不器用な
今にも女神が降臨しそうな神々しい大聖堂。
夜の訪れを間近に感じつつある中、優しく差し込む夕日を見つめながら彼は言葉にした。
《……光が降り注ぐ大聖堂はアンジェリーク様の特別な場所だった。
幼い頃から遊び場にしては、まるで決まり事のようにいつも怒られていた》
走り回る少女と追いかける少年が、俺の前を通ったような気がした。
ここはふたりにとって、とても大切な思い出の教会だったんだな。
《……しかし、訪れる人さえいなくなったこの場所に郷愁よりも喪失に似た空虚感を覚えるのは、とても奇妙な感覚だな……》
彼はそう呟きながら隠し通路へと向かい、俺たちはその後に続いた。
並んだ長椅子には歳月を感じさせる傷みはあるが、埃ひとつ見られなかった。
争いの痕跡は見つけられないところからも考えられるように、この場所はさすがに敵もためらったのか?
……いや、生き残りと思われるのはごく限られた者たちだけだろう。
ここに逃げ込んだとしても最悪の結果しか残されていなかったのかもしれない。
恐らくはここまで逃げることすらできずにいたんだろうと思えた。
《……北側には大きな城下町があったが、残念ながら朽ち果てていた。
結局、難を逃れられたのはアンジェリーク様と侍女のみだったのだろう》
それでも奇跡に近い状況だと思えた。
偶然に偶然が重なったからこそ逃げられたんだろうな。
俺たちが入ってきた隠し通路の前で彼は立ち止まり、仕掛けに触れながら言葉にした。
《……本来は王族が解除しなければ通り抜けられない通路だと聞いている。
それが今現在でも脱出口まで無事なのは僥倖だったと言えるだろうな》
たしかにこの先を調べられていたら、追手が差し向けられたのは確実だ。
そうなれば、未来が大きく変わっていた。
今にも倒れそうなほど真っ青な顔をしながら、必死に平静を保とうとするエトワールだった。
隠し通路をしばらく進むと、彼は足を止めて右側を向き、壁と床の接点を指さしながら俺へ視線を向けて言葉にした。
《……ここを探してもらえるか。
私には触れられないものがある》
「わかった」
短く答え、その場所を調べると、一か所だけ窪みがあることに気付く。
その奥には埃から顔を半分覗かせた指輪がひとつ落ちていた。
視線を近づけなければ分からないような場所だ。
たとえ敵が隠し通路を見つけても脱出路と判断するだろう。
大切な指輪を落としたとはとても思えない。
いくら急いでいたとしても、指から離れることは考え難いからな。
恐らくは隠したのか、それとも……。
《……指輪を見つけたのは、ひと月ほど前のことになります。
私が触れられるものであればアンジェリーク様に直接お渡しできたのですが、生前はともかく、今現在の体ではそれも難しかったことを改めてお詫びします。
故に、強引な手段を取らせていただいたのです》
「私はアンジェリーヌよ。
理由はわかったし、それについては怒っていないわ。
……けれど、この指輪を私に渡そうと思ったのはなぜ?
あなたの主君が投げ捨てた可能性だって考えられるでしょう?
それに"触れられない"とは、畏れ多いと思ってのことなのかしら?」
《……それもありますが、正しくは違います。
私はアンデッドとして動いておりますので、聖なる力が込められたものには触れることができません。
それは王笏や王冠を含む、王族が身に着けたものにも言えるのですが。
アンジェリーク様は亡国の姫として生きるよりも、すべてのしがらみをここに残して去ったのだと思い、触れられない指輪をこのままにしていました》
「それで私の気配を感じ取ったあなたは、この指輪を私に渡すことが使命だと思ったのね」
《……はい》
彼の言葉を聞いたアンジェリーヌは、もう何度目かも分からないほどの大きなため息をついた。
その気持ちも分からなくはない。
あまりにも突飛な話だし、理解しがたい内容だからな。
何十年どころか何百年も前の話を持ち出されても困惑するだけだ。
……それでも、彼にとって何よりも大切だったことは、俺にも分かるつもりだ。
願わくば、彼が納得できる道を進んでくれることを望むが、死者となった彼にしてあげることなど俺には何もないだろうな……。
指輪を拾い上げて埃を払うように触れると、まるで新品のような輝きを放った。
これは防汚の付呪などが付けられた魔道具の一種なんだろうか。
今もなお衰えることない美しさを保ち続けていた。
そのままアンジェリーヌに手渡すと、彼はどことなく優しい声色で話した。
《……これで、私の役目は終わりました。
そう時間をかけずして体が朽ち果てるでしょう。
……少年よ。
心苦しいが、あとは君に任せることを許してほしい》
「気にしなくていい。
だが、彼女を見つけられた理由を聞いていない」
《……おおよその見解は、ついて、いるのだろう?》
そう言葉にした彼の体は崩れて黒い灰に姿を変え、何も残さずに消滅した。
あとに残ったのは恐ろしいほどの静寂と、煌めく白銀の指輪だけだった。
「…………なんて、不器用なひと……なのかしら……」
俯きながら言葉にしたアンジェリーヌは、唇を強く結んだ。