面倒なことに
思っていたよりも早くブランシェに限界が訪れた。
すでに頭を揺らしているが、演目が始まる様子はまだない。
「寄っかかっていいぞ」
「……うん。
ありがと、ごしゅじん……」
呟くように話して肩を枕にすると、ブランシェは静かに寝息を立て始めた。
よほど眠かったのだろう。
相当深く眠っているようだ。
「あんなにいっぱい食べてましたから、眠くなっちゃったんですね」
「寝る子は育つって言うからな。
舞台もまだ始まる様子はないし、今は寝かせておこう」
客席で横に寝かせることは色んな意味で良くないが、これなら大丈夫だろう。
それに準備が整った頃に起こしてあげればいいだけだからな。
微笑ましいブランシェの寝顔を見ながら、俺たちは静かに会話を楽しんだ。
* *
それから20分ほどが経った頃だろうか。
徐々に増え始める観客で会場の半数以上が埋まり、およそ10分後には8割の席に人が座っていた。
どこかに演目が書かれたような告知はなかった。
となると、やはり時間帯で公演が始まるのかもしれないな。
思えば俺は時計を持っていない。
高価だから買わなかったこともあるが、時間に縛られるような暮らしをしたくなかったんだよな。
食事時になればブランシェが教えてくれるし、腹時計で十分だから買う必要もないんだが。
「そろそろ始まるのかな?」
「そうだな。
でも、まだちょっと時間があるみたいだし、ブランシェはもう少し寝かせておこうか」
「ブランシェ、とっても幸せそうなの。
楽しい夢を見てるのかなぁ」
「……にゅふふ……おにくぅ……」
「楽しい夢じゃなくて、美味そうな夢みたいだな……」
なんともブランシェらしいと思える姿だった。
幸せそうな寝顔だし、起こすこともないだろう。
「さて、どんなものが見られるのか、楽しみ――」
思わず言葉に詰まる。
600メートル離れた場所におぞましい気配を感じた。
それもどうやら、ここを目指しているようにも思える動きだ。
「……面倒なことになりそうだな」
「ふむ?
どうした?」
「厄介なのがこっちに向かってるんだ」
この距離ではまだレヴィアの索敵範囲にかからないだろうな。
それも時間の問題だ。
真っすぐ進むその足取りが劇場以外に向かうとは、不思議と思えなかった。
悪意を垂れ流しで歩く姿から想像するに、暗殺ギルド絡みではない。
だからこそタチが悪い。
ロクな人間ではないことを証明しているようなものだからな。
まず間違いなく狂人。
それも、人を不幸にすることに愉悦と快楽を覚える類の最悪な輩だ。
そうでもなければ、こんな気配を垂れ流しで歩いたりは絶対にしない。
さらにこの状況が良くない。
これだけ多くの観客がいる場所に来るとなれば、パニックになりかねない。
劇場の特性を考えれば、そうはならない可能性も残されている。
しかしそれは、俺の希望的観測に過ぎない。
……先に対処をするべきだろうか。
対象が俺ではないはずだから取り押さえに行くこともできる。
だが露店が建ち並び、人が溢れる場所で揉め事を起こせばどうなるかは、こことあまり変わらないようにも思えた。
最優先は人命。
軽率に動くのは良くないかもしれない。
狂人は何をするか分からないからな。
そんなものは存在しないと思いたいが、使用者の意識を刈り取っても時間差で暴発する魔道具を持っていた場合、その被害は想像するのも恐ろしい。
気になるのは今もこちらに迫っていることだ。
それはつまり、この場所で何かをする腹づもりなんだろう。
何も知らない観客を巻き込む可能性もあるが、そこを捕らえるのがベターか。
それとも、露店を歩いている間に取り押さえるのがいいのか。
レヴィアも気が付いたな。
眉にしわを寄せながら気配を探っている。
少し遅れてリージェ、リゼットも気が付いたようだ。
「――ッ!」
飛び起きるブランシェは警戒を強める。
だが、このお腹じゃ動かすわけにもいかない。
「……と、トーヤ……これって……」
「……パパ……」
小さく震えながらエルルとフラヴィは言葉にした。
危険な気配を感じ取り、恐怖心の影響を受けたようだ。
強さという視点じゃ問題にもならないが、完全に飲まれたか。
「……どうする、主よ……」
「今は動かないほうがいいと思う」
「危険ではないか?」
「かもしれない。
だが、少し気になることもあるんだ」
わずかな違和感にも思える気配が少し遠くにある。
これが何かもはっきりしない以上、動かないほうがいい。
こちらも非常に強い悪感情を抱いている。
まだ遠いから、正確には分からないが。
「……行動するべきじゃないと判断する。
相手の意識を刈り取ると発動する魔道具があるかもしれない。
この目で鑑定と狂人の目的、後方に迫るもうひとつの気配を確認してから動く」
「そうか。
我らはどうする?」
「そのまま待機で。
3人の護衛を任せるよ。
フラヴィたちは手出し無用だ。
それとクラウディアも手を出さないでほしい。
相手とは関わらないほうがいい」
「はい」
さすがに子供たちは、これだけ悪意に飲まれた状態じゃ動くに動けないだろう。
クラウディアは子供たちと違って敵を倒す覚悟も持っているが、何をしてくるのか分からない相手と戦わせるわけにはいかないからな。
レヴィア、リージェ、リゼットに3人を任せれば、俺も安心して相手にできる。
ここが劇場である点と、異常なまでの精神状態を考慮しての選択だが、外れていた場合は目も当てられない最悪の惨事にもなりかねない。
いつでも意識を刈り取る準備だけは怠らないほうがいいだろうな。
……まさか、暗殺者とは違った意味で危険な奴と事を構えるとは、正直なところ思っていなかった。
「来るぞ。
相手に悟られない程度に警戒を」
ローブの男が出入り口に姿を現した。
瞬間、ぶわりと会場の半分を包み込む瘴気のような禍々しい気配にあてられたフラヴィとエルルは、体を寄せながら瞳を閉じた。