そんな人ではない
劇場から目と鼻の先にある小さなカフェテラスで、ふたりはお茶を飲んでいた。
外装にもセンスを感じるおしゃれな店でゆっくりと過ごす淑女たちに、憧れの目を向けるエルルだった。
年齢さえ重ねればアンジェリーヌたちのように周りからは映ると思えるんだが、これを話したところで納得できないだろうな。
時間が解決するってことは、言い換えれば今は無理だと言っているのと同じだ。
受け取り方次第で言葉の意味が変わる場合もあるんだから、あまり触発することは言わないほうがいいかもしれない。
「……ごめんなさいね」
アンジェリーヌに先手を打たれた。
自由に出入りができるとはいえ、さすがに退席することになるとは彼女自身も思っていなかったんだろう。
とはいえ、舞台から途中退席するのも客側の自由なのは間違いない。
注意するようなことでもないが、懸念を払拭するためにも聞いておくか。
「大丈夫か?」
「えぇ、そうね。
今は随分楽になったわ」
……気になる言い方に聞こえた。
まるで大病を患ってるみたいじゃないか。
しっかり顔色に出たんだろうな。
苦笑いをしながらも彼女は答えた。
「そんな意図はなかったわ。
ただ少し、気分が優れなかっただけなの。
心配させてごめんなさいね」
「いや、いいんだ。
特に異常がないなら、それで」
俺らしくない言葉の返しに、自分自身がいちばん驚いた。
こんな言い方をした記憶なんて、ないように思える。
この世界に来てから随分と精神面でも変わっているのか?
だが、気になることはまだあった。
それを訊ねていいのかは悩みどころだが、客席から退席した時の彼女は苛立ちにも似た感情を抱いていた。
考えすぎならそれでいい。
それでも、違和感として今も残り続けている以上は訊ねるべきだろうな。
「……そうね。
トーヤさんにはお見通しのようだから甘えてしまうけれど、どうしようもないほどの感情が襲ってきたのよ」
そう言葉にしたアンジェリーヌだが、何とも形容しがたいものに彼女自身も戸惑っているようだ。
「こんなことは初めてで、正しい表現かも分からないのだけれど。
なにかこう、嫌悪感に近い感覚が溢れてきた、というべきかしら。
……落ち着いた今となっては、もう良く分からないのよね……」
曖昧だな。
それこそ彼女らしくない気がする。
まだ会ってそれほど時間が経っていないけど、それくらいは俺にも分かる。
エトワールを一瞥すると、どうやら彼女も同じ気持ちみたいだな。
こちらを向いて横に小さく首を振った。
「演技も演出も音楽も、すべて素晴らしかったわ。
憧れていた劇団だったし、ずっとずっと観劇したかったのだけれど、今はもうその気持ちすら本当だったのか分からないくらいどうでもよく思えているの」
アンジェリーヌはカップを静かに口へと運んだ。
それはまるで、心を落ち着かせているようにも見えた。
憧れとは、時間をかけるにつれて期待ばかりが膨れ上がるものなんだろうか。
本人が気づかない間に過大評価することも考えられるし、想像していたものとは微妙に違うだけで急激に熱が冷めてしまうことだってあるかもしれない。
それでも、彼女はそんな人ではない、とも思えた。
人を見た目で判断しないはずのアンジェリーヌが、"想像とは違った"だなんて勝手な理屈で舞台を途中退席するとは考えにくかった。
「……本当にどうしたのかしらね、私は。
こんなこと、一度もなかったはずなのに……」
「……アンジェリーヌ様……」
疲れたような表情を見せる彼女へ、心配そうに言葉をかけるエトワールだった。
「……トーヤ……あのね……」
「言いたいことは分かるよ」
エルルがお願いするよりも早く、俺は無詠唱のエスポワールを彼女にかけた。
これで病気の類はなくなったはずだが、どうやらそれで解決するわけでもなさそうだな。
表情も変わらない彼女は徐々に収まる光に驚いていたものの、これといった変化はなかったようにも思えた。
エスポワールは精神面での治療はできない。
あくまでも病気や怪我、特殊な異常を正常な状態に戻すだけだ。
となると、原因は彼女自身にあるのかもしれない。
「軽い食中毒を患っていると良くないから、念のためにキュアをかけたよ」
「……そう、ありがとう」
今のも嘘だとバレたみたいだが、悪意がないこともしっかり伝わっているからか、彼女は特に訊ねることもなく笑顔でお礼を言葉にした。
本当は聞きたいことも多いだろうに、口を噤んでくれたんだな。
強引だが、目に見えない病気があったとしても快気できたはずだ。
自分の周りにだけ優遇しているようで気が引けるが、あまり深くは考えないようにしよう。