憎んでくれていい
事が大きく動き出したのは、それから2日後の昼過ぎだった。
偶然にも7日後に設定した定例報告会直前のことになる。
「……気がついたか?」
「うむ。
つけられているな」
「それも屋根の上を使ってるね。
……かなりの使い手みたいだけど、どうするの、トーヤ」
「右にある路地に向かう。
そのまま気配を変えずに進もう。
ブランシェは持っている牛串をいつもと同じように食べること」
「うん」
もきゅもきゅと美味しそうに頬張るブランシェだが、気配に揺らぎは感じさせない行動を取れるようになっているから警戒されないだろう。
むしろ今回は牛串がカムフラージュになるかもしれない。
そんなことで油断をしないのがプロだが、発せられている気配からはそういったものを感じない以上、追跡者の正体も判明したようなものだ。
路地へ入り、左にある小道へ進む。
ここは昼間でも人通りが少なく、今回の件にはちょうどいい場所になる。
奥まで進むと人気のない店が数件ある程度で、戦うのにも都合がいい。
屋根を歩く者とは別に、その後方からこちらへ向かう気配を感知した。
「……やはり、こちらに来たか」
「この気配、わたしも覚えてる」
「あぁ、どうやらこれで相手が誰か確定したな」
屋根伝いに進む気配は俺たちを追い越し、前方7メートル辺りに降り立った。
ずたぶくろのような粗末で汚らしい格好の少女で、どうやら裸足のようだ。
155センチ程度の身長に小柄で痩せ型、くるんと丸まった大きな尻尾にちょこんと頭へ乗せた小さな耳、鮮やかだっただろう薄い栗色の髪は肌と同じようにくすみ、痩せこけた頬からは栄養が足りていないことが窺える獣人、リス族の少女だ。
年齢は15,6才といったところだろうか。
こんな子に命令するだなんて、常軌を逸している。
あの馬鹿野郎をこの世界から消すべきだと、本気で思えた。
遠距離から攻撃をしなかった点も姿を現したことも、腰に下げたぼろぼろのダガーを鞘から抜き放たないことでさえ、暗殺者であれば絶対にしないはず。
……つまりは……そういうこと、なんだろうな……。
すとんと俺の眼前に降り立つルーナ。
相手を見据え、すでにダガーを向けていた。
「アタシがここにいる理由は分かってるっすよね、ヴァイスっち。
ここはアタシに任せて、子供たちをこの場から離してほしいっす」
「…………」
……離れる?
……この場から?
こんな子を放って?
命令を強要され、それでもダガーを構えることのない子を置いて去れと?
悪いのはあの男だ。
この子じゃない。
それでも離れろってのか?
煮え切らない俺に、ルーナはこれまでにないほど強い口調で言葉にした。
いや、それもすでに話し合われ、俺は納得したはずのものだ。
ここでぐだぐだしている俺のほうが悪いのは間違いない。
「ヴァイス。
この際だから、はっきり言っておくわ。
"奴隷"は刻印を刻んだ者の好き勝手にできるモノ扱いされた命。
ここで終わらせずに捕縛しても、所有者を自称する者が自分の手を離れたと感じた瞬間、もしくは最初からそういった命令で命が尽きることを強制させる。
任意か、それとも命令が実行されるかの違いしかない。
男を始末しなければ隷属効果が消失しない以上、アタシたちにはどうしようもないこともヴァイスなら分かってるわよね?」
「……あぁ」
いつも以上に強く、何よりも冷徹な口調で話すルーナ。
いや、こちらが彼女の本質。
任務を全うすることに覚悟を決めた彼女の根幹。
諜報活動のプロとして見せる、ルーナ本来の姿だ。
「あなたは関わらなくていい。
それはアタシの役目だからここにいる。
あなたはあなたのできることをして」
……俺に……できることを……。
ルーナの言葉が俺の思考を凍らせた。
それしかないはずだと理解していたはずなのに。
この状態になることをヴィクトルさんは分かっていたんだ。
だからこそ強めに警告され、俺もその方針に賛同した。
……なのに、体が動かない。
子供たちを凄惨な現場に残すわけにはいかないのに、それでも動けずにいる。
ダガーを腰から抜き、奴隷の少女に歩み寄るルーナ。
対照的に相手は武器を持つ気配すら感じない。
それどころか、敵意すら感じなかった。
……彼女はその道を選んだ、ということだ。
彼女の覚悟に気づかないはずもないルーナは少女を斬れる位置で足を止め、小さく言葉にした。
「それが、あなたの出した答えなのね。
でも、アタシはアタシのなすべきことのために任務を果たす。
怨んでくれてかまわないし、憎んでくれていい」
「……誰かの命令で、命を奪うくらいなら……」
久々に出しただろうことが窺える、物悲しくかすれた声が耳に届いた。
こんなこと、現実に起こりうるのかと思ってしまう声が……。
あまりにもひどい。
ひどすぎる……。
なぜ、こんなにも優しい人が、命を奪われなければならないんだ……。
「あなたの名前と出身、願いもあれば可能な限り叶えるわ」
「……クラウディア・フォン・ヴァーレリー・グラーフ」
「……そう。
あなたのご遺骨は"ヴェンデルガルト"に必ず送り届けると誓います」
「……ありがとう。
両親も同じような境遇で苦しんでるはず。
もし見かけたら楽にしてあげてほしい」
「仰せの趣、確かに承りました」
ダガーを掴んでいる右手を胸にあて、軽く頭を下げたルーナは目を瞑る少女に刃を向けた。




