過去の出来事として
「そういえば、名前はあるのか?」
いまさらだが、当時は俺しか名乗っていなかったからな。
しかし、そうだろうなと思っていた答えが返ってきた。
「私に名前はありませんよ。
あるのはただの……」
そう言葉にして、固まるように彼女は会話を止めた。
何か思うところでもあるんだろうかと考えていると、彼女はくすりと笑って続きを話した。
「いえ、なんでもありません。
もしよければ、トーヤにつけてもらいたいです」
「俺にか?」
リージェといいレヴィアといい、なぜ俺に名付けを望むんだろうか……。
ふたりはそういったことが苦手だったみたいだし、彼女も同じなのか?
名前……名前、か……。
マンドレイクの花になったが、それが彼女の種族名ではないはず。
それどころか、そのせいで彼女たちはひどい目に遭っている。
だから名前をつけるとしても、それを連想するようなものはだめだ。
……そうだな。
やはりこれしかない。
素直にそう思えた名前にしよう。
「……オリヴィア、というのはどうだろうか」
「オリヴィア……」
「自分で付けてもいいと思うが」
「いいえ、その名を使わせていただきます。
優しくて暖かい、不思議な気持ちになりました。
ありがとう、トーヤ」
涙を流してしまいそうな表情で彼女は答えた。
これまでのことを色々と思い出しているんだろうか。
だが、この名に込めた意味が世界中の人たちに伝われば、彼女たちの種族はきっと迫害されることはない。
オリーブの枝は"平和の象徴"だ。
その樹は"太陽の樹"とも、"生命の木"とも呼ばれる。
これを機に、誰も彼女たちに牙を剥くことのないようにと祈りを込めた名前だ。
「……念のため聞くが、変な意味合いはないよな?」
リゼットに確認するように視線を向けながら訊ねるが、どうやらこの世界でも同じような意味合いが含まれるらしい。
むしろ、傷つけることそのものが罪だとも言われているそうだ。
それなら、この名にして良かったのかもしれないな。
「それで、オリヴィアはどうする?
今の姿はどう見ても人間だと判断されるだろうから、エリュアールにいるオーギュストに会いに行くことも可能だと思うぞ。
この一件とエルルの家を探した後なら連れて行けるが」
「……オーギュストは……どうしていましたか?」
表情をわずかに曇らせて言葉にする彼女に、俺は答えた。
それもきっと予想していたはずだと思いながら。
「涙を流しながら心からのお礼を言葉にしたよ。
とても寂しそうに微笑んで、言葉にしたよ」
「……そう……ですか……。
……トーヤの言った通りになりましたね……」
「……まぁ、俺も男だからな。
誰かの犠牲で生き永らえるなんて知ったら、俺も同じことを考えるよ」
彼女の選択が間違っているとは思わない。
初めはその手段が問題だと彼女の行動を否定したが、それでもオリヴィアの献身がなければオーギュストはもうこの世にはいなかったはずだ。
「……でも、命が助かればそれでいいかって聞かれたら、きっと俺は否定すると思うんだ。
たとえそうしなければ俺の命が助からないのなら別の道を探すが、どんなに手を尽くしても難しいなら諦めていたと思えるんだ」
その道が家族をひどく悲しませることだとしても、俺にはできない。
その道しか残されていないからと言って、それを選ぶことはできない。
「……誰かの犠牲の上に成り立つ命は、きっと償えないほど罪深いものなんだ。
たとえそれで助かったとしても、素直に喜べないと俺は思うんだよ。
きっとオーギュストも同じ気持ちなんじゃないだろうか……」
もしもあの時に戻れたとしても、俺はオリヴィアに同じ言葉で答えるよ。
大切な人の命を糧に生きるなんて、それは地獄以外の何ものでもないからな。
「……今なら、それが良く分かるような気がします。
何もなくしていない私が言葉にするのは間違っていますが、それでもオーギュストを悲しませてしまったことは間違いありませんから……」
結果的に彼女を助けることはできた。
オーギュストも祖国で無事に過ごしているはずだ。
何も間違っていない。
誰も間違えていない。
だからこそ、今こうしていられる。
"あの時の選択は"なんて、過去の出来事として話せるんだ。
……でも、違った結末を迎えていたら、きっと誰もが不幸になっていた。
俺とフラヴィがオリヴィアと出会えなければ、彼女は彼のために命を捧げ、彼は彼女のために祈りを捧げながら最期の時を静かに過ごしていただろう。
物言わぬ彼女を優しく抱えながら眠りに就くまでの時間を、美しい湖の畔で。
そうでもなければ、あれほどまでに悲しげな表情をするわけがない。
それだけは間違いじゃないはずだと、俺には思えるんだ。
「……言葉が……見つかりません……。
どんな顔をして会いに行けばいいのか……」
「それは考えすぎだと思うぞ。
元気な姿を見せて、あの時のことを謝るだけでいいんじゃないか?」
それほど複雑なことじゃない。
俺にはそう思えたよ。
「今すぐに決めなくていいよ。
最寄りの町まで離れているし、心配で単独行動をさせられないからな。
しばらくは俺たちと一緒にいてもらおうと思っているんだが……」
みんなに視線を向けると、笑顔で答えてくれた。
まぁ、彼女を放っておくのは危険だと判断したことも大きい。
彼女はとても戦えるような精神をしていない。
そういった意味で言うなら、戦闘を極端に嫌っているようにも思えた。
オリヴィアの優しさから考えれば、誰かを傷つけることが嫌なんだろうな。
それならそれで戦えないわけじゃないからな。
彼女が望むのなら、その時に別の方法でも戦えることを教えればいい。
今は彼女が元に戻れたことを素直に喜ぼう。