の一時点にスリップしたような錯覚を覚えた。ちょうど初めてシャールに会ったあたりから、バイオリンの音が流れてきたのだ。時刻もちょうど同じ頃合いだ。

(まさかな)

と思いながらも、音のする方を覗き込むと、見覚えのある男が通りに立って演奏していた。肩まで届く栗色の髪。茶褐色の瞳。あの日、ブルーノ・タイラーの後ろに楽器ケースを持って立っていた男だ。

 目が合うと、男は一瞬瞳を見開き、すぐ気まずそうな表情になった。向こうもエラリイを見覚えていたのだろう。

「こないだの音楽学校生の方が上手いと思っているんだろう」

と、苦虫を噛みつぶしたような顔で言った。

「誰もそんなこと言ってねえじゃん」

 男の演奏には、シャールのような華麗さはない。だが、土臭く哀切な調べには、たしかに胸に響く何かがあった。

 エラリイがユーロ札を楽器ケースに入れようとすると、

「よしてくれ。おまえにめぐんで貰いたくなんかねえよ」

 気色ばむ男に、エラリイは負けずに言い返した。

「あんたがそんな風に過剰反応するのは、あの時、ブルーノ・タイラーに頼んでシャールを追い払ったことを恥じてるからか? でも、そうせざるを得なかったのは、生活していくためだろう? だったら、変なところで突っ張らないで、一ユーロでも多く稼げよ」

 男は茶褐色の目をパチパチさせた。

「おまえ、見かけほど育ちがいいわけじゃなさそうだな」

「見かけだけでも、育ちがよさそうに見えるのかよ?」

 男は、エラリイの安物のスーツを上から下までじろじろ眺めた。こうまで日差しが強いと、長袖の上着を着ていた方が肌を守れる。だが、一日着ると汗ぐっしょりになるので、洗濯機で洗えてアイロン要らずのスーツをとっかえひっかえしているのだ。

「言われてみりゃ、見かけもそうでもないかもな」

 男の声音が少し和らいだ。

「おれはエラリイ・スターリングってんだ」

 エラリイは右手を差し出した。

「おれは、ゲオルグ・アントネスク」

 男は躊躇いながらも、その手を握り返した。握手が終わると、そそくさと楽器を片付け始める。

「おい、おれは商売の邪魔をするつもりなんかないんだ。もう行くから続けろよ」

 慌ててエラリイが言うと、

「そんなんじゃなくて、次の仕事があるんだよ。安酒場で演奏するだけだけどな」

 ゲオルグはつっけんどんに答えた。

 エラリイが自転車を押して歩き出すと、ゲオルグはまたも苛立ったような声を上げた。

「何でついてくるんだ」

「おれもそっちへ行くんだよ」

 エラリイは面倒くさくなってきた。

 二人はしばらく黙り込んで歩いていたが、やがて、

「あそこで演奏するのは、今日が最後なんだ」

 ゲオルグが独り言のように呟く。ブルーノ・タイラーが死んで担当者が替わり、ショバ代が上がったのだという。

「明日からは、その値段でもいいという奴が弾くんだろう。おまえは最後の客だったわけだ」

「おれがどんな返事をしても、あんたは機嫌が悪くなるんだろうな」

 エラリイが言うと、ゲオルグは低く笑った。

「悪かったよ。ここんとこ、気持ちがささくれだっててな。おれのバイオリンを聴いてくれたあの子は自爆テロなんかやらかすし、ブルーノ・タイラーが巻き込まれておっ死んだら、後釜に座った奴にショバ代つり上げられるわで」

「シェエラザードを知ってたのか?」

 エラリイが聞きとがめて訊ねると、ゲオルグは首をふった。

「バイオリンを聴いてくれただけだって言ったろ。いや、あれは単に物珍しくて眺めてただけかもな。とにかく、くそ暑くて誰も足を止めてくれない日が続いていた。久しぶりに立ち止まったのがあの子で、一曲弾き終わると、金も出さずに、『ねえ、あなた、アメリカ人?』ときたもんだ」

 あいつは白人とみるとそう声をかけていたのかと、エラリイはあきれる思いがした。情景がありありと浮かんで可笑しくなる。

−−おれは中欧から来たんだ。まるで逆方向だよ。

 ゲオルグはそう言って、漠然と手で東方を指した。実際はそれだけのことを伝えるのに、結構手間がかかったらしい。シェエラザードのフランス語はお話にならないほどお粗末だったし、ゲオルグもアラビア語を解さなかったからだ。それでも、ゲオルグは、シェエラザードが路上生活をしているらしいこと、夜な夜な街頭に立っていることをどうにか聞き出した。

「だから、おれは、あの子をモスクへ連れて行こうとしたんだ。言葉が通じる同胞に話せば、誰か力になってくれるかもしれんだろう」

 だが、彼の意図を知ると、シェエラザードは露骨に嫌悪の表情を浮かべ、身を翻して走り去ったという。。エラリイには、その理由が何となくわかる気がした。それは数時間前にライラの話を聞いたからであり、まさにタッチの差のタイミングだったのだが。

「あの子、アラブ以外の血を引いてるように見えなかった?」

「ふーん?」

 ゲオルグは目を宙に浮かせた。

「パリには色んな人間がわんさかいるから、感覚が麻痺しちまってたが、そう言われてみりゃそうかもな」

「だから、イラクではつまはじきにされてたのかもしれねえ」

 ゲオルグはフーッと息を吐いた。

「民族ってのはなあ。厄介なんだよ。自分のルーツに関わるだけに、理性とは別なところで反応しちまう。ナショナリズムもそうかもしんねえが、民族は見た目でわかる場合が多いだろう。それだけにな」

 おまえの国も、とゲオルグは語を継いだ。

「そういうのに巻き込まれるのがいやだから、EUを離脱するんじゃないのか?」

 うんとつきつめて平たく言えば、ブレグジットの理由はそういうことになるのかもしれないと、エラリイは考える。

 EUに加盟していた頃から、イギリスは「大陸」に対し、微妙に距離をとっていた。単一通貨のユーロを使わずポンドで通し、他の加盟国間では不要な入国審査も行なっていた。移民や難民をひろやかに受け入れた時期もあるが、リーマンショック後のユーロ危機でEU域内からの移民が急増すると、反大陸欧州感情が高まった。それが国民投票の結果につながったのだろうが、EUという市場自体は相変わらず魅力的である。

 EUからの離脱条件をめぐる交渉がこうまでこじれてしまったのは、人、物、金の自由な流通を掲げる単一市場へのアクセスは維持しながら、何かともめごとの種になる人の流れだけは規制したいという、虫のいい思惑が透けて見えたからではないのか。

「EU側も相当カチンときてたみてえだから、このまま合意なき離脱てなことになったら、おれたちだってどういう立場になるかわかったもんじゃねえや」

 エラリイがぼやくと、

「寝言いってんじゃねえよ」

 ゲオルグは険しい声になった。

「おまえら、西側の白人がひどい目に合うわけねえだろ。フランス人が『移民』つうとき、アメリカやイギリスやドイツから来た白人なんか含めてやしねえじゃねえか。だが、アフリカ系やアラブ系、おれみたいに東側から来た人間は、たとえフランス国籍を取得してたって、どこまでも厄介者の『移民』なんだ。まったく、何が一つのヨーロッパだ。笑わせんな」

 ゲオルグはそう吐きつけると、プイと背を向けて、細い路地を足早に歩き去った。その先に見える明かりが、今夜彼が演奏する店なのだろう。

 エラリイは自転車のハンドルを握ったまま、その後ろ姿を見送った。西と東という、単に方角を示すだけの言葉に込められた怨念の激しさに、呆然と立ち尽くして。



「結局、あいつが民族がどうとかっつってたのは、自分のことだったんだな。たしかに、バルカンのあの辺から来たのかなって、見た目でも何となくわかったから」

 今日は日曜ではないが、エラリイとエースは、サンデーローストという、ローストビーフに温野菜やローストポテトを添えた料理を食べている。  『l'Angleterre』という(「国名にまでいちいち性別と冠詞つけるなっつーの」)、イギリスの食品を取り揃えている店で、ランチボックスのようにして売っていたのを、直輸入の紅茶と共に買ってきたのだ。この店のスタッフも、ブレグジットの行方を固唾をのんで見守っているのだろうか。

「きみの話を聞いていて思ったんだけど」

 エースはポテトをのみこむと、言った。

「シェエラザードの、あれは本当に自爆テロだったんだろうか」

 実は、エラリイも、ニュースを聞いた瞬間、若干の違和感を感じたのだ。たった二度顔を合わせただけだが、彼女が自らの思想信条に基づいてやったのではないことは確信できた。おおかた、誰かに上手いこと言いくるめられたのだろう。これを持ってあの店に行き、ピンを抜け。簡単な仕事だ。上手くやれば、アメリカに連れて行ってやる、とか何とか。

「でも、自爆テロって、たいていはダイナマイトを体に巻きつけるもんじゃないか? 手榴弾一個じゃ、威力はたかがしれているだろう。現に、ブルーノ・タイラー一人が盾になって、被害が他へ及ぶのを防いだじゃないか」

「まあ、そうだけど」

「場所の選択だって疑問だ。ピガールは歓楽街だから、それなりに人は集まるだろう。だが、通常はもっと大規模な被害を及ぼせる場所を選ばないか? ターミナル駅とか、空港とか、コンサート会場とか」

 エースはたたみかけた。

「それに、彼女を背後で操っていた人間がいるなら、なぜ、そいつらは犯行声明を出さない? DNATが出てくるような動きと関係があるなら、なおのことだ」

「うーん」

 エラリイは唸った。エースが言うことは、いちいちもっともに聞こえる。見た目があまりに明らかに思えたので、つい、かすかな不協和音を黙殺していた。そもそも、ゲオルグが言ったように、彼女が同胞に嫌悪感を抱いていたとすれば、ムスリム過激派の誘いにほいほい乗っただろうか。

「だけど、それじゃ、あの子が自分の意思であれをやったことになるぜ。言葉もろくに通じない外国で、手榴弾をどこからか調達して」

「手榴弾はイラクで既に手に入れてたんじゃないかな。アメリカ軍がイラクから完全に撤収したのはニ〇一〇年の一ニ月だ。それまではあちこちで武力衝突が起きていたから、手榴弾なんか、そのへんに落ちてたかもしれない」

 二人はどちらもそこで口をつぐんだ。彼らにとってイラク戦争は今でも、痛みを伴う記憶だった。



 イラク戦争は、第二次湾岸戦争とも呼ばれる。

 一九九一年に起きた湾岸戦争の停戦決議には、イラクの大量破壊兵器不保持義務が定められていた。イラク戦争開戦の際に問題となった大量破壊兵器保持疑惑は、これに違反するものとされたからであろう。

 国連が設置した委員会の調査報告は、いずれも大量破壊兵器の存在を肯定してはいない。しかし、アメリカは二〇〇一年の同時多発テロ事件発生後、イラクのテロ関与を疑い、翌年初頭にはブッシュ大統領(当時)が、イラン、イラク、北朝鮮を、大量破壊兵器を保有するテロ支援国家と、名指しで非難する。

 そこからは、結論先にありきのように、米英はイラク攻撃の準備を進めた。フランス、ドイツ、ロシア、中国がこれに反対し、さらなる査察の継続を求める声も上がった。しかし、米英は国連安保理の決議が得られないまま攻撃に踏み切った。この二国にオーストラリアと、工兵部隊のみ派遣したポーランドが加わったのが有志連合である。

 エラリイとエースは、イギリスがアメリカに追従する姿勢を示した頃には、まだ軍にいた。二人には自国の方針がどうしても納得できなかった。

−−結局、大量破壊兵器の存在は何一つ確認されていないじゃないですか。それなのに、国連の支持もなしに他国を攻撃するんですか? とても正気の沙汰とは思えません。

−−要するに、アメリカは、フセインを血祭りにあげることで、9・11のおとし前をつけたいだけなんじゃねえの? そんなんに巻き込まれたんじゃ迷惑だっつーの。

 これは、軍人にはあるまじき発言だったろう。軍隊は上意下達の組織だ。上官の命令に兵士が忠実に従ってはじめて、戦場での迅速かつ統制のとれた行動が可能になる。一人一人が、いちいち疑問を抱いたり、反論していたのでは、軍事行動は成り立たない。

−−なら、おれたちは除隊するよ。そんな命令がでたら、到底従えない。

 現在でこそ、大量破壊兵器が結局発見されなかったことも、いち早くアメリカに追随したブレア首相が早期退陣したことも判明しているが、当時はまだ予測不能だ。二人は、臆病者だの、敵前逃亡だのと、さんざんに非難された。上官にも説諭された。

−−査察委員会は、たしかに大量破壊兵器が存在するという決定的な証拠は発見していない。だが、それはイラクが大量破壊兵器を保持していないこととイコールではないんだ。単に、イラク政府が調査に非協力的だったせいで、確たる証拠がつかめなかっただけかもしれん。ここでそれを見逃して、イラクがまんまと隠しおおせた兵器を、わが国に対して使用したらどうする。それに、フセインのような独裁者を倒すことは、イラク国民を解放することでもある。イラクの自由のための作戦だということが理解されれば、国連の決議だって得られるはずだ。

 エラリイが驚いたことに、普段はじれったいほどおっとりしているエースが、この時はやたら毅然と反論した。

−−それなら、戦争の準備をするより、イラク政府の協力を取り付け、平和理に査察を遂行する努力をするべきではないのですか? いくら高性能兵器でピンポイント攻撃をするといっても、必ず民間人や病院などの施設に被害を及ぼすことは、過去の事例が証明しているでしょう。そんなことをした軍隊を、イラクの人達が受け入れてくれると思いますか? わたしは、フセインが正しいと言っているわけではありません。平和的解決の道が完全に閉ざされたわけでもないのに、我々同様ごく普通に暮らしているイラクの人々に武力を行使することはできないと言っているんです。

 二人はすさまじい非難と侮蔑を受け、石もて軍を追われた。正式に出撃命令が出た後なら、軍事裁判にかけられていたかもしれない。同じ窯の飯を食った仲間との友情は失われ、イラク戦争終結後も復活することはなかった。あの時投げつけられた言葉の刃のいくつかは、いまだに胸に刺さったままだ。

 ニ〇〇三年三月、有志連合は先制攻撃となる空爆を行なった後、イラクに侵攻した。高性能兵器を駆使した有志連合の攻撃の前に、大規模戦闘はあっさり終結し、開戦後一か月強でイラク全土が攻略された。

 だが、順調だったのはそこまでで、以後の占領政策は難渋をきわめた。少数の人員で勝利したがゆえに、インフラの復旧や治安確保のマンパワーが不足してイラク国民の反発を買い、さらに治安が悪化した。武装勢力がしかけてくるゲリラ戦にも悩まされた。手榴弾のような小型武器は、彼らが多用したものだ。

「多分、アメリカは、独裁者から解放されて、イラク国民が歓呼の声で迎えてくれると思ってたんじゃねえか? ところが、大量破壊兵器は出てこねえわ、イラクの人達は、自分たちの生活を破壊した占領軍に反発するわ、思惑外れもいいとこだったんだろうな」

「……きみは、シェエラザードがアラブ以外の血を引いているんじゃないかと言ったね」

 エースが再び口を開いたのは、エラリイが食後の茶をいれている時だった。「アイスでいいよな?」

 ティーバッグで濃い目に熱湯出しした紅茶を、氷を入れたマグカップに注ぎながら、

「すごく明るい茶色の目をしてたんだ」

 ちょうどこの紅茶のように澄んだ色だった、とエラリイは回想した。

「きみは、彼女の両親の、どちらが何人だと思う?」

「あの子はちょうど、占領下のイラクで生まれ育ったみたいだから、母親がイラク人で、父親がアメリカ人てパターンかな」

「その可能性が一番高いだろうね。そして、おそらく、彼女の両親の結びつきはロミオとジュリエットのような悲恋というわけではなかったんじゃないだろうか」

 紅茶が苦い。少し出しすぎたのだろうか。そう、十中八九、シェエラザードの母親は、アメリカ兵にレイプされたのだ。そのせいで母子はムスリムの共同体からつまはじきにされた。シェエラザードが同胞に心を開こうとしなかったのはそのせいだと考えれば、つじつまが合う。

「じゃあ、あの子は、父親に復讐するためにアメリカへ行こうとしてたのか? あんな物騒なものを持って」 

 エースは、心持ち首をかしげた。

「きみはどういう印象を受けた?」

 今度はエラリイが首をひねった。

−−あなた、アメリカ人?

 そう言って、エラリイの顔を覗き込んできた好奇心いっぱいの瞳。そこには父親を殺したいという暗い情念は微塵も感じられなかった、と思う。

「じゃあ、一体、あの子は何のためにあんなことをしたんだろう」

「それがわかれば、シャールくんが無関係だってこともはっきりするんだろうけどね」

 だが、シェエラザードは誰にも胸の内を明かさぬまま爆死してしまった。

 もちろん、挙証責任の観点からいえば、捜査側がシェエラザードの行為はテロだったことや、シャールがそれに関与したことを立証しなければならず、こちらが無実の証明をする必要はない。しかし、実際問題、少なくとも身柄の早期解放を目指すなら、捜査側の立証の不十分性を主張するだけでは足りない。シャールが(生まれた時からフランス国籍を持つキリスト教徒であっても)アラブ系で、テロが疑われる事案となれば、なおさらだ。

 エラリイは、イギリスにいた頃、貴族だの労働者階級だの、ロンドンのどこの出身だのというカテゴライズが鬱陶しくてならなかった。今さらあの国には

帰りたくない。ブレグジットがハードランディングして、フランスに居づらくなったらいやだなと思うのはそのためだ。

 だが、世界はさらに抜き差しならない鉄の枠組みに、がっちりととらえられているようなのだった。



3


 風は思わぬところから吹いてきた。

 正午まで後一五分を残すという時、エラリイの執務室に、その日の受付を務めるシルフィードから内線電話がかかってきた。

−−ゲオルグ・アントネスクとおっしゃる方からお電話なんですが、お出になりますか?」

 昨日気まずく別れたバイオリン弾き以外、その名に心あたりはない。戸惑いながらも「出るよ」と答えて、点滅しているボタンを押すと、あのゲオルグのものと思われるしゃがれ声が飛び込んできた。

−−おまえ、弁護士だったんだな」

「そうだけど、仕事の話なんかしたっけ」

−−いいや。ユフィルさんが、アメリカ人をおれのところへ寄越したんだ。おれが銀髪の弁護士を知っているはずだから、紹介して貰えって」

「ユフィル?」

 ユフィルは、『ル・プランタン』のオーナーだ。以前、店のスタッフがしょっぴかれた際に、エラリイが司法扶助弁護士に任命され、ユフィルにも事情を聴きにいった。高級そうなスーツにボルサリーノをかぶっていたのを覚えている。気障な男だから、この猛暑の中でもあんな格好をしているかもしれない。

 それよりも、聞き捨てならないのは「アメリカ人」という言葉だ。

「アメリカ人て誰だよ? シェエラザードが探してた奴か?」

−−そんなこと、おれが知るかよ。ブルーノ・タイラーの知り合いで、一緒にイラクへ行ったらしいんだが、DNA型鑑定をしたいから検体になるものが残ってないか、店に訊きにきたんだそうだ」

 どうも話が見えない。

「よくわかんねえけど、そういうことなら、パリ警視庁へ行った方が早いんじゃねえの? てか、DNA型鑑定って、ブルーノの? 何のためにそんなことするのさ?」

−−ブルーノだけじゃねえ。あの子と二人共らしい。ユフィルさんも警察へ行けっつったらしいんだが、あれこれ事情を説明したくないんだとさ。頼むから、そのあたりは本人から直接聞いてくれよ。ブルーノもそうだったが、アメリカ人の英語は聞き取りにくいんだ。やたら早口で、ダラダラ連音でしゃべるから」

 ゲオルグは心底うんざりしているようだ。何でも、昨日、彼とエラリイが連れ立って歩いているのを、ブルーノの後釜に座った男が見ていたらしい。ユフィルはアメリカ人の訪問を受けて、その報告を思い出し、面倒をゲオルグに押しつけようとしたようだ。もう一か月、以前と同じショバ代で街頭演奏していいから、アメリカ人をエラリイに引合わせろと言ってきたそうだ。エラリイはイギリス人なので英語が通じるし、弁護士だから警察に上手くかけあってくれるかもしれないと。

 エラリイはため息をついた。

「事務所に来てくれたら話を聞くけど、通常の法律相談として扱わせて貰うよ」

−−おまえの事務所なんか、どこにあるのか知らねえよ」

「この電話番号は何で知ってんだ?」

−−ユフィルさんに教えられたんだ。なあ、おれはこんなことに長々とかかずらわってる暇はねえんだよ。おれたち、『東側』の『移民』には低賃金の仕事しかまわってこねえから、数をこなさなきゃ生活できねえんだ」

「おれに八つ当たるな」

 結局、ゲオルグが指定したカフェで、少し早目の昼食がてらアメリカ人の話を聴くことになった。

 エラリイは受話器を持ったままフックスイッチを押すと、エースの内線番号をプッシュした。

 


 アメリカ人は、ダニエル・カークランドといった。元軍人だけあって体格はいいが、表情は柔和で、物腰も穏やかだ。弁護士が二人現れたので、費用が倍加するのではないかと心配する様は、ひどく気弱そうに見えた。エラリイは、案件が一つなら、弁護士の人数に関わりなく費用は一定だと説明した。

「とりあえず、ここでのお話には料金はいただきません。ご事情をうかがった上で、何らかの交渉なり、法的手続が必要な場合は、その時に相談しましょう」

と、ここへくる途中、エースと話し合った方針を告げた。カークランドの身体からわずかに力が抜ける。それでも、なお、

「どこから話せばいいのかな」

と、身を揉む相手に、

「では、とりあえず、時間の順番に」

 エースが、こういう場合にいつも言うことを言った。

 ゲオルグは三人を引き合わせると、そそくさとその場を立ち去った。彼に手数をかけたことには違いないので、

「悪かったな。今度おごるよ」

と、エラリイは声をかけた。

 ゲオルグがいなくなってからも、カークランドはなおしばらく躊躇していたが、唇を舌で湿して訥々と語り始めた。



 ぼくとブルーノは同じ町で生まれ育ちました。といっても、幼なじみというほど気安い間柄ではありません。ブルーノの方が年上でしたし、ぼくの家が小さな修理工場だったのに対し、ブルーノの実家は大手メーカーから部品の発注を受けるような大規模工場を経営していて、町の住人の大多数がその工場で働いていました。ぼくにとってブルーノは、全てにおいてぼくよりランクが上の、いわば憧れの先輩だったんです。ぼくがハイスクールを卒業後、軍に入ったのも、ブルーノの影響だったかもしれません。半年ほど訓練を受けてイラクへ行き、ブルーノと同じ小隊に配属された時は感激したものです。

 ご存知のように、イラク戦争は、予めイラク周辺に集結させておいた航空機や艦船により、空爆やミサイル爆撃を行なった上で地上部隊が侵攻したので、さながら無人の荒野をゆくように全土を制圧できました。ぼくらも凱旋将軍のように、意気揚々とイラクにのりこんでいったんです。

 しかし、ぼくが派遣されたニ〇〇八年には、内情はかなり悪化していました。抵抗勢力がゲリラ戦法で襲撃してくるため、夜は交代で張り番。昼間の索敵行動も、始終神経を張りつめていなければなりませんでした。民間人の何気ない動作に反応して発砲してしまう者もいましたし、小さな村を掃討作戦と称して攻撃したこともあります。

 自分がイラクへ行くまで、ぼくはこの戦争は、イラクに自由と民主主義をもたらすものだと信じていました。でも、現地でぼくらがやったことは、とても正義の味方がすることではありません。それでも、命令なら、そして、自分が殺られないためにはやるしかない。そんなストレスが極限にまで高まった時、あの事件が起きたんです。

 いや、事件という言い方はごまかしですね。あれは犯罪以外の何ものでもなかった。ある夕暮れ時、たまたまたった一人でぼくらの視界を横切ろうとした女性を、ブルーノを筆頭に、その場にいた四人で強姦したんです。



 カークランドの顔が歪み、両手がジーンズの膝をつかんだ。

「こうして、平和な街で話していると、自分たちがどんな蛮行をおかしたのか、よくわかります。でも、あの時は、ああすることが、この上なく自然で合理的なことに思えました。こうして、自分たちの優位を確認することで、必要以上にイラク人に脅えなくてすむ。自分たちには、こうすることが必要なのだと……」

 カークランドはいったん口を噤んで項垂れた。苦痛に耐えて行なってきた作業を中断して喘ぐ人のように。

 エラリイはエースと目を見交わした。おそらく、イギリスの帰還兵の中にも、彼のように忌まわしい記憶に苛まれている者が少なからずいるのではないか。

(そらみろ)

 彼は、軍隊時代の幻影に向かって吐き捨てた。

(おれの言った通りじゃねえか)

 だが、彼らは決してそうとは認めないだろう。なぜなら、彼らは戦場に行ったからだ。そこでどんな地獄を見、何を思ったとしても、やはりそれは、彼らの勲章なのだ。その体験の前に、エラリイは負い目と共に口を噤むしかない。

 カークランドがまた話し始めた。



 その後すぐ、別の町に向かわされたこともあって、ぼくはその出来事から目をそらしていられました。あるいは、イラク滞在期間が長くなるにつれ、神経が鈍麻していったのかもしれません。

 各地を転々として、再びあの場所に戻った時、ぼくはようやく己の所業に思い至りました。

 その町の建造物は爆撃で軒並み破壊され、住民はテント村のようなところに身を寄せ合って暮らしていました。以前見た時から、復興はまるで進んでいません。そのはずれに、ひときわ小さくてみすぼらしいテントが一つ、ぽつんと張られていました。まだ少女のような母親が赤ん坊と二人で暮らしています。時折、村の人間が生活物資をテントに運んでいましたが、その態度はまるで、汚いものにいやいや触れるかのようでした。

 ぼくらは現地の言葉をまるで解しませんでしたが、一年も居れば断片的に聞き取れる言葉も出てきます。お粗末な語彙に彼らの表情や身振りを合わせて察するに、テントの女性はどうやら、父親のわからない子供を産んだようでした。ムスリムは戒律が厳しいので、彼女はいわゆる村八分にあったのでしょう。

 そう理解した瞬間、ある可能性が電撃のように閃いて、目がくらみました。

 あの母親は、あの時ぼくたちが襲った娘ではないだろうか。そうだとすると、赤ん坊の父親は、ぼくたち四人のうち誰かということになります。そう思って見ると、彼女がぼくたちに向ける視線が射るように鋭いものに感じられました。まるで、誰がこの子の父親か見定めようとしているかのように。ぼくたちはあの時の女性の顔など覚えてはいませんでしたが、被害者の記憶には焼きついているかもしれません。

 ぼくは、日に何度も、双眼鏡を二人のテントに向けるようになりました。彼女が赤ん坊を抱いている時は、赤ん坊に焦点を合わせて、その顔に自分たちの遺伝の痕跡が見て取れないかと目を凝らしました。赤ん坊は、肌の色も髪の色も、アラブ人にしては薄く明るいように見えました。でも、まだ一歳にもならぬ子供の顔が誰に似ているかなど、わからないですよね。それでも、ぼくは二人から目を離すことができませんでした。

 やがて、二人は、夢の中にも現われるようになりました。母親が、ぼくそっくりの男の子を連れて、ぼくの前に立ち、黙って人差し指を突きつけてくるのです。ぼくは神経衰弱のようになって、アメリカに帰還しました。

 ぼくが従軍していた二年間の間に、故郷の町は一変していました。町で一番目立つ存在だったブルーノの実家の工場が閉鎖されていたのです。タイラー家の人々は離散し、工場で働いていた人達も、多くは仕事を探して町を出たそうです。皮肉なことに、個人客を相手にほそぼそとやっていたぼくの家の方が、時代の波を受ける割合が小さく、生き残ることができたのでした。

 学生時代、ぼくは父の零細な工場を軽蔑していました。自分はもっと大きなことをするんだ、それだけの器を持っているのだと思い込んでいたんです。でも、イラクでの日々は、そんな若者ならではの青臭い野心も思い上がりも、打ち砕いてしまいました。

 体調が少し落ち着いてくると、ぼくは父の仕事を手伝い始めました。今ではぼくが二代目経営者です。ハイスクールの同級生だった女性と平凡な結婚をし、子供も生まれました。風の噂に、ブルーノも本国に帰還し、家族には再会できないまま、シカゴで用心棒のような仕事をしていると聞きましたが、その頃のぼくにはひどく遠いことのように思えました。彼はもうぼくの輝かしい偶像ではなくなっていたし、日々の営みと時間の流れの中で、イラクの記憶も少しずつ風化していきました。

 しかし、過去というものはどこまでもついてくるものなんですね。パリで起きたあの事件のニュースが、ぼくを一気にイラクへ引き戻しました。爆破の瞬間までを、通行人が携帯カメラで撮影した動画がテレビニュースで流れたでしょう。自爆犯が手榴弾を差し出すようにしてブルーノに近づいてゆく、あの映像です。女性は薄笑みを浮かべたような表情で、ブルーノの顔は驚愕に引き攣っていました。二人の顔が間近に突き合わされた一瞬、ぼくは直感したんです。

 あの自爆犯は、ぼくたちがレイプしたイラク女性の子供だ。そして、彼女の父親はブルーノだと。

 その映像は繰り返しニュースで流れたので、ぼくはそれを録画し、静止画像にして何度も目を凝らしました。そんなのは、ぼくの脳が勝手につくり出した幻想かもしれない。イラクでのあの出来事を知らない人には、妄想としか思えないでしょう。でも、二人の横顔の骨格は、何度見ても鏡に映したようにそっくりなんです。



「それで、二人が父子であることを確かめるためにパリへいらしたんですか?」

 エースが遠慮がちに訊ねた。エラリイは、どうも合点がいかなかった。そんなことをして、何の意味があるのか。

「ブルーノだけでなく、ぼくもです。いくら二人の顔がそっくりに見えたからといって、ぼくが父親である可能性が否定されたわけではありませんから」

「それで、いずれかとの親子関係が確認された場合、あなたはどうなさるおつもりなんですか?」

 エースの問いに、エラリイも身を乗り出した。それが知りたいところだった。 

「もし、彼女の父親がブルーノだったら、二人の髪の毛一本ずつでも町に持ち帰って、一緒に葬ってやりたいと思います。町の人達は、できればブルーノを町葬にしたいなんて言ってますから。彼らにとってタイラー家は、町が右肩上がりに繁栄していた頃の象徴で、懐かしくてならないのでしょう。もちろん、イラクでの話などはせず、遺品が手に入ったとだけ言うつもりでした」

「では、もし、彼女があなたのお子さんだったら?」

 カークランドは唇をなめた。

「その場合は、少し話が違ってきます。ぼくは遺族になりますから遺体を引き取れますよね。彼女はアメリカへ行きたがっていたといいますから、望み通り連れて行ってやろうと思います」

「アメリカで弔ってやるってこと?」

 エラリイが訊いた。

「そうです。その場合、家族には真実を話さなければならないでしょう」

「それは、よく考えた方がいいいんじゃないか?」

 思わず、口をついて出た。

「それって、打ち明ける方も辛いだろうけど、聞かされる方もたまんないぜ。しかも、シェエラザードは自爆死してるんだ。あんたの家族はそんなことまで背負い込まなくちゃならないのか?」

 エースも小さく頷いている。カークランドは二人に反発するように語気を強めた。

「では、このまま、どこまでも、知らん顔を決め込むべきだというんですか? 何年も前に遠い国で起きたことなのをいいことに」

「別に、あんたがあの子をきちんと弔ってやりたいと思うなら、それはそれでいいけどさ。他人を巻き込むんなら、やり方を考えた方がいいっつってるんだよ」

 カークランドは目を伏せた。

「ぼくも、そういうことを考えなかったわけではありません。ですが、家族が受け入れやすいように経緯を脚色したとしても、やはり疑惑は残るんじゃないでしょうか。だったら、嘘に苦しめられるより、真実に傷つく方が、ましだと思うんです」

 エラリイ達の反論を遮るように、彼は急き込んで続けた。

「ぼくは、国家の嘘に騙されてイラクへ行きました。イラクの人達をフセインの圧政から解放し、あの国を自由化するのだと。しかし、そこで見せつけられたのは、人間が同じ人間に対してどれほど残酷になれるかという現実でした。それも、他ならぬ自分自身が残虐な行為をする姿だったんです。帰還兵の証言を聞くと、ぼくのような経験をした者が大勢いたことがわかります。掃討作戦で撃ったイラク人の胸を、小隊長の命令で踏みつけ、その感触が今だに忘れられないという兵士もいました。戦後、アメリカに同調した外国の首脳が退陣に追い込まれたり、アメリカは石油がほしくてイラクに攻め込んだなどという批判を耳にすると、あの犠牲は何だったのだろうと思いました。それに値するものなど、何一つなかったじゃないか。アメリカの指導力は低下し、原油価格は高騰し、それに乗じたロシアが、天然ガスを供給することで欧州に対する影響力を拡大しようとして−−」

 エラリイは手を上げてカークランドの演説を遮った。彼は傷ついたような表情になったが、これ以上話が大きくなると、時間がいくらあっても足りない。

「要するに、あんたは、イラクでの経験と、その後に見えてきた真相に二重に傷つけられた。だから、家族には、最初から身も蓋もない現実を突きつけた方が親切じゃないかと思ってるわけだな? でも、それって、そもそも、同列に論じられることなのか? きついこと言うようだけど、あんたは手っ取り早く懺悔して、あわよくば許されて、自分が楽になりたいだけなんじゃねえの?」

 カークランドはさっと気色ばんだ。エラリイも怯まずに見返した。

(たしかに、あんたは国家に騙されたかもしれないけど)

 彼は、カークランドの背後に、軍を去る自分とエースに轟々たる非難を浴びせた、かつての僚友達を見た。

(だけど、ちょっと考えりゃ、『イラクの自由作戦』なんて、まやかしだってわかりそうなもんじゃねえか。イラクが大量破壊兵器を保持している証拠が出てこなかったり、イラク攻撃についての国連決議が得られなかった時点で、あの戦いに大義なんかないって悟れよ)

「カークランドさん」

 エースがとりなすように口をはさんだ。

「エラリイは、あなたの本心が今言ったようなものだと決めつけているわけではありません。ただ、まかり間違えばあなたのご家庭を破壊しかねないことなので、ご自身の気持ちにきちんと向き合った上で結論を出してほしいと言っているんです」

 同じことでも、言い方次第でこうも違うものかと、エラリイは感心した。カークランドも少しは納得がいったようだ。

 エースは何度か唾を飲み込んでから、思い切ったように言った。

「もしあなたが、今回の事件に際して、どうしても何か行動を起こしたいと思われるなら、大変虫のいい話で申し訳ないのですが、イラクであったことを、爆破事件の捜査官に話して頂けないでしょうか。もちろん、ぼくの方からも、鑑定資料の提供や、法的鑑定を要求します。あなたの陳述の内容は守秘義務の範囲内なので、外に漏れることはないでしょう」

 エースは、なぜ自分がこんなことを言い出したのか、つまり、自分が、事件の関係者だとされて逮捕された人物の弁護人だという立場を告げた。

「つまり、あなた達も、ぼくを利用しようとしているわけだ」

 カークランドは口を歪めた。

「その通りです。申し訳ありません」

 エースは頭を下げた。

「実は、シェエラザードが、イラク占領軍の兵士と現地の女性の間に生まれた子供ではないかという想像は、ぼく達もしていたんです。あの事件は一見、明らかなテロのように見えて、その実、しっくりこない点がいくつもあります。もちろん、真相を知っているのは、シェエラザードただ一人です。彼女はなぜアメリカへ行きたがったのか、父親を探していたのなら、会ってどうするつもりだったのか、なぜあの店に手榴弾を持って飛び込もうとしたのか。しかし、それらがあますところなく解明されなくとも、あれがテロではなく、個人的な動機で引き起こされたものかもしれないという疑いが高まれば、依頼者の嫌疑の前提が崩れる可能性が出てくるんです」

 エラリイは半ばあきれて、エースの紳士然とした顔を眺めた。彼は、どうせ罪を告白するなら、それを聞いて心を痛めるであろう家族よりも、パリの官憲にしろと持ちかけているのだ。言外に、それによって一人の若者が冤罪から救われるなら、イラクでの所業は償われたと考えていいという唆しすら感じられる。

 考えようによれば、神をも恐れぬ駆け引きだ。罪というものは、人間の勝手な解釈でちゃらにできるものではない。

(でも、それが何だっていうんだ)

 エラリイは思う。神が償いの道をお示しにならないのなら、一番良さそうな落としどころを人間が決めてもいいではないか。

 カークランドの悩み疲れた心も、この取引にそそられ始めたようだ。彼はおずおずと口を開いた。

「イラクでのことを話して、こちらで罪に問われるということはないでしょうか」

「イラクでアメリカ人が行なった行為は、フランス当局の管轄外でしょう」

(なんだよ。自分の家庭を壊してでも罪を償いたいなんて言ってるくせに、性犯罪で処罰されるのはいやなのか)

 エラリイは可笑しくなったが、非難する気持ちにはなれなかった。大方の人間の良心というものは、このように中途半端なものだ。そして、まるっきりの悪党にも、聖人君子にもなれない中途半端な人間が、一番くよくよ思い悩まねばならないのだ。

 カークランドはなおも逡巡していたが、やがて顔を上げた。

「わかりました。捜査官にイラクであったことをお話します。それが一番、手っ取り早く鑑定を受けられそうですから。すみませんが、今から警察にご同道願えますか?」



4


 シャールが釈放された翌朝、エースの執務室には再びブルカを纏った一群が押し寄せた。

 DNA型鑑定の結果、ブルーノとシェエラザードは九七パーセント以上の確率で親子であるとされた。その事実が、トランプで建てた家と同じぐらい脆弱だったシャールの嫌疑を突き崩したのだろう。

 エラリイは、出がけに、もみくちゃにされたエースが、髪をなでつけながら彼らを見送る姿をちらりと目におさめた。その日は日が暮れるまで事務所に戻れず、戻るとすぐ急ぎの書面の作成にかからねばならなかった。

(ちくしょー、腹へった)

と思いながら、パソコンのキーボードを叩いていると、執務室のドアにノックの音がした。

「どうぞ」

 呼び入れると、エースが小さなトレイを手に入ってきた。トレイにはモノップで買ったらしいサンドイッチとジュースのペットボトル、紙のカップが二つのっている。

 エースがそれらを机の上に置き、氷が入ったカップにオレンジジュースを注ぐと、エラリイはカップを奪い取るようにして呷った。

「あー、生き返った」

 中身がほとんどなくなったカップを置くと、エラリイはおもむろにサンドイッチにパクついた。エースがペットボトルに残ったジュースを注ぎ足してくれた。

「おまえも、今戻ったの?」

 エースは頷いた。音楽学校の校長に頼まれて、夕食時に寮内放送で、事件について説明したのだそうだ。つまり、シャールの釈放は、いわゆる証拠不十分ではなく、そもそもあの事件自体、テロではないかもしれないという疑念も出ていることを、守秘義務が許す範囲で話してきたそうだ。

「そもそも、シャールが疑いをかけられた唯一の根拠といっていい十字架からして、大きな矛盾があったんだ」

 ラファエル警部は、それについて率直に語ってくれたらしい。

「あの十字架は、指紋が綺麗に拭われていたそうだ。シャールくんが知らずに現場に落としたなら、そんなことができたはずはないし、彼が指紋を拭き取った上でわざわざ現場に落としていく理由はさらにわからない。それに、あれが発見されたのは、警察が現場をくまなく捜索した後だった。ラファエル警部は、誰かが悪意を持って、十字架をあそこに置いたと考えているようだ」

 エラリイは眉を顰めた。音楽学校の人間の陳述では、シャールは事件の少し前に、学校内で十字架をなくしている。ということは−−

−−確証もないのにこんなことを言ってはいけないのですが、競争の激しい世界ですからね。

と、ラファエルは言ったそうだ。

 もし、その推測が当たっているなら、その小さな行為がどれだけ事実をねじ曲げるところだったかと、エラリイは背筋が寒くなった。 

 カークランドが言及したニュース映像は、その後、エラリイも何度か目にしていた。シェエラザードは花束を持ってステージに駆け寄るファンのように、ブルーノめがけて突進していた。ただの偶然だったのか、自分と母親につらい運命を強いた男と無理心中を図ろうとしたのかはわからない。あの子は驚くほど無邪気でもの知らずなところがあったから、案外、父親に手榴弾をプレゼントするつもりだったのかもしれない。

 ブルーノの方は、あの一瞬に、彼女が自分の娘だと悟ったのだろうか。だからこそ、エラリイの目には彼にそぐわないと映った、自己犠牲的な行動をとったのだろうか。

 いずれも、いくら考えても、当人達以外にわかることではなかった。

「それで、学校のみんなは、シャールの潔白を信じてくれたの?」

「そうだといいんだけど、ぼくはマイクの前でしゃべっただけだから、どんな反応があったのか、よくわからないんだ。ぼくにカリスマ性があったら、皆を感動させて、シャールくんは無実に違いないと思ってもらえるんだろうけど」

「ガラでもねえこと言うなよ」

 エラリイは笑いとばしたが、どうやら、本当に感動したらしい者がいたのである。



 日が沈んだばかりの空は青く底光りがし、輝き始めた星が水底の宝石のようだ。エラリイはこの時分の空が好きだった。

 水のような空。それに比べて、地上の暑さといったら。

 大気が皮膚に触れている部分が、妙に生ぬるい。それは、外気の温度が体温よりも高い時の感覚だった。いつになったら、欧州はこの熱波から解放されるのだろう。 

 事務所に入ろうとして、彼は、並木の陰に隠れるように立っている少年に気づいた。姿は薄暮に沈みながらも、目だけが二つのエメラルドのようにきらきらと光っている。

「うちの事務所に用事?」

 エラリイは気さくに声をかけた。

「エースナイト先生はいらっしゃいますか?」

 少年は英語で訊ねた。エラリイの外貌が、少年と同じアングロサクソンのものだからだろう。

「ぼくは一日出てたからわからないけど、約束しているの?」

 エラリイも英語にきりかえた。

「いえ、先生のお時間が空いている時でいいんですが」

「それなら、なおさら、中で訊いた方がいいよ」

 エラリイは彼を促して、建物の中に入った。受付で訊ねると、エースは今日は直帰するらしい。エラリイは少年を自分の執務室に連れて行って、冷蔵庫のジュースを飲ませた。端然とした風を保っているものの、彼が熱中症寸前なのが見て取れたからだ。

「きみ、もしかして、音楽学校の生徒さん?」

「はい。リロイ・ウェントワースといいます」

「おれは、エラリイ・スターリング」

 リロイのカップにもう一杯ジュースを注ぐと、一息で半分ほどがなくなった。よほど喉が乾いていたのだろう。

「エースに何の用事? 法律相談?」

「違います」

「何にしろ、あんなとこに突っ立ってたって埒はあかねえぜ。連絡先を教えてくれたら、エースに電話するように言っとくけど」

「いえ」

 リロイは小さくかぶりを振った。

「よく考えたら、お忙しい先生を煩わせるようなことではないですし」

 エラリイは少年の方に少し身をかがめた。

「なあ、エースがおたくの寮でやったスピーチって、どんなだったの?」

 唐突な質問に、リロイは目をぱちくりさせた。一瞬おいて、

「いいお話でした」

と答える。

「きれいな言葉や、大げさなことをおっしゃったわけではなく、むしろ、簡素で淡々としたお話でしたが、胸に響くものがありました。他のみんなもそうだったんじゃないかと思います。終わってからしばらく、誰も声をたてませんでした。本当に心を打たれた時って、そういうものじゃないですか?」

 リロイは記憶をまさぐるように視線を宙にとばし、エースの話を次のように再現した。



 わたしは、シャール・ロメールくんの弁護士のラエスリール・エースナイトといいます。シャールくんは、先日、ピガールで起きた爆破事件との関連を疑われて警察留置されましたが、嫌疑が晴れ、無事釈放されました。そのことについて、少し説明させていただきたいと思います。

 わたしが皆さんにわかってほしいのは、シャールくんが釈放されたのは、よくいう証拠不十分ではなく、嫌疑そのものが失われたからだということです。シャールくんは、不幸な偶然によって事件に巻き込まれただけで、警察が疑ったような事実は、そもそも存在しなかったのです。推理小説などによく出てくる「限りなく黒に近いグレー」ではなく、全くの潔白であることを、皆さんにも信じていただきたいと思います。

 あの事件には、人々の思考を一定の方向に向かわせるモチーフがちりばめられていました。ムスリムの女性が繁華街で爆死した。おそらく、大多数の人が、ムスリムの自爆テロと考えてしまったでしょう。メディアもそのように報道していたと記憶しています。

 しかし、もう少し具体的な状況がわかった時点で、小さな違和感を覚えた人も、また多かったのではないでしょうか。

 たとえば、たいていの自爆テロでは、実行犯はダイナマイトを体に巻きつけて爆死しますが、この事件に使用された爆発物は手榴弾一個です。事件が起きた場所も、空港や、ターミナル駅、コンサート会場などではなく、ピガールの飲食店でした。時刻は午後八時と、まだ宵の口で、人が十分集まっていたともいえません。しかも、待てど暮せど、どの組織も犯行声明を出さないのです。

 こういった違和感をつきつめていけば、捜査側にも、あれはテロではなかったのかもしれないという疑いが生じたかもしれません。たとえば、標的となった店なり、その場にいた人物なりに対する個人的な動機があったかもしれないのです。

 しかし、ムスリム、爆死というモチーフがあまりにも典型的だったので、多くの人がその違和感を黙殺してしまいました。かくいうわたしもその一人です。シャールくんの弁護人にならなければ、そもそもあれは本当にテロだったのだろうかという疑問に、真剣に向き合うことはなかったかもしれません……



 エースの言う違和感には、エラリイも心当たりがあった。あのニュースを聞いた時、ちくちくと胸を刺すような感覚があったのに、それを無視して、わかりやすい筋書きにとびついてしまった。エースにその違和感をもう一度呼び覚されるまで、思い出そうともしなかった。

 もちろん、あれがテロだった可能性が完全に否定されたわけではない。だが、カークランドが現れて過去の因縁が明らかにされた今、それは考えにくくなったといえよう。

 エラリイは正直、カークランドと顔を突き合わせていた間は、彼を軽侮していた。うだうだきれいごとばかり並べて、何とか自分がイラクでしたことをなかったことにしたがっている、辛気くさい野郎だと。

(でも、あいつは海を渡って、真相を確かめに来た。シェエラザードとブルーノの骨格が似ているなんて気のせいだ、写真のうつり具合だと目を背けることもできたのに、わざわざDNA型鑑定をしに来たんだ)

 それはそれで勇者の振る舞いといっていいのではないかと、エラリイは今では思っている。

「エースナイト先生は、最後にこんなことをおっしゃいました」

 リロイのやわらかい声が、エラリイのもの想いを破った。



−−皆さんは音楽家です。わたしのように、音楽を聴くことしかできない人間には、皆さんが羨ましくてなりません。もちろん、わたしなどには想像もできない、血を吐くような鍛錬の日々をおくられているであろう皆さんは、そんな簡単に言ってほしくないよと思われるかもしれません。それでも、わたしは、敢えて羨ましいと言いたいのです。

 この世界は、矛盾や、不公平や、暴力や、争いや、悲惨や、その他さまざまな理不尽に満ちています。ですが、皆さんは、善いもの、美しいものもやはり存在するのだということを、ご自身の演奏で示すことができるのです。その能力が、わたしにはとても羨ましい。

 どうか、これからも、美しい音楽を奏で続けて下さい。わたしも、皆さんより上の世代の人間として、この世界を今より少しでも良いものにして皆さんに引き渡せるよう努力していきたいと思います。



(気障だなぁー)

 エラリイは顔が熱くなった。あいつは、どちらかというと口下手なくせに、こういうこっ恥ずかしいことを、しれっと語れるのだ。

「きみは、それに感動したの?」

「はい」

 リロイは、はにかんだように頷いた。

「感動して、エースに何か懺悔しにきたわけ?」

 これはあてずっぽうだったが、リロイは緑色の目を大きく見開いて、息を止めた。

 その息をそっと吐きながら、

「スターリング先生は、事件のことをどこまでご存知なんですか?」

と、訊ねた。

「おれは、あの事件を受任したわけじゃないから、ニュースでいってる程度のことしか知らないよ。ただ、わりと重要な証言をしてくれた人が、おれ経由でエースに会ってるから、そのあたりのいきさつには多少詳しいかもな」

「重要な証言……」

「心配しなくても、きみがあれをあそこに置いたのを目撃したなんていう話じゃないよ」

 リロイにその点についてやましいところがなければ何のことかわからない言い方だが、彼は赤面した。こちらも図星だったようだ。

「シャールがなくした十字架を見つけたのはきみだったんだね」

「そうです」

 リロイが目を伏せると、長い睫毛が瞳を暗緑色に翳らせた。

「あの日、ぼくはシャールくんの次にレッスン室を使うことになっていたんです」

 あの日、というのは、エラリイがシャールに初めて出会った日のことであるようだ。練習の虫のシャールは、自分がレッスン室を使う時間を待ちきれず、街頭へ弾きに出ていたらしい。ブルーノとひと揉めし、学校へ戻って、レッスン室を使い始めると、今度は自分の時間枠が過ぎたことに気づかずに弾き続けた。外で待っていたリロイは、試験前でぴりぴりしていたこともあり、強引にレッスン室に押し入ったそうだ。シャールは大慌てで楽器と譜面を片付け、部屋を飛び出して行った。

「多分、その時に十字架を落としたんでしょう。ぼくは退室する時に気づいて、すぐ彼に届けるつもりで拾い上げました」

 しかし、レッスン棟の廊下を歩いているうちに、ふと、試験の時にこの十字架がなければ、シャールの演奏はどうなるだろうという考えが兆した。大事なお守りがないせいで、彼の演奏が乱れれば、万年二位のリロイがトップに立てるかもしれない。

「もちろん、そんなことにはならないだろうとは思いました。でも、試さずにはおれなかったんです」

 リロイは試験の日まで十字架を見つけたことを秘し、結果、またもシャールの後塵を拝した。苦い自嘲と共に、十字架を返すタイミングを見計らっていたところへ、爆破事件が起きたのだった。

 リロイは、人々が献花をする場面をニュースで見ているうちに、自分でも判然としない衝動にかられて、昼休みに学校を抜け出し、花束と十字架を現場に置いてきてしまったのだという。

「その時は、テストの時と同じで、どうせ何も起こらないと思っていました。だから、学校に警察がきて、シャールを連れて行った時には……」

 リロイは、両腕で自分の体を抱いた。

 エラリイは、リロイの貴族的な顔の中で、緑色の瞳だけが妙にぎらぎら光って見える理由がわかったような気がした。事がそこまで大きくなってしまった以上、かえって何も言い出せず、ずっと懊悩していたに違いない。エースの聴取に協力したのも、シャールの逮捕に責任を感じていたからではないか。その場に手帳を持参していたと聞いたが、それは、エースに顔色を気取られないための小道具だったのかもしれない。

「それで? シャールに何もかも打ち明けて謝るべきかどうか、エースに相談に来たわけ?」

 何だか、カークランドの時と状況が似てきたなと思いながら、エラリイは訊いた。

「それもありますが、他にも……あんなことをしたぼくに音楽を続ける資格があるのかとか。ただ、音楽をやめるなら、イギリスに戻って法律の勉強をしなければなりません。先生もご存じのように、ウェントワース家は代々判事を輩出している家柄なので、祖母はぼくにも判事になってほしいんです。ですが、友人にあんな卑劣なことをしたぼくが判事になるなんて、笑止千万ですよね」

「そんなことに答えを出せる奴なんか、いねえよ」

 エラリイは、片肘をついて、手のひらに頰をのせた。

「たとえば、あんたが音楽をやめて、判事になったとする。同僚が先に出世しそうになったら、またぞろ小細工をしたくなるようなトンデモ判事なら、エースが言ったように、バイオリンできれいな音楽奏でててくれた方がいいんだろうけど、あるいは、自分の経験を踏まえて名判事になるかもしれない。そんなの、予めわかるわけねえだろ?」

「……」

「だったら、もう、あんたが心からそうしたいっていう道を選べばいいんじゃねえの? そうすりゃ、どんな結果になっても、少なくとも自分は納得できるじゃねえ。これはおれの私見だけど、自分が不幸になるような選択をすれば償ったことになるなんてのは、ただの勘違いだぜ」

 リロイの瞳がはっと見開かれた。彼はしばらく黙っていたが、やがてコップに残ったジュースをゆっくり飲み干した。

「先生が今おっしゃったことは、じっくり考えてみます。お忙しいのにお時間割いて頂いてありがとうございました。もうすぐ門限なので、今日はこれで失礼します」

 一礼すると、静かに執務室を出て行った。



 数日後、エラリイは、エースから一通の手紙を見せられた。

 封蝋でとじられた封筒に、名前入りの便箋に綴られた、リロイからの手紙だった。

「この間、リロイくんの相談にのってあげたんだって? きみに言われたことには随分考えさせられたから、よければきみにもこの手紙を読んでほしいって書いてあるよ」

 エラリイは、透かしの入った上質な紙質の便箋を広げた。ウェントワースというのは、よほど大層な家らしい。

 リロイは自分のしたことをエースに打ち明け、そこから派生したいくつかの疑問、それらをエラリイに話したことなどを書いていた。

 そして、段落を改め、

『ぼくはヒューマニストでありたかった』



『ぼくはヒューマニストでありたかった。理由は、両親が亡くなった後、ぼくを育ててくれた祖母が、厳格で冷たい人だったからです。

 祖母は、ぼくが常に完璧な優等生であることを要求しました。成績優秀、品行方正、文武両道……

 そんな子供がいるわけないですが、ぼくはいつからか、そう見せかけるコツを身につけました。本物の聖人君子になる必要はなく、要は祖母の気に入るような言動をすればいいのです。

 まだ要領をつかめず、素のままの自分を祖母に見せていた頃、ぼくには祖母の意に沿わない友人がいました。一人は、ウェントワースの農場管理人の息子で、野菜をうちに届けてくれる時に顔を合わせて、意気投合しました。いま一人は、奨学金を貰ってぼくと同じ学校に通っていたクラスメイトでした。彼は生物学者になるのが夢で、動物でも植物でも、実によく名前や生態を知っていました。一度、彼を領地内の森に案内したことがありますが、そこは彼にとって夢の国だったようです。ぼくも、見慣れた森の中にこんなにも豊かで不思議な世界が広がっていると知って、新鮮な感動を覚えました。しかし、祖母は、彼らとの交際を禁じました。彼らはいずれも労働者階級の子弟で、クラスメイトの方は、その上移民の子だ、ウェントワースの人間とは身分が違うというのが、その理由でした。ぼくは、人と人がつきあうのにそんなことは関係ないと言い返して、鞭で打たれました。その後、間もなく、農場監督は解雇され、一家は領地を出て行かねばならなくなりました。生物学者志望のクラスメイトも、奨学金を打ち切られて、学校を去りました。祖母が手を回したことは明らかです。

 ぼくは、祖母のやり方に激しい憤りを感じましたが、それに対して何ができるわけでもありませんでした。ただ、その時、自分自身に誓ったのです。いつか、ぼくがウェントワースを、祖母が今持つ力を受け継ぐ日まで、決して祖母のような人間には成り下がらないようにしよう、うわべはどんなに要領よく立ち回っても、心の底はヒューマニストでいよう、と。ぼくがいうヒューマニストとは、家柄や階級や人種、民族などで他人の値打ちを判断しない、誰とでも対等な一人の人間同士として接することができる人間のことです。

 パリの音楽学校でシャールに出会った時、ぼくは彼の美点を素直に認められたと思います。華やかで明るく、いつも皆の中心で太陽のように光り輝いている個性。彼の演奏も、そんな彼の人柄そのものでした。ぼく達は、バイオリン科のトップを争うライバル同士と見られていましたが、ぼくが首席になったことは一度もありません。でも、ぼくはあまりその点にはこだわっていませんでした。ぼくの先生は、音楽は本来、点数で優劣をつけるものではなく、学校やコンクールの成績など便宜上のものだ、技術面が対等なら、あとは個性の違いでしかないと言ってくれていましたし、ぼくも、シャールの方が高得点をつけやすい演奏なのだと割り切っていました。

 でも、人間って、余裕がなくなると、きれいごとを言っていられなくなるんですね。祖母の意を汲んだお目付け役が、イギリスから留学してきたのです。

 彼女はフルート奏者で、うちとも釣り合う家格の令嬢です。つまり、祖母がぼくの花嫁候補と考えそうな女性なのです。もちろん、ぼくをスパイするためにわざわざ留学したわけではなく、あの学校に行くのなら、時々ぼくの様子を知らせてほしいと、それとなく言い含められたのでしょう。問題は、彼女の価値観が祖母そっくりだということです。そのことは、彼女がこちらに来て間もなく、一緒にお茶を飲む機会があってわかりました。彼女は、ぼくが実技の試験でいつもシャールに「負けて」いることをなじりました。あんな、アラブ系の移民のくせに白人のふりをしているような人間に勝てないなんて、恥ずかしくないのかと言うのです。ぼくは焦りました。こんな調子で祖母に報告されたら、即刻連れ戻されてしまいます。

 ぼくがバイオリンをやっているのは、別に、名声を得たいわけでも、一流のオーケストラのコンサートマスターになりたいからでもありません。バイオリンを弾いている間だけは心から自由だと感じられるからです。その意味では、ぼくにはプロ意識が欠けているのかもしれませんが、逆にその分、地位や名声を求める者より切実なところもあるのです。この時間さえあれば生きていけると思えるほど、ぼくにとっては貴重な時間なのですから。

 それなのに、シャールに勝てないせいでバイオリンをやめさせられてしまったら−−

 途端に、シャールの存在がひどく疎ましく感じられました。華やかな才能に恵まれ、学園の人気者で、いわば何でも持っているくせに、なぜ、わざわざぼくの前に立ちはだかって、邪魔をしなければならないのか。

 もちろん、シャールにそんな意図はなく、これは一〇〇パーセント言いがかりです。相手に何ら非がないのに、それでも非難したくなる時、最後のよりどころとなるのは差別です。子供のケンカでもそうですが、身体的特徴や出自、家族の素行など、本人には何の責任もないことをあげつらうわけです。

 シャールはフランスで生まれ育った、正真正銘のフランス人なので、「移民」というのは、フルートの彼女の人種的偏見に基づく事実誤認です。が、これみよがしに木製の十字架を大切にしてクリスチャンであることを誇示したり、学外で知り合った相手にシャルル・ロベールというフランス風の名前を名乗ったり(ぼくたちは学校の外で演奏することを禁じられていますが、シャールはよく外へ弾きにいっていました。そして、彼の演奏する姿に魅了された女の子が何人も寮の方へ、「シャルル・ロベールくん、いますか?」と訪ねてくるのです)するのは、「アラブ系のくせに」「白人のふりをしている」と見れないこともありません。

 こうした思いが湧き起こったまさにその時、彼の十字架が手中に転がり込んできたのです。その後にぼくが何をしたのかは、既にお話した通りです。

 結局、ぼくはヒューマニストではありませんでした。

 ウェントワース家で生きていくための方便とはいえ、ぼくが自分の行動の基準にしていたのは、いつも、祖母の目にどう映るかでした。それは往々にして、自分の本心を偽ることでもあり、だからこそ、ぼくは、祖母の色に染まってしまわないよう、ヒューマニストでありたいという楔を打ったはずだったのです。

 それが知らぬ間に外れてしまったのか、単に、ぼくがもともと祖母と同じ穴の貉だったのか、それはよくわかりません。どちらにせよ、ぼくはそうでありたいと望んだ人間ではなく、一番忌み嫌っていたタイプの人間だったのです。そう思い知った瞬間、よって立つ地面が崩れて空中に放り出されたような、心もとない感覚に襲われました。

 随分長々と書き連ねてしまいましたが、もう終わりにします。ぼくがこの手紙でお伝えしたかったのは、あの事件のぼくが関わった部分の真相と、それを通してぼくが考えたことです。

 こんなものを読まされて、先生方はさぞかしご迷惑だろうとは思います。でも、ぼくはどうしても、お二人に聞いて頂きたかったのです。

 それは、お二人が、ぼくがこれまでに出会った大人の中で、唯一、ぼくの心に響く言葉を口にされた方だからです。ぼくが人生の先輩と呼びたいお二人に、今のぼくの正直な気持ちを知っておいて頂きたかったのです。

 お忙しいところをお煩わせして心苦しい限りですが、最後までお読み頂き、ありがとうございました』



「ふうん」

 エラリイは読み終えた手紙を折り畳もうとした。枚数が多いので、折目が上手く重ならない。

「あいつは、おまえのスピーチに感動したっつってたから、おまえの方はわかるんだけど、おれは別に何も言ってないぞ」

「だけど、リロイの心には響いたんだろう。きみは、口は悪いけれど、なかなかいいことを言うことがあるよ」

「おれは、ロード・アディントンでも、ウェントワース家の人間でもねえから、お上品なことは言えねえのさ」

 エラリイはばらばらの便箋をエースに渡した。エースは一枚一枚丁寧に重ねてゆく。

「で、おまえ、返事書いてやるつもりなの?」

 エースは頷いた。手紙には返事がほしいとは一言も書いていないが、リロイが何らかのレスポンスを求めていることは、エラリイにも感じられた。

 ならば、そう書けばよさそうなものだが、人はなぜか一番言いたいことほど伝えられないもののようだ。

「返事出すなら、少々厳しいことも書いてやれよ。あいつの生い立ちには同情するけど、それを差し引いても、シャールの十字架を事件現場に置いてきた行為は、ちょっと洒落にならないぜ」

「そうだな」

 エースは、リロイの手紙を丁寧に封筒に戻しながら、頷いた。

「今回は、ラファエル警部がもののわかった人だったから、何とか無罪放免になったけど、下手をすれば冤罪が一つ作られたかもしれないんだからね。シャールくんだって、勾留中、どんな思いをしたか」

 ただ、とエースは言った。

「リロイが思っているように、最初から完全無欠のヒューマニストなんて、そうはいないと思うんだ。誰もが、自分が無意識に持つ差別意識や、意味のない優越感や、逆に、誰かの都合で植えつけられた劣等感に少しずつ気づいていくんじゃないだろうか。それをきっかけに、それまでとらわれていた偏見や先入観、固定観念から自由になっていける人が、本当のヒューマニストじゃないかと、ぼくは思うんだ」 



 その後、エースがどんな返事を出したのか、エラリイは知らない。彼のことだから、手厳しいことを織り交ぜながらも、細やかで思いやりのある文面であったに違いない。

 ヨーロッパ上空には相変わらず熱波が覆いかぶさり、エッフェル塔をバックに噴水を浴びる人々の画像が、何度もニュースに流れた。街中が火照って、日向も日陰もさして変わらない。それでも、殺人光線のように首筋を灼く陽射しを避けて、薄暗い路地を縫い、自転車を走らせていると、細い通りの奥からバイオリンの音が聞こえてきた。

 そちらに首を差し出してひょいと覗き込むと、はたして、ゲオルグが演奏していた。ユフィルは律儀に約束を守ったようだ。あるいは、この暑さの中、戸外で演奏したがる者が他にいなかったのか。

 初老の男性が一人、濡らしたタオルを首に巻いて聴いている。あの人が心付けをはずんでくれるといいなと、エラリイは思った。

 その情景は、シャールだけでなく、やはりあの日に出会ったシェエラザードを思い出させた。

 あの子の本当の名前は何というのだろう。どんな思いを抱えてこの街に来たのだろう。何だってあんなことをしでかしたんだろう。

 そうだ、ゲオルグにおごる約束をまだ果たしていない。あの子が一日だけバイトをしたカフェで、ホワイトコーヒーと昼食のセットというのはどうだろう。あいつがドリップコーヒーを好きか、訊いてみなければ。ペダルを踏みながら、エラリイは思った。

               (了)






 












 









 




 







 










 

 

 






 


 







 










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