沈む左手
足跡を追って5分ほどが過ぎた頃だろうか。
真っすぐ続くように付けられていたものが途切れるも、その形状から推察したエルルは訊ねた。
「……右に、飛んだのかな、リゼット姉……」
「そのようですね。
……ですが……」
彼女は眉を寄せながらも右手にある断崖を確認した。
まるで直角に曲がるような跡が地面にはくっきりと残されている。
断崖の西には付いてない点を考慮すればここで曲がったと思う方が自然ではあるんだが、リゼットと同じ方向へと視線を向けるもその考えを信じていいのか分からなかった。
眼前は断崖だ。
こんな場所を登ったのか?
身体能力を強化すれば、たとえ直角のような崖でも可能ではある。
しかしアンジェリーヌを抱えていたと仮定すれば、最悪の場合は両足のみで登り切らなければならないだろう。
900メートルはあろうかというこの断崖を足のみで?
それもワイバーンがいつ襲い掛かるのかも分からない場所を?
相手が相手だけに予想などつけられるはずもないが、さすがにそれは可能性が低いと思えた。
……となれば……。
「ありました」
地面から140センチほどの高さの場所をリゼットは指さして答えた。
そこには漆黒のぼろ布が岩に引っかかっるようについていた。
すぐさま鑑定して安全を確認するも、どうやら呪いの類はなさそうだな。
残念ながら鑑定結果は"漆黒布の一部"としか表示されていないが。
手に取ってみると、その異常に気が付いた。
「……誘われているな」
「どういうことだ?」
「布が岩と岩との間に挟まっているからな。
わざわざこんなものを残した理由はそれくらいしか思い当たらない」
そう言葉にしながら周囲の岩壁を調べる。
岩の形、色彩、角度を変えて探すが、特にこれといった仕掛けは見つからない。
「さわらなければ分からないか」
両手で質感を確かめるように探る。
何の変哲もない壁だと思った矢先、左手が岩壁に沈み込んだ。
「とととトーヤ!?
左手がっ!?」
「大丈夫だ。
見えなくなっただけだよ」
左手を引き戻すとエルルたちにも見えるように現れた。
「そういえば、水中神殿でもこんな仕掛けがあったな。
同じ物とも思えないが、ともかくこれで先に進めそうだ。
しかしこれだけ巧妙に隠れていると、発見するのは不可能だな」
それが意味するところは考えたくもない。
どう考えてもこちらに来いと誘導されている。
やはり罠と思って行動しなければ手痛い目に遭う。
再び左手を岩壁に深く入れ、肘が見えなくなったところで手に触れたレバーを手前に引いた。
何かがはまったような感触が左手に伝わり、黒い布地を挟んでいた岩壁が重々しい音を立てながら左にずれた。
正面の安全を確認して、はらりと落ちた布を拾った俺は言葉にした。
「ぼろぼろの布地だな」
「……この生地には見覚えがあります。
これとよく似ていたかと……」
「ふむ。
当たりだな」
「あぁ、そのようだ」
「この先に……アンジェリーヌ様が……」
ごくりを息をのむエトワールだが、突っ走るなよと釘を刺しておいた。
勝手な行動がどれだけ危険なのかを気付かせようとしたつもりだったが、軽々しい振る舞いが何を意味するのか彼女は分かっているんだろう。
今も必死の思いで焦る心を押さえつけながら、この先に連れて行かれたと思われる大切な人の無事を祈っているんだな。
それは小刻みに体を震わす様子からもしっかりと伝わってきた。
「入口の大きさを考えると、馬車もぎりぎり入れられそうだな。
あまり先までは連れて行けないが、開けた場所で待っていてもらおう。
後ろをリージェとレヴィアに任せようと思うんだが」
「うむ、了解した」
「わかりました」
馬車に乗ったままの子供たちとクラウディア、オーフェリア、エトワールの3人を護るように俺とリゼットで前を、リージェとレヴィアで後ろを歩く。
これで安全とは言えないが、少なくとも周囲からの襲撃には対応できる。
暗くて先がよく見えない。
それでもこの先にいるのは確かだ。
まさかとは思うが、儀式的な何かを始められては困るからな。
慎重に進みながらも可能な限り早めに辿り着く必要がある。
「行くぞ」
みんながこくりと頷いたのを確認した俺は、暗闇に向かって足を進めた。