別の道に
「トーヤ君。お姉さんと結婚してください。必ず幸せになりますから」
「断る。真顔で何言ってるんだ。冗談でもまったく笑えない。
それにその言い方だとラーラさんが幸せになるって意味じゃないか」
「いいじゃないトーヤ君! 結婚の一度や二度、減るもんじゃなし!
このお店にある魔導具もお金も、ぜーんぶあなたの財産になるのよ!?」
「いらないし、金も間にあってる。
それに俺は世界を歩くつもりだから、ここに長居はできない」
「お姉さんを捨てるの!? ……ま、まさか! すでに他の女の影がッ!?」
「いい加減、みんなも食べてないで助けてもらえないか?」
「……そうしたいのは山々なんだが、こんなもの作られちゃなぁ……」
「……うめえ! うめえよトーヤ! 俺こんなに美味いもん食ったの初めてだ!」
大の大人が泣きながら食べるようなもんでもないと思うが……。
それにこの味は、俺の世界じゃとても出せないような稚拙なものになる。
香りもそれほど際立たず、味もミルクと卵に頼ったホームメイドアイスだ。
これを美味いとか言ってると、アイスクリーム業界の人が鼻で笑うと思うぞ。
しかし、バニラエッセンスを生み出した人の苦労と凄さが身に染みてわかった。
あのバニラ特有の甘い香りを出すには、軽く数ヶ月はかかるらしいからな。
試行錯誤も必要になるだろうが、バニラの抽出の奥深さに興味が出てきたな。
* *
ラーラの知り合いである観葉植物店の奇特な女性主人からバニラを購入した俺は早速店に戻り、裏庭でバニラの実を使ってキュアリングを始めた。
発酵と乾燥を繰り返さなければならないこのキュアリングと呼ばれる技法は、本来であれば最初の工程だけでまる2日、完成まで数ヶ月も時間を要する。
70度ほどの温度で数分煮込み、その後一定に保つ魔導具を使って発酵を。
生活魔法ドライでの乾燥をすると、わずかだがバニラの甘い香りがし始めた。
ここからさらにキュアリングを続けて数週間発酵させ、2,3ヶ月ほど熟成させれば完成となるはずだ。
正直なところ完成とはほど遠いレベルのものではあるが、試しに一度だけ発酵、乾燥させたものを使ってアイスを作ってみると、どうやらそれっぽい甘い香りがついたようで安心した。
稚拙ではあるが、バニラ風の香りが若干するアイスを食べた彼らにはかなり刺激的だったようで、一口食べただけで先ほどの混乱となった、というのが顛末だ。
「何とも心地良い香りと清涼感。
ひんやりとした冷たいこの食べ物は、なんと形容すればよいのでしょうか。
例えるのならそう、天使の息吹を氷に閉じ込めたかのようなお菓子でしょうか」
「柔らかく、口の中でふわりと溶けてしまいます。
甘く芳醇な香りが鼻を抜けていくこのお菓子は、まさに天使の息吹ですね」
「ふたりも気色悪いことを言うんじゃない。なんだよ"天使の息吹"って。
ただのホームメイドアイスだろうが…って、この世界にはなかったんだったな」
話によると、氷菓子の類もこの世界にはないらしい。
当然といえば当然だが、氷を作るためには専用の魔導具が必要になる。
先ほどラーラが話していたものから生成された氷を使ってアイスを作ったが、これは一般家庭では絶対不可能なことだ。
まず氷を作り出す魔導具が恐ろしいほど高い。
1000万ベルツでは買えないので、ラーラも売らずに個人用で使っている。
そしてバニラも、観葉植物以外の用途が未だ発見されていないと思われた。
この世界の住人には興味のないことなのか、香料としても使われてないらしい。
氷はエックハルトも魔法で生み出せるが、長時間維持できるものではない。
アイスくらいなら作る時間はありそうだし、十分便利だと思うが。
しかし、氷室のような施設がないので、氷を手に入れるなら冬を待つしかない。
恐らくは魔法という力が存在するために、俺の世界とは別の道へと向かったのかもしれないが、それでもここは中世後期の文明であることは間違いなさそうだ。
さすがに歴史の教科書には載っていなかったと思うし、アイスハウスが建てられたのは17世紀後半だったような気がする。
水属性魔法に頼る傾向もあるし、それほど氷を必要としていないのだろうか。
もっとも、彼女達からこの話を聞くだけで30分はかかった。
阿鼻叫喚の地獄絵図のようにも思えた俺は、なるべく平静を保ちながらラーラの言葉を受け流し続けた。
「……落ち着いたか」
「えぇ、もう大丈夫よ。
……とても激しい戦いだったわ」
なにとだよ、と突っ込んだところで返ってくるのはめんどくさい言葉だろうな。
「しっかり熟成させたバニラのさやを砂糖に入れるだけで、香りがとても豊かなバニラシュガーが作れるんだが、時間が空いたら試してみてもいいかもしれないな」
「トーヤ君、私と結こ「しない」」
「……お姉さん、トーヤ君に捨てられちゃった……」
「人聞きの悪いことをサラッと言うな」
ものすごく寂しそうな表情で、こちらを見ずにラーラは答えた。
なんだか俺が悪いみたいな気がしてくるからやめて欲しいんだが。
「……そろそろ時間じゃないか?」
「んぁ? あぁ、そうか。そうだったな。
あまりの衝撃にすっかり忘れてたよ」
日も傾き、そろそろ夜のとばりが下りてくる。
少々遅いとも思える時間帯だが、そこまで正確に考えることもないようだ。
席を立つ俺へラーラは悲しげに何かを呟くが、聞き取れなかったことにした。
「それじゃ、いってくる。食器は帰ってきたら洗う」
「……うん……いってらっしゃい、トーヤ君……」
虚ろな目をした女性に見送られ、滝のような涙を流し続ける男がついてくる。
俺はいったい何をしているんだろうかと、この世界に降り立って初めて思った。