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砂の花  作者: 高千穂ゆずる
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レナ 1話

 灰色の空から白いものがちらちらと落ち始めた。影絵のように無表情に存在する冷たい建造物。その横には、十字架を掲げた教会が薄ぼんやりと建っている。

 コンクリート製の塀の内側にある庭には、錆びた遊具が打ち捨てられたようにぽつぽつと点在していた。風に吹かれたブランコが、ギィと侘びしげに音を立てた。

 モノクロームの景色の中を、ツイードのコートを羽織った男性が颯爽と浮足立った足取りで歩いてくる。

 冷たい建造物の玄関前には地味なスーツを着た老婦人と、鮮やかなブルーのダッフルコートに身を包んだ幼い少女が立っていた。

 真新しいコート、少し長めのデニムのジーパンは裾が折り返してある。チェック柄のマフラーは少女の首周りを温かく覆っており、ジーパンの裾からつま先だけが覗いているブーツはピカピカだった。

 塗装の剥げたドアの上には、『クロイツベルク養護施設』とあった。すぐ脇の窓には少女と同じ年かさの子どもたちが、興味津々といった顔で覗いている。

 少女の前に立った男性は少しだけ腰をかがめ、にこりと笑った。彼女の眼の前に右手を差し出し、「ベンジャミンだよ、覚えていてくれたかい?」と声をかけた。その声は柔らかく、少女をふわりと包んだ。

「どうせもう来ないと思っていたから忘れてたわ」

 差し出された手を取らずに憎まれ口で返したが、拗ねてそっぽを向いた横顔には少女の本心がしっかり現れていた。

「待たせてしまって悪かったね。でもこれからはずっと一緒だ」

 少女の柘榴色の瞳がベンジャミン・ボルマンを睨む。ほんとうは寂しかったのだと、溢れ出した涙が訴えていた。

「レナ、今日からきみは僕の家族になったんだよ」

 レナ・パティッツはベンジャミンの首に飛びつくと、声をあげて泣いた。


 気難しいレナは、これまでの里親候補とはどれもうまくいかなかった。彼女の気難しさに、どの候補もすぐに匙を投げてしまったのだ。

 薬物依存の母親から、養護施設へと保護された当時のレナはまだ三歳。聡い彼女は施設で二年過ごしただけで、まるで社会の闇に塗れて生きているようだった。

 もちろん、施設では手厚く保護されていた。それは確かに文句なく――。しかし、レナにとって現れては消える里親候補たちは、昇っては沈む太陽や月と同じでしかない。

 なにも変わらない。今日も明日もこの先ずっと。

 そんな日常の中で現れたベンジャミンは違っていた。

 初めこそ警戒心むき出しのレナだったが、ベンジャミンは諦めずに根気よく施設へと通い続けた。まっすぐに目を見てゆっくりと話してくれる彼に、レナが次第に心を開いたのはごく自然なことだった。

 言葉も行動も乱暴なレナは施設の中では浮いた存在で、いつも周囲から仲間はずれにされ孤立していた。

 自分の置かれている状況を理解しているのか、ぽつんと一人で佇むレナの傍らにベンジャミンは腰を下ろし、他愛のない話を一日中したものだ。ときには本を読み聞かせることもあった。

 施設の職員の中には、彼女の耳には入りませんよ、などと揶揄する者もいたが、ベンジャミンは気にしなかった。

 本を読み聞かせた後には、必ずやってくる質問の嵐はほかの子供と少しも変わらないからだ。澄んだ瞳をキラキラと輝かせ、世界のナゾはいつか自分が解いてみせると今にも言い出しそうな表情を向けてくる。レナは本当に可愛らしかった。

「同じ本ばかりで飽きないかい?」

「お気に入りの本はいくら読んでも飽きるわけがないッ」

 そう胸を張るレナの瞼の上と頬には、深く抉れた引っ掻き傷があった。治りかけのその傷は、レナが笑うと小さく引き攣れた。


「レナ。ベンジャミンさんから下りなさい」

 老婦人は困ったように言った。その手には書類を挟んだボードが握られている。

「かまいませんよ。このままでもサインは書けますから」

 ベンジャミンは、レナを抱えたままで書類にサインした。その間も、レナは顔をベンジャミンの肩に押しつけている。施設の大将を気取っていたレナとしては、うっかり泣いてしまったことが恥ずかしいらしい。

 すべての書類にサインを終え、ベンジャミンはレナを連れ立って車に乗り込み、帰路へと就いた。

 ベンジャミンの自宅は広い庭のある平屋の戸建てだった。出迎えたのはベンジャミンの妻エマで、両手にはたくさんの風船を持っている。

 レナは「小さな子供じゃないんだから、風船なんかじゃ喜ばない」と言ったが、新しい母親から受け取ろうとした風船のひとつが飛んでいくと、ひどく悲しげな顔で見送った。

「荷物が少ないね。後から送られてくるのかな」

 レナのあまりの身軽さにベンジャミンは改めて驚いた。

 空っぽになったリュックサックを逆さに振りながら、「もうないから」とレナは相変わらずそっけない口調で答えた。

 さらに、車から降ろした荷物は十字に紐で括られた数冊の本だけという少なさだ。レナの足元に散らばっているのは、リュックサックから出てきた着古したシャツ二枚と、流行遅れのコーデュロイのスカートが一本、そしてお気に入りの本が数冊だ。

「見事に本だけだねぇ。洋服ももう少しあったんじゃないのかい?」

「服は施設のチビたちに残してきた」

「それは良いことをしたね」

「本だけは、その、やりたくなかったから持ってきた」

 見覚えのある本にベンジャミンは顔を綻ばせた。

「この本はぜんぶベンがあたしにくれたモンだからね。誰にもやりたくな、あ、セコいとかケチとかそういうんじゃないから。勘違いしないでよ」

「わかった、わかったから」

 レナの剣幕に、ベンジャミンの頬はさらに緩んだ。

「さすがにシャツ二枚とスカート一本は少ないよ。帰ってきたばかりだけど、ドライブがてらデパートに行こうか」

 帰ってきたばかりーー。

 この言葉に、自分の胸が熱くなるのをレナは生まれて初めて感じた。



 デパートの子供服売り場に到着するなり、ベンジャミン夫妻はあれもこれもとカートの中をレナの服でいっぱいにした。そこまでにしたらと七歳児が慌てて止めに入ってしまうほどだった。

 買い物を済ませたベンジャミンは、デパートの回転ドアのところでもじもじしているレナに気づいて声をかけた。

「ほかになにか欲しいものでも?」

「いいの? それなら絵本が欲しい」とレナ。

「よし。それじゃあ今度は本屋に寄ろう」

 右手で新しい母親の手を、左手で新しい父親の手を掴み、レナは歩き出した。三人で絵本を選んだ。子供らしい絵本を選び、レナは新しい家族と歩き出した。それはクスリ漬けの母親の傍では得られなかったもの――。


 エマが事故死したのは、それからわずか一ヵ月後のことだった。

 ベンジャミンと二人きりの生活が始まったが、レナはは気にならなかった。自分を愛してくれるベンジャミンは変わらず傍にいてくれるのだから。

 もっとも大きな転機は、ベンジャミンの再婚と、その後に弟のルイスが誕生したことだった。


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